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== 来歴 ==
チャン・シャルケンは4人兄弟の2番目の子供として生まれたが、一番上の兄は[[ダウン症候群]]を患い、下の弟は15歳の時に癌で亡くなっている。そんな家庭環境の中で育った彼は、子供の頃から壁打ちでテニスを覚え、[[1994年]]の[[1994年全米オープン (テニス)|1994年全米オープン]]でジュニア男子シングルス部門を制し、この年に18歳でプロ入りした。[[1995年]]にツアー初優勝を記録し、[[1996年]]から男子テニス国別対抗戦・[[デビスカップ]]のオランダ代表]]選手に選ばれる。
 
シャルケンは、[[2000年ウィンブルドン選手権|2000年ウィンブルドン]]3回戦で[[オーストラリア]]の[[マーク・フィリプーシス]]と対戦し、最終第5セットでは[[タイブレーク]]を行わないため(すなわち、どちらかが2ゲーム勝ち越すまで試合を続行する)、当時の大会史上最多ゲーム記録となる「83ゲーム」と試合時間5時間5分の末にフィリプーシスが 4-6, 6-3, 6-7, 7-6, →「20-18で勝利をもぎ取った。この試合が行われたウィンブルドンの2番コートは満席になり、入場できない多数の観客に取り囲まれ、場外からも見えるスコアボードの数字にどよめくほどの盛り上がりだったという。その3ヶ月後、シャルケンは[[日本]]の「[[ジャパン・オープン・テニス選手権|ジャパン・オープン]]で初優勝を飾った。
 
シャルケンの[[グランドスラム (テニス)|4大大会]]シングルス自己最高成績は、[[2002年]]の[[2002年全米オープン (テニス)|2002年全米オープン]]準決勝進出である。この1回戦で、シャルケンは[[マーク・フィリプーシス|フィリプーシス]]と対戦していたが、フィリプーシスが第4セット終了の時点で試合を途中棄権した。勢いづいたシャルケンは一気に自己最高のベスト4まで勝ち進んだが、準決勝で[[ピート・サンプラス]]に 6-7, 6-7, 2-6 のストレートで敗れた。(サンプラスは続く決勝戦で[[アンドレ・アガシ]]を破り、現役最後の試合を4大大会通算「14勝」の優勝で飾った。)[[2002年ウィンブルドン選手権|2002年]]から[[2004年ウィンブルドン選手権男子シングルス|2004年]]まで、シャルケンは[[ウィンブルドン選手権|ウィンブルドン]]で3年連続のベスト8進出を記録した。ダブルスでは、[[2001年全米オープン (テニス)|2001年全米オープン]]男子ダブルスで[[ポール・ハーフース]](同じオランダの選手)と組んでベスト4に入ったことがある。
 
チャン・シャルケンは[[2005年]]春から右アキレス腱の故障を抱え、[[2006年]]2月に[[ベルガモ]]で行われたチャレンジャー大会準決勝で[[シモーネ・ボレリ]]([[イタリア]])に4-6, 6-4, 5-7のスコアで敗れたのを最後に、翌[[2007年]]3月に30歳で現役引退を発表した。
 
[[オランダ]]のプロテニス界には“ビッグ・サーバー”タイプが多く、[[1996年]]の[[1996年ウィンブルドン選手権|ウィンブルドン]]優勝者[[リカルト・クライチェク]]や、[[2003年]]の[[2003年全仏オープン|全仏オープン]]準優勝者[[マルティン・フェルカーク]]もビッグ・サーバーである。
 
== ATPツアー決勝進出結果 ==