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| 出典の明記 = 2016年10月
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{{基礎情報 君主
| 人名 = ボリス・ゴドゥノフ
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| 父親 = フョードル・イヴァノヴィチ・ゴドゥノフ
| 母親 = ステパニダ・イヴァノヴナ
| 出生日 = [[15521551年]]
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| 死亡日 = [[1605年]][[4月13日]]
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'''ボリス・ゴドゥノフ'''([[ロシア語]]:Бори́с{{Lang-ru|Бори́с Фёдорович Годуно́в / [[英語]]:Boris}}、{{Lang-en|Boris Fyodorovich Godunov, }}、[[15521551年]] - [[1605年]][[4月23日]]/[[ユリウス暦]][[4月13日]])は、[[モスクワ・ロシア・ツァーリ国]]の[[ツァーリ]](在位:[[1598年]] - [[1605年]])。
 
'''ボリス・ゴドゥノフ'''([[ロシア語]]:Бори́с Фёдорович Годуно́в / [[英語]]:Boris Fyodorovich Godunov, [[1552年]] - [[1605年]][[4月23日]]/[[ユリウス暦]][[4月13日]])は、[[モスクワ・ロシア]]の[[ツァーリ]](在位:[[1598年]] - [[1605年]])。
 
__TOC__
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== 生涯 ==
=== 権力の掌握 ===
[[ファイル:Feodor I of Russia - Project Gutenberg eText 20880.jpg|thumb|rught|200px|フョードル1世]]
ボリスは[[コストロマ]]地方の下級貴族の出身で、先祖は14世紀に[[モスクワ大公国]]に臣従した[[タタール]]といわれる。
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さらに[[1588年]]までに大貴族の{{仮リンク|イヴァン・ペトローヴィチ・シュイスキー|ru|Шуйский, Иван Петрович|label=イヴァン・シュイスキー}}や[[ヴァシーリー4世|ヴァシーリー・シュイスキー]]などのライバルを一掃し、以後は単独で国政を指導しすることとなった。
 
=== 皇弟ドミトリーの死 ===
[[Imageファイル:Boris Godunov.jpg|thumb|left|200px|ボリス・ゴドゥノフ]]
[[ファイル:1899. Tzarevich Dmitry by M. Nesterov.jpg|thumb|right|200px|ドミトリー]]
[[1591年]]、フョードル1世の異母弟[[ドミトリー・イヴァノヴィチ (ウグリチ公)|ドミトリー]]が謎の死を遂げると、ボリスはヴァシーリー・シュイスキーにその死因調査を命じた。
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ただ、ボリスが関与したという話は確固とした証拠がなかったため、この時点では彼にさほど影響を与えなかった。
 
=== 摂政としての政治 ===
[[Imageファイル:Fyodor&boris.jpg|thumb|left|250px|ボリス・ゴドゥノフとフョードル1世。その治世はボリスが全権を握っていた。]]
[[Fileファイル:Baidana rings.JPG|thumb|right|200px|ボリス・ゴドゥノフの鎧]]
外交面では[[イングランド]]と友好を強め、[[1590年]]からの{{仮リンク|ロシア・スウェーデン戦争 (1590年 - 1595年)|en|Russo-Swedish War (1590–95)|label=ロシア・スウェーデン戦争}}に勝利して[[フィンランド湾]]沿岸部を回復した。
 
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ボリスは農民の移動制限などで対処したが、効果は出なかった。南部や東部へ大量に逃亡・移住した農民やコサックを、国家はうまく管理出来なかった。
 
