「サルバドール・アジェンデ」の版間の差分

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== 生涯 ==
=== 医師から政界へ ===
[[1908年]]にチリの港町[[バルパライソ]]に[[バスク系チリ人|バスク系]]の子孫として生まれる。[[チリ国立大学]]の[[医学部]]を卒業した後、[[チリ社会党]]結成に参加したアジェンデは、[[1938年]]に[[w:Radical Party (Chile)|急進党]]を中心とする[[人民戦線]]政府に保健大臣として入閣、その後社会党と[[チリ共産党|共産党]]の連合である「人民行動戦線」から[[1958年]]と[[1964年]]の大統領選に出馬した。
 
[[ファイル:Allende supporters.jpg|thumb|220px|right|アジェンデを支援する市民団体(1964年の選挙時)]]
1958年の大統領選では28.8%の得票を得たが、[[ホルヘ・アレッサンドリ]](独立右派)とわずか3万票、得票率で3ポイント足らずの差で当選を逃した。[[冷戦]]下、[[資本主義]]陣営の盟主を自認する[[アメリカ合衆国]]はこれを脅威と見なし、[[アメリカ中央情報局|CIA]]を通して対立候補に密かに援助を行ったという<ref>ウィリアム・ブルム「[http://www.jca.apc.org/~kmasuoka/persons/kh34.html チリ 一九六四年~一九七三年 鎚と鎌が子供の額に焼き印される]」</ref>。
 
1964年の選挙では、アジェンデは得票を39.9%まで伸ばしたものの、対立候補であり、チリを「[[進歩のための同盟]]」による開発計画のモデル国家とすることを目指していた[[エドゥアルド・フレイ・モンタルバ]]が右派の[[w:National Party (Chile, 1966)|国民党]]と中道の[[キリスト教民主党 (チリ)|キリスト教民主党]]の一致した支援を受けたため、大差での敗北となった。
 
=== 大統領就任 ===
CIAやチリ国内の[[反共主義]]勢力による執拗な[[プロパガンダ]]にも拘らず、アジェンデは[[労働者]]の男性を中心に支持を広げていた。続く大統領選挙は[[1970年]]であったが、アジェンデ政権の成立を憂慮した各勢力は、最悪の場合軍事[[クーデター]]も辞さない構えで、反共派の多いチリ軍部と接触した。しかし、[[チリ陸軍]]司令官の[[w:René Schneider|レネ・シュナイダー]](1913-1970)は[[憲法]]に則った解決を主張した。
 
[[1970年]]の大統領選挙では、国民党とキリスト教民主党がそれぞれ候補を擁立する中、アジェンデは従来の人民行動戦線から参加政党が拡大した[[人民連合 (チリ)|人民連合]]の統一候補として出馬し、得票率が対立他の2候補を僅差で上回り首位となった。憲法の規定に則り、最終決定は首位のアジェンデと次点の[[議会ホルヘ・アレッサンドリ]](国民党)による決選投票が議会で行なわれることになった。CIAと反共勢力はアジェンデ当選を阻止するためシュナイダーの排除を目論んで、CIAは軍部の反シュナイダー勢力に武器などを譲渡、シュナイダーは10月22日に[[暗殺]]された。しかし、この暗殺は完全に裏目に出ることとなった。これシュナイダー暗殺に反発した各てキリスト教民主アジェンデ支持に回ったことによりチリ153対35の大差でアジェンデが大統領に選出され、世界史上初の[[自由選挙]]による[[チリ社会党|社会党]]主義政権が成立したのである。企業や鉱山の[[国営化]]を進め、[[キューバ]]や[[ソビエト連邦|ソ連]]などの[[共産主義]]国との友好を促進した。同時期に隣国[[ペルー]]で「ペルー革命」を推進していた[[フアン・ベラスコ・アルバラード]]政権との友好関係も確立され、アジェンデはベラスコを同志として賞賛した<ref>[[増田義郎]]/柳田利夫『ペルー 太平洋とアンデスの国 近代史と日系社会』中央公論新社 1999 p.210</ref>。
 
