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平成9年の松林寺境内試掘調査報告を引用紹介。フロイス「日本史」による石壁の姿を追記。
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== 規模 ==
聚楽第は、「第」(= 邸)とあるが、本丸を中心に、西の丸・南二の丸及び北の丸(豊臣秀次増築)の三つの[[曲輪]]を持ち、[[堀]]を巡らせていたため、規模形態としては[[平城]]であった。
 
建物には金箔瓦が用いられ、白壁の櫓や[[天守]]のような重層な建物を持つ姿が「聚楽第図屏風」や「[[洛中洛外図]]」(江戸初期)などに描かれている。さらに国立国会図書館・広島市立図書館(浅野文庫)などが所蔵する「聚楽古城図」では本丸北西隅に「天守」の書き入れがあり、天守の存在が推定されているが<ref>学習研究社編 西ヶ谷恭弘監修『復原 名城天守』学習研究社 1996年</ref>、一方で天守はなかったのではないかという指摘{{要出典|date=2013年4月|title=この説を唱えている学術書・学術論文は?}}もある。秀次の家臣[[駒井重勝]]の『駒井日記』によると、本丸の石垣上の壁の延長は計486間、三つの曲輪も含めた四周に巡らされた柵の延長は計1031間であった。
 
「京都図屏風(地図屏風)」によれば本丸は、北堀が[[一条通]]南方、東堀が[[大宮通]]、南堀は[[上長者町通]]、西堀は[[裏門通]]付近にあったものと推定され、それに加えて北之丸北堀は横神明通、南二之丸南堀は[[出水通]]北方、西之丸西堀は[[浄福寺通]]付近にあったものと推定される。
 
『聚楽行幸記』や「聚楽古城図」などには、「石のついがき」(『聚楽行幸記』)が「山のごとく(同書)」四周を巡っていたとあり、北側は元誓願寺通付近、東側は黒門通付近、南側は下立売通と出水通との中間に築かれていたと考えられ、西側は土屋町通付近にあったものと推定される。ルイス・フロイス『日本史』はこの「石のついがき」について「石壁の石は密接してはいないが、漆喰で接合されており、技術が優れ、壁が厚いために遠方からは石造建築と見誤るほどであった。」と記す
 
「聚楽古城図」によれば、外郭内に豊臣秀長、三好秀次(後の豊臣秀次)などの秀吉親族や、前田利家、黒田孝高細川忠興、蒲生氏郷など秀吉配下にあって特に信頼されていた大名の屋敷が建ち並んでいた。[[千利休]]も外郭内の北御門近く、現在の元誓願寺通南側、大宮通と黒門通の間辺りに屋敷を与えられていた。
 
外郭外側には、縦横に街路を造り、秀吉配下の[[大名屋敷]]を配置した(『日本史』・「聚楽古城図」)。その範囲は、北は元誓願寺通、南は[[丸太町通]]、東は[[堀川]]、西は[[千本通]]で囲まれた地域であったと推測されている。のちに街区は堀川の東にも広げられ聚楽第と御所の間は金箔瓦を葺いた大名屋敷で埋め尽くされたと考えられている。
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[[Image:Go-yozei Tenno Juraku-dai Gyoko-zu.jpg|thumb|left|350px|『後陽成天皇聚楽第行幸図』<small>([[堺市博物館]]収蔵)</small>]]
 
聚楽第は、「聚楽亭」「聚楽邸」「聚楽城」「聚楽館」などとも記される。『駒井日記』『[[フロイス日本史]]』及び政権側文書などは単に「聚楽」とのみ記すが、『聚楽行幸記』にはすでに「聚楽第」「聚楽亭」の表記が見られる。工事中の天正15年の文書(「築山上半町神田家文書」)には「聚楽御城」の語も見られる。
読みに関して「じゅらくてい」「じゅらくだい」の両説あるが、「第」には「テイ」の音があり、[[正保]]期の[[版本]][[小瀬甫庵]]の『[[太閤記]]』には「聚楽第」の表記に「じゅらくてい」のふりがなが振られている<ref>同書には「聚楽亭(じゅらくてい)」「聚楽と号し里第(りてい)を構へ」の振り仮名付きの表記があり「じゅくてい」「りてい」と記さている。なお明治以降の文献には「じゅらくだい」としたものもある。</ref>。群書類従『解題』(1960年)には「『ジュラクダイ』とも訓むが、『第』『亭』相通じ、(中略)、古文書類にも『亭』としたものがあるから、正しくは『ジュラクテイ』と訓むべきであろうとしている」と主張者を明記せず紹介する。なお桜井成広は、「じゅらくやしき」と読むべきとしている。
 
