「伊那電気鉄道の電車」の版間の差分

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== 概要 ==
伊那電気鉄道は、発足当初は伊那電車軌道と称し、[[1909年]](明治42年)12月、[[軌道法]]に準拠した「[[軌道 (鉄道)|軌道]]」として[[辰野駅|辰野]] - [[伊那松島駅|松島]]間を開業し、[[1911年]](明治44年)には、[[伊那市駅|伊那町]]までが、軌道法準拠により建設された。伊那町以南は、[[軽便鉄道法]]に準拠<ref>1922年軽便鉄道法廃止により[[地方鉄道法]]準拠に変更。</ref> する「[[軽便鉄道]]」として建設され、[[1927年]](昭和2年)に[[天竜峡駅|天竜峡]]までの全区間が開通した。
 
その間、[[1919年]](大正8年)8月に社名を伊那電気鉄道と改称し、[[1923年]](大正14年)3月に辰野 - 伊那松島間、同年12月に伊那松島 - 伊那町間を改築のうえ地方鉄道に変更し、架線電圧を600[[ボルト (単位)|V]]から1200Vに昇圧した。
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:[[1911年]](明治44年)に、後述の電動貨車1両とともに天野工場で製造された2軸電動車である。車体等の詳細は不明であるが、定員は37人、電動機出力は36PS×2に変更されている。[[1914年]](大正3年)に次項の4 - 6が製造された際に、7, 8と改められている。
 
:しかし、前述のとおりとすると、同じ電動車である前述の1 - 3のグループと番号が重複するものがあったことになるが、これは開業したばかりの鉄道線に軌道線用として新造したの2両(4, 5と付番されていた?)を振り向け、鉄道線用の1, 2としたのではないかと鉄道史研究家の白土貞夫は推定<ref>鉄道ピクトリアル1996年2月号(No.617)「伊那電気鉄道600V時代の車両を探る」</ref> している。第1次大改番時には、他の車両が7, 8と付番されていることから、それまでに処分されたものと考えられる。
 
*'''4 - 6 → 6 - 8(2代)'''
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*'''6'''
:1918年5月9日設計認可の自社松島工場製<ref>当時の工場は赤穂(現在の駒ヶ根)にあり、製造所については疑問が残る。ただし、自社製であることは間違いないと推定される。</ref> の電動貨車で、荷重は5t、最大寸法は長さ23ft6in×高さ10ft9 1/2in×幅7ftで、電動機は50PS×2である。[[1921年]](大正10年)9月15日認可により、台車をブリル21Eに交換し、電動機も36PS×2個としているが、昇圧により使用されなくなり、1932年7月12日付けで廃車となった。
 
== 昇圧後の車両 ==
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車体は長さ16m級の木製で片側3か所に客用扉を設けており、屋根はモニター形である。デ100形とデ200形の車体は同一で、台車や電動機といった走行機器関係が異なるのみである。側窓配置は1D141D141D1、前面は貫通式となっている。車体の最大寸法は、長さ15,875mm×幅2,642mm×高さ4,147mmで、座席はロングシート、定員は84人(うち座席52人)である。制御装置はいずれも非自動間接制御(HL)である。
 
走行機器に関しては、デ100形の電動機が78.3kW×43&nbsp;kW×4基、歯車比が1:2.65、台車が鉄道省TR14(後のDT10)同等品であったのに対し、デ200形は、電動機出力は74.6kW×46&nbsp;kW×4基、歯車比が1:4.56、台車がブリル27MCB-2である点が異なっていた。
 
買収後は、伊那松島に配属のまま架線電圧1200Vの飯田線天竜峡以北で使用されたが、同区間の1500V昇圧に伴い、両形式の全車が1951年に[[富山ライトレール富山港線|富山港線]]へ移った。
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三河鉄道デ200は、後の合併により[[名古屋鉄道]]モ1100形(1101)となり、[[名鉄3700系電車 (2代)|名鉄モ3700系電車]]に走行機器を譲り廃車された。
 
