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国際F3000の参戦費用の増加を防止する為に、[[1996年]]より[[国際自動車連盟]](FIA)がシリーズを[[ワンメイク]]化することを決定。複数のコンストラクターが入札に参加した結果ローラが落札したため、以後ローラ・ザイテック([[ジャッド]])のワンメイクレースとなり、レイナードは国際F3000からの撤退を余儀なくされた。また、これにより大きな収入源を失った。
 
全日本F3000でも、1989年以降チャンピオン争いに加わること出来できたが、レイナードが日本で2回目のチャンピオンマシンになるのはフォーミュラ・ニッポンとなった[[1996年]]まで待たねばならなかった。これはヨーロッパと日本のサーキットの舗装の違いや、各シリーズに供給されるタイヤが異質とも言える程の違いがあったためで、当時は(特にサスペンション周りについて)ヨーロッパ仕様とは別の「日本仕様」を製作・開発・供給する必要があった。エンジニアを日本へ直接派遣する等してマシンの戦闘力アップとセッティングを進めようとしたが、チャンピオンマシンになるには時間がかかった。
 
===フォーミュラ・ニッポン===
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[[1985年]]に、当時としては初めてフルカーボンモノコックを導入し、ヨーロッパ各国で行われていたF3選手権にシリーズに参戦をしてデビューレースでデビューウインを飾った。全日本F3選手権にも最終戦で投入され、[[1987年]]には[[ロス・チーバー]]がチャンピオンを獲得した。
 
しかしライバルでもあった[[ラルト]]の戦闘力もあって、各国で行われているF3で激しい戦いを繰り広げた。全日本では[[1988年]]以降においてラルトや[[トムス]]が大きな壁となりチャンピオンを奪取すること出来できなかった。
 
地元であるイギリスF3では[[1986年]]から[[1988年]]までの3年連続と[[1992年]]の4回チャンピオンマシンとなり、ライバルのラルトとチャンピオン争いを繰り広げ、ドイツでは[[1990年]]に[[ミハエル・シューマッハ]]が、また[[1992年]]は[[ペドロ・ラミー]]がチャンピオンを獲得した。
 
しかしラルトの衰退と入替わるようにしてエアロダイナミクスで安定をした速さを魅せつけた[[ダラーラ]]が、レイナードユーザーからの乗換えを加速させた。またF3エンジンのパワーが170馬力前後(現在では約200馬力)と非力なのにもかかわらず、ライバルであるラルトや[[ダラーラ]]よりも大きなサイドポンツーンが空気抵抗となり、レイナードユーザー離れを加速させてしまい1993年でマシンの製作を終了した。
 
===チャンプカー===
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==関連項目==
*[[ルマン (企業)|チームルマン]](日本国内における総代理店だった)
 
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