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[[前漢]]の[[元朔]]元年([[紀元前128年|前128年]])、濊君の'''南閭'''らが、[[衛氏朝鮮]]の右渠に反逆し、28万人を率いて[[遼東郡]]に服属した。[[武帝 (漢)|武帝]]はこの地を[[蒼海郡]]としたが、数年で廃止した<ref>蒼海郡の廃止は前126年のことで、蒼海郡への道路建設で漢の国内や蒼海郡の人々が反対運動をおこしたので、この郡を廃止した《『[[史記]]』平準書・同公孫弘列伝、『[[漢書]]』武帝紀・同食貨志第四下》。</ref>。
 
武帝は[[元封 (漢)|元封]]3年([[紀元前108年|前108年]])に朝鮮を討伐し、[[衛満]]の孫の[[衛右渠]]を殺すと、その土地を分けて四つの郡([[真番郡]]・[[臨屯郡]]・[[楽浪郡]]・[[玄菟郡]])を置き、玄菟郡治を沃沮城に置いた。昭帝の[[始元 (漢)|始元]]5年([[紀元前75年|前75年]])臨屯と真番を廃止し[[楽浪郡]]・[[玄菟郡]]に併せた。
 
[[元鳳]]6年([[紀元前75年|前75年]])、貊族(夷貊)の攻撃を受けて玄菟郡治が北西の高句麗県へ移り、沃沮・濊貊は尽く楽浪の管轄へ移った。また、管轄範囲が広く遠いことから、濊貊・沃沮の住む単単大嶺の東側の部分に楽浪東部都尉を置き、不耐城を治所として嶺東七県(東暆県・不耐県・蚕台県・華麗県・耶頭味県・前莫県・夫租県)に分けて治めさせた。