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[[1945年]][[8月9日]]に突如としてソ連と外モンゴルの連合軍が[[満州国]]と内モンゴルに侵略してきたことによって[[満州国]]・蒙古自治邦政府(1941年に蒙古聯合自治政府から改称)は崩壊した([[ソビエト参戦]])。内モンゴルはソ連モンゴル連合軍の占領下におかれ、1945年9月には内モンゴル独立宣言を掲げた[[内モンゴル人民共和国]]が成立し、それを引き継いだ中国共産党の支配下に入った。ソ連軍から難民を守るために内モンゴル中部で[[根本博]][[中将]]揮下の[[駐蒙軍]]は終戦日を過ぎた[[8月21日]]までソ連軍の進撃を食い止めた。ソ連軍とモンゴル軍は東部のみならず、チャハルや[[熱河省]]といった西部<ref>二木博史等訳・田中克彦監修「モンゴル史」2、恒文社、1988年「日本帝国主義へのモンゴル人民共和国の参加(1945年)」〔地図11〕</ref>にも進駐した。旧蒙古自治邦政府では[[内モンゴル人民共和国]]、旧満州国[[興安総省]]では[[東モンゴル自治政府]]や[[ホロンバイル自治省政府]]などが成立して外モンゴルへの内モンゴルの併合を求める運動が勃発した。ソ連とモンゴルは当初[[汎モンゴル主義]]を煽って内外モンゴルの統一を掲げてたが<ref>台湾外交部檔案『中蒙関係』46-50頁、52-59頁。中央研究院近代史図書館檔号112.1/2</ref><ref>Arad-un sonin, No.1, Vang-un süm-e, 1945.11. 13.</ref>、[[中ソ友好同盟条約]]で中華民国に外モンゴル独立を認めさせる代わりに内外モンゴル統一の要求を取り下げて撤退することになった。
 
=== 中華人民共和国 ===
[[1945年]]8月以降、中華民国政府と反政府勢力の[[中国共産党]]との間で[[国共内戦]]が起きた。国共内戦のさなかである[[1947年]][[5月1日]]、ソ連やモンゴルといった占領軍の取り計らいで中国共産党の[[ウランフ]]は内モンゴル人民共和国や旧満州国[[興安総省]]の[[内モンゴル人民革命党]]、[[東モンゴル自治政府]]と[[ホロンバイル自治省政府、[[西蒙政府]]などを懐柔して東西モンゴルを統一して打ち立てた[[内モンゴル自治政府]]を打ち立て、自分はその主席に就任した<ref name=sakurai20080619/>[[1949年]][[中華人民共和国]]建国で設置された後の[[内モンゴル自治区|内蒙古自治区]]でもウランフは主席として君臨していたがなるも、[[1966年]][[7月12日]]に[[鄧小平]]がウランフを内外モンゴル統一を企む「分裂主義者」であるとして失脚させると中国政府は[[内モンゴル人民革命党粛清事件]]と呼ばれるモンゴル人への[[大粛清]]を行った。これにより数十万人が粛清された<ref name=sakurai20080619>{{cite web
|url=http://yoshiko-sakurai.jp/index.php/2008/06/19/%E3%80%8C%E2%80%9C%E3%83%A2%E3%83%B3%E3%82%B4%E3%83%AB%E4%BA%BA%E3%82%B8%E3%82%A7%E3%83%8E%E3%82%B5%E3%82%A4%E3%83%89-%E5%AE%9F%E9%8C%B2%E2%80%9D%E3%80%8D/
|title= 「“モンゴル人ジェノサイド 実録”」