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他方で、[[1550年]]頃から占星術師としての執筆活動も始め、代表作『[[ミシェル・ノストラダムス師の予言集]]』などを著し、当時大いにもてはやされた。王妃[[カトリーヌ・ド・メディシス]]ら王族や有力者たちの中にも彼の予言を賛嘆する者が現れ、[[1564年]]には、国王[[シャルル9世 (フランス王)|シャルル9世]]より「常任侍医兼顧問」に任命された。その2年後、病気により62歳で没した。
 
彼の作品で特によく知られているのが、『[[ミシェル・ノストラダムス師の予言集]]』である(『[[諸世紀]]』という名称も流布しているが、誤訳であり適切なものではない)。そこに収められた[[四行連|四行詩]]形式の予言は非常に難解であったため、後世様々に解釈され、その「的中例」が広く喧伝されてきた。わせてノストラダムス自身の生涯にも多くの伝説が積み重ねられてゆき、結果として、信奉者たちにより「大予言者ノストラダムス」として祭り上げられることとなった(「[[ノストラダムス現象]]」も参照のこと)。
 
長らくこれに対する学術的検証はほとんど行われてこなかったが、現在では伝説を極力排除した彼の生涯や、彼自身の予言観や未来観を形成する上で強い影響を与えたと考えられる文典の存在なども、徐々に明らかとなりつつある。そうした知見を踏まえる形で、[[ルネサンス]]期の一人の[[人文主義者]]としてのノストラダムス像の形成や、彼の作品への文学的再評価などが、目下着実に行われつつある。
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{{main|ノストラダムス一族}}
 
ノストラダムスの父方の先祖は、[[14世紀]]末以降、[[アヴィニョン]]で商業を営んでいた。父方の祖父が[[ルネ・ダンジュー|善良王ルネ]]に仕えた医師・占星術師であったとする説は、ノストラダムスの[[ジャン・ド・ノートルダム|弟]]や[[セザール・ド・ノートルダム|長男]]ら親族による誇張であり、ノストラダムス自身父方の祖父も実際には商人であった。[[ピエール=ジョゼフ・ド・エーツ]]による[[18世紀]]の伝記などでは、ノストラダムスの先祖を更に遡れば、[[イスラエルの失われた10支族|失われた十支族]]の[[イッサカル族]]に辿り着くとされているが、これもまた根拠を持たない<ref name = Legend />。
 
父方の曾祖父ダヴァン・ド・カルカソンヌと祖父クレカは、[[15世紀]]半ばに[[ユダヤ教]]から[[キリスト教]]に改宗した。改宗後、クレカはピエール・ド・'''ノートルダム'''と改名し、三度目の妻の姓をもとにペイロ・ド・サント=マリーとも名乗った。ノートルダムもサント=マリーも[[聖母マリア]]を意味する。祖父は改名後、ノートルダム姓をより多く用い、それが息子や孫(ノストラダムス)にも受け継がれた。
 
ピエールの息子でノストラダムスの父にあたる[[ジョーム・ド・ノートルダム]]も、当初はアヴィニョンの商人であったが、[[サン=レミ=ド=プロヴァンス]](当記事では以下サン=レミと略記)出身住民レニエールという女性と結婚した後、サン=レミに居を移した<ref>以上、出自に関しては主にLeroy (1993), Lhez (1968) に拠っている。</ref>。
 
ノストラダムスは[[ユダヤ人]]とされることもあるが、上記の通り、父方の祖父の代に改宗が行われている。また、父方の祖母ブランシュもキリスト教徒である<ref>Leroy (1941) pp.13-18, Lhez (1968) p.404</ref>。
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母方については不明な点も多いが、曾祖父がキリスト教徒であったことは確かである。母レニエールもキリスト教徒であったと推測されているので<ref>Leroy (1941) p.32</ref>、ノストラダムスは[[ユダヤ人#定義|ユダヤ人の定義]]には当てはまらない。
 
