「パティ・ボイド」の版間の差分

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== 来歴 ==
;=== 幼少期、モデルとしての初期 ===
[[サマセット]]の[[トーントン]]で、コリン・イアン・ラングドン・ボイド (Colin Ian Langdon Boyd) とダイアナ・フランシス・ドライスデール(Diana Frances Drysdale)(1942年8月結婚)の間に産まれる。長女であり、コリン(1946年)、ヘレン・メアリー(1947年、後にジェニーと呼ばれ、[[ミック・フリートウッド]]と結婚する)、ポーラ(1951年)の3人の妹がいる。ボイドは彼女のお気に入りの人形の名前からヘレン・ジェニーと呼ばれていた<ref name="PattieBiogPiczo">{{cite web |first= |last= |url=http://patriciaannboyd.piczo.com/?g=10822657&cr=4 |title=Biography |publisher=Piczo |accessdate=2008-03-06}}</ref> 。パイロットであった彼女の父親が[[第二次世界大戦]]での負傷により[[イギリス空軍]]から除隊された後、1948年から1953年の間、ボイドは[[ケニア]]の[[ナイロビ]]に居住した。両親は[[1952年]]に離婚し、母ダイアナは1953年にタンガニーカ(現在の[[タンザニア]])にてロバート・ゲイマー・ジョーンズ (Rober Gaymer-Jones)と再婚。その後2人は4人の子供を連れてイギリスへと帰郷する。夫婦はその後デヴィッド J.B.(1954年)とロバート・ジュニア(1955年)の二人の子供をもうけた。彼らはパティの義兄弟にあたる。パティ自身は修道院付属の寄宿学校に1961年まで所属したのち、1962年にロンドンへ移住。ロンドンでファッション雑誌にスカウトされ、モデルとしての活動を始めた。初の仕事は[[エリザベス・アーデン]]のシャンプーの宣伝だった<ref name="DarkHorseTimeline">{{cite book |first=Geoffrey |last=Giuliano |url=http://books.google.com/books?id=Z3LucGjG_7AC&pg=RA1-PA240&dq=pattie+boyd&ie=ISO-8859-1&sig=jagEoUVOb41KW18YdRe3w3sfuhY |title=Dark Horse - The Life and Art of George Harrison |publisher=[[Da Capo Press]] |accessdate=2008-03-06}}</ref><ref name="FortuneCityBiog">{{cite web |first= |last= |url=http://members.fortunecity.com/pattiboyd/bio.html |title=A Pattie Boyd Biography |publisher=Fortune City |accessdate=2008-03-06}}</ref>。
 
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1964年には、[[ヴォーグ (雑誌)|ヴォーグ]]のイギリス版およびイタリア版の表紙に登場<ref name="RockMuseRemembers">{{cite web |first=Anthony |last=Mason |url=http://www.cbsnews.com/stories/2007/08/23/sunday/main3198902.shtml |title=A Rock Muse Remembers |publisher=[[CBS News]] |date=2007-08-26 |accessdate=2008-03-31}}</ref>。ジョージ・ハリスンの恋人になった後は、グロリア・スタヴァーズ (Gloria Stavers) から[[シックスティーン・マガジン]]に連載を持つ話を持ちかけられる<ref name="JohnPaulGeorgeRingoandMe">{{cite book |first=Tony |last=Barrow |url=http://books.google.com/books?id=BNnzcGw8JQsC&pg=PA244&dq=pattie+boyd&ie=ISO-8859-1&sig=uwFgg8_j9cGkb89ttfkkzbpBLC8#PPA243,M1 |title=John, Paul, George, Ringo and Me - The Real Beatles Story |publisher=Thunder’s Mouth Press |accessdate=2008-03-08}}</ref>。 1960年代の人気モデルである[[ツイッギー]]は、1966年にモデル業を始めた時に、ボイドのスタイルを参考にしていると発言した<ref name="Spitzp499"> Spitz (2005) p499</ref>。
 
