鄧小平

中華人民共和国の政治家。第2代中華人民共和国最高指導者
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鄧 小平(とう しょうへい、簡体字:邓小平、繁体字:鄧小平、英語:Deng Xiaopingトン・シャオピン1904年8月22日 - 1997年2月19日)は、中華人民共和国政治家。同国第2代最高指導者1978年12月22日 - 1989年11月9日)。

鄧小平
鄧小平
Deng Xiaoping
Deng Xiaoping and Jimmy Carter at the arrival ceremony for the Vice Premier of China. - NARA - 183157-restored(cropped).jpg
1979年

任期 1982年9月12日1987年11月2日
党総書記 胡耀邦
趙紫陽

任期 1981年6月29日1989年11月9日
党総書記 胡耀邦
趙紫陽

任期 1983年6月6日1990年3月19日
国家主席 李先念
楊尚昆

任期 1978年3月8日1983年6月17日
国家主席 廃止

任期 1975年1月17日1976年4月7日
1977年7月16日1980年9月10日
最高指導者 華国鋒
鄧小平
内閣 周恩来内閣
華国鋒内閣

任期 1956年9月28日1968年10月31日
最高指導者 毛沢東

任期 1952年8月7日1954年9月27日
最高指導者 毛沢東

中華人民共和国の旗 中華人民共和国
国務院副総理
任期 1953年9月18日1954年6月19日
最高指導者 毛沢東

任期 1954年9月27日[1]1968年10月31日
1973年3月10日1975年1月17日
最高指導者 毛沢東

任期 1973年12月12日1976年4月7日
1977年7月16日1980年3月2日
最高指導者 毛沢東
華国鋒
鄧小平

出生 (1904-08-22) 1904年8月22日
清の旗 大清国 四川省広安県(現在の広安市
死去 1997年2月19日(1997-02-19)(92歳)
中華人民共和国の旗 中華人民共和国 北京市 中国人民解放軍総医院
政党 Flag of the Chinese Communist Party (Pre-1996).svg 中国共産党
出身校 モスクワ中山大学
配偶者 卓琳
子女 5人
親族 鄧樸方(長男、全国政協副主席)
鄧小平
各種表記
繁体字 鄧小平
簡体字 邓小平
拼音 Dèng Xiǎopíng
和名表記: とうしょうへい
英語名 Deng Xiaoping
各種表記(本名)
繁体字 先聖せんせい
簡体字 邓先圣
拼音 Dèng Xiānshèng
和名表記: とうせんせい
英語名 Deng Xiansheng
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改革開放一人っ子政策などで毛沢東時代の政策を転換し、現代の中華人民共和国の路線を築いた。

生涯編集

1904年8月22日に清の四川省広安県にて、裕福な客家系地主の家庭に誕生する。初めは鄧先聖と名付けられ、幼時には鄧希賢きけん(私塾での学名)も用いる[2]。ちなみに鄧小平は16歳で故郷を出た後、死ぬまで1度も帰郷する事は無かった。

フランス留学時代編集

1920年に16歳の時にフランスに留学する。第一次世界大戦後の労働力不足に応じた「勤工倹学」という形の苦学生であった。

鄧が留学した時代のフランスは第一次世界大戦直後の不景気だったため、パリから遠く離れた市立中等校に入学して節約に励むが、生活費を稼ぐために半年で学校を辞め、工員・ボーイ・清掃夫など、職を転々と変えながらも堅実に貯金して、1922年10月に再び田舎町の市立中等学校に入学して3か月間学んだのち、パリ近郊のルノーの自動車工場で工員として勤務する。

フランス留学中の1922年に中国少年共産党に入党し、機関誌の作成を担当。「ガリ版博士」とあだ名される。1925年中国共産党ヨーロッパ支部の指導者となったため、フランス政府に危険分子と見なされ、フランスでの居心地が悪くなり、鄧小平がパリを出発した数日後、フランスの警察が鄧小平のアパートを捜査に入り、2月後に国外追放令を出されていた。