一部には、彼の一族は表向きキリスト教徒であったに過ぎず、実際にはユダヤ教の信仰を捨てていなかったと主張する者や、彼の一族がユダヤ教の秘儀に通暁していたなどとする者もいるが、これらは史料的な裏付けを持たない。少なくともノストラダムス本人は、公刊された文献等では王党派[[カトリック教会|カトリック]]信徒の姿勢を示しており、著書の一つである『[[1562年]]向けの暦』も[[ピウス4世 (ローマ教皇)|ピウス4世]]に捧げられたものである<ref>高田・伊藤 (1999) pp.22-24, 346</ref>。また、秘書を務めたこともある[[ジャン=エメ・ド・シャヴィニー]]も、ノストラダムスは生前熱心なカトリック徒で、それと異なる信仰を強く非難していたと述べていた<ref>Chavigny (1594) p.6</ref>。
 
他方で、[[ルーテル教会|ルター派]]の顧客などと交わしていた私信の中では、[[プロテスタント]]に好意的な姿勢を示していたことも明らかになっている。[[ジェイムズ・ランディ]]のように、カトリック信徒としての姿勢はあくまで表面的なもので、実際にはプロテスタントであったと見なす者もいるが<ref>ランディ (1999) pp.109-111</ref>、むしろ相手の立場に応じて言葉を使い分けていた可能性を指摘する者もいる<ref>高田・伊藤 (1999) pp.22-24、ランディ (1999) p.111 (日本語版監修者[[皆神龍太郎]]のコメント)</ref>。また、かつて[[渡辺一夫]]は、ノストラダムスのキリスト教信仰が、正統や異端に拘泥しない「超異端」の立場であった可能性を示唆していた<ref>渡辺 (1992) pp.131-132, 138, 140</ref>。
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=== 少年時代および遊学期 ===
ノストラダムスは、[[1503年]][[12月14日]]<ref group= "注釈">なお、この日(グレゴリオ暦値1503年12月24日)には[[太陽]]・[[水星]]・[[金星]]・[[地球]]・[[火星]]・[[木星]]・[[土星]]が過去6000年間にもっとも直列に並ぶ現象([[惑星直列]])が発生しているが、[[地動説]]を前提とすることで理解できるこの現象の発生を[[天動説]]が支配していた当時においては理解されていたとは考えられず(実際、この事実が判明したのは後世の[[古天文学]]の研究による成果である)、彼の生涯と惑星直列を結びつける主張は成り立つことはない。作花一志『天変の解読者たち』恒生社厚生閣、2013年、pp.86-87</ref>木曜日に、当時まだフランス王領に編入されて間もなかった[[プロヴァンス]]地方のサン=レミで生まれた<ref group= "注釈">この点は、墓碑銘と私信([[12月12日]]を誕生日の2日前と語っている私信がある)などが裏付けになっている (Brind'Amour (1993) p.21, n.2 etc.)。出生そのものや[[洗礼]]の記録は確認されていない。なお、[[2006年]]になって、墓碑銘の再検討などから正しい誕生日を[[12月21日]]とする説が登場した ([http://cura.free.fr/dico8art/603A-epit.html Naissance de Michel de Nostredame : le 21 décembre 1503] par Patrice Guinard)。</ref>。幼少期には母方の曾祖父ジャン・ド・サン=レミが育係を務め、ノストラダムスに[[医学]]、[[数学]]、[[天文学]]ないし[[西洋占星術]](加えて、[[ギリシャ語]]、[[ラテン語]]、[[カバラ]]などを含めることもある)の手ほどきをしたとも言われるが、ジャンは[[1504年]]頃に没していた可能性が高いため<ref name = Yamatsu_p59>山津 (2012a) p.59</ref><ref group= "注釈">曾祖父は地元の名士であるがゆえに記録に頻出するが、1504年を境に記録から完全に姿を消しているため、恐らくこの年に没したと推測されている ([http://ramkat.free.fr/ascend.html#3 Les ascendants de Michel de Nostredame] etc.)。</ref>、彼が直接教育を施したとは考えられない<ref name = Legend>Lemesurier (2010) pp.42-45</ref>。父方ないし母方の祖父が教育係とされることもあるが、どちらも15世紀中に没しているので問題外である(これらは公文書類で確認できる)。結局のところ、彼が幼い頃に誰からどのような教育を受けていたかは、未だ明らかにはなっていない。
 
