「幽繆王」の版間の差分
削除された内容 追加された内容
m →生涯 |
編集の要約なし |
||
6行目:
[[紀元前233年]]、幽繆王は[[李牧]]を大将軍に任じて反撃に転じ、秦軍を宜安(現:河北省[[石家荘市]]南東部)で破り、秦の将軍[[桓キ|桓齮]]を討ち取った<ref>[http://www.chineseclassic.com/content/1200 卷二十一 趙策四]</ref>。この功により、幽繆王は李牧を武安君に封じた<ref>[http://www.chineseclassic.com/content/1023 趙世家第十三]</ref>。
その後も李牧は[[司馬尚]]([[司馬ゴウ|司馬卭]]の父)とともにたびたび秦軍を撃破した。苦戦した秦は李牧を排除すべく、趙の臣[[郭開]]に多額の賄賂を贈って、李牧と司馬尚が謀反を企んでいると幽繆王に讒言させた。幽繆王はこれを信じて、李牧を誅殺し、司馬尚を更迭した([[紀元前229年]])<ref>[http://www.chineseclassic.com/content/1200 卷二十一 趙策四]</ref><ref>[http://www.chineseclassic.com/content/1023 趙世家第十三]</ref>。[[趙葱]]と斉将・[[
[[紀元前228年]]、李牧誅殺の3か月後に王翦が趙葱、
その後、王は房陵に流され、趙は滅亡した。だが、趙の公子嘉(幽繆王の異母兄)は[[代郡|代]](現:河北省[[蔚県]])に逃れ、そこで自立して王を名乗った([[代王嘉]])。
|