「マクシミリアン (メキシコ皇帝)」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
Cewbot (会話 | 投稿記録)
m bot: 解消済み仮リンクミラマール城を内部リンクに置き換える
Sinhako (会話 | 投稿記録)
編集の要約なし
38行目:
父の[[フランツ・カール・フォン・エスターライヒ|フランツ・カール]]大公は神聖ローマ皇帝[[フランツ2世]](後のオーストリア皇帝フランツ1世)の成年を迎えた二人の息子の一人であり、父方ではハプスブルク=ロートリンゲン家であり、母ゾフィーは[[プファルツ=ビルケンフェルト家|ヴィッテルスバッハ家]]のバイエルン王女であった{{sfn|Palmer|1994|pp=3, 5}}{{sfn|Palmer|1994|p=3}}。知性と野心と強い意志のあるゾフィーは夫とはまったく共通するところはなかった。歴史家のリチャード・オコナー({{lang|en|Richard O'Conner}})はフランツ・カール大公を「人生の最大の主要な関心事は肉汁たっぷりの[[ミートボール]]を平らげることだという鈍重な肥った男」と表現している{{sfn|O'Connor|1971|p=29}}。そのような人柄の違いにも関わらず、この結婚は実りの多いものとなり、4度の流産の後、マクシミリアンを含めて4人の子供が生まれ育った{{sfn|Haslip|1972|p=7}}。
 
ウィーン宮廷の噂によれば、マクシミリアンは実は、ゾフィーと[[ナポレオン・ボナパルト|ナポレオン1世]]とフランツ1世の皇女[[マリア・ルイーザ (パルマ女公)|マリー=ルイーズ]]の間の唯一の息子でマクシミリアンのいとこにあたる「[[:fr:Duc de Reichstadt|ライヒシュタット公爵]]」[[ナポレオン2世]]との間の[[婚外子]]ではないかという(そうであるならマクシミリアンはナポレオン1世の孫、フランツ1世の曾孫になる){{sfn|Ridley|2001|p=44}}。このゾフィーとナポレオン2世の不倫の問題の存在と可能性とマクシミリアンがその賜物であるという説は歴史家によって退けられている{{ref label|specialnotes1|A|none}}。
 
===教育===
224行目:
<ol style="list-style:upper-alpha">
<li>{{note label|specialnotes1|A|none}}
「そのようなありそうもない性的関係の証拠はゾフィーとライヒシュタット公の愛情による結びつきの理解を誤らせる。二人はお互いを外国の宮廷での順応に尽きず待った部外者と思っていた」とアラン・パーマーは言った{{sfn|Palmer|1994|p=3}}。
パーマーいわく、「彼らの『自信』は恋人というよりも姉と弟のそれである」{{sfn|Palmer|1994|p=3}} Joan Haslipによれば、彼女とライヒシュタット公が恋人同士だったと示唆する文書での証拠はない{{sfn|Haslip|1972|p=4}}。
「ナポレオン2世が実際にマクシミリアンの父かどうかは、怪しげな推測か、ホーフブルクのながい冬の夜の宮廷人と使用人によって語られたゴシップのようなもの」と Richard O'Connorリチャード・オコナーった{{sfn|O'Connor|1971|p=31}}。
「この噂を補強する証拠の断片もない」とJasper Ridleyは断言した{{sfn|Ridley|2001|p=44}}として以下のように続ける「ゾフィーは聴罪司祭への手紙に'''マクシミリアンはナポレオン2世の子供だった'''と告白しており、この手紙は1859年に見つかり破棄されたといわれる。しかしこの話を信じる道理がない。彼女が子供あるいは弟と認識している少年と性的関係を持とうとするだろうか?」{{sfn|Ridley|2001|p=45}} 1832年のライヒシュタット公の死後二人以上の息子の誕生はこの主張の信憑性をなお一層低下させる。{{sfn|Ridley|2001|p=45}}</li>
</ol>
{{refend}}