「アンドレア・モンテルミーニ」の版間の差分

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== 略歴 ==
[[1992年]]に[[国際F3000選手権]]で[[ルカ・バドエル]]に次ぐシリーズランキング2位を獲得する。翌[[1993年]]は[[インディカー]]のデトロイト戦にスポット参戦し、4位入賞を果たしている。[[ベネトン・フォーミュラ|ベネトン]]のテストドライバーを務めた。
 
[[1994年]]に事故死した[[ローランド・ラッツェンバーガー]]の代わりに[[シムテック]]からF1デビューする。ところがデビュー戦となった第5戦[[1994年スペイングランプリ|スペインGP]]のフリー走行中に最終コーナーの立ち上がりでコースアウトしクラッシュ。フロントから斜めに衝突したマシンは左向きに回転しながらホームストレート中央で停止。マシン前部が破壊され、ドライバーの両足がモノコック前端から見えるほどの事故で、ラッツェンバーガーに続く最悪の事態を予想させた。モンテルミーニはヘリコプターで緊急搬送され、デビュー戦を予選すら走る事無く欠場することになったが、<!-- 両足複雑骨折の重傷を負い -->足の踵とつま先にヒビが入る程度の負傷で助かった。
 
この年は[[J.J.レート]]、[[ジャン・アレジ]]、[[ペドロ・ラミー]]、[[カール・ベンドリンガー]]、[[ルーベンス・バリチェロ]]、そしてモンテルミーニが重傷を負うアクシデント。そしてラッツェンバーガー、[[アイルトン・セナ]]の死亡事故で揺れたF1界だった。
 
[[ファイル:Andrea Montermini 1995 Britain.jpg|thumb|left|パシフィックのマシンをドライブするモンテルミーニ([[1995年イギリスグランプリ|1995年イギリスGP]])]]
[[1995年]]には[[パシフィック・レーシング|パシフィック (F1)]]に乗ってフル参戦する。最高位は[[1995年ドイツグランプリ|ドイツGP]]の8位だった。
 
[[1996年]]はパシフィックの撤退で[[フォルティ]]から参戦する。しかし走らないマシンで4度の予選落ちをし、第10戦[[1996年イギリスグランプリ|イギリスGP]]でチームが撤退し、自身もF1から身を引いた。
 
その後は[[FIA GT選手権]]、[[IMSA]]、[[ル・マン24時間レース]]など[[スポーツカーレース]]で活動しており、ルマン24時間耐久レースでは1998年と1999年に総合6位となった。2008年の[[w:en:International GT Open|International GT Open]]では総合優勝を達成した。