「パウロ6世 (ローマ教皇)」の版間の差分

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替え玉説に+要出典
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{{ infobox 教皇
| 日本語名 = <small>福者</small>パウロ6世
| タイトル = 第262代 [[ローマ教皇]]
| 画像 = [[ファイル:Paolovi.jpg|250px]]
| 画像説明 =
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=== 教皇 ===
==== 戴冠 ====
モンティーニはヨハネ23世のよき協力者として[[第2バチカン公会議]]の運営を行った。ヨハネ23世が会期途中で死去すると、モンティーニは教皇に選ばれ、「パウロ6世」を名乗った。
 
パウロ6世は自らの教皇冠を[[アメリカ]]の[[ワシントンD.C.]]にある無原罪の御宿りの聖母教会に寄贈した。ちなみにパウロ6世が最後に[[教皇冠]]を受けた教皇となった。次の教皇[[ヨハネ・パウロ1世 (ローマ教皇)|ヨハネ・パウロ1世]]は戴冠式を拒否して就任式に変更し、以後の教皇もそれに倣っているためである。
 
==== 教会改革 ====
[[画像:Nixon & Paul VI.gif|250px|thumb|[[リチャード・ニクソン]](左)と]]
パウロ6世は公会議を全うさせ、その理念に基づく教会改革の実施に取り組んだ。また、パウロ6世のもとでシノドス(司教会議)が初めて行われ現代にいたっている。
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教皇としてパウロ6世が1968年に発布した[[回勅]]「[[フマーネ・ヴィテ]]」は大きな論議を呼んだ。それはカトリック教会が人工的な産児制限を否定したためであった。この人工産児制限および司祭の[[キリスト教における独身制|独身性]]という二つの問題はこの時代に全世界で論議を呼び、教皇の頭を悩ませた。
 
==== 旅する教皇 ====
[[画像:Foreign trips of Paul VI.png|thumb|250px|訪れた国]]
「旅する教皇」といわれたパウロ6世は「初めて」づくしの教皇でもあった。教皇として初めて5大陸をめぐり、初めて[[飛行機]]を利用した教皇となり、初めて聖地[[エルサレム]]に足を踏み入れた教皇にもなった。
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精力的に活動し、全世界を旅したパウロ6世は第2バチカン公会議後の新しい教皇像を示した。パウロ6世は[[1978年]]に[[カステル・ガンドルフォ]]の教皇別荘で死去したが、パウロ6世の示した「現代の教皇としての姿勢」は、後継の教皇たちに引き継がれていった。
 
==== 列福 ====
パウロ6世の死から36年後の[[2014年]][[10月19日]]に、[[フランシスコ (ローマ教皇)|フランシスコ]]によって[[列福]]された。列福式には[[ベネディクト16世 (ローマ教皇)|ベネディクト16世]]も出席した<ref>[http://ja.radiovaticana.va/news/2014/10/19/%E6%95%99%E7%9A%87%E3%83%91%E3%82%A6%E3%83%AD%EF%BC%96%E4%B8%96%E3%81%AE%E5%88%97%E7%A6%8F%E5%BC%8F%E3%80%81%E3%82%B7%E3%83%8E%E3%83%89%E3%82%B9%E9%96%89%E4%BC%9A%E3%81%A8%E5%85%B1%E3%81%AB/gia-831907 教皇パウロ6世の列福式、シノドス閉会と共に]、バチカン放送局日本語版、2014年10月19日付け。</ref>。
 
== 替え玉説 ==
{{要出典範囲|いくつかの写真を提示し、鼻の形や位置、耳の形の違いによって途中から替え玉がいたのではないかと疑義を示す者がいる。中には声紋の違いを指摘する者もいる。|date=2016年12月}}
 
いくつかの写真を提示し、鼻の形や位置、耳の形の違いによって途中から替え玉がいたのではないかと疑義を示す者がいる。中には声紋の違いを指摘する者もいる。
 
== 脚注 ==
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{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:はうろ6}}
 
[[Category:教皇]]
[[Category:東西教会の分裂]]