「モンロー主義」の版間の差分

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合衆国にとって、もう一つの大きな懸念材料は、[[アラスカ州|アラスカ]](当時は[[ロシア領アメリカ|ロシア領]])から[[ロシア帝国|ロシア]]が[[太平洋]]沿いに[[南下政策]]を図ることであった。そのため、この教書はロシアのアメリカ大陸進出に対する牽制という狙いも含んでいた。
 
いわば、この宣言は欧州に対するアメリカ合衆国による「アメリカ大陸縄張り宣言」でもある。それに沿って[[1830年]]に[[インディアン移住法]]を定め、国家として先住民掃討を進め、また[[米墨戦争]]で領土を割譲させるなど、アメリカ大陸内での勢力拡大を推し進めた。「1833年、イギリスが[[フォークランド諸島]]を占領したが、特に措置を講じておらず、このときにモンロー主義は放棄されたと見ることができる。イギリス資本の進出が背景にあると見られる。」とする意見もあるが、アメリカ合衆国はそれ以前から[[フォークランド諸島]]を領有するアルゼンチンの勢力とは[[フォークランド諸島]]寄港問題で対立しており、アメリカ合衆国は[[フォークランド諸島]]については不干渉の立場をとっていた。よって、モンロー主義の放棄は「フロンティア消滅宣言」後の[[1898年]]の[[米西戦争]]、[[ハワイ併合]]と考えるのが妥当である。「モンロー主義の放棄」とは「アメリカ合衆国の縄張りはアメリカ大陸に限らない」ということである。そこで、先住民掃討完了を意味する「フロンティア消滅宣言」のあった1890年頃から太平洋進出を進め始め、[[1898年]]の[[米西戦争]]、[[ハワイ併合]]が続く。その後さらに[[米比戦争]]、中南米各国に介入する「[[棍棒外交]]」へと続いていく。イギリス資本の進出が背景にあると見られる
 
== 冷戦下でのモンロー主義 ==