車体は、デ100形、デ200形とほぼ同様の16m級木製であるが、窓配置は、1D151D151D1と扉間の窓が1枚多く、その分1枚当たりの幅が狭くなっている。電動機についてはデ100形と同様の78.3kW×43&nbsp;kW×4であるが、台車は[[汽車製造]]製のKS-30Lであった。
 
買収後は、伊那松島に配置され飯田線北部で使用されたが、同区間の昇圧に伴って富山港線に移り、1953年の車両形式称号規程改正時点では110が両運転台の制御電動車、111は電装解除されて片運転台の制御車となっていた。そのため、110が'''モハ1910形'''(1910)、111が'''クハ5920形'''(5920)となっている。1910は[[1955年]](昭和30年)3月に廃車解体、5920は[[1954年]](昭和29年)3月に廃車、[[北陸鉄道]]に譲渡されている。
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1929年に製造された半鋼製で丸屋根を持つ車体長16m級の三等荷物合造付随車である。汽車製造東京支店で3両(サハニフ400 - 402)、日本車輌製造東京支店製の2両(サハニフ403, 404)の計5両が製造された。両者は基本的には同形同大であるが、細部に違いがある。側面窓配置は、1D(荷)4D6D3で、荷物室の荷重は2t、三等室の定員は90人(うち座席48人)で、三等室の扉間にはボックスシートが6組配置されている。自重は25t。
 
国有化後は、伊那松島機関区にあって従来同様後付付随車として使用されたが、1952年6月に運用の合理化のため400と401が荷物室を運転室に転用して制御車化され、記号が「クハ」となっており、翌年の車両形式称号規程改正により'''クハ5900形'''(5900, 5901)に改められた。両車は[[1958年]](昭和33年)2月および3月に[[プロトタイプ|試作]][[交直流電車|交流直流両用電車]]の電源車として改造され、屋根上に交直両用のパンタグラフ・空気遮断器・交直切替器を、床下に主変圧器・[[水銀整流器]]・交直切替器・直流リアクトルをそれぞれ搭載して<ref>JTBパブリッシング『415系物語』2015年 19-25項</ref>、[[国鉄72系電車#クモヤ491形→クモハ491形|72系]]モハ73034, モハ73050とユニットを組み<ref>この「M-Tp(pはパンタグラフ)」システムは[[西日本旅客鉄道|JR西日本]]の[[JR西日本681系電車|681系]]、[[JR西日本683系電車|683系]]、[[JR西日本521系電車|521系]]の交直流電車で採用されている。</ref> 作並機関区に転属、[[仙山線]]の仙台 - 作並間の[[交流電化]]区間と作並 - 山寺間の[[直流電化]]区間を直通する試験に供された。1959年の車両形式称号規程改正でそれぞれ'''クヤ490形'''(1, 11)と'''クモヤ491形'''(11, 12)に改番され、さらに1960年には営業用にも使用されることとなって車内に設置された直流リアクトルやバッテリーを撤去し、それぞれ'''クハ490形'''と'''クモハ491形'''(番号同じ)に改称された。廃車は[[1966年]](昭和41年)2月である。
 
付随車のまま残っていた3両(402 - 404)は、1952年に[[仙石線]]に転出し、1953年の車両形式称号規程改正で'''サハニ7900形'''(7900 - 7902)に改められたが1957年2月に廃車され、うち7901と7902は翌年、[[弘南鉄道]]に譲渡された。
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*デハ200 - [[伊豆箱根鉄道]]モハ45(1952年) → 車体振替(1960年代) → 廃車(1970年代)
*デハ204 - [[岳南鉄道]]モハ201(1952年) → モハ1101(1959年、日車標準車体に更新) → [[近江鉄道]]モハ101(1987年)
 
*1900 - [[北陸鉄道]][[北陸鉄道浅野川線|浅野川線]]モハ851(1954年11月) → 廃車(1962年6月)
*1901 - [[上田丸子電鉄]][[上田丸子電鉄丸子線|丸子線]]モハ5261(1954年) → [[上田丸子電鉄モハ5270形電車|モハ5271]](1959年、車体振替 [[東急3000系電車 (2代)#デハ3150形(→クハ3220形)|東急クハ3220形]]) → 廃車(1969年)