「斯波兼頼」の版間の差分

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[[貞治]]6年([[1367年]])に[[鎌倉公方]]の[[足利基氏]]が死去した後、出羽を含む東国の各地で南朝方が蜂起したが、[[漆川の戦い]]において、鎌倉公方を継いだ[[足利氏満]]や、兄で[[奥州探題]]の[[大崎直持]]と共に南朝方の寒河江大江氏を攻撃し降伏させた。また、近隣の[[天童氏|里見氏]]に弟の[[斯波義宗|義宗]]を養子に送り、一門とするなど武力政策と婚姻・養子政策を駆使し、山形斯波氏(後の最上氏)の基礎を築いた。兄の直持は[[奥州管領]]家の[[大崎氏]]の祖となった他、弟の[[斯波持義|持義]]、[[斯波将頼|将頼]]らも奥州に子孫を残したとされ、足利一門の名家という出自を思わせる。
 
[[応安]]6年([[1373]])頃には[[室町幕府]]より[[屋形|屋形号]]を許されて'''最上屋形'''と称したことを機に所領の最上郡に因んで苗字を最上氏とした。
 
[[永和 (日本)|永和]]元年([[1375年]])、嫡男の[[最上直家|直家]]に家督を譲って以降は城内に草庵を結び念仏三昧の日々を送った。