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その後興行としての[[江戸相撲]]が人気を博すようになると、[[吉田司家]]は[[行司]]の総元締めとしての権力を保持するため横綱免許を与えて横綱を作ることを考えた。それまでの[[徳川将軍家|将軍家]]の観戦する[[上覧相撲]]や[[寺社]]への[[奉納相撲]]等特別な式典に際して行っていた[[土俵入り]]を、土俵上で行っていた顔見世土俵入りと結び付け、綱を締めさせて1人で土俵入りを披露させることにした。そして[[1791年]](寛政3年)、第11代将軍・[[徳川家斉]]の上覧相撲において[[谷風梶之助]]と[[小野川喜三郎]]が行った紙垂をたらした純白の綱をつけた土俵入りが天下公認となり、横綱が誕生することになった。しかし、次に[[阿武松緑之助]]が免許を受けるまで38年も実力者([[雷電為右衛門]]など)がいたにも関わらず免許がなく、阿武松免許の直前に、[[五条家]]が当時の両大関[[玉垣額之助 (4代)|玉垣]]・[[柏戸利助|柏戸]]に横綱を免許したため、吉田司家は、横綱免許を制度化した感がある。この頃、横綱のステータスはまだ認知されていなかったのか、玉垣・柏戸が免許を受けたので横綱土俵入りをしたという記録は見つかっていない。阿武松より、本場所で土俵入りするようになり、幣(しで。綱につける紙の飾り)の形が現在と同じ(紙の長さ方向ではなく、幅方向に折り返すもの)となった。それから江戸相撲では、吉田司家が横綱免許を与えた者が正式な横綱として認められるようになり、途切れることなく現役横綱力士が存在した。
 
もともと当初は、「[[大関]]」の地位の中で横綱を付けられる者のことを「横綱」と呼んでいた。(谷風・小野川は関脇で横綱になっている。また、不知火諸右衛門は横綱免許後に関脇で取っている。)このことから横綱になることを「綱を張る」と表現する。また、横綱は、当初、横綱免許を持つ大関に対する名誉称号に過ぎなかったため、番付では大関が最高位であった。それゆえ、雷電爲右エ門のように現在なら当然横綱に値するような成績を残しながら横綱免許を受けなかった強豪大関も少なくない。当時の力士多く[[大名]]の御抱えであり、その力関係や派閥争いの影響で、横綱を逃すケースもあったと考えられる。
 
このように第16代横綱・[[西ノ海嘉治郎 (初代)|初代西ノ海嘉治郎]]の時代までは横綱は名誉称号という性格が強かったが、[[1890年]](明治23年)5月場所からは番付に横綱の文字が掲載されるようになった。これは初代西ノ海嘉治郎が東正大関小錦八十吉に対して東張出大関にされ下風に立ったようなかたちになった西ノ海をなだめる方法として横綱と記したのである。そして、[[1909年]](明治42年)[[2月]]には相撲規約改正に伴い横綱の称号が地位として定められることになった。「横綱は大関の中の強豪」という考え方が一般的になると、[[本場所]]での成績によって横綱を免許されるようになった。その最初のケースは、第17代横綱・[[小錦八十吉 (初代)|初代小錦八十吉]]だったと言われている。明治初期は[[藩閥政治]]の有力者が後援者として力士を番付面で優遇して誕生させた「[[藩閥横綱]]」も存在したが、近代[[スポーツ]]としての体裁を整える中でこれらは姿を消した。現在は[[日本相撲協会]]が[[横綱審議委員会]]の諮問を仰ぎ、独自に推挙する。