「ミラッツォの戦い (1718年)」の版間の差分

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彼はフランス王[[ルイ14世 (フランス王)|ルイ14世]]の死後、[[フランス王国]]で権力の真空が発生したことと、オーストリアが[[墺土戦争 (1716年-1718年)|墺土戦争]]で手いっぱいだったことを利用した。しかし、1718年7月21日に[[パッサロヴィッツ条約]]で墺土戦争が終結、8月2日には反スペインの四カ国同盟がオーストリア、[[グレートブリテン王国]]、[[ネーデルラント連邦共和国]]、フランスの間で成立した。
 
8月11日、[[パッサロ岬の海戦 (1718年)|パッサロ岬の海戦]]で[[ジョージ・ビング (初代トリントン子爵)|サー・ジョージ・ビング]]率いるイギリス艦隊が宣戦布告せずにスペイン艦隊に攻撃、壊滅させた。10月13日、このイギリス艦隊は[[ナポリ]]においてオーストリアからの副王[[ヴィリッヒ・フィリップ・ロレンツ・フォン・ダウン]]が編成したオーストリア軍を載せて[[ミラッツォ]]近くで上陸させ、スペイン軍による包囲を解こうとした。これにより10月15日に戦闘が生起した。
 
== 戦闘 ==
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== その後 ==
オーストリア軍は死傷者1,500人と捕虜300人の損害を出し、スペイン軍は死傷者1,500人と捕虜200人の損害を出した<ref name="Chandler305" />。スペイン軍は[[メッシーナ]]を占領したが、レーデ侯爵はこの機会に乗じてオーストリア軍を[[シチリア島]]から追い出すことをしなかったため、オーストリア軍はミラッツォ近くの橋頭堡を維持した。この橋頭堡と[[パッサロ岬の海戦 (1718年)|パッサロ岬の海戦]]で制海権を握ったことにより、オーストリア軍は翌年にさらに軍を派遣、[[フランカヴィッラの戦い]]でスペイン軍と再び戦った。
 
== 脚注 ==