;=== ジョージ・ハリスン ===
1964年、ボイドが19歳のとき、彼女はハリスンと出会う。きっかけは彼女が『[[ビートルズがやって来るヤァ!ヤァ!ヤァ! (映画)|ビートルズがやって来るヤァ!ヤァ!ヤァ! ]]』に[[ビートルズ]]ファンの女学生役で出演していたことだった<ref name="NewYorkTimesreview">{{cite web |first=Bosley |last=Crowther|url=http://movies.nytimes.com/movie/21522/A-Hard-Day-s-Night/overview |title=A Hard Day's Night (1964) |work=[[New York Times]] |date=2007-02-19 |accessdate=2008-02-27}}</ref>。しかしボイドは一年に渡って交際していたエリック・スワイン(Eric Swayne) と婚約寸前であったため、彼への愛情から最初のデートの誘いは断った。ただ彼女は、ハリスンは今まで出会った中で最も美しい男性だとも語った<ref name="Spitzp499"/><ref name="dailymailpart1"/>。最初にハリスンが彼女に言ったことの一つは「結婚しないかい?」だった。ボイドが笑ったため、ハリスンは「じゃあ、結婚してくれないなら、今夜夕食でもどう?」と言ったという。数日後、ボイドが映画の撮影に呼び戻された時、ハリソンは彼女を再び誘い、そこで彼女はスワインとの関係を終わりにすることを決めた。二人の初めてのデートは[[コヴェント・ガーデン]]にある[[ギャリック・クラブ]](会員制の紳士向けクラブ) にて、ビートルズのマネージャーである[[ブライアン・エプスタイン]]を交えたものだった<ref>{{cite web |first=Elizabeth |last=Vargas |url=http://abcnews.go.com/GMA/SummerConcert/story?id=3546199&page=1 |title=The Real 'Layla' Talks About George Harrison and Eric Clapton |publisher=[[ABC News]] |date=2007-08-31|accessdate=2008-03-06}}</ref> 。
 
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1965年12月、二人がロンドンをドライブしていた時、ハリスンはボイドにプロポーズをしたが、ビートルズのツアー予定が無いことを確認するためにまずエプスタインと話さなければならないとも言った<ref name="GeorgeAskedEpstein">{{cite web |first=Pattie |last=Boyd |url=http://www.dailymail.co.uk/pages/live/articles/showbiz/showbiznews.html?in_article_id=473175&in_page_id=1773 |title=George had to ask Brian Epstein for permission to marry me |work=[[Daily Mail]] |date=2007-08-05|accessdate=2008-03-06}}</ref>。1966年2月21日、[[サリー (イングランド)|サリー]]の[[エプソム]]にて、ポール・マッカートニー(付添人)とエプスタインの出席のもと、ボイドはハリスンと結婚。[[ジョン・レノン]]と[[リンゴ・スター]]は妻と共に海外旅行に行き、結婚に関するジャーナリスト達の調査をかわしていた<ref name="dailymailpart1">{{cite web |first=Pattie |last=Boyd |url=http://www.dailymail.co.uk/pages/live/femail/article.html?in_article_id=473174&in_page_id=1879 |title=Pattie Boyd: 'My hellish love triangle with George and Eric' - Part One |work=[[Daily Mail]] |date=2007-08-06|accessdate=2008-03-08}}</ref>。1965年、パティはジョージとの生活をキンファウンス(Kinfauns)にて始める<ref name="InterviewMothersInLaw">{{cite web |first=John |last=Howard |url=http://www.angelfire.com/music3/sentstarr/motion.html |title=The inside story of George Harrison's marriage to Patti (sic) Boyd, as told us by his mother and mother-in-law |work=Motion Picture Magazine |year=1966|accessdate=2008-03-06}}</ref>。二人は後にエプスタインと共に休暇を取り、フランス南の[[エズ]]近くにあるキャプ・エステル(Hotel Cap Estel)に滞在した<ref name="GeorgeAskedEpstein"/> 。
 
