「アクバル2世」の版間の差分

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アクバル2世はイギリスが自国の文化を押し付けるのを嫌い、[[19世紀]]に[[ベンガル]]を中心に社会改革をしていた知識人[[ラーム・モーハン・ローイ]]の活動を注目していたことも知られる。
アクバル2世はラーム・モーハン・ローイに「[[ラージャ]]」の称号を与え、イギリスの横暴を[[ヴィクトリア (イギリス女王)|ヴィクトリア女王]]に訴えるべく、[[1830年]]からの渡英を依頼している<ref>堀口『世界歴史叢書 バングラデシュの歴史』、p.112</ref>。
しかし、[[1833年]][[9月27日]]にラーム・モーハン・ローイはイギリスの[[ブリストル]]で死亡し、インドに戻ることはなかった。