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なお個々の年度の石高は史料によって異なり、例えば元禄7年(1694年)の天領総石高は、『癸卯日記』所収の「御取箇辻書付」では395万5560万石余とあるのに対し、『近藤重蔵遺書』所収の「御蔵入高並御物成元払積書」では418万1000石余と20万石以上の差がある。また天保9年(1838年)の天領総石高は『癸卯日記』所収の「御取箇辻書付」では419万4210石余とあるのに対し、『天保九年戌年御代官並御預所御物成納払御勘定帳』では419万1968石6斗5升8合9勺9才、天保12年(1841年)の天領総石高は『癸卯日記』所収の「御取箇辻書付」では416万7613石余とあるのに対し、同じ向山誠斎の著作である『丙午雑記』所収の「天保十二丑地方勘定下組帳」では412万2044石3斗0升8合9勺8才と、微妙に数字が異なる。
 
以下に『大河内家記録』と『癸卯日記』所収の「御取箇辻書付」による天領の石高・年貢高の変遷の詳細を示す。譜代の大名や旗本への加増・改易・減封や臨時の役知の支払いは天領を切り崩して行われるため、天領の所領・石高は年度毎に必ず変動する。<ref name=Ono>大野瑞男, 『江戸幕府財政史論』, 吉川弘文館, 1996年.</ref>。
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|+「御取箇辻書付」による天領総石高・年貢高の変遷(慶安4年(1651年)~天保13年(1842年))
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::註:慶安4年(1651年)~承応2年(1653年)分は「関東分御勘定帳無之」とあり、上方分のみの集計かつ年貢の米納・金納の内訳不明。承応3年(1654年)、明暦元年(1655年)分は「御勘定帳無之」とあり、石高・年貢高不明。明暦2年(1656年)、寛文元年(1661年)、延享元年(1673年)、延享2年(1674年)分は「上方御勘定帳無之」とあり、関東分のみの集計。元禄9年(1696年)~正徳元年(1711年)分は「内訳無之」とあり年貢の米納・金納の内訳不明。享保元年(1716年)分は大河内家記録では米112万7189石余となっている。享保3年(1718年)分は大河内家記録では米107万4003石余、金11万5170両余となっている。天保13年(1842年)の分は[[勝海舟]]編『吹塵録』所収「天保十三年全国石高内訳」により、年貢高は不明。
 
日本全国の総石高に占める領の割合は、慶長10年(1605年)にける日本全国の総石高2217万1689石余に対して推定230~240万石であり、10.4~10.8%となる。また元禄10年代(1697年~1703年)の全国の石高(元禄国絵図・郷帳高)2578万6929石余おい対し約400万石であり、15.5%となる。<ref name=Ono/>さらに天保期における日本の天保年間の総石高([[内(天保国絵図・郷帳]]))[[琉球]]を含めて3055万8917石余と算出されているが、勝海舟編『吹塵録』所収「天保十三年全国石高内訳」によると、1842年([[天保]]13年)の天領は総石高の1413.7%に当たる420万石弱を占めた。
{|class="wikitable" style="text-align:right"
|+天領全国類別石高(天保13年)
!類別
!石高
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|style="text-align:left"|'''禁裏仙洞御料''' - [[天皇]]・[[太上天皇|上皇]]・[[女院]]御料地||4万0247石余||0.1
|-
|style="text-align:left"|'''御料所高''' - 幕府直轄領(天領)||419万1123石余||13.7
|-
|style="text-align:left"|'''万石以上総高''' - [[藩|大名領分]]||2249万9497石余||73.6
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;注釈
{{reflist|group=注}}
 
== 天領の内訳の変遷 ==
徳川の関東入国直後には、直轄領は関東総奉行や代官頭によって支配されていたが、慶長年間に関東総奉行や代官頭が消滅後は、その配位下の[[代官]]・手代衆が昇格して天領支配を担当するようになった。天領の管轄は当初江戸(関東)と京都・大坂(上方)に二分されていたが、寛永19年(1642年)に勘定頭が設置されると、司法・行政区域が統一され、地方の支配組織は老中→勘定奉行→[[郡代]]・代官への系統へと整備されるようになった。また江戸時代の当初から遠隔地の都市・港・鉱山には[[遠国奉行]]が置かれていたが、こらも[[老中]]支配下に統合された。