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| 子供 = [[蜂須賀正子|正子]]
| 親 = [[蜂須賀正韶]](父)<br>[[蜂須賀筆子|筆子]](母)
| 親戚 = [[徳川家斉]](高祖父)<br>[[蜂須賀斉裕]](曾祖父)<br>[[蜂須賀茂韶]](祖父)<br>[[徳川慶喜]](祖父)<br>[[蜂須賀年子]](長姉)
| コールサイン =
| 受賞 =
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| 公式サイト =
| 補足 = [[侯爵]]( [[1933年]][[2月15日]] - [[1945年]][[7月28日]])
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'''蜂須賀 正氏'''(はちすか まさうじ、[[1903年]][[2月15日]] - [[1953年]][[5月14日]])は、[[日本]]の[[鳥類学|鳥類学者]]、[[華族]]([[侯爵]])、[[貴族院 (日本)|貴族院]]議員、[[探検家]]、飛行家。絶滅鳥[[ドードー]]研究の権威として知られた他、[[沖縄本島]]と[[宮古島]]との間に引かれた[[生物地理学]]上の線である[[蜂須賀線]]に名をとどめている。
 
== 経歴 ==
旧[[徳島藩]]主[[蜂須賀氏|蜂須賀家]]の第18代当主<ref>16代と記載がある書籍もあるが、徳島藩主としての数え方になる。家としては蜂須賀小六正勝を初代と数える。</ref>として[[東京]]に生まれる。お印は椿、後に兜。父[[蜂須賀正韶]]は[[侯爵]]、[[貴族院 (日本)|貴族院]]副議長。母[[蜂須賀筆子|筆子]]は[[徳川慶喜]]の4女。姉[[蜂須賀年子|年子]]はデザイナー。父からは、[[政治家]]になることを望まれていた。
 
[[学習院]]初等科に入った頃から生物に著しい関心を示し、先輩の[[黒田長禮]]に出会ってから[[鳥類学]]に志す。[[1919年]]、[[学習院中等科]]在学中、[[日本鳥学会]]に参加。
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== 醜聞 ==
[[1933年]][[2月3日]]、父の死去に伴って一時帰国。[[1933年]][[2月15日]]に襲爵し、貴族院議員となる(~[[1943年]][[12月9日]]まで在任)。この年、交際していた女性が自殺未遂を起こした事件で非難を浴びる。
 
自ら資格を取得して[[飛行機]]を操縦し、[[1934年]]には空路で単身[[ポーランド]]に渡るなど、豪快な行動力で人気を集めたが、派手な女性関係で顰蹙を買う。同年、財産を秘密裏に[[アメリカ合衆国|米国]]に移そうとして物議をかもしたこともあった。同年10月には、「紫式部日記絵巻」など蜂須賀家が所有する美術品の大きな売立(オークション)があり、蜂須賀家が北海道で経営する雨竜農場において長年続いた小作争議等による借財や、正氏自身の様々な「道楽」による借財等が重なっての売却であろうとみられている<ref>[http://www5f.biglobe.ne.jp/~bunkazai/100sen/hachisuka-ke.html 蜂須賀侯爵家(旧徳島藩主) 侯爵蜂須賀家御蔵品入札 昭和8年10月23日 東京美術倶楽部]静岡大学高松良幸研究室</ref>。
 
[[1935年]]に再び外遊の旅へ出発し、そのまま病気と称して米国に住みつくも、スピード違反で拘留を受ける。その後、帰国して[[静岡県]][[熱海市]]の別荘に居を構えたが、[[1943年]][[11月30日]]、品行不良ゆえに[[宮内省]]から華族礼遇停止処分を受けた。
 