1966年9月、レノンが[[スペイン]]で[[僕の戦争]](''How I won the War'')を撮影している間、ハリスンとボイドは[[シタール]]の名手である[[ラヴィ・シャンカル]]の客人として[[ムンバイ|ボンベイ]]に滞在しており、1966年10月23日にロンドンに戻ってきた<ref name="Spitzp644-655"> Spitz (2005) pp644–655</ref>。1967年8月24日、かねてから東洋[[神秘学]]に関心があり、スピリチュアル・リジェネレーション・ムーブメント(Spiritual Regeneration Movement)に参加していたボイドは、ビートルズを[[インド]]の神秘論者[[マハリシ・マヘーシュ・ヨーギー]]と会わせることを思い立つ。結果として彼らは[[バンガー]]を訪れ、彼と交流を持つこととなった<ref name="CNN2005">{{cite web |first=Todd |last=Lepold |url=http://www.cnn.com/2005/SHOWBIZ/Music/02/03/pattie.boyd/ |title=Harrison, Clapton and their muse |publisher=[[CNN]] |date=2005-02-03|accessdate=2008-03-08}}</ref><ref name="Spitzp710-711">Spitz (2005) pp710–711</ref><ref name="SydneyMorningHerald1">{{cite web |first=Steve |last=Meacham |url=http://www.smh.com.au/articles/2007/07/03/1183351210250.html |title=Beatle’s muse comes clean |work=[[The Sydney Morning Herald]] |date=2007-07-04|accessdate=2008-03-08}}</ref>。1967年6月25日、ボイドは[[われらの世界]]での[[愛こそはすべて]]の放送に参加<ref>{{cite news | last = Harrington| first = Richard| coauthors =| title = His Musical Notes Have Become TV Landmarks| pages = Y06| language =| work = [[Washington Post]]| date = 2002-11-24| url = http://player.interactual.com/news/McCartney.htl | accessdate = 2007-06-04}}</ref>。1968年、インドの[[リシケシュ]](Rishikesh)にあるマハリシの[[アーシュラマ#転義|アシュラム]](ashram)をビートルズが訪れた際、彼女も同行した<ref>{{Cite book| publisher = Random House, Inc.| isbn = 9780307393845| last = Boyd| first = Pattie| coauthors = Penny Junor| title = Wonderful tonight| date = 2007-08-28|page=114}}</ref>。
 
;=== ハリソンとの破局 ===
レノンと[[ミック・ジャガー]]もまたボイドに引かれていたと発言しており、ジャガーは1980年代当時の恋人であったベベ・ビューエル(Bebe Buell)に、彼がボイドを数年に渡って誘惑したがダメだったことを告白している<ref name="SydneyMorningHerald1"/><ref name="bebebuell">{{cite book |first=Buell, Bebe |last=Bockris, Victor |url=http://books.google.com/books?id=x3ldMZrwQrQC&pg=PA117&dq=pattie+boyd&ie=ISO-8859-1&sig=ecEjx5WD4lTAuzPutYq7Vu2nVUE#PPA117,M1 |title=Rebel Heart: An American Rock 'n' Roll Journey|publisher=St. Martin’s press |accessdate=2008-03-08}}</ref>。1973年、ボイドは後に[[ローリング・ストーンズ]]のメンバーとなる[[ロン・ウッド]]と軽い浮気をし、そこでハリスンとは破局した<ref name="WoodHarrisonSleepingWithWife">{{cite web |first=Ronnie |last=Wood |url=http://www.dailymail.co.uk/pages/live/articles/showbiz/showbiznews.html?in_article_id=484697&in_page_id=1773 |title=The night I told George Harrison I was sleeping with his wife |work=[[Daily Mail]] |date=2007-09-29|accessdate=2008-03-06}}</ref>。 ボイドによると、ハリスンは彼女との休暇を取り消し(病気であったとしている)、ウッドの妻であるクリシーを誘って[[サルバドール・ダリ]]に会いにスペインに行っていたという。しかしハリスンはクリシーと関係を持ったことを後に否定している<ref name="dailymailpart2"/>。ボイドの弁解は、ハリスンがクリシー・ウッドとスペインに行っている間、彼女は妹のポーラと共に[[バハマ]]へ旅行しており、そのときにロン・ウッドが同行したいと言ってきたというものだった<ref name="dailymailpart2"/>。ボイドとウッドはロンドンに帰るとすぐ記者たちに嗅ぎ付けられ、1973年11月25日に二人のことが報道される。ボイドはハリスンの宗教への加熱と性格の変貌が、取り返しがつかないほど彼女を遠ざけたと述べている。その後1974年の6月に離婚。ボイドは[[ロサンゼルス]]にいた妹のジェニーのもとに身を寄せた。
 
;=== エリック・クラプトン ===
1960年代の終盤、クラプトンとハリスンは親しい友人となり、作曲やレコーディングを共に行うようになった。クラプトンがボイドに恋に落ちたのはこの頃とされている<ref name="dailymailpart1"/>。クラプトンはまたボイドの17歳の妹のポーラにも恋をし、彼女自身も彼に引かれていた<ref name="dailymailpart1"/>。しかしポーラは[[いとしのレイラ]]を聞いてクラプトンの元を去った。クラプトンがポーラを姉の代わりとしか見ていないことが、その曲から明らかであったからである<ref name="dailymailpart2"/>。ボイドは1970年代の前半に彼女がクラプトンのアプローチを拒絶した後、彼が[[ヘロイン]]中毒に陥り、[[w:Alice Ormsby-Gore|アリス・オームズバイ・ゴア]]と三年間放浪したと発言している<ref name="dailymailpart2"/>。一方で、クラプトンの[[デレク・アンド・ザ・ドミノス]]の唯一のスタジオアルバムである[[いとしのレイラ]]は、彼のボイドに対する愛を明らかにするために書かれたものであった。アルバムは同名の曲「いとしのレイラ」を収録しており、この曲は30年に渡って二つのヴァージョン共にヒットした<ref name="CNN2005"/>。
 
