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[[ジョン・ガラン]]大佐率いる[[スーダン人民解放軍]](SPLA/M)の最も初期のメンバーの一人である<ref>[http://www.sudanupdate.org/WHOSWHO/SPLAM.HTM Sudan People's Liberation Army/Movement]</ref>。[[1991年]]、ラム・アコル、ゴードン・コング・チュオルとともに分派SPLAナシル派を結成する。その後[[1993年]]から[[1994年]]までSPLA統一派に参加し、武装闘争を調整した。そしてSPLM/SPLAの見解である統一を維持した「新スーダン」路線を否定し、[[南部スーダン]]住民の[[民族自決]]権が合法であることを宣言した。
 
マチャルはイギリス出身の援助員だったエマ・マキューンと結婚したが、。第一子妊娠中だったエマは1993年、[[ナイロビ]]で自動車事故のために死亡している。
 
[[1997年]]、南スーダンの民族自決を合法化する内容を包括した[[ハルツーム和平協定]]が締結されると署名している。これによりマチャルは武装闘争派から「軟着陸」するとともに彼のグループもハルツームの政権に加わることが決定した<ref>[http://www.zoominfo.com/people/machar_riek_9899308.aspx Riek Machar]</ref>。1997年から[[2002年]]まで、[[南部スーダン国防軍]](SSDF、その後SSIM)の司令官となり、1997年8月7日から[[2000年]]1月31日まで、[[南部スーダン調整評議会]]議長兼スーダン共和国大統領補佐官を務めた。[[2005年]]8月11日から南部スーダン副大統領に就任し、2011年7月9日に南スーダン共和国として独立したことに伴い同国副大統領に就任した。