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亡父劉康には「恭皇」を追[[諡]]、また養母に当たる皇太后趙氏、養祖母太皇太后王氏([[王政君]])とは別に、実母の丁氏に帝太后、実祖母の傅氏には皇太太后を追諡している。
 
政治面では、失敗に終わったが王侯や一般人が所有する田地や奴婢の制限を検討したが(限田法)反対にあって実施されなかった<ref>[[s:zh:漢書/卷024上|『漢書』食貨志上]]および哀帝紀に見える</ref>。また[[任子]]の令を廃止するなどの改革を計画した。また、丞相を廃止し[[三公]]制へ移行し、後の新・後漢で実施された三公制の祖形を生み出している。当時は漢の命運がつきかけているという迷信(歴運)があり、[[讖緯|讖]](予言書)を信じた哀帝は自ら「陳聖劉太平皇帝」を称し天命を更新しようとしたが、2ヶ月で元に戻している。
 
哀帝は[[丞相]]である[[朱博]]、[[王嘉]]を自殺させるなど臣下に対し厳しい態度で臨み、[[武帝 (漢)|武帝]]・[[宣帝 (漢)|宣帝]]の手法を採用しようとしたが、元寿2年([[紀元前1年|前1年]])6月、25歳で崩御した。嗣子がなかったため、崩御に際し皇帝璽綬を董賢に託したが、太皇太后王氏は詔を発して董賢を罷免し、璽綬も奪った。董賢はその日のうちに自殺した<ref>『[[漢書]]』平帝紀・佞幸伝による。『[[後漢書]]』では王閎が帯剣して董賢から璽綬を奪い、太皇太后に渡したとする</ref>。太皇太后は[[王莽]]を大司馬に任命し、政治の実権は王氏が再び掌握することとなった。