「オスマン帝国の対プロテスタント政策」の版間の差分

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{{Main|:en:Anglo-Moroccan alliance}}
[[Image:MoorishAmbassador to Elizabeth I.jpg|thumb|[[:en:Abd el-Ouahed ben Messaoud|アブド・エル・オウアヘッド・ベン・メッサオウド]]、北アフリカ諸国[[モロッコ]]の大使であり、1600年にイギリス、エリザベス1世の宮廷に来た<ref name="tate.org.uk">[[Tate Gallery]] exhibition "East-West: Objects between cultures" [http://www.tate.org.uk/britain/exhibitions/eastwest/rooms/room1.htm]</ref>。]]
[[1551年]]に「獅子」と呼ばれた[[トーマス・ウィンダム]](The Lion of Thomas Wyndham)の航海についで<ref>[http://books.google.com/books?id=q8EOAAAAQAAJ&pg=PA18 ''Atlas of British overseas expansion by Andrew N. Porter p.18]</ref>、[[1585年]]にイギリスの「[[バーバリー会社]]」が設立され、イギリスと北アフリカ諸国、特にモロッコとの交易は発展した<ref>Vaughan, ''Performing Blackness on English Stages, 1500-1800'' Cambridge University Press 2005 p.57 [http://books.google.com/books?id=19_SIlq3ZvsC&pg=PA57]</ref><ref>Nicoll, ''Shakespeare Survey. The Last Plays'' Cambridge University Press 2002, p.90 [http://books.google.com/books?id=OeakAOji13EC&pg=PA90]</ref>。エリザベス1世と北アフリカ諸国の外交関係と同盟が結ばれた<ref name="Nicoll, p.90">Nicoll, p.90</ref>。イギリスはスペインに敵対する[[サアド朝]]のモロッコと交易関係を持つようになり、[[教皇]]の禁止令に反して、モロッコに武器、弾薬、木材、金属を売り、モロッコから砂糖を輸入した<ref>[http://books.google.com/books?id=S6Z9J0OJmmQC&pg=PA24 ''Speaking of the Moor'', Emily C. Bartels p.24]</ref>。このことは、スペイン駐留のローマ[[教皇大使]](Nuncio)が、エリザベスについて以下のように書かせることとなった。「この女性によって考えられない悪はない。彼女は、実に悲しむべきことに、武器、特に大砲でモロッコ([[・エ朝]]の[[スターン]][[:en:Abu Marwan Abd al-Malik I Saadi|アブドゥル=ク]])を援助するのだ。」<ref>[http://books.google.com/books?id=Dx0BFlJd3lIC&pg=PA122 ''New Turkes'' by Matthew Dimmock p.122 Note 63]</ref>
 