ソ連への留学と帰国編集

1926年ソビエト連邦モスクワに渡り、東方勤労者共産大学モスクワ中山大学共産主義を学ぶ。モスクワ中山大学では当時同じ中国共産主義青年団に所属していた蔣介石の長男で後の中華民国総統である蔣経国と知り合って友人となった[3][4][5][6][7]

1927年に帰国してゲリラ活動を開始した。紅七軍を政治委員として指揮するが、冒険的で無計画な李立三路線に振り回される。1931年には蜂起したものの根拠地を失った部隊と共に毛沢東率いる江西ソヴィエトに合流し、瑞金県書記となる。しかし、コミンテルンの指令に忠実なソ連留学組が多数派を占める党指導部は、農村でのゲリラ戦を重視する毛沢東路線に従う鄧小平を失脚させる。

1935年周恩来の助力で中央秘書長に復帰し、長征に参加して八路軍一二九師政治委員となる。この後、華北方面での抗日ゲリラ戦を戦う。1946年以降に国民党と戦った国共内戦では、淮海戦役・揚子江渡河作戦で第2野戦軍政治委員などをつとめ、大きな戦果を収める。1949年の中華人民共和国の成立後も西南部の解放戦を指導し、解放地域の復興に努める。

1952年に毛沢東により政務院副総理に任命され、翌1953年には財政部長(大臣)を兼任する。1954年9月に政務院が国務院に改組されると、引き続き副総理を務める。1955年4月、第7期党中央委員会第5回全体会議(第7期5中全会)において中央政治局委員に選出。さらに1956年の第8期1中全会で党中央政治局常務委員に選出されて党内序列第6位となり、中央書記処総書記として党の日常業務を統括することとなる。

1957年には総書記として反右派闘争の指揮を取る。約55万人が迫害を受け、毛沢東の死後にその99%以上が冤罪であったと認められた事件であった[8]。しかし、鄧小平は、毛沢東の指揮した大躍進政策の失敗以降、次第に彼との対立を深めていく。大躍進政策失敗の責任を取って毛沢東が政務の第一線を退いた後、総書記の鄧小平は国家主席の劉少奇とともに経済の立て直しに従事した。この時期には部分的に農家に自主的な生産を認めるなどの調整政策がとられ、一定の成果を挙げていったが、毛沢東はこれを「革命の否定」と捉えた。その結果、文化大革命の勃発以降は「劉少奇主席に次ぐ党内第二の走資派」と批判されて権力を失うことになる。

1968年には全役職を追われ、さらに翌年、江西省南昌に追放された。「走資派のトップ」とされた劉少奇は文化大革命で死を遂げるが、鄧小平は「あれはまだ使える」という毛沢東の意向で完全な抹殺にまでは至らず、党籍だけは剥奪されなかった。南昌ではトラクター工場や農場での労働に従事するが、与えられた住居には暖房設備もなく、強制労働は過酷なもので、鄧は何度か倒れたが砂糖水を飲んで凌ぐことしか許されなかった。

1973年3月に周恩来の復活工作が功を奏し、鄧小平は党の活動と国務院副総理の職務に復活し、病身の周恩来を補佐して経済の立て直しに着手する。同年8月の第10回党大会で中央委員に返り咲き、12月には毛沢東の指示によって党中央委員会副主席中央軍事委員会副主席、中国人民解放軍総参謀長となり、政治局を統括。1974年4月、国際連合の資源総会に中国代表団の団長として出席し、演説。その際訪れたニューヨークの威容に驚嘆し、国家発展のためには製鉄業の拡充が急務と考え、新日本製鐵(新日鉄)などから技術導入を図る。1975年1月、国務院常務副総理(第一副首相)に昇格し、周恩来の病気が重くなると、党と政府の日常業務を主宰するようになる。

