「ルイ14世 (フランス王)」の版間の差分

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ルイ14世は多彩な文化的背景の生まれで、父方の祖父母はアンリ4世と[[フィレンツェ]]出身の[[マリー・ド・メディシス]]、母方の祖父母はスペイン王の[[フェリペ3世 (スペイン王)|フェリペ3世]]とオーストリア出身の[[マルガレーテ・フォン・エスターライヒ (スペイン王妃)|マルガレーテ・フォン・エスターライヒ]]である。彼は「ルイ・デュードネ」(''Louis-Dieudonné''、神の賜物の意)の洗礼名を授かった。そして、「フランスの長男」(''premier fils de France'' )及び、より伝統的な[[ドーファン]](王太子)の称号を受けた。
 
ルイ13世とアンヌは[[1640年]]にもう一人の男子[[フィリップ1世 (オルレアン公)|フィリップ]]をもうけている。だが、ルイ13世は王妃を信用しておらず、自らの死後に王妃が国政に影響力を持つことを防ごうして、摂政諮問会議の設置を遺言した<ref>[[#長谷川 2002|長谷川 2002]],pp.103-104;[[#吉田 1978|吉田 1978]],p.8.</ref>。[[1643年]][[5月13日]]にルイ13世が41歳で死去すると、僅か4歳のルイ14世が即位して母后アンヌが摂政となった。だが、摂政アンヌとマザランは[[高等法院 (フランス)|パリ高等法院]]の支持を受け、ルイ13世の遺言を破棄して摂政諮問会議を廃止してしまう<ref>[[#吉田 1978|吉田 1978]],p.10.</ref>。アンヌはマザランを摂政会議の座長(実質的な宰相)に抜擢して全権を委ねた<ref>[[#長谷川 2002|長谷川 2002]],pp.104-105.</ref>。マザランは有能な政治家ではあったが、一方で貪欲なまでに私財を蓄える癖があり、財政逼迫によって苦しめられていたフランスの民衆も貴族もスペイン人の摂政太后とイタリア人(フランスに帰化はしていた)の枢機卿を憎んでいた<ref>[[#吉田 1978|吉田 1978]],pp.17-18;[[#成瀬 1968|成瀬 1968]],p.205.</ref>。
 
=== マザラン枢機卿の執政とフロンドの乱 ===