アンドレア・モンテルミーニ

アンドレア・モンテルミーニAndrea Montermini, 1964年5月30日 - )は、イタリア出身のレーシングドライバーである。モンテルミニと表記されることもある。

アンドレア・モンテルミーニ
モンテルミーニ(2014年)
基本情報
国籍 イタリアの旗 イタリア
出身地 同・サッスオーロ
生年月日 (1964-05-30) 1964年5月30日(60歳)
F1での経歴
過去の所属チーム '94 シムテック
'95 パシフィック
'96 フォルティ
出走回数 29 (20 starts)
優勝回数 0
表彰台(3位以内)回数 0
通算獲得ポイント 0
ポールポジション 0
ファステストラップ 0
初戦 1994年スペインGP
初勝利 -
最終勝利 -
最終戦 1996年イギリスGP
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経歴

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ジュニアフォーミュラ

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イタリア・フォーミュラ・アルファでランキング3位となり、1988年からイタリアF3選手権へステップアップ。1989年モナコグランプリ前座のF3で2位表彰台に立つ。同年のイタリアF3でも1勝を挙げ、ランキング4位となる[1]

1990年から国際F3000選手権にステップアップ、ナイジェル・マンセルが共同オーナーとなったマンセル・マジウィック・モータースポーツに抜擢され開幕戦からポールポジション獲得など速さを見せるも[2]、リタイアが多くシーズンを通じた成績ムラがありランキングは8位となった。同年にF1のBMSスクーデリア・イタリアのテストドライバーとして起用され、モンツァ合同テストでダラーラ・BMS190を駆りF1ドライブを経験。翌1991年もテストドライバー契約が延長された[3]

1991年、3001インターナショナルに移籍。チームメイトは前年もマジウィックで同僚だったジャン=マルク・グーノンが移籍してきたことで2年続けてのコンビとなった。しかしチームがF3000では新興メイカーとなるラルト製シャーシを採用し、実績あるローラ勢やレイナード勢を相手に劣勢であったが、第2戦ポー市街地と第6戦ホッケンハイムでファステストラップを記録、ランキングは10位となった。同シーズンはF1スクーデリア・フェラーリのテストドライバーに抜擢され、641/2642を使用したデータ収集に従事、F1予備軍と呼ばれるようになっていた。シーズンオフにはヴェンチュリ・ラルースのテストに参加しベルトラン・ガショーとのシート獲得競争となったが、ジェラール・ラルース片山右京のチームメイトとしてガショー起用を決めたため、一旦F1行きを断念してF3000参戦をもう1年続けることになった。

1992年にイル・バローネ・ランパンテに移籍、前年にイギリスF3チャンピオンを獲得した19歳の若手ルーベンス・バリチェロがチームメイトとなった。モンテルミーニは予選でバリチェロよりも速く、第2戦ポー、第3戦カタロニアと連続ポールポジションを獲得。ポーではリタイヤだったが、カタロニアではポール・トゥ・フィニッシュで国際F3000参戦3年目にして初優勝を挙げる。第7戦スパからはフォルティ・コルセに移籍し、その初戦でPP・FL・優勝のハットトリックを決める。トータルではシーズン3勝、4度のポールポジションと活躍し、ルカ・バドエルに次ぐシリーズランキング2位を獲得。

1993年からのF1レギュラー参戦を希望するも交渉は実らず、ベネトンのテストドライバーとして契約。テストスケジュールの合間を縫いインディカーに参戦し、第6戦デトロイト(ベル・アイル・パーク)では4位入賞の結果を残す。

1994年第3戦サンマリノGP予選で事故死したローランド・ラッツェンバーガーの後任としてシムテックと契約、F1の実戦にデビューする。ところがデビュー戦となった第5戦スペインGPで予選中に最終コーナー立ち上がりでコースアウトしクラッシュ。フロントから斜めにウォールヒットしたマシンは左向きに回転しながらホームストレート中央で停止。メインモノコックが折れてしまい、モンテルミーニの両足が折れたマシンから見えているような状況で、モンテルミーニはヘリコプターで緊急搬送されたため、予選落ちとなった。診断の結果、足の踵と爪先の亀裂骨折を負っていた。

 
パシフィックのマシンをドライブするモンテルミーニ(1995年イギリスGP

1995年パシフィックに移籍。マシンの戦闘力が無く、最高位はドイツGPの8位だった。チームは同年限りでの撤退となり、新たなシートを探すこととなった。

1996年、F3000時代に所属した古巣であり、前年よりF1参戦を開始していたフォルティに移籍[4]。しかしフォルティにとって新規導入された予選107%ルールが高い壁となり、モンテルミーニも4度の予選落ちをし、第10戦イギリスGPを最後にチームのフォードエンジン使用料不払いにより供給をストップされ、フォルティはF1撤退となった。