[[File:Mannenyama Cemetery 34.JPG|thumb|万年山墓所の蜂須賀茂韶夫妻と正氏の墓]]
戦争末期には自家用機で日本脱出を計画して問題となったり、[[子爵]][[高辻正長]]と共謀して[[白金]]の密輸に関与した廉で[[検察]]の取調べを受けたりするなど醜聞にまみれ、「醜類有爵者」と嘲笑された。密輸の件では[[1945年]][[5月10日]]に[[国家総動員法]]違反容疑で起訴。[[1945年]][[7月28日]]、敗戦直前に[[爵位]]を返上して[[平民]]となる。戦後は、在米中に結婚した智恵子夫人との壮絶な離婚訴訟や、遺産相続の揉め事、財宝の行方不明事件、[[横井英樹]]への貸し金をめぐる訴訟などで[[週刊誌]]に数多くのゴシップを提供した。
 
[[1953年]]、日本生物地理学会の会長に就任。畢生の論文「ドードーとその一族、またはマスカリン群島の絶滅鳥について」([[1953年]])を[[北海道大学]]に提出、[[理学博士]]号を取得したが、まもなく[[狭心症]]により熱海で死去した。享年50。墓所は蜂須賀家歴代の墓所のある[[徳島市]]の[[徳島藩主蜂須賀家墓所|万年山墓地]]。法名は理光院。
 
[[東京]][[三田 (東京都港区)#二丁目|三田二丁目]]の敷地5万坪の旧邸の一部は、[[1950年]]暮に[[オーストラリア]]政府に売却され、現在[[駐日オーストラリア大使館]]<ref>1990年頃に改築されているため蜂須賀邸当時の面影はない。</ref>となっている。
 
== 家族 ==
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[[昭和]]14年([[1939年]])3月10日、永峰智恵子(日系アメリカ人永峰治之長女、[[明治]]42年([[1909年]])1月20日生 - [[平成]]8年([[1996年]])5月27日没)と入籍、結婚式の引き出物には、ドードーの絵皿が親しい友人に贈られた。長女[[蜂須賀正子|正子]](蜂須賀家19代当主、[[昭和]]16年([[1941年]])1月7日生)がいる。
 
== 顕彰 ==
*1934年(昭和9年)4月29日 勲四等瑞宝章を贈られる<ref name="n">『南の探検』復刊本年表より</ref>。
*1935年(昭和10年)3月1日 従四位に叙せられる<ref name="n"/>。
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== 著書 ==
*『埃及産鳥類』日本鳥学会 1926年
*『南の探検』千歳書房 1943年5月 詳細な解説が入り、[[平凡社ライブラリー]]で2006年に復刊[http://www.heibonsha.co.jp/author/a70072.html 復刊]。
*『世界の涯』酣灯社 1950年1月
*『密林の神秘 熱帯に奇鳥珍獣を求めて』[[法政大学出版局]] 1954年
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* 村上紀史郎 『絶滅鳥ドードーを追い求めた男 空飛ぶ侯爵、蜂須賀正氏』藤原書店 2016年7月。初の評伝
 
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{reflist}}
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* [http://www.ujssb.org/NL/pdf/NL_04.pdf 「蜂須賀正氏生誕百年記念シンポジウム」日本分類学会連合ニュースレター No.4([2003年10月31日)]
* [http://www.rotary-bunko.gr.jp/pdf/302/302_08-1.pdf 四国はおもしろい 荒俣宏講演記録]
 
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{{S-reg|jp}}
{{succession box
| title = 侯爵
| years = [[蜂須賀氏|蜂須賀家]]第3代<br />1933年 - 1945年
| before = [[蜂須賀正韶]]
| after = 爵位返上
}}
{{end box}}
{{蜂須賀家当主||1932年 - 1953年}}
{{Normdaten}}
 
{{DEFAULTSORT:はちすか まさう}}
[[Category:貴族院侯爵議員]]
[[Category:日本の探検家]]
[[Category:日本の鳥類学者]]
[[Category:ケンブリッジ大学出身の人物]]
[[Category:蜂須賀氏|まさう]]
[[Category:東京都出身の人物]]
[[Category:1903年生]]