「ヴァロワ=ブルゴーニュ家」の版間の差分

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=== ブルゴーニュ派の頭領として ===
豪胆公の勢力拡大は当然のことながら[[フランス王国|フランス]]宮廷内で反発を招き、シャルル6世の弟[[オルレアン公]][[ルイ・ド・ヴァロワ (オルレアン公)|オルレアン公ルイ]]の許に対立する貴族が結集した。これをオルレアン派と呼ぶ。他方、豪胆公の勢力を[[ブルゴーニュ派]]と呼ぶ。
 
豪胆公の生存中はそれほど激しくは対立しなかったが、[[1404年]]に豪胆公が死去し、息子[[ジャン1世 (ブルゴーニュ公)|ジャン]]が継いでからは事態が悪化する。[[ニコポリスの戦い]]の勇名から「無怖公」の異名を得たジャンは、フランス宮廷での主導権を巡って(シャルル6世は精神を病んでいた)、伯父従兄弟に当たるオレアン公と血みどろの抗争を繰り広げた。そして[[1407年]]、レアン公[[暗殺]]することで主導権を獲得した。オルレアン派はルイの息子[[シャルル・ド・ヴァロワ (オルレアン公)|シャルル・ドルレアン]]と岳父のアルマニャック伯[[ベルナール7世 (アルマニャック伯)|アルマニャック伯ベルナール7世]]を中心に再結集し([[アルマニャック派]]と呼ばれる)、抗争を続けていく。
 
これを好機と捉えたのが[[イングランド君主一覧|イングランド王]][[ヘンリー5世 (イングランド王)|ヘンリー5世]]である。ヘンリー5世はブルゴーニュ・アルマニャック両派に工作を画策しつつ、[[ノルマンディー]]に軍を進め、[[1415年]]に[[アジャンクールの戦い]]でアルマニャック派を中心としたフランス軍を撃破し、シャルル・ドルレアンを捕虜とした。
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==== ジャンヌ・ダルクとアラスの和平 ====
オルレアン包囲に[[ジャンヌ・ダルク]]が登場したことにより、フランス側は劣勢を一気に回復し、[[ランス (マルヌ県)|ランス]]にまで軍を進め、シャルル7世は名実共にフランス王としての戴冠を果たす。善良公は自らが参加しなかったものの、使節を送り和平を画策する。シャルル7世もそうであったが、ジャンヌ・ダルクは強硬姿勢を採り、独自に北方に軍を進め、[[1430年]]の[[コンピエーニュ包囲]]でブルゴーニュ軍の捕虜となった。ジャンヌと会見した善良公は、ジャンヌをイングランドに引き渡した。ジャンヌは[[1431年]]に火刑に処せられるが、善良公は完全にイングランドを見放していた。シャルル7世の長年の工作の成果が出てきたからである。
 
それが一気に現れたのが、[[1435年]]の[[アラスの和]]である。当初はフランス・ブルゴーニュ・イングランドの三者会談であったが、イングランド使節は早々に帰国し、フランス・ブルゴーニュのみの会談となった。この会談ではシャルル7世の懐刀とも言うべき[[アルテュール3世 (ブルターニュ公)|アルテュール・ド・リッシュモン]]の工作が実り、シャルル7世と善良公の間に和平が成立したのである。内容は、ジャン無怖公殺害に関するシャルル7世側の謝罪、善良公1代限りの臣従免除、[[ピカルディ]]と[[ブローニュ]]の獲得であった。フランス・ブルゴーニュ同盟の成立にベッドフォード公は憤死した。
 
そしてフランス・ブルゴーニュ同盟の一環として、善良公とイザベルの嫡子[[シャルル (ブルゴーニュ公)|シャルル]]とシャルル7世の娘[[カトリーヌ・ド・フランス (1428-1446)|カトリーヌ]]の結婚式が[[1440年]]に行われた。