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元々[[赤軍]]の戦車兵だった[[ミハイル・カラシニコフ]]は、負傷による入院中に銃器設計への関心を強め、1942年から小火器設計に関わり始めた{{sfn|ホビージャパン|2014|p=59-62}}。
1940年代中頃、カラシニコフを含む複数の設計者は、火薬量を抑えて反動を軽減した[[実包#.E5.BC.B1.E8.A3.85.E5.BC.BE|弱装弾]]の一種である新型弾薬[[7.62x39mm弾]]を用いるセミオートマチック・カービンの設計に着手する。最終的に{{仮リンク|セルゲイ・シモノフ|en|Sergei Gavrilovich Simonov}}の設計案が支持され、1945年に[[SKSカービン]]として採用された。この時、ソ連邦当局では並行して[[ナチス・ドイツ]]が[[独ソ戦]]において投入した[[StG44 (突撃銃)|StG44]]と同種の、いわゆる「アサルトライフル」の開発を計画していた。最有力候補は、短機関銃の設計者として著名な[[アレクセイ・スダエフ]]が手がけた{{仮リンク|AS-44|ru|АС-44}}突撃銃だったが、スダエフの死去により頓挫している。
戦車兵だったカラシニコフは設計者としての専門的な教育を受けていなかった
当初の[[制式名称]]は「'''7.62mm アブトマット・カラシニコバ'''」であり、「'''AK-47'''」の呼称は、後にいくつもの改良型が登場したため、それらと区別するためであった<ref name="カラシニコフ">[[ホビージャパン]]『カラシニコフ・ライフルとロシア軍の銃器たち』70頁、カラシニコフ本人による証言</ref>。
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