レイナード・カーズ社
現地語社名
Reynard Cars Ltd.[1]
以前の社名
セイバーオートモーティブ
Sabre Automotive (1973.03.20-1977)
元の種類
非公開会社
後継 Reynard Racing Cars Ltd.(改名)[2]
(2002.06.05-2003.10.04)
設立 1973.03.20
創業者 ニュージーランドの旗ビル・ストーン
イギリスの旗エイドリアン・レイナード
解散 2002.06.05(改名), 2003.10.04(解散)
本社
ビスター
英国
レイナード・モータースポーツ社
現地語社名
Reynard Motorsport Ltd.[3]
以前の社名
1993.08.10-1993.10.08
U.K. Masters Ltd.
1993.10.08-1998.08.06
Reynard Engineering Group Ltd.
元の種類
非公開会社
業種 自動車の製造
設立 1993.08.10
解散 2010.02.09
本社 Aquarium, 1-7 King Street, Reading, Berkshire, RG1 2AN
主要人物
マルコム・オーストラー
ブルース・アシュモア
ポール・オーウェンズ
エイドリアン・レイナード
Footnotes / references
レイナード・モータースポーツグループの頂点に立つ会社で、2002年の競売を免れ、2010年まで存続。

レイナード・グループ (Reynard Group) は、イギリスレーシングカーコンストラクター、および各種機械設計、開発企業だった。グループ崩壊時点では、レイナード・モータースポーツ(Reynard Motorsport)を頂点にした企業連合であった。現在はスポーツカーの開発、製造のみを行っている。

概要編集

1973年に学生だったエイドリアン・レイナードを担いだビル・ストーンにより創設され、1974年よりレーシングカーの製作を開始し、1989年にライバルだったマーチレイトンハウスに買収され、レイナードは世界最大のレーシングカーコンストラクターに育った。1999年に米国のライリーアンドスコットを買収した[4]。1997年F1の新チーム、B・A・Rの共同所有者となり、B・A・R 004までのシャーシ設計を担当した。しかし2002年に倒産[5]。その後2009年にスポーツカーの開発、製造のみを行う企業として復活した[6]。ちなみに同社が開発したマシンの中には、同社の倒産後ライセンスを取得した、ザイテックなど他のコンストラクターにより改良が続けられたものもある。

また1990年代後半より、そのデザイン及び軽量化の技術を生かして旅客機の座席の開発も行っており、同社が開発した座席はヴァージン・アトランティック航空の長距離線のビジネスクラスに採用された。

車体を供給していたカテゴリー編集

参戦実績編集

F1編集

 
レイナードと、ホンダのロゴ

国際F3000での成功をうけて、レイナードのF1参戦プロジェクトがスタートした。1989年末にベネトンを離脱したロリー・バーンと彼のデザインチームをまるごと迎えてF1マシンのデザインをしたが、日の目を見る事は無かった。エンストンに用意した新ファクトリーはトム・ウォーキンショーの手に落ちロス・ブラウンが指揮するTWRベネトンが発足する。1992年用として設計されたベネトン・B192は、ロリー・バーンの脳内記憶を図面化したものだった。

1992年のインターナショナルモーターショーでパシフィック・レーシングが1993年からのF1への参戦表明を行い、その後資金不足から1年遅れて登場した「PR01」にそのデザインが流用された。ロリー・バーンは1991年後半にベネトンに復帰していたため、PR01は1992年のベネトン・B192と酷似した。

1989年後半から1990年初頭にかけては、レイナード・無限ブリヂストンのパッケージングでF3000用のマシンをF1用に改良してのテスト走行が鈴鹿サーキットで数回行われたが、これはテスト走行だけで終わった。ただしこれはレイナードのF1参戦というよりは、むしろ無限のF1進出に向けたエンジンテストの側面が強い。

1999年にB・A・R用に開発・製作したマシンが本当の意味でレイナード初のF1マシンとなり、マシンのノーズとリアウイングの翼端板上部にレイナードのロゴが入れられた。レイナードは会社が倒産する2002年のシーズン途中までB・A・Rのマシン開発・製作を行った。

F3000編集

 
レイナード・93D(1993年)

1988年にレイナードは、当時としては初めてのフルカーボンモノコック国際F3000に参戦。デビューレースでデビューウインを飾った。当時の国際F3000はローラマーチがシェアを誇っていたカテゴリーであったが、レイナードの速さに他のチームがレイナードにマシンチェンジを行い、同年の国際F3000ではロベルト・モレノがチャンピオンとなった。また全日本F3000選手権にもシーズン途中に登場し、鈴木亜久里によってチャンピオンになった。

国際F3000では1989年にジャン・アレジがチャンピオンとなり、2年連続でチャンピオンマシンとなった。1990年はF1以外では初めての「横置きギアボックス」を投入してエアロダイナミクスで勝負を掛けたが、ライバルのローラを使用したエリック・コマスにチャンピオンを奪われた。しかし1991年(クリスチャン・フィッティパルディ)・1992年(ルカ・バドエル)・1993年(オリビエ・パニス)・1994年(ジャン=クリストフ・ブイヨン)・1995年(ヴィンセンツォ・ソスピリ)で5年連続でチャンピオンマシンとなる。