モロッコでは1576年にサアド朝君主スルターン・[[:en:Abu Abdallah Mohammed II Saadi|アブー・アブドゥッラーフ・ムハンマド2世]]が、[[オスマン朝]]の後援を受けた叔父の[[:en:Abu Marwan Abd al-Malik I Saadi|ムハンマド・アル=ムタワッキル]]に廃位される事件が起きていた。ムハンマド2世は敵対していたポルトガルに亡命し、ポルトガル王[[セバスティアン1世 (ポルトガル王)|セバスティアン1世]]は[[十字軍]]の名目でムハンマド2世の復位を援助し、北アフリカに17,000人の軍勢とムハンマド2世を伴って親征した。(スペイン国王[[フェリペ2世]]はセバスティアン王の親征を思いとどまるよう説得したものの叶わなかった) 新スルターンとなった[[:en:Abu Marwan Abd al-Malik I Saadi|アブドゥル=マリク]](ムハンマド・アル=ムタワッキル)は自らも軍を率いて、[[タンジール]]に上陸したポルトガル軍を迎撃した。[[1578年]][[8月4日]]に両軍の会戦した[[アルカセル・キビールの戦い]]は、ポルトガル国王セバスティアンとモロッコの前スルターンであるムハンマド2世と、現スルターン・アブドゥル=マリクの三者が一同に会したため「三王の戦い」とも呼ばれるが、アブドゥル=マリク率いるサアド朝軍の勝利に終わったものの、激戦となったため「三王」全員が戦死するという事態となった。セバスティアン王の戦死の後、フェリペ2世がポルトガル王位の継承を要求したため、この戦いは1640年までポルトガルはハプスブルク家の王を戴くスペインとの[[同君連合]]となる契機となってしまった。またモロッコではアブドゥル=マリクの死後、弟の[[:en:Ahmad al-Mansur|アフマド・アル=マンスール]]が即位し、サアド朝の最盛期を迎える。イングランドのエリザベス1世がサアド朝のアブドゥル=マリクに援助したのは、北アフリカでモロッコの君主位を巡りスペイン、ポルトガルが介入する国際紛争的な様相を呈した時期であった。
[[1600年]]、[[モロッコ]]の支配者[[ムーライ・アフマド・アル=マンスール]](Mulai Ahmad al-Mansur)の主要な秘書である[[アブド・エル・オウアヘッド・ベン・メッサオウド]]は、エリザベス1世の宮廷への大使としてイギリスを訪ねた<ref>[http://books.google.com/books?id=19_SIlq3ZvsC&pg=PA57 Vaughan, p.57]</ref><ref>[[University of Birmingham]] Collections [http://mimsy.bham.ac.uk/detail.php?t=objects&type=related&kv=101212]</ref>。オウアヘッドは、エリザベスの宮廷に6ヶ月滞在し、スペインに対する同盟を交渉した<ref name="tate.org.uk"/><ref name="Vaughan, p.57">Vaughan, p.57</ref>。モロッコの支配者はイギリス艦隊がスペインに侵攻するのを援助するつもりであったが、エリザベスはこれを断った。しかし、保証のために大使館を建てることを歓迎し、さらに、商業協定を締結したのである<ref name="Nicoll, p.90"/><ref name="Vaughan, p.57"/>。エリザベス1世は艦隊派遣のために10万ポンドを要求し、アフマド王はお金を送るための大型帆船を要求するなどしながら、二人はさまざまな共同軍事計画を議論した。エリザベス1世は「軍需品をモロッコに送ることに同意し、彼女とムーライ・アフマド・アル=マンスールはしばしば、スペインに対する共同作戦を話し合った」<ref name="ReferenceA">[http://books.google.com/books?id=9VmYYEfyToQC&pg=PA39 ''The Jamestown project'' by Karen Ordahl Kupperman]</ref>。しかし、議論は決定することなく推移し、大使館設立後二年以内に両方の統治者は逝去した<ref>Nicoll, p.96</ref>。
 
[[1600年]]、[[モロッコ]]の配者となった[[サアド朝]]のスルターン・[[:en:Ahmad al-Mansur|ムーライ・アフマド・アル=マンスール]](Mulai AhmadAḥmad al-MansurManṣūr)は、主要な秘書である[[:en:Abd el-Ouahed ben Messaoud|アブド・エル・オウアヘッド・ベン・メッサオウド]]は、(アブル=ワーヒド・ブン・マスウード ‘Abd al-Wāhid b. Mas‘ūd)をエリザベス1世の宮廷への大使としてイギリスを訪ねへ派遣した<ref>[http://books.google.com/books?id=19_SIlq3ZvsC&pg=PA57 Vaughan, p.57]</ref><ref>[[University of Birmingham]] Collections [http://mimsy.bham.ac.uk/detail.php?t=objects&type=related&kv=101212]</ref>。オウヘッブル=ワーヒ一行は、エリザベスの宮廷に6ヶ月滞在し、スペインに対する同盟を交渉した<ref name="tate.org.uk"/><ref name="Vaughan, p.57">Vaughan, p.57</ref>。モロッコの支配者はイギリス艦隊がスペインに侵攻するのを援助するつもりであったが、エリザベスはこれを断った。しかし、保証のために大使館を建てることを歓迎し、さらに、商業協定を締結したのである<ref name="Nicoll, p.90"/><ref name="Vaughan, p.57"/>。エリザベス1世は艦隊派遣のために10万ポンドを要求し、スルターン・アフマドはお金を送るための大型帆船を要求するなどしながら、二人はさまざまな共同軍事計画を議論した。エリザベス1世は「軍需品をモロッコに送ることに同意し、彼女とムーライ・アフマド・アル=マンスールはしばしば、スペインに対する共同作戦を話し合った」<ref name="ReferenceA">[http://books.google.com/books?id=9VmYYEfyToQC&pg=PA39 ''The Jamestown project'' by Karen Ordahl Kupperman]</ref>。しかし、議論は決定することなく推移し、大使館設立後二年以内に両方の統治者は逝去した<ref>Nicoll, p.96</ref>。
 
===イギリスとオスマン帝国の共同作業===