ノストラダムスは、15歳前後([[1518年]]頃)に[[アヴィニョン大学]]に入学し、在学中に[[リベラル・アーツ|自由七科]]を学んだようである。この点は、実証的な伝記研究でもほぼ確実視されているものの<ref>ラメジャラー (1998a) pp.36-37, Wilson (2003) p.21 etc. </ref>、実際に史料的な裏付けはなく、入学時期もはっきりしていない。在学中には、学友たちの前で、[[ニコラウス・コペルニクス|コペルニクス]]の『[[天球の回転について]]』の内容を20年以上先取りするかの如くに正確な[[地動説]]概念を語るなど、諸学問、特に天体の知識の卓抜さで知られていたとする「伝説」はあるが、これも裏付けとなる史料はなく、むしろノストラダムスの宇宙観は、本来の地動説と対置される[[クラウディオス・プトレマイオス|プトレマイオス]]的なものとも指摘されている<ref name = Legend />。
 
このアヴィニョン大学学は、[[1520年]]に中断を余儀なくされたと推測されている。当時の[[ペスト]]流行の影響で、アヴィニョン大学をはじめとする南仏の大学の講義が休講とされたからである<ref>Leroy (1993) p.57 etc.</ref>。このことは、[[1521年]]から[[1529年]]まで各地を遍歴し、[[薬草]]の採取や関連する知識の収集につとめたと、後に本人が語ったこととも矛盾しない<ref>Nostradamus (1555a) p.3</ref>。他方で、ノストラダムスがこの遍歴に先立って[[モンペリエ大学]][[医学部]]で医師の資格を取得したとする説もあるが、現在では虚構の可能性が高いと考えられている<ref name = Legend />。この説は、後にノストラダムスの秘書となった[[ジャン=エメ・ド・シャヴィニー]]によるものだが<ref> Chavigny (1594) p.2</ref>、史料による確認が取れず、ノストラダムス自身が後の私信で、医学と[[判断占星術]]の研究歴を[[1521年]]頃から起算していることとも整合していない<ref>Lhez (1961) p.140</ref>ためである。史料的に裏付けられる同大学入学はこの遍歴の後である。
 
=== モンペリエとアジャンでの日々 ===
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従来博士号を取得したとされてきたこの時期の前後に、[[デジデリウス・エラスムス|エラスムス]]に比肩しうる学者として知られていた、[[アジャン]]の[[ジュール・セザール・スカリジェ]]の招きを受けたこともあり、ノストラダムスはアジャンへと移住した<ref group = "注釈">実際、本人は、[[トゥールーズ]]、[[ボルドー]]、[[カルカソンヌ]]のほか、アジャン周辺にいたことがあると後年語り、スカリジェのことも高く評価している (Nostradamus (1555a) p.218-219)。</ref>。彼はアジャンで開業医として医業に携わる傍ら、博識のスカリジェから多くを学んだらしい。また[[1531年]]には、アジャンのアンリエット・ダンコスという女性と結婚したことが、1990年代に発見された結婚契約書から窺える<ref>竹下 (1998) pp.70-71</ref>。この発見によって、従来謎であった最初の妻の名前も明らかとなったが<ref group = "注釈">妻の名前をアドリエット・ド・ルーブジャックと紹介している文献もあるが、これはスカリジェの妻アンディエット・ド・ラ・ロック・ルーブジャック(オーディエット・ラ・ロック・ローベジャック)と混同された誤伝のようである (Leoni (1961/1982) p.19, n.17)。</ref>、慎重な見方をする論者もいる<ref>ex. Wilson (2003) p.59</ref>。実際のところ、この頃既にアジャンにいたのだとすれば、モンペリエで3年間研究して博士号を取得したとされた通説との間に、齟齬を来すこととなる。
 
