「ルーシー・ウォルター」の版間の差分

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[[ウェールズ]]でリチャード・ウォルター(第2代[[ノーフォーク公]][[トマス・ハワード (第2代ノーフォーク公)|トマス・ハワード]]の子孫)の娘として生まれた。ウォルター家は[[清教徒革命]]の際王党派に属し、[[1644年]]に議会軍にロッホ城を奪われ、ルーシーは[[ロンドン]]から[[デン・ハーグ|ハーグ]]へ逃れた。
 
彼女はつてを頼ってロンドン社交界へ入り、17歳でアルジャーノン・シドニー(レスター公に協力する軍人でその一族)の愛妾となった。[[ネーデルラント連邦共和国|オランダ]]へ移り、亡命していたアルジャーノンの弟ロバートの愛人となったのち、彼にチャールズ2世を紹介された。彼女はチャールズ2世の最初の愛人ではないと言われているが、[[1649年]]に[[モンマス公]]・[[バクルー公]]となる息子[[ジェムズ・スコット (初代モンマス公)|ジェームズ]]を生んだ。
 
2年ほどで2人の関係は終わり(理由は明かでない)、ルーシーは生活に貧窮して1658年に[[パリ]]で死んだ。死因も不明である。