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秦のとき長沙郡が立てられた。
[[紀元前202年]]([[劉邦|高帝]]5年)、[[呉ゼイ|呉芮]]が長沙王となり、[[呉氏長沙国|長沙国]]が立てられた<ref>『[[漢書]]』高帝紀下</ref>。[[紀元前157年]]([[文帝 (漢)|文帝]]後7年)、長沙王
[[後漢]]が建てられると、長沙郡の称にもどされた。後漢の長沙郡は臨湘・攸・
[[晋 (王朝)|晋]]のとき、長沙郡は臨湘・攸・下雋・醴陵・
[[宋 (南朝)|南朝宋]]のとき、長沙国は[[湘州]]に属し、臨湘・醴陵・瀏陽・呉昌・羅・攸・建寧の7県を管轄した<ref>『[[宋書]]』州郡志三</ref>。
[[斉 (南朝)|南朝斉]]のとき、長沙郡は臨湘・羅・湘陰・醴陵・
[[589年]]([[開皇]]9年)、[[隋]]が[[陳 (南朝)|南朝陳]]を滅ぼすと、長沙郡は廃止されて、[[潭州]]に編入された。[[607年]]([[大業]]3年)に州が廃止されて郡が置かれると、潭州は長沙郡と改称された。長沙郡は長沙・衡山・益陽・邵陽の4県を管轄した<ref>『[[隋書]]』地理志下</ref>。
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