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'''島津 綱久'''(しまづ つなひさ、[[寛永]]9年[[4月1日 (旧暦)|4月1日]]([[1632年]][[5月19日]]) - [[延宝]]元年[[2月19日 (旧暦)|2月19日]]([[1673年]][[4月6日]]))は、[[薩摩藩]]の世嗣。
 
正室は[[伊予国|伊予]][[伊予松山藩|松山藩]]第2代藩主・[[松平定頼]]の娘(眞修院殿)。[[側室]]は記録に残っていない。子に[[島津綱貴|綱貴]](長男、第3代藩主)、[[島津久季|久季]](三男、[[加治木家|加治木島津家]]へ養子)、娘([[酒井忠隆]]正室)、娘([[鳥居忠英]]正室)ら。幼名は虎寿丸、又三郎。初名は'''久平'''(ひさひら)。
 
== 生涯 ==
寛永9年(1632年)4月、第2代藩主・[[島津光久]]の長男として生まれる。母は[[伊勢貞豊]]の娘(曹源院殿、[[薩摩藩]]家老[[伊勢貞昌]]の孫)。慶安4年(1651年)、[[征夷大将軍|将軍]]・[[徳川家綱]]より、「松平」の名字と、「綱」の一字(偏諱)を賜って'''松平[[薩摩国司|薩摩守]]綱久'''と称する(村川浩平「島津氏への松平氏下賜」)。嫡男として光久の後継者と目されていたが、延宝元年(1673年)2月、父に先立って42歳で早世した。代わって長男の綱貴が[[家督]]を継いだ。法名は泰清院殿観山良無大居士。<!-- 小説などでは幕府隠密に毒殺されたとされることもあるが、真偽は不明である。 -->
 
== 人物、逸話 ==