着々と失脚以前の地位を取り戻して行ったかに見えたが、1976年1月8日に周恩来が没すると、鄧小平の運命は暗転する。前年から行われていた「教育革命キャンペーン」は、悔い改めない走資派(暗に鄧小平を示す)を狙ったものだと党機関紙や人民日報が伝えると、北京大学を始めとした各大学の壁新聞は鄧小平批判で溢れるようになった[9]。さらに清明節の4月4日から5日未明にかけて、江青四人組が率いる武装警察や民兵が、天安門広場で行われていた周恩来追悼デモを弾圧(第一次天安門事件)するとデモは反革命動乱と認定され、鄧小平はこのデモの首謀者とされて再び失脚、全ての職務を剥奪された。しかし、党籍のみは留められ、広州軍区司令員の許世友に庇護される。同年9月に毛沢東が死去すると、後継者の華国鋒を支持して職務復帰を希望し、四人組の逮捕後、1977年に三度目の復活を果たす。

実権の掌握編集

 
王稼祥(左)毛沢東(中央)と(1959年)

1977年7月の第10期3中全会において、党副主席、国務院常務副総理、中央軍事委員会副主席兼人民解放軍総参謀長に正式に復帰。翌8月に開催された第11回党大会において、文化大革命の終了が宣言される。鄧小平は文革で混乱した人民解放軍の整理に着手するとともに、科学技術と教育の再建に取り組み、同年、全国普通高等学校招生入学考試を復活させる。

1978年10月、日中平和友好条約の批准書交換のため、当時は副総理だったが、事実上の中国首脳として初めて訪日して福田赳夫首相らに歓待され、中国の指導者としては初めて昭和天皇と会見した。ロッキード事件の渦中にあった田中角栄の私邸を田中の日中国交正常化の功績を称えるべく訪れた他、日本社会党公明党民社党新自由クラブ社会民主連合日本共産党といった野党6党の代表と会談して自らを不老不死霊薬を求めて来日した徐福に擬えた[10]千葉県君津市新日鉄君津製鉄所を訪れて上海の宝山製鉄所への協力を仰ぎ、東海道新幹線に乗った際はその速さに驚嘆し、パナソニックでは工場建設を呼びかけ、日産自動車の整然と作業する産業用ロボットに感銘を受ける[11]など先進技術、施設の視察を精力的に行い、京都奈良にも訪れた。この日本訪問で鄧小平が目の当たりにした日本の経済力、特に科学技術での躍進振りは、後の改革開放政策の動機になったとされる。

同年11月10日から12月15日にかけて開かれた党中央工作会議と、その直後の12月18日から22日にかけて開催された第11期3中全会において文化大革命が否定されるとともに、「社会主義近代化建設への移行」すなわち改革開放路線が決定され、歴史的な政策転換が図られた。また、1976年の第一次天安門事件の再評価が行われ、周恩来の追悼デモは四人組に反対する「偉大な革命的大衆運動」とされた。鄧小平はこの会議で中心的なリーダーシップを発揮し[12]、事実上中国共産党の実権を掌握したとされる。この会議の決議内容が発表されたときは全国的な歓喜の渦に包まれたという逸話が残っている。

 
ジミー・カーター(左)やリチャード・ニクソン(中央)と(1979年の訪米にて)

1979年1月1日にアメリカ合衆国との国交が正式に樹立されると、鄧小平は同28日から2月5日にかけて訪米。首都ワシントンD.C.アメリカ合衆国大統領ジミー・カーターとの会談に臨んだ後、ヒューストンシアトルアトランタなどの工業地帯を訪れ、ロケットや航空機、自動車、通信技術産業を視察。前年の訪日とこの訪米で科学技術において立ち遅れた中国という現実を直視した鄧は改革開放の強力な推進を決意した。同年7月、党中央は香港に隣接する広東省深圳をはじめとする経済特区を設置した。この外資導入による輸出志向型工業化政策は、その後、きわめて大きな成果を収めた。この彼のプラグマティズムは「白猫であれ黒猫であれ、鼠を捕るのが良い猫である」(中国語: 不管黑猫白猫,捉到老鼠就是好猫)という「白猫黒猫論」[13]に表れている。しかし、この改革開放はかつての中体西用のように政治的には体制の改革を避け、経済的にはかつての広東システムのように一部地域に限った管理貿易で全面的なものではなく、その二面性は「窓を開けば、新鮮な空気とともにハエも入ってくる」(中国語: 打開窗戶,新鮮空氣和蒼蠅就會一起進來)という発言にも表れている[14]