「共産主義国は[[暴力革命]]によってしか生まれない」と認識し、また共産主義の不当性の宣伝材料としてきた[[ホワイトハウス]]にとって、選挙によって選ばれたアジェンデ政権は自説の正当性を揺るがしかねない存在であった。[[w:Richard Helms|リチャード・ヘルムズ]]CIA長官は、「おそらく10に1つのチャンスしかないが、チリを救わなければならない!……リスクはどうでもいい……1000万ドル使え、必要ならばもっと使える……経済を苦しめさせろ……」と指示し、どんな手を使ってもアジェンデ政権を打倒する姿勢を見せた。合衆国などの[[西側諸国]]は[[経済封鎖]]を発動、もともと反共的である富裕層(彼らの多くは会社・店などを経営している)は自主的に[[ストライキ]]を開始した。さらに1972年9月にCIAは物流の要であるトラック協会に多額の資金を援助しストライキをさせたほか、政府関係者を買収して[[スパイ]]に仕立て上げた。
 
加えて、アジェンデ政権の経済的失政も苦境に拍車を掛けた。当初アジェンデ政権の[[w:Pedro Vuskovic|ペドロ・ブスコビッチ]]経済相の経済政策は政府支出の拡大、国民の所得引上げによって有効需要を生み出すことにあり、そのための手段としての賃金上昇政策と[[農地改革]]が採用された。農地改革は驚異的なペースで進み、フレイ政権が6年間で収用したのと同等の農地面積が就任してから1年で収用された<ref>中川文雄/松下洋/遅野井茂雄『世界現代史34 ラテンアメリカ現代史II』山川出版社 1985 p.222</ref>。さらに、それまでチリの銅産業を支配しており、チリの税制から、チリにとって極めて不利な資本流出を起こしていたアメリカ合衆国系の[[w:Anaconda Copper|アナコンダ・カッパー・マイニング・カンパニー]]と[[w:Kennecott Utah Copper|ケネコット・カッパー・カンパニー]]などの外資系の鉱山会社が国有化され、[[コデルコ]]に統合され、チリの銅山は「[[ポンチョ]]を着て、[[拍車]]をつけ」チリの下に戻った<ref>[[エドゥアルド・ガレアーノ]]/大久保光夫訳『[[収奪された大地 ラテンアメリカ五百年]]』新評論、1986年 p.256</ref>。コデルコはその後のピノチェト時代にも新自由主義政策にもかかわらず、民営化を逃れチリの巨大な歳入源として存続した。しかし、チリ経済の実力に見合わない支出拡大により外貨準備は1971年末に3000ドルにまで減少するなど急速に底を着き、加えて合衆国による銅価格の操作や援助の削減、国際金融機関によるチリへの貸付停止措置はチリ経済に深刻な影響を与えた<ref>中川文雄/松下洋/遅野井茂雄『世界現代史34 ラテンアメリカ現代史II』山川出版社 1985 p.223</ref>。このような状況が複合的に進行した結果、民間投資は激減し、更なる資本流出が進む悪循環が生じた。
 
こうした混乱により、1971年末から野党は連合して人民連合政府を批判するようになり、さらに1972年6月には人民連合内部での路線対立が尖鋭化した。アジェンデはキリスト教民主党との妥協工作を図り、社会主義的な経済政策を追求するブスコビッチ経済相を更迭し、経済回復を重視する方針を打ち出した。しかし、経済の衰退に歯止めはかからず、チリ国内では悪性のインフレが進行し、物資が困窮し、社会は混乱した。同年9月にトラック業界のストライキが始まったが、このストは10月に入ると全国的な規模に拡大し、一ヶ月以上続くことになった。この「資本家スト」に対抗し、内戦の危機に備えてアジェンデは軍から立憲派の陸軍司令官[[w:Carlos Prats|カルロス・プラッツ]]将軍を入閣させ、11月にストを終わらせた。