結婚契約書の真偽はなお検討の余地があるとしても、アジャン滞在中に最初の結婚をし、子供<ref group = "注釈">シャヴィニーの伝記では、子は男児と女児が1人ずつとされている (Chavigny (1594) p.2)。しかし、これも実証されてはおらず、はっきりしたことは分かっていない。</ref>をもうけたことは、確実視されている。しかし、1534年頃に妻子ともに亡くなったようである。この死因にはペストが有力視されているが、実際のところは不明である<ref group= "注釈">ノストラダムスの最初の結婚について語っている同時代の証言は、唯一シャヴィニーの伝記しかないが、彼は家族の死因については何も語っていない。これに関する実証と伝説の開きについては Wilson (2003) pp.58-59 なども参照のこと。</ref>。その後、持参金などを巡って妻の実家から訴訟を起こされたという話もあるが、これも定かではない<ref>Leroy (1993) p.61</ref>。
 
同じ頃には、元来気難しい性格であったスカリジェとの仲も険悪なものになっていった<ref group= "注釈">これを伝える最古の記録は17世紀の歴史書であるが (Leroy (1993) p.61, Schlosser (1985) pp.85-86)、スカリジェの遺作となった詩集にノストラダムスを悪罵する詩が複数収録されていることも傍証になる (Brind'Amour (1993) pp.85-86)。</ref>。さらには、[[1538年]]春にトゥールーズの異端審問官からを受けたようである<ref group= "注釈">19世紀に編纂されたアジャンの古文書集に記録されているようである (cf. Lhez (1961) p.135)。</ref>。その理由は「聖人を冒涜した」事を問題視されたという程度にしか分かっていない<ref> Lhez (1961) p.135, Brind'Amour (1993) p.118</ref>。怠惰な姿勢で[[聖母マリア]]像を作っていた職人に、そんなやり方では悪魔の像が出来てしまうと注意したところ、逆に聖母を悪魔呼ばわりした人物とされてしまったという説もあるが、これは[[アンリ・トルネ=シャヴィニー|トルネ=シャヴィニー]]らが19世紀になって言い出した話のようである<ref>Leroy (1993) p.61, LeVert (1979) pp.4-5</ref>。このほか、アジャンのプロテスタント医師[[フィリベール・サラザン|サラザン]]が召喚された際に、交流のあったノストラダムスにも累が及んだとする説もある<ref>Pierre Gayrard, ''Un dragon provençal'', Actes Sud, 2001, p.180 ; 類似の見解として Boulanger (1943) pp.54-55, LeVert (1979) p.5</ref>。
 
こうした諸状況の悪化によってノストラダムスは再度の遍歴を決心したとされるが、上述の通り裏付けとなる史料に乏しく詳細は不明である。ひとまず、妻子と死別したらしいこと、少なくともそれが一因となって旅に出たらしいことは確実視されている。実際、1530年代後半以降、彼の足取りは一時的に途絶える<ref group= "注釈">例外的に、1539年に[[ボルドー]]の薬剤師レオナール・バンドンの薬房を訪れたと、後にノストラダムス自身が語っている (Nostrdamus (1555a) p.110)。これについては、信憑性を疑問視する見解 (Leroy (1993) p.62-63) と、特に問題視しない見解とがある (Brind'Amour (1993) p.118)。</ref>。この頃の伝説としては、[[オルヴァル修道院]] ([[:fr:Abbaye Notre-Dame d'Orval|Abbaye d'Orval]]) に立ち寄って予言を書き残したというものがあり、19世紀に出現した[[偽書]]「[[オリヴァリウスの予言]]」や「[[オルヴァルの予言]]」と結びつけられることもあるが、資料的な裏付けを持たない<ref name = Legend /><ref>Leoni (1961/1982) p.21</ref>。
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長い放浪を続けたノストラダムスは、[[1544年]]に[[マルセイユ]]の医師ルイ・セールに師事したとされ<ref>Leroy (1993) p.66, Wilson (2003) p.62</ref>、翌年には3人の囚人の診察をした記録がある<ref group= "注釈">ブーシュ=デュ=ローヌ県立古文書館の展覧会のカタログ (''Archives. Trésors et richesses des Archives des Bouches-du-Rhône'', Marseilles, 1996) に、この記録の写真が載っているという (Laroche (1999) p.95)。</ref>。
 