聚楽第は、建造中は「内野御構」<small>(うちの おかまい、-の おんかまえ)</small>と呼ばれていた<ref>初見は『[[多聞院日記]]』天正14年2月27日の条</ref>
 
 
「聚楽」という名の由来については、『聚楽行幸記』に「長生不老の樂<small>(うたまい)</small>を聚<small>(あつ)</small>むるものなり」とある。またフロイスの『日本史』には「彼(秀吉)はこの城を聚楽(juraku)と命名した。それは彼らの言葉で悦楽と歓喜の集合を意味する」(松田毅・川崎桃太訳)とある。これら以外に「聚楽」の出典が見いだせないことから、秀吉の造語と考えられている<ref>『時慶記』天正15年正月27日の条、「従法印有折紙、内野関白殿新殿号聚楽、然は折紙に曰、聚楽首尾次第に行幸可被申候」(法印(=[[前田玄以]])より折紙あり、内野関白新殿を聚楽と号す。しからば折紙に曰く、聚楽首尾次第に行幸を申せらるべく候)とある。</ref><br clear=all>
 
== 現況 ==
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聚楽第の破却に際し建物の多くは[[伏見城]]内へ移築されたとされる。[[西本願寺]]の飛雲閣、[[妙覚寺 (京都市)|妙覚寺]]の大門、[[妙心寺]]播桃院玄関、[[山口県]][[萩市]][[常念寺(萩市)|常念寺]]の山門なども、聚楽第から移築されたという伝承があるが、いずれも伝承の域を出ず、今のところ聚楽第の遺構と認められている建造物は[[大徳寺]]の唐門だけである<ref>2003年の修理の際に飾り金物から「天正」の銘が発見された。(京都府教委「国宝重要文化財大徳寺唐門勅使門修理工事報告書」2003)</ref>
 
 
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また松林寺(智恵光院通出水下ル)付近一帯の窪地は周辺より3mほど低くなっており、古くから{{要出典|date=2015年7月|title=「古くから」とはいつからか?そのことを書く文献名と共に示せ。天保14年以前の資料か}}聚楽第の堀跡とされてきた。1997年の掘調査<ref>「平成9年度京都市内遺跡試掘調査概報」(京都市文化市民局)。「検出された地山と新出水通との比高差が3.3mであり‥きわめて浅い。堀の幅対して不釣合いな深さであり、南の墓地付近で急激に落ち込むものと考えたい」と記す(報告者:馬瀬智光)。なお、近世の陶磁器類と共に平安宮に関する瓦類も多数出土している。</ref>では外堀の一部であったと推定されている<ref>天保14年に『豊公築所聚楽城址形勝』を著した名倉希言を始め、森島康雄、馬瀬智光らも同説をとる。『京都坊目誌』(大正2年)『京都府史蹟調査会報告』([[西田直二郎]]大正8年)も外濠跡としている。ただ聚楽土の採掘跡の可能性を指摘する声(加藤繁生ら)もある。</ref>
 
京都市出水老人デイサービスセンターの北向かい(智恵光院通出水下ル)には[[加藤清正]]寄贈と伝えられている庭石が残る。
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町名には、「須浜町」「須浜池町」「天秤丸町」「山里町」「北之御門町」「高台院(旧みだい)町」「東堀町」など、当時の名残が色濃く残っている。「[[黒門通]]」は聚楽第の東門(「くろがねの門」)にちなむとされ、また「藤五郎町」「如水町」「小寺町」「浮田町」「中村町」「飛弾殿町」「福島町」「中書町」「直家(旧なおゑ)町」など秀吉麾下の武将の名を冠した町名も多く残る<ref>聚楽第跡の現況街区は、正方位に対し時計回りに3度程度傾く傾向があるため、聚楽第の縄張りも正方位に対し傾きを持っていたのではないかとの指摘がある(桜井成広、加藤繁生)。</ref>
 