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二人は1979年に結婚。外面的には完璧なカップルであったが、結婚生活は争いに満ちていた。ボイドは飲酒および薬物の使用を認めているのにも関わらず、クラプトンとは違い彼女は[[アルコール依存症]]や[[薬物依存症]]になることはなかった<ref>Wonderful Tonight, Epilogue; See also, ''Daily Telegraph'', 12&nbsp;August 1999; "Like many others in her circle, Boyd sampled the booze, dope and cocaine but, unlike Clapton, she knew when to stop."</ref>。ボイドはクラプトンがアルコール依存症の治療を試みなくなったことで彼から去ったと述べている。そして彼女は、写真家のウィル・クリスティーと付き合うようになる<ref name="dailymailpart3"/>。1984年にクラプトンはイボンヌ・ケリーと一年に渡って関係を持ち、1985年の1月に彼女との間に娘のルースが産まれた<ref name="ClaptonsDaughter">{{cite web |first=Marcus |last=Errico |url=http://music.yahoo.com/read/news/15392917 |title=No Kidding: Clapton a Dad at 59 |publisher=[[Yahoo]] |date=2005-03-02|accessdate=2008-03-07}}</ref>。クラプトンとケリーは娘の誕生について一切公表しておらず、1991年に行われたクラプトンの息子のコナーの葬式まで彼の子供と明かされなかった<ref name="dailymailruth">{{cite web |first=Stuart |last=Husband |url=http://www.dailymail.co.uk/pages/you/article.html?in_article_id=463772&in_page_id=1908 |title=The truth about Eric Clapton's Secret Daughter |publisher=YOU magazine |date=2007-06-23|accessdate=2008-03-08}}</ref>。ボイドは「最も傷ついたのはエリックが最初から子供のことを知っていたこと。彼は私への愛がまだあると復縁を迫っていた一方で、イボンヌに[[養育費]]を六年にも渡って支払っていたの。」<ref name="dailymailpart3"/>ボイドはクラプトンのアルコール依存症と結婚前から始まっていた幾度もの情事を数年間耐えた上で、彼と離婚したとしている<ref name="SydneyMorningHerald1"/><ref name="dailymailpart3"/>。結局、クラプトンの[[イタリア]]人[[モデル (職業)|モデル]]のロリ・デル・サントとの浮気が決め手となり、クラプトンとボイドは1989年に離婚した。ロリ・デル・サントは1986年にコナーを出産していた<ref name="Telegraph1999">{{cite web |first=Judith |last=Woods |url=http://www.telegraph.co.uk/htmlContent.jhtml?html=/archive/1999/03/17/tlboyd17.html |title=It's amazing we're still alive |work=[[Daily Telegraph]] |date=1999-03-17|accessdate=2008-03-08}}</ref>。またボイド自身は[[体外受精]]を試みたにも関わらず、妊娠することができなかった<ref name="dailymailpart3"/><ref name="Telegraph1999"/>。ボイドとクラプトンは離婚原因を「不貞行為(infidelity and unreasonable behavior)」としている<ref name="dailymailpart3"/>。二人の関係が散々なものだったのにも関わらず、二人はその後数年に渡り友人であり続けた。
 
;=== 写真と自伝 ===
彼女が撮影したハリスンとクラプトンとの日々の写真展が、2005年の[[バレンタインデー]]にサンフランシスコ・アート・エクスチェンジで開かれ、"Through the Eye of a Muse"という題名がつけられた<ref name="CNN2005"/>。 展覧会は2006年の2月にサンフランシスコで、同年の6月から7月の6週間に渡ってロンドンで再び行われた。また2008年には[[カリフォルニア]]の[[ラホヤ]]にある[[モリソン・ホテル]]でも展示された。2008年9月には[[ダブリン]]のギャラリー・ナンバー・ワン、2008年の11月12月には[[カナダ]]の[[トロント]]のグレート・ホールにて展示されている。同展はまた2009年12月に[[オーストラリア]]の[[シドニー]]のブレンダー・ギャラリー、2009年12月28日から2010年1月10日までには[[バルバドス]]とランカスター・グレート・ハウスにて展示された。