「後円融天皇」の版間の差分

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永徳3年([[1383年]])の元旦、[[仙洞御所]]を訪問した足利義満との面会を拒否した。以後、義満は仙洞に参内せず他の公卿も遠慮したため、仙洞の機能が停止することになる。2月1日には出産を終えて宮中へ戻った妃の厳子に対して義満との[[密通]]を疑ってこれを殴打、母親の広橋仲子の説得や義満による医師の派遣も効果がなく、11日には愛妾の按察局が義満との[[密通]]を疑われて出家させられた。困惑した義満は[[二条良基]]と協議して、15日に上皇の信頼が厚い[[裏松資康]]・[[広橋仲光]]を派遣して上皇の相談に当たらせようとしたが、これを聞いた上皇は義満が自分を[[配流]]しようとしていると思い込み、持仏堂に籠って[[切腹]][[自殺]]を図るなどの騒動を起こしている<ref>『[[後愚昧記]]』・『[[荒暦]]』</ref>。18日に義満が院に出向いて宥めるとようやく上皇の心理は和らいだものの、[[治天の君]]の権威は失墜して再び蘇ることはなかった。[[一条経嗣]]は「聖運之至極」(皇室の命運が極まった)と書き記している<ref>『荒暦』永徳3年1月9日条</ref>。[[明徳]]3年([[1392年]])閏10月に義満の斡旋によって南朝との和平が成立して南北朝時代が終結したが、明徳4年([[1393年]])4月26日に[[崩御]]。宝算36。崩御直前に[[落飾]]して法名を'''光浄'''と称した。
 
近年の説として、朝廷の再建を巡る方針などで足利義満と後円融天皇が対立した結果、義満は後円融天皇を退位させて治天の権限を剥奪して自らが新帝・後小松天皇の後見(父代わり)になる路線に至ったとして、従来"[[足利義満#皇位簒奪と暗殺説|足利義満の皇位簒奪]]"の証拠とされてきた事項の多くは「足利義満と後円融天皇の対立」を「幕府と朝廷の対立」に拡大解釈したものに過ぎないとする説がある<ref>石原比位呂「足利義満の対朝廷政策」『室町時代の将軍家と天皇家』(勉誠出版、2015年) ISBN 978-4-585-22129-6</ref>。
 
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