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同年11月10日から12月15日にかけて開かれた党中央工作会議と、その直後の12月18日から22日にかけて開催された[[中国共産党第十一期中央委員会第三回全体会議|第11期3中全会]]において文化大革命が否定されるとともに、「社会主義近代化建設への移行」すなわち[[改革開放]]路線が決定され、歴史的な政策転換が図られた。また、1976年の第一次天安門事件の再評価が行われ、周恩来の追悼デモは四人組に反対する「偉大な革命的大衆運動」とされた。鄧小平はこの会議で中心的なリーダーシップを発揮し<ref>天児慧『巨龍の胎動 毛沢東VS鄧小平』、247ページ。</ref>、事実上中国共産党の実権を掌握したとされる。この会議の決議内容が発表されたときは全国的な歓喜の渦に包まれたという逸話が残っている。
[[ファイル:Carter DengXiaoping.jpg|left|200px|thumb|[[ジミー・カーター]](右)と(1979年の訪米にて)]]
[[1979年]]1月1日に米中国交が正式に樹立されると、鄧小平は同28日から2月5日にかけて訪米。首都[[ワシントンD.C.]]で大統領[[ジミー・カーター]]との会談に臨んだ後、[[ヒューストン]]、[[シアトル]]、[[アトランタ]]などの工業地帯を訪れ、ロケットや航空機、自動車、通信技術産業を視察。前年の日本とこの訪米で立ち遅れた中国という現実を直視した鄧は改革開放の強力な推進を決意、同年7月、党中央は深圳市など4つの経済特別区の設置を決定する。
 
鄧小平が推進する経済改革は、民主化を求める風潮をも醸成した。この風潮を利用して、鄧小平は華国鋒の追い落としを目論む。華国鋒は「[[二つのすべて]]」と呼ばれる教条主義的毛沢東崇拝路線を掲げていたが、これを批判する論文が、鄧小平の最も信頼する部下である[[胡耀邦]]らにより[[人民日報]]、[[解放軍報]]、[[新華社通信]]に掲載されたのを機に、国家的な論争に発展。北京には「民主の壁」とよばれる掲示板が現れ、人民による自由な発言が書き込まれた。その多くは華国鋒体制を批判し、鄧小平を支持するものであった。華国鋒は追いつめられ、前述の1978年12月の党中央工作会議において毛沢東路線を自己批判せざるを得なくなり、党内における指導力を失っていった。最終的に華国鋒は[[1981年]]6月の第11期6中全会において[[中国共産党中央委員会主席|党中央委員会主席]]兼中央軍事委員会主席を解任され、胡耀邦が党主席(1982年9月以降、[[中国共産党中央委員会総書記|党中央委員会総書記]]<ref>1982年9月に開催された第12回党大会における党規約改正で党主席制が廃止され、党の最高ポストとして中央委員会総書記が設置された。</ref>)に就任し、鄧小平が党中央軍事委員会主席に就任した。前年の[[1980年]]には鄧小平の信頼厚い[[趙紫陽]]が[[国務院総理]](首相)に就任しており、ここに鄧小平体制が確立した。