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秀吉没後、後を追うように[[豊臣秀頼]]の後見役だった[[前田利家]]が慶長4年([[1599年]])に死去すると、[[豊臣氏|豊臣家]]内で武断派の[[加藤清正]]・[[福島正則]]らと、文治派の[[石田三成]]・[[小西行長]]らとの派閥抗争が表面化した。これに乗じた五大老の徳川家康が、豊臣家における影響力を強めることとなる。そして清正ら武闘派7将による石田三成襲撃事件が勃発した際には、秀家は[[佐竹義宣 (右京大夫)|佐竹義宣]]とともに三成を救出した。
 
慶長5年([[1600年]])、家康が[[会津征伐]]のため出兵している機を見計らい、石田三成は毛利輝元を盟主に担ぎ、打倒家康のために挙兵した。秀家は西軍の副大将として石田三成、大谷吉継らとともに家康断罪の檄文を発し、西軍の主力となる。[[伏見城の戦い]]では総大将として参加し攻略、その後本隊と別れて[[伊勢国]][[長島城]]を攻撃した後、[[美濃国]][[大垣城]]に入城し西軍本隊と合流した。[[関ヶ原の戦い]]においても西軍主力(西軍の中では最大の1万7,000人)として積極的に戦い、東軍の福島正則隊とを繰り広げた。しかし同じ豊臣一門である[[小早川秀秋]]の裏切りで西軍は総崩れとなり、宇喜多隊は壊滅した。
 
小早川隊の裏切りに激怒した秀家は、「松尾山(小早川の陣)に乗り込み金吾(秀秋)を叩き斬ってやる」と叫んだと言われるが、明石全登に制止され、やむなく落ち延びていった。
 
=== 流人 ===
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* 渡邊大門『戦国期浦上氏・宇喜多氏と地域権力』(岩田書院、2011年)ISBN 978-4-872-94698-7
; 論文
* [[しらが康義]]「戦国豊臣期大名宇喜多氏の成立と展開」(『岡山県史研究』第6号、1984年)
* [[寺尾克成]]「宇喜多秀家篇」(『歴史読本 特集 豊臣五大老と関ケ原合戦』通号720、2000年)
* [[大西泰正]]「秀家死後の宇喜多氏」(『日本歴史』第727号、2008年)
* 大西泰正「宇喜多秀家論」(『史敏』2009春号、2009年)