「朝乃翔嚆矢」の版間の差分

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2000年9月場所は西幕下5枚目まで陥落したが振るわず2勝5敗と負け越し。さらに翌11月場所は椎間板ヘルニアが再発し全休。翌場所も全休し[[2001年]]3月場所には東三段目37枚目まで陥落した。このまま引退するのではないかとの噂もあったが土俵に上がり6勝1敗と最後まで優勝を争った。その後勝ち越しを続け東幕下26枚目まで番付を盛り返したが、[[網膜剥離]]を患い[[2002年]]1月場所前に現役を引退し[[年寄名跡#|準年寄]]・朝乃翔を襲名した。その後、[[年寄]]・[[若松 (相撲)|若松]]、[[佐ノ山]]、[[関ノ戸 (相撲)|関ノ戸]]、[[押尾川]]を経て、[[若藤]]親方で[[高砂部屋]]の部屋付き親方として後進の指導に当たっていたが、[[2008年]][[1月24日]]、[[栃乃花仁|栃乃花]]と[[栃栄篤史|栃栄]]が現役を引退し、それぞれ[[年寄名跡]]を襲名したことにより、押し出される形で[[日本相撲協会]]を退職した。
 
その後、2011年に発刊された「相撲」10月号で、二子山部屋の元幕下・大二子が社長、若泉が取締役を務める大阪の老舗物流会社「間口」で同社の相撲部監督を勤める傍ら、「総合営業職」として第二の人生を歩んでいる事が紹介されている。他に、同社には先述の二人にとっては部屋の後輩に当たる元幕下・若風、貴乃洸、朝乃翔にとっては部屋の後輩に当たる元幕下・[[朝陽丸勝人|朝陽丸]]も社員として登用されている。
 
[[コンタクトレンズ]]を着用して本場所の土俵に上がった最初の力士でもある。