後円融天皇
後円融天皇(ごえんゆうてんのう、1359年1月11日〈延文3年12月12日〉- 1393年6月6日〈明徳4年4月26日〉[1])は、日本の北朝第5代天皇[注 1](在位:1371年4月9日〈応安4年3月23日〉- 1382年5月24日〈永徳2年4月11日〉)[3]。諱は緒仁(おひと)。
後円融天皇 | |
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即位礼 | 1375年1月30日(応安7年12月28日) |
大嘗祭 | 1375年12月16日(永和元年11月23日) |
元号 |
応安 永和 康暦 永徳 |
時代 | 室町時代・南北朝時代 |
先代 | 後光厳天皇 |
次代 | 後小松天皇 |
誕生 |
1359年1月11日(延文3年12月12日) 一条東洞院 |
崩御 |
1393年6月6日(明徳4年4月26日) 小川仙洞御所 |
陵所 | 深草北陵 |
追号 |
後円融院 (後円融天皇) |
諱 | 緒仁 |
別称 | 光浄(法名) |
父親 | 後光厳天皇 |
母親 | 藤原仲子 |
子女 |
幹仁親王(後小松天皇) 珪子内親王 道朝親王 |
皇居 |
土御門東洞院殿 (現在の京都御所) |
親署 |
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後光厳天皇の第二皇子。母は左大臣広橋兼綱の養女の藤原仲子(崇賢門院、実父は岩清水八幡宮社務法印紀通清)。仲子の姉の紀良子を母としている足利義満とは従兄弟同士に当たり、また同い年である(新暦では1つ違いになる)。
生涯編集
応安4年(1371年)3月21日に親王宣下を受け立太子され、わずか2日後に後光厳天皇の譲位を受けて即位。これには後光厳天皇と崇光上皇の間に皇太子擁立の対立が有り、後光厳が幕府の管領である細川頼之の支持などを受け、後光厳天皇の皇子の緒仁親王が即位した。
貞治7年(1368年)に足利義満が将軍に就いたが、年若いために管領細川頼之が後見しており、応安7年(1374年)までは後光厳上皇による院政が行われていた。永和元年(1375年)には『新後拾遺和歌集』となる勅撰和歌集を義満の執奏により下命。南朝対策など政治は膠着状態であったが、春日神木の入洛など寺社勢力による強訴が相次ぎ朝廷儀式は衰退するなど、深刻な状況であった。康暦元年(1379年)閏4月に斯波義将などの動きで頼之が失脚すると義満の政治手腕が発揮され朝廷の再建に当たるとともに、徐々に朝廷の事務にも介入を始める。義満が廷臣に対する支配を強化し、また義満からの財政支援が無ければ大規模な儀式を賄う費用が捻出できない状況であり、このため朝廷内の人事や所領割り当てなども義満の意向通りに執り行わざるを得なくなっていた。
後円融は我が子の幹仁親王(後小松天皇)への譲位を強く望んでいた。これには、自らの系統に皇位を取り戻そうとする崇光院の勢力と対抗する上でも、儀式費用調達の面でも義満の支持が欠かせなかったが、永徳元年(1381年)の年末に後円融は義満から同意を取り付けることに成功する。ところが、永徳2年(1382年)に入ると譲位儀式の詳細について後円融と義満の対立が発生する。ともかくも4月11日に後小松への譲位は行われ、上皇となった後円融院の院別当に義満が任じられて後円融院の院政が始まる。しかし9月、同年12月に予定される後小松の即位礼の準備を義満が後円融院に促したところ、後円融がこれに答えず、即位礼の準備は後円融院抜きで進められた。結局、即位礼は後円融院が欠席のまま執り行われた。
永徳3年(1383年)の元旦、仙洞御所を訪問した足利義満との面会を拒否した。以後、義満は仙洞に参内せず他の公卿も遠慮したため、仙洞の機能が停止することになる。2月1日には出産を終えて宮中へ戻った妃の厳子に対して義満との密通を疑ってこれを殴打、母親の広橋仲子の説得や義満による医師の派遣も効果がなく、11日には愛妾の按察局が義満との密通を疑われて出家させられた。困惑した義満は二条良基と協議して、15日に上皇の信頼が厚い裏松資康・広橋仲光を派遣して上皇の相談に当たらせようとしたが、これを聞いた上皇は義満が自分を配流しようとしていると思い込み、持仏堂に籠って切腹自殺を図るなどの騒動を起こしている[4]。18日に義満が院に出向いて宥めるとようやく上皇の心理は和らいだものの、治天の君の権威は失墜して再び蘇ることはなかった。一条経嗣は「聖運之至極」(皇室の命運が極まった)と書き記している[5]。明徳3年(1392年)閏10月に義満の斡旋によって南朝との和平が成立して南北朝時代が終結したが、明徳4年(1393年)4月26日に崩御。宝算36。崩御直前に落飾して法名を光浄と称した。
近年の説として、朝廷の再建を巡る方針などで足利義満と後円融天皇が対立した結果、義満は後円融天皇を退位させて治天の権限を剥奪した上で、自らが新帝・後小松天皇の後見(父代わり)になって朝廷再建を進める路線に至ったとして、従来"足利義満の皇位簒奪計画"の証拠とされてきた事項の多くは「足利義満と後円融天皇の対立」という個人的な対立を「幕府と朝廷の対立」に拡大解釈したものに過ぎないとする説がある[6]。
系譜編集
後円融天皇の系譜 |
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【持明院統】 〔北朝〕 | 【大覚寺統】 〔南朝〕 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
96 後醍醐天皇 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
光厳天皇 北1 | 光明天皇 北2 | 97 後村上天皇 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
崇光天皇 北3 | 後光厳天皇 北4 | 98 長慶天皇 | 99 後亀山天皇 | 惟成親王 〔護聖院宮家〕 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
(伏見宮)栄仁親王 (初代伏見宮) | 後円融天皇 北5 | (不詳) 〔玉川宮家〕 | 小倉宮恒敦 〔小倉宮家〕 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
(伏見宮)貞成親王 (後崇光院) | 100 後小松天皇 北6 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
102 後花園天皇 | 貞常親王 〔伏見宮家〕 | 101 称光天皇 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
后妃・皇子女編集
在位中の元号編集
陵・霊廟編集
陵(みささぎ)は、宮内庁により京都府京都市伏見区深草坊町にある深草北陵(ふかくさきたのみささぎ)に治定されている。宮内庁上の形式は方形堂。深草北陵には持明院統歴代が葬られており、「深草十二帝陵」とも称される。
脚注編集
関連項目編集
外部リンク編集
後円融天皇
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日本の皇室 | ||
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先代 後光厳天皇 (弥仁) |
皇位 北朝5代天皇 1371年4月9日 - 1382年5月24日 応安4年3月23日 - 永徳2年4月11日 |
次代 後小松天皇 (幹仁) |