そして、[[1546年]]に同じ南仏の都市[[エクス=アン=プロヴァンス|エクス]]で[[ペスト]]が流行した時には、往診治療のために同市へと赴いた。これについてノストラダムス自身は、エクスの議会 (senat) と現地住民からペストの根絶を要請されたと語っている。そして、エクスの古文書館には、1546年6月にノストラダムスに契約金を支払ったことが記載された、エクス市の出納係ポール・ボナンの会計簿と、その際のノストラダムスの契約書が残されている<ref>Lhez (1961) p.217, Benazra (1990) p.584</ref>。
 
伝説では、この時ノストラダムスは、鼠がペストを媒介することに気付き、直ちに鼠退治を命じたという。また、伝統的な治療法である[[瀉血]]を否定し、かわりにアルコール[[消毒]]や熱湯消毒を先取りするかのように、酒や熱湯で市中の住居や通りなどを清め、更にはキリスト教では忌避されていた[[火葬]]すらも指示したとされる<ref group="注釈">こうした伝説に基づく紹介として、[[五島勉]] (1998) 『ノストラダムスの大予言 最終解答編』 [[祥伝社]]〈ノンブック〉、pp.106-109など。</ref>。
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1557年には『ガレノスの釈義』(後述)を出版した。ノストラダムスは医師としての活動を縮小していたようだが<ref>ラメジャラー (1998a) p.180</ref>、1559年の処方箋も現存している<ref>Lemesurier (2003b) pp.114-115</ref>。
 
1559年6月30日、アンリ2世の妹[[マルグリット・ド・フランス (1523-1574)|マルグリット]]と娘[[エリザベート・ド・ヴァロワ|エリザベート]]とのがそれぞれ結婚することを祝う宴に際して行われた[[馬上槍試合]]で、アンリ2世は対戦相手の[[ガブリエル・ド・ロルジュ|モンゴムリ伯]]の槍が右目に刺さって致命傷を負い、7月10日に没した。現代では、しばしばこれがノストラダムスの予言通りであったとして大いに話題になったとされるが、現在[[ミシェル・ノストラダムス師の予言集#百詩篇第1巻35番|的中例として有名な詩]]が取り沙汰されたのは、実際には17世紀に入ってからのことであった<ref>高田 (2000) pp.292-296、山本 (2000) pp.240-244</ref>。なお、ノストラダムスは、[[1556年]]1月13日付けで国王と王妃への献呈文をそれぞれしたため、[[1557年]]向けの暦書に収録したが、このうちカトリーヌ宛ての献辞では、[[1559年]]を「世界的な平和」(la paix universelle) の年と予言していた<ref group= "注釈">この予言は同じ年の[[カトー・カンブレジ条約]]になら当てはまるように見えるとする指摘もある (Halbronn (2002) p.192)</ref>。
 
=== 晩年 ===
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その後のノストラダムスは、[[痛風]]もしくは[[リウマチ学|リウマチ]]と思われる症状に苦しめられていたようであり、1565年12月13日付の私信では、リウマチの症状のせいで21日も眠れないと述べている<ref>ランディ (1999) pp.157-158</ref>。ただし、後述する『王太后への書簡』が1566年12月22日付なので、少なくともその時点では、手紙を書ける程度に症状が改善していたと推測されている<ref>Chomarat (1996) pp.12-13</ref>。
 
