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{{出典の明記|date=2012年2月|ソートキー=はるらす______世界史}}
'''バルラス'''(Barlas)は、[[中央ユーラシア]]で活動した部族集団。漢語表記は『[[元史]]』では八魯剌思、『[[元朝秘史]]』では把<sup>舌</sup>魯剌、把<sup>舌</sup>魯剌思。『[[集史]]』などのペルシア語表記では برلاس Barlās 。
 
==モンゴル帝国時代前後==
[[チンギス・カン]]以前は[[モンゴル]]部族に属する1氏族で、『[[元朝秘史]]』によればその始祖[[カチュリ]]はモンゴル部族の始祖アラン・コアの子ボドンチャル・ムンカクの孫であったメネン・トドンの息子たちのひとりであったと伝えている。メネン・トドンの息子はカチ・クルク、カチン、カチウ、カチュラ、カチウ、カラルダイ、ナチン・バアトルの7人であった。カチウにはバラルダイという息子がおり、大きい身体の持ち主で食物に猛々しかった(baruq)ので、その子孫はバルラス部族と呼ばれた、という始祖伝説を伝えている。カチュラの息子もやはり食物に猛々しい人物だったため、カチウ家の子孫を「大バルラ(也客把<sup>舌</sup>魯剌 Yeke Barula)」、カチュラ家の子孫を「小バルラ(兀出干把<sup>舌</sup>魯剌 Üčǖgen Barula)」と名付けて、両者をあわせてにバルラス部族となったという<ref>村上正二(訳注)『モンゴル秘史 1』p45(注14)</ref>。のちのチンギス・カン家を輩出する[[キヤト氏]]族とは祖先を同じくしていたことになる。『元朝秘史』によれば、最初の[[ハーン|カン]](ハン)となった[[カブル・カン]]の兄弟で、[[ボルジギン氏]]に繋がる有力家系であった。カチュリの子孫はカブル・カンの子孫[[キヤト氏]]族に従い、キヤト氏のチンギス・カンに仕えた[[カラチャル・ノヤン]]は[[モンゴル帝国]]の[[千戸制ミンガン|千人隊長]]のひとりとなり、チンギスの次男[[チャガタイ]]の[[ウルス]](所領)に配属された。[[13世紀]]中頃にチャガタイ・ウルスが[[イリ川]]の渓谷に移るとこれに従い、さらに[[14世紀]]に[[チャガタイ・ハン国]]を形成して[[中央アジア]]の広い地域を支配するようになるとバルラス部も散らばった。他に特にバルラス部族出身者で有名な人物はいわゆる「[[四狗]](ドルベン・ノガス)」のひとり[[クビライ (バルラス部)]]がいる。
 
==ティムール朝の台頭とバルラス部族神話==
[[14世紀]]中頃、西チャガタイ・ハン国の[[シャフリサブズ]]にいたバルラス部の小貴族で、カラチャル・ノヤンの5代目の子孫にあたる[[ティムール]]は、チャガタイ・ハン国再編の動きに乗って頭角をあらわし、[[1360年]]にバルラス部の[[アミール]]となった。ティムールは[[1370年]]までに[[西トルキスタン]]の各地で割拠する諸部族を制圧して西チャガタイ・ハン国領を統一し、[[ティムール朝]]を建設する。ティムール朝は出自がバルラス部族であるから、チンギス・カンの男系子孫、いわゆるアルタン・ウルク()(黄金氏族/Altan uruγ)でなければ即位することのできないハンの地位に就くことができず、チンギス・ハーンの子孫を保護して名目上のハンに立て、自らはチンギス家の娘と結婚して王家の娘婿(アミール・キュレゲン)の資格をもとに支配の正統化を行った。
 
ティムール朝の治下では、この体制を歴史的に裏付けるためにある種の伝説もつくられた。[[年代記]]に記されたところによると、モンゴルのトゥメネイ・ハン(『元朝秘史』の[[トンビナイ・セチェン]])には、カチュリとカブルの二人の息子がおり、父のトゥメネイは弟のカブルとその子孫がハン位を継承し、兄のカチュリとその子孫はハンのもとで行政と軍事を司るように定め、二人に誓約を行わせたというものである。このようにして、カブルの子孫であるチンギス家はハンとして即位する権利をもつけれども、カブルの子孫であるティムール家が先祖の誓約に従って行政と軍事の全権を握るというものである。こうして、バルラス部のティムール家は、チンギス家に次ぐ高貴な家柄であることが主張された。
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*[[ティムール朝]]
*[[集史]]
 
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