=== 即位とその治世 ===
[[Fileファイル:Sergei Prokudin-Gorskii - Feodor Chaliapin as Boris Godunov.jpg|thumb|rihgt|200px|頭を抱えるボリス・ゴドゥノフ。彼は7年間ロシアを統治したが、その治世は混乱を極めた。]]
[[fileファイル:Godunov tsar.jpg|thumb|left|200px|ボリス・ゴドゥノフの即位]]
{{main|動乱時代}}
1598年[[1月]]、男子のないフョードル1世が崩じて[[リューリク朝]]が絶えると、摂政で義兄のボリスが[[ゼムスキー・ソボル|全国会議]]でツァーリに選出された。また、ボリスが貴族会議による権限制約を拒むと、[[リューリク]]の流れをくまないボリスは帝位を受ける出自でない、と貴族から反発が挙がった。そのため、ボリスは[[フィラレート (モスクワ総主教)|フョードル・ロマノフ]]ら主だった有力貴族を失脚させ、反対派を力で抑え込んだ。
 
[[Fileファイル:Nikolay Ge 029.jpeg|thumb|left|250px|ボリスはドミトリーの死について確認するため、その母[[マリヤ・ナガヤ]]を召還した。]]
おまけにボリスの治世には災害が頻発し、凶作や飢餓、疫病は各地で猛威をふるうなど不運だった({{仮リンク|ロシア飢饉 (1601年-1603年)|en|Russian famine of 1601–1603|label=ロシア大飢饉}})。ボリスは対策を立てたものの、農民や逃亡奴隷は暴動をおこし、国内は機能停止状態に追い込まれ、政府の対応策は全く意味をなさなかった([[動乱時代]])。
 
[[1604年]]、死亡したはずの皇子ドミトリーを名乗る若者が現れ、[[ポーランド人]]やコサック、不満分子を従えて反乱を起こした。ボリスはこれを「[[偽ドミトリー1世|偽ドミトリー]]」と呼んだが、この偽ドミトリーは国内の多くの人々に本物の皇子と信じられ、反体制派は彼を主君と仰いだ。自称ドミトリーへの支持が全国に広がるなか、既に体調が悪化していたボリスは[[1605年]][[4月]]に急死し、息子のフョードルが[[フョードル2世]]としてツァーリに即位した。
 
== 人物像 ==
[[ファイル:Godunov map.jpg|thumb|right|200px|息子フョードルの勉強を見るボリス]]
[[Fileファイル:Усыпальница Годуновыхъ.jpeg|thumb|left|200px|ボリス・ゴドゥノフの墓所(息子のフョードル2世も眠っている)]]
ボリス・ゴドゥノフは黒髪で長身と端正な容貌の持ち主で、猜疑心が強い性格だったらしい。
 
また、ボリスは西欧の文化に心酔しており、娘クセニヤや息子フョードルには西洋志向の高度な教育をうけさせ、イギリス貴族を子供たちの結婚相手にしようと考えていた時期もあった。
 
そのため、[[19世紀]]始めの歴史家[[ニコライ・カラムジン]]からは「[[オリバー・クロムウェル|クロムウェル]]のような性質の持ち主」と評されている。
 
その生涯を扱った作品としては、[[アレクサンドル・プーシキン|プーシキン]]の史劇『ボリス・ゴドゥノフ』と、それに着想を得た[[モデスト・ムソルグスキー|ムソルグスキー]]は同名の[[歌劇]]『[[ボリス・ゴドゥノフ (オペラ)|ボリス・ゴドゥノフ]]』を作しており、これが現在では代表的である。
 
== ドミトリーの殺害に関して ==
[[ファイル:Dmitrij church Uglich 9696.jpg|thumb|250px|ドミトリーの「殺害現場」に建てられた、血の上のドミトリー皇子教会]]
ボリス・ゴドゥノフがフョードル1世の弟ドミトリーを暗殺したという説は、ドミトリーの死後すぐに人々の間で噂され、[[オペラ]]の題材にされるなど300年以上にわたり信じられてきた。
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== 文学作品 ==
* [[アレクサンドル・プーシキン|プーシキン]]『{{仮リンク|ボリス・ゴドゥノフ (プーシキン)|en|Boris Godunov (play)|label=ボリス・ゴドゥノフ}}』([[1831年]])
 
== 関連項目 ==
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[[Category:ゴドゥノフ家]]
[[Category:動乱時代]]
[[Category:15521551年生]]
[[Category:1605年没]]