廃却後、聚楽第縁辺にあった聚楽町に住んでいた住民は町ごと伏見城下に移転させられたといわれ、現在も[[京都市]][[伏見区]]には聚楽町の地名が残っている。同区内にはこのほか聚楽第ゆかりの「(東・西)朱雀町」「(上・下)神泉苑町」の地名が残る。
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== 資料 ==
;文献
* 『聚楽行幸記』 - [[大村由己]]筆。[[『天正記』]]全6編の1つ(『[[群書類従]]』所収)。1588年(天正16年)成立。同年4月14日-18日の[[後陽成天皇]]行幸をその直後に記したもの<ref>執筆に当たっては[[山科言経]](やましな ときつね)に何度も相談をしている(『言経卿記』)。小瀬甫庵の『[[太閤記]]』にも引用されているが、この引用されたもののほうが群書類従本よりもオリジナルに近いと考えられる。現在、仁和寺本、押小路本、宮内庁書陵部本、内閣文庫本などの写本が遺る。</ref>
* 『駒井日記』 - [[駒井重勝]]著 全17巻、1593年 - 1595年成立。 写本6巻のみ現存。著者は豊臣秀次の右筆(ゆうひつ、書記係)。豊臣政権下の情勢などを日記として記録している。聚楽第内郭部の大きさが詳細に記されている。
* 『[[フロイス日本史|日本史]]』 - [[ルイス・フロイス]]著 - 聚楽第についての記述がある。
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;絵画
聚楽第を描いた絵画は以下のものが確認されている<ref>このほか、秀次一族の供養塔「悪逆塚」がある[[瑞泉寺]]所蔵の「瑞泉寺縁起」には聚楽第の姿も描かれているが、江戸後期の作と考えられている。</ref>
 
*「聚楽第図屏風」 六曲一隻 桃山時代 [[三井記念美術館]]所蔵。聚楽第を描いたものとしては最も古いと考えられている。 
*「聚楽第図」大阪城天守閣所蔵
*「御所参内・聚楽第行幸図屏風」 六曲一双 桃山時代 個人蔵([[上越市立総合博物館]]寄託)<ref>狩野博幸著『秀吉の御所参内・聚楽第行幸図屏風』</ref>
 
*「[http://www5f.biglobe.ne.jp/sans-culotte/topics439.html 洛中洛外図屏風]」 六曲一双 江戸時代前期 尼崎市教育委員会所蔵<ref>聚楽第と同時には存在しないはずの二条城と伏見城が描かれており、寛永頃の景観に秀吉時代の景観をオーバーラップさせたものと見做せる。</ref>
*「[[:ファイル:Go-yozei_Tenno_Juraku-dai_Gyoko-zu.jpg|聚楽第行幸図屏風]]」 二曲一双 寛永初期 [[堺市博物館]]所蔵
*「洛中洛外図」[[南蛮文化館]]蔵。 廃城後の聚楽の姿を描く<ref>石垣と堀に囲われた本丸跡では農夫が畑を耕し、北の丸跡では能興行が行われている。</ref>
*『探幽縮図』「聚楽第図屏風」模写 東京藝術大学資料館所蔵<ref>狩野博幸著『秀吉の御所参内・聚楽第行幸図屏風』所収。京都府文化博物館「京を描く」展図録(2015年)所収</ref>
*「[[:File:Jurakudai1.jpg|豊公築所聚楽城之図]]」 名倉希言筆 豊國神社所蔵<ref>桃山期の聚楽第図(現存しない)を参考に名倉希言自身の調査結果を加えたもの。聚楽第南西方面には外濠も描く。</ref>
 
 
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*1.『日本古城絵図』「聚楽古城之図」[[国立国会図書館]]所蔵(同館デジタル資料で閲覧可)
*2.『諸国古城之図』(浅野文庫本)「山城 聚楽」[[広島市立中央図書館]]所蔵(同館デジタル資料で閲覧可)
*3.『太閤御縄張聚楽城之図』個人蔵 安土城考古博物館寄託
*4.『聚楽古城之図』臼杵市教育委員会所蔵