1979年2月にはベトナム戦争時代の同盟国で毛沢東およびホー・チ・ミン死後にソ越友好協力条約を結んでソ連に接近したベトナムが中国に友好的な民主カンプチアポル・ポト政権をベトナム・カンボジア戦争で打倒したことに対して懲罰として中越戦争を開始。この戦争は人民解放軍の撤退で終わったものの朝鮮戦争以来の中国の大規模な軍事作戦であり[15]、この戦争を主導したことは中国国内の権力闘争で鄧小平に有利に働いたとも評されている[16]。毛沢東の後継者である華国鋒は「二つのすべて」と呼ばれる教条主義的毛沢東崇拝路線を掲げていたが、これを批判する論文が、鄧小平の最も信頼する部下である胡耀邦らにより人民日報解放軍報新華社通信に掲載されたのを機に、国家的な論争に発展。北京には「民主の壁」とよばれる掲示板が現れ、人民による自由な発言が書き込まれた。その多くは華国鋒体制を批判し、鄧小平を支持するものであった。華国鋒は追いつめられ、前述の1978年12月の党中央工作会議において毛沢東路線を自己批判せざるを得なくなり、党内における指導力を失っていった。最終的に華国鋒は1981年6月の第11期6中全会において党中央委員会主席兼中央軍事委員会主席を解任され、胡耀邦が党主席(1982年9月以降、党中央委員会総書記[17])に就任し、鄧小平が党中央軍事委員会主席に就任した。前年の1980年には鄧小平の信頼厚い趙紫陽国務院総理(首相)に就任しており、ここに鄧小平体制が確立した。

1980年に鄧小平体制はソ連との軍事同盟である中ソ友好同盟相互援助条約を破棄させ[18]ソ連のアフガニスタン侵攻に抗議してモスクワオリンピックをボイコットしてアフガニスタンソ連軍と戦っていたムジャヒディンへの支援も行い[19]、米国の1984年ロサンゼルスオリンピックへの参加を決定し[20]、カーターの後任で保守右派ロナルド・レーガン大統領とも友好関係を築いて米中の軍事協力などを推し進めた[21][22][23]。カンボジアから再び中国に亡命してきたノロドム・シハヌークを保護し[24]、鄧小平はシハヌークにクメール・ルージュと2度目の共同戦線を組むことを迫って1981年9月4日にポル・ポトとシアヌークおよび親米右派のソン・サンの反ベトナム三派による民主カンプチア連合政府(CGDK)英語版を創設させてカンボジア内戦を長期化させた[25][26]。この内戦により、民主カンプチア連合政府を支援したASEAN諸国と中国を関係改善させることに鄧小平は成功した[27]

1984年3月には訪中した当時の中曽根康弘首相は鄧小平ら中国指導部と会談して第二次円借款の実施や中日友好病院日中青年交流センター設置などで一致し、鄧小平は経済協力の拡大を呼びかけ[28]、沿海部の経済特区指定も重なり、これ以降日本の対中直接投資は本格化する。一方で当時の胡耀邦総書記と比較して鄧小平は靖国神社問題などで日本に批判的であり、全国に日本の中国侵略の記念館・記念碑を建立して愛国主義教育を推進するよう指示を出して南京大虐殺紀念館をつくらせた[29]

1984年12月には、鄧小平とモスクワ中山大学の同窓生だった中華民国台湾)の蔣経国に提案していた「一国二制度」構想のもと、イギリス植民地であった香港の返還に関する合意文書に、首相マーガレット・サッチャー(当時)とともに調印している。当時イギリス政府とともに香港社会に影響力を持っていた黒社会三合会)は中国が本土と同様に取り締まり強化や中国の刑法の厳格な死刑適用を行う可能性を危惧したが、鄧小平は「黒社会も真っ黒ではない、愛国者も多い」(黑社會並不都黑,愛國的還是很多)と香港の暗黒街を容認する姿勢を述べて中華人民共和国公安部もこれに追従した[30][31]。蔣経国とはシンガポール首相のリー・クアンユーや香港の商人で密使の沈誠らを通じて交渉を行い[32]1985年7月には香港などを介した大陸との間接貿易を台湾に事実上解禁させることに成功し(公式には1990年10月からで、対中直接投資は1992年9月に解禁)、1987年11月には三親等以内の大陸親族への訪問の容認を引き出した。