国際F3000の参戦費用の増加を防止する為に、1996年より国際自動車連盟(FIA)がシリーズをワンメイク化することを決定。複数のコンストラクターが入札に参加した結果ローラが落札したため、以後ローラ・ザイテックジャッド)のワンメイクレースとなり、レイナードは国際F3000からの撤退を余儀なくされた。また、これにより大きな収入源を失った。

全日本F3000でも、1989年以降チャンピオン争いに加わることはできたが、レイナードが日本で2回目のチャンピオンマシンになるのはフォーミュラ・ニッポンとなった1996年まで待たねばならなかった。これはヨーロッパと日本のサーキットの舗装の違いや、各シリーズに供給されるタイヤが異質とも言える程の違いがあったためで、当時は(特にサスペンション周りについて)ヨーロッパ仕様とは別の「日本仕様」を製作・開発・供給する必要があった。エンジニアを日本へ直接派遣する等してマシンの戦闘力アップとセッティングを進めようとしたが、チャンピオンマシンになるには時間がかかった。

フォーミュラ・ニッポン編集

1996年に全日本F3000はフォーミュラ・ニッポンに衣替えして、引き続きレイナード・ローラ・童夢の3社(後に童夢に代わりGフォースが参入)による戦いが継続されたが、1999年以後はレイナードは性能面で他社に比べ優位に立ち、事実上レイナードのワンメイク状態となった。

しかし2002年に同社が倒産し、消耗パーツやスペアモノコック等の供給に問題が発生する恐れが出てきたことや、今後の開発がストップするなどの問題が出てきたことから、2003年よりフォーミュラ・ニッポンはシャシーをローラのワンメイクに変更した(さらにその後2009年からはスウィフト・エンジニアリングのワンメイクとなる)。

なお同選手権で用いられていたレイナードのシャシーは海を渡り、フランスのヒルクライム選手権(en:Championnat de France de la Montagne)で4度チャンピオンに輝いている。

F3編集

 
レイナード・F903(1990年)

1985年に、当時としては初めてフルカーボンモノコックを導入し、ヨーロッパ各国で行われていたF3選手権にシリーズに参戦をしてデビューレースでデビューウインを飾った。全日本F3選手権にも最終戦で投入され、1987年にはロス・チーバーがチャンピオンを獲得した。

しかしライバルでもあったラルトの戦闘力もあって、各国で行われているF3で激しい戦いを繰り広げた。全日本では1988年以降においてラルトやトムスが大きな壁となりチャンピオンを奪取することができなかった。

地元であるイギリスF3では1986年から1988年までの3年連続と1992年の4回チャンピオンマシンとなり、ライバルのラルトとチャンピオン争いを繰り広げ、ドイツでは1990年にミハエル・シューマッハが、また1992年はペドロ・ラミーがチャンピオンを獲得した。

しかしラルトの衰退と入替わるようにしてエアロダイナミクスで安定をした速さを魅せつけたダラーラが、レイナードユーザーからの乗換えを加速させた。またF3エンジンのパワーが170馬力前後(現在では約200馬力)と非力なのにもかかわらず、ライバルであるラルトやダラーラよりも大きなサイドポンツーンが空気抵抗となり、レイナードユーザー離れを加速させてしまい1993年でマシンの製作を終了した。

チャンプカー編集

 
2KI ホンダ(2000年)

1994年にはアメリカのレースであるCART(後のチャンプカー・ワールド・シリーズ)へ供給を開始して、ここでもデビューレースでデビューウインを飾った。

ライバルであったローラとペンスキーを寄せ付けない強さを発揮し1995年から2001年まで7年連続でチャンピオンマシンとなった。

スポーツカー編集

2000年代初頭に、レイナード・2KQを開発し、スポーツカーレースでの市場独占を試みたが、このマシンは完全な失敗作であり、コンストラクターとしての評価を著しく低下させてしまうこととなった。なお倒産時開発中のマシン、レイナード・02Sはその後、ザイテックがライセンスを取得し、その設計を元に2004年に独自のスポーツカーとして「ザイテック・04S英語版」を開発し、ル・マン耐久シリーズル・マン24時間レースに参戦した。

復活編集

2009年、エイドリアン・レイナードは「Reynard Racing Cars」の社名において、公道を走ることもできる、レース用スポーツカーの製作を発表した。

脚注編集

  1. ^ REYNARD CARS LIMITED - Free Company Check”. www.companieslist.co.uk. 2022年11月2日閲覧。
  2. ^ Adrian Reynard's Official Website-REYNARD RACING CARS”. 2022年6月18日閲覧。
  3. ^ REYNARD MOTORSPORT LIMITED”. find-and-update.company-information.service.gov.uk. 2022年11月2日閲覧。
  4. ^ 4)四の間 レイナードはなぜ倒産したのか(再録)”. J2016/03/04閲覧。
  5. ^ “レーシングカーコンストラクター「レイナード」倒産”. web CG. (2002年4月1日). http://www.webcg.net/WEBCG/news/000011328.html 2012年4月7日閲覧。 
  6. ^ Reynard returns with low-cost car”. autosport.com. 2009年1月8日閲覧。

関連項目編集

外部リンク編集