そして1566年6月には死期を悟ったのか、[[公証人]]を呼んで遺言書を作成した。7月1日夜には秘書シャヴィニーに、「夜明けに生きている私を見ることはないだろう」と語ったとされる<ref>Chavigny (1594) p.4</ref>。ノストラダムスは[[ミシェル・ノストラダムス師の予言集#予兆詩集|予兆詩]]で、自身がベッドと長椅子との間で死ぬことを予言しており、翌朝予言通りにベッドと長椅子の間で倒れているのを発見されたというエピソードが有名である。しかし、ノストラダムスの死と予兆詩を最初に結びつけたシャヴィニーは、彼がベッドと長椅子の間で倒れていたなどとは述べておらず、死んだノストラダムスの死去発見最初に確認したとされる長男セザールもそのようなことは語っていない<ref> Chavigny (1594) p.154, Nostredame (1614) pp.803-804</ref>。そもそも、当該の予兆詩は出版当時の文献が残っておらず、同年のイタリア語訳版との対照をもとに、現在知られている詩篇が大幅に改竄されている可能性まで指摘されている<ref>Chevignard (1999) p.189, 山津 (2012a) pp.63-64</ref>。
 
=== 墓 ===
ノストラダムスは遺言書において、サロン市の[[フランシスコ会]]修道院付属聖堂の中でも、大扉と祭壇の間の壁面に葬られることを希望した<ref>Leoni (1961/1982) pp.772-773</ref>。1582年に妻アンヌが亡くなった時にも、同じ場所に葬られたという。当時、教会などの建物に埋葬されることは珍しくはなかったが、他人から踏まれる床に葬られることで自身の謙譲さを示すという立場をとらなかったため、壁が選ばれたと指摘されている<ref>竹下 (1998) p.108</ref>。当時、ノストラダムスは立った姿勢で葬られたという説もあるが、ノストラダムスの遺言書などにはそのような指示はなく、現在確認できる根拠からそれを裏付けることは出来ない<ref name = Legend /><ref group = "注釈">この修道院付属聖堂は現在ではレストランとなっており、ノストラダムスが葬られていたとされる壁は残されているが、姿勢を推察できるような痕跡は失われている (Lemesurier (2010) p.44)。</ref>。
 
その後、[[フランス革命]]最中の1793年頃に墓は暴かれた。暴いたのはマルセイユ連盟兵で、当時、ノストラダムスの墓を暴くと不幸が訪れるという、ある種の[[都市伝説]]が存在していたことについて、好奇心から詮索しようとしたのだという<ref name = Gimon_p708> Gimon (1882) pp.708-709</ref>。伝説ではノストラダムスの遺骸の首には、墓暴きのあった年の書かれたメダルが掛けられていたなどとているが、史実としての裏付はない<ref name = Legend />。この種の伝説の原型は、17世紀には既に登場していたという指摘もある<ref>山津 (2012a) pp.65-66</ref>。また、それから半世紀と経たないうちに、暴いた者がエクスの暴動に巻き込まれ、死体が街灯に吊るされたという話が出回るようになったが<ref>Dr. Lecabel (1836), ''Voyage imprévu dans le pays des Intelligences, ou quelques Prédictions de Nostradamus, verifiées exactement et expliquées'', Paris ; Monmaur, 1836, pp.4-5. そこでは、出典として ''Les souvenirs prophétiques d'une Sibylle'', Paris, 1814, p.333 が挙げられている。</ref><ref group = "注釈">竹下 (1998) p.138 では、宿舎での窃盗容疑で銃殺されたという話が紹介されている。</ref>、実態は不明である。
 
その後、19世紀初頭に当時のサロン市長のダヴィドが中心となって、ノストラダムスの遺骨が集められたが、あまり多くは集められなかったらしい<ref name = Gimon_p708 />。その後遺骨は市内のサン=ローラン参事会管理聖堂 (La Collégiale Saint-Laurent) の聖処女礼拝堂に改葬された<ref name = Gimon_p708 />。なお、ノストラダムスの遺言書でフランシスコ会修道院付属聖堂を埋葬場所に指定した箇所は、当初サン=ローラン参事会管理教会のノートルダム礼拝堂と書いた後で訂正されたものだった<ref>Benazra (1990) p.73</ref>。