中ソ和解と第二次天安門事件編集

1986年、反右派闘争などで冤罪となった人々の名誉回復に取り組む総書記の胡耀邦、国務院総理の趙紫陽(いずれも当時)らに対する談話で「自由化して党の指導が否定されたら建設などできない」「少なくともあと20年は反自由化をやらねばならない」と釘を刺した[33]。翌1987年、政治体制改革をめぐって改革推進派の胡耀邦と対立し、胡を失脚させる。しかし、鄧は政治改革に全く反対だというわけではなかった。第一次国共内戦期から党に在籍し、「革命第一世代」と呼ばれた老幹部たちを、自身も含めて党中央顧問委員会へ移して政策決定の第一線から離すなどの措置をとった。ただし、鄧自身は党内序列1位には決してならなかったものの、党中央軍事委員会主席として軍部を掌握、1987年に党中央委員を退いて表向きは一般党員となっても、2年後の1989年までこの地位を保持し続けた。1987年の第13期1中全会では「以後も重要な問題には鄧小平同志の指示を仰ぐ」との秘密決議がなされたとされる。

1989年5月、鄧小平は訪中したソ連の最高指導者ミハイル・ゴルバチョフと会談して関係正常化で一致し、中ソ対立を終結させた[34]。しかし、生涯に三度の失脚(奇しくもうち二回は学生が起こした暴動が一因)を味わったためか、民主化を推し進めたゴルバチョフと対照的に鄧小平は中国共産党の指導性をゆるがす動きには厳しい態度で臨み、1989年6月には第二次天安門事件で学生運動の武力弾圧に踏み切った。この事件については初め趙紫陽総書記などが学生運動に理解を示したのに対して、軍部を掌握していた鄧小平が陳雲李先念長老李鵬首相らの強硬路線を支持し、最終的に人民解放軍による武力弾圧を決断したといわれる。イギリスの機密文書によると「200人の死が中国に20年の安定をもたらすだろう」と語ったと記録されている[35]

鄧小平は、武力弾圧に反対した趙紫陽の解任を決定。武力弾圧に理解を示し、上海における学生デモの処理を評価された江沢民(当時上海市党委書記)を党総書記へ抜擢し、同年11月には党中央軍事委員会主席の職も江に譲った。第二次天安門事件後には一切の役職を退くが、以後もカリスマ的な影響力を持った。影響力を未だ維持していた鄧小平は、1992年春節の頃の1月18日から2月21日にかけて、深圳上海などを視察し、南巡講話を発表した。経済発展の重要性を主張するのみならず、ペレストロイカによるソビエト連邦の解体などを例にとって「経済改革も和平演変をもたらす政治改革につながる」と主張する党内保守派に対して、これを厳しく批判した南巡講話は、天安門事件後に起きた党内の路線対立を収束し、改革開放路線を推進するのに決定的な役割を果たした。また、南巡講話では「中東には石油があるが、中国にはレアアースがある。中国はレアアースで優位性を発揮できるだろう」(中東有石油、中国有稀土、一定把我国稀土的優勢発揮出来)とも述べてハイテク産業や軍需産業に重要なレアアースの戦略的価値を重視し[36][37]、当時世界の埋蔵量の8割も中国に存在していたとされるレアアースの大規模な生産を行って後に世界の9割も独占的に供給することになる路線を決定づけたとされる[38][39]。以後、中華人民共和国は急速な経済発展を進めることになった。

死去編集

鄧小平は香港返還を見ることなく、パーキンソン病に肺の感染の併発で呼吸不全に陥り、1997年2月19日21時8分に亡くなった。本人は自身の遺体の献体を望んだが、これは鄧楠の希望で実施されなかった。同年3月2日11時25分、遺灰は親族によって中華人民共和国の領海に撒かれた。