1997年、新規参戦チームのマスターカード・ローラのテストドライバーとして契約したが、開幕戦のオーストラリアGPでローラのあまりの不振にスポンサーであるマスターカードが即時撤退してしまい、チームは存続不可能となった。モンテルミーニのF1との関わりはこれが最後となった。

スポーツカーレース

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その後はFIA GT選手権IMSAル・マン24時間レースなどスポーツカーレースに参戦する。ルマン24時間レースでは1998年と1999年に総合6位となった。2008年のInternational GT Openでは総合優勝を達成した。

レース戦績

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国際F3000選手権

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チーム 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 順位 ポイント
1990年 マンセル・マジウィック DON
Ret
SIL
4
PAU
Ret
JER
3
MNZ
Ret
PER
Ret
HOC
Ret
BRH
Ret
BIR
9
BUG
2
NOG
Ret
8位 13
1991年 3001インターナショナル VLL
Ret
PAU
Ret
JER
3
MUG
11
PER
10
HOC
Ret
BRH
10
SPA
Ret
BUG
3
NOG
Ret
10位 8
1992年 バローネランパンテ SIL
Ret
PAU
Ret
CAT
1
PER
3
HOC
9
NÜR
Ret
2位 34
フォルティ・コルセ SPA
1
ALB
1
NOG
4
MAG
Ret

(key)

エントラント シャーシ エンジン 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 WDC ポイント
1994年 シムテック S941 フォード V8 BRA PAC SMR MON ESP
DNQ
CAN FRA GBR GER HUN BEL ITA POR EUR JPN AUS NC 0
1995年 パシフィック PR02 フォード V8 BRA
9
ARG
Ret
SMR
Ret
ESP
DNS
MON
DSQ
CAN
Ret
FRA
NC
GBR
Ret
GER
8
HUN
12
BEL
Ret
ITA
Ret
POR
Ret
EUR
Ret
PAC
Ret
JPN
Ret
AUS
Ret
NC 0
1996年 フォルティ FG01B フォード V8 AUS
DNQ
BRA
Ret
ARG
10
EUR
DNQ
SMR
DNQ
NC 0
FG03 MON
DNS
ESP
DNQ
CAN
Ret
FRA
Ret
GBR
DNQ
GER
DNP
HUN BEL ITA POR JPN

インディーカー・シリーズ/CART

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チーム シャシー エンジン 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 18 19 20 順位 ポイント
1993 ユーロモータースポーツ ローラ T92/00 シボレー SRF
25
PHX LBH INDY MIL DET
4
POR CLE TOR
27
MIS NHM ROA VAN
19
MDO NZR LAG 18位 12
1994 ペイトン・コイン・レーシング ローラ T93/00 フォード SRF
DNS
PHX LBH INDY MIL DET POR 24位 10
キング・レーシング ローラ T94/00 フォード CLE
16
TOR
7
MIS MDO NHM VAN ROA NZR
プロジェクト・インディ ローラ T93/00 フォード LAG
9
1999 オール・アメリカン・レーサーズ イーグル 997 トヨタ MIA MOT LBH NZR RIO STL MIL POR CLE ROA TOR MIS DET MDO CHI VAN
11
LAG
24
HOU
23
SRF
15
FON 31位 2

ル・マン24時間レース

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チーム コ・ドライバー 使用車両 クラス 周回 総合順位 クラス順位
1998   NISMO
  トム・ウォーキンショー・レーシング
  ヤン・ラマース
  エリック・コマス
日産・R390 GT1 GT1 342 6位 6位
1999   クラージュ・コンペティション   アレックス・カフィ
  ドメニコ・スキャッタレーラ
クラージュ・C52-日産 LMP 342 6位 5位

関連項目

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脚注

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  1. ^ Andrea Montermini Driver Datebase
  2. ^ F3000のイタリアン3人 F1ステップアップは誰? グランプリ・エクスプレス 1990ベルギーGP号 31頁 山海堂 1990年9月15日発行
  3. ^ スクーデリアイタリアの'91年体制決定 モンテルミーニとテストドライバー契約 Racing On No.088 37頁 1991年1月1日発行
  4. ^ フォルティコルセ マシンの完成は遅れ、107%の壁は厚い F1グランプリ特集 4月号 130頁 1996年4月16日発行

外部リンク

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