中国中央電視台は鄧の死をトップに報道し、江沢民総書記は弔意を表し、天安門には半旗が掲げられた。死後翌日の2月20日、ニューヨークの国連本部でも追悼の意を表すために半旗が掲げられた。しかし、中華人民共和国各地の市民の生活は平常どおり営まれていた。これは毛沢東が死んだときに盛大に国葬が営まれたのと対照をなす。

鄧小平の死後、鄧が唱えた社会主義市場経済や中国共産党の正当化などの理論は、鄧小平理論として中国共産党の指導思想に残された。

あだ名編集

名前の小平(シャオピン)の発音が小瓶と同じことから、しばしば「小瓶」と渾名されている。また、身長150センチと小柄ながら頭の回転が速く、眼光人を刺す如く鋭かったことから「唐辛子風味のナポレオン」、「鄧蝟子(ハリネズミの鄧)」、「鄧矮子(チビの鄧)」と呼ばれたりもした。毛沢東は鄧小平の人となりを「綿中に針を蔵す」と評した。

逸話編集

 
深圳に立つ鄧小平像
  •  
    八路軍時代(1938)
    フランス留学など、青年期に7年近い欧州生活を送り、ワインチーズが大好物でヨーロッパ文化への嫌悪感を持たなかった鄧小平は、いくつかの趣味を持っていた。とくに有名なのはコントラクトブリッジであった。政府や共産党の公職から退いた後も、中華人民共和国ブリッジ協会の名誉主席を務め、国際的にも有名となった。
  • フランス留学中に夢中になったものが2つあり、1つは共産党でもう1つはクロワッサンであった。これは無関係というわけではなく、フランスで1番おいしいクロワッサンの店を教えてくれたのは、後に北ベトナムの指導者になるホー・チ・ミンであった。
  • サッカー好きでも知られていた。FIFAワールドカップの時には、ビデオなどを使ってほとんどの試合を見ていたといわれている。
  • 背が伸びなかったのは、フランス滞在中、満足に食事を取れなかった栄養不足からだと後年、語っていた。
  • 鄧小平の言葉として「白猫であれ黒猫であれ、鼠を捕るのが良い猫である」という「白猫黒猫論」が有名であるが、これは四川省の古くからの諺である。実際に彼が言ったのは「白い猫」ではなく「黄色い猫」である。これは最も鄧が好んだ言葉であり、毛沢東が鄧を弾劾する際にその理由の一つとしている。
  • 実子である鄧樸方は、北京大学在学中に文化大革命に巻き込まれ、紅衛兵に取り調べられている最中に窓から「転落」(紅衛兵により突き落とされたとする説もある。)脊髄を損傷し身体障害者になった。事実、紅衛兵によるこういった、あるいはその他の激しい暴行による傷害や殺人は多くあり、鄧小平自身も暴行を受けている。鄧小平は午前は工場労働をし、午後は息子の介護をした。この経験からか、中華人民共和国内の障害者団体に関わっていたことがある。
  • 1974年の国連資源総会に出席した際、中国は過去も、現在も覇権を求めておらず、将来強大になっても覇権を求めないと演説した[40]
  • 日本国外務省の田島高志(元中国課長、カナダ大使)は、1978年8月の日中平和友好条約交渉において、鄧小平がソ連覇権主義と批判し、中国の反覇権を条約に明記するように主張していたと語る。その際に鄧小平が園田直外相に対し、「中国は、将来巨大になっても第三世界に属し、覇権は求めない。もし中国が覇権を求めるなら、世界の人民は中国人民とともに中国に反対すべきであり、近代化を実現したときには、社会主義を維持するか否かの問題が確実に出てこよう。他国を侵略、圧迫、搾取などすれば、中国は変質であり、社会主義ではない」と述べたという[41]。同条約調印式の際は日米安全保障条約自衛隊の軍事力増強を歓迎すると表明した[42]
  • 1977年、 訪中した元陸将陸上自衛隊第9師団長の三岡健次郎に対して鄧小平は「毛沢東主席は常々『過去のことは水に流そう』と言われた。しかも実際は日本が中国を助けた。日本が蔣介石を重慶まで追いやったから我々は日本軍の占領地域の後方に展開できた。そして8年間に3万から120万にまで増えたし、さらに数百万の民兵まで作り、120万の我々は3年で蔣介石軍を撃破できた。だから皆さんだけを責めるのは不公平だと思う」と述べ[43]、鄧小平の要請で三岡健次郎が設立した中国政経懇談会が始めた自衛隊OBによる日中交流は中断なく今日まで続いている[44]
  • 1978年の訪日時には様々な談話を残した。「これからは日本に見習わなくてはならない」という言葉は、工業化の差を痛感したもので、2ヶ月後の第11期3中全会決議に通じるものであった。また、帝国主義国家であるとして日本を「遅れた国」とみなしてきた中華人民共和国首脳としても大きな認識転換であった。新幹線に乗った際には「鞭で追い立てられているようだ」「なんという速さだ。まるで風に乗っているようだ」という感想を漏らしている。日産自動車の工場を訪れた際は「ロボットはお金のことを言わないし、彼らがストライキするのを心配する必要もない」と述べ[11]日本車の美しさも誉め称えたため、日産自動車から最高級乗用車日産・プレジデントが特別に贈られた[45]。ほかには、「日本と中国が組めば何でもできる」という、解釈によっては際どい発言を残してもいる。事実、訪中した鈴木善幸自民党総務会長に対し、中国での日中共同の兵器工場を建設する計画を鈴木本人によれば真剣に提案してきたという[46]。訪日時の昭和天皇との会見で「あなたの国に迷惑をかけて申し訳ない」という謝罪の言を聞いた鄧小平は立ちつくしたと、入江相政は言っている[47]。鄧小平は1984年に昭和天皇の訪中を要請して昭和天皇も前向きだったものの日本政府は沖縄訪問を優先したので見送られた[48][49]。天皇の訪中は明仁天皇となってから1992年に実現する。
  • 毛沢東時代には教室や職場では必ず毛沢東の肖像が掲げられ、華国鋒時代になると毛沢東と華国鋒の肖像が並べて掲げられた。しかし鄧小平が実権を掌握した後はそれに倣わず、天安門などに毛沢東のみの肖像が掲げられるにとどまるようになった。
  • 1979年に訪中した松下幸之助に対して孫悟空寓話を持ち出して日本の電子産業全体で中国の電子産業を支援させるという「君子の約束」を交わし[50][51]、松下は訪中の際は鄧小平に構想の遅れを詫びていた[52]
  • 1980年に訪中した岸信介の個人特使である矢次一夫と会談して台湾の蔣経国総統との仲介を依頼した[53]
  • 1989年に鄧小平は訪中した王永慶中華民国で「台湾の松下幸之助」と呼ばれる)と会談し、巨大プロジェクト「海滄計画」が打ち出されるも台湾政府に中止された[54]
  • 蔣介石との世界反共連盟設立や文鮮明との国際勝共連合創設などの活動から日本の反共主義者の代表格で児玉誉士夫も従える「右翼のドン」とされてきた笹川良一とは日中国交正常化から親交を結んだ[55]
  • 大韓民国大統領朴正煕とは三菱商事の当時の藤野忠次郎社長の後押しで経済協力とホットライン開設を目的に接触していた[56][57]。朴正煕の暗殺で立ち消えとなった中韓のホットラインは2015年に娘の朴槿恵大統領が開設するまで実現されなかった[58]
  • 北朝鮮最高指導者の金日成は長年の付き合いから「親密な同志で戦友」と評価していたが[59]、その後継者の金正日は後継者内定後初の外遊である1983年6月の訪中から帰国した際に中国の改革開放を「社会主義や共産主義を捨てた」「修正主義」と批判したことで鄧小平は「なんて馬鹿な奴だ」「世間知らずの小童」と唾棄し、焦った金日成は謝罪を約束してそれを拒む金正日と口論になっている[60]黄長燁によれば、金日成は中国式改革開放に肯定的であり[61]、金日成は生涯最後の外遊である1991年の中国訪問で鄧小平から改革開放を迫られて帰国後の会議で羅津・先鋒経済貿易地帯の設置を決定するも[59]、その跡を継いだ金正日は計画経済に固執して苦難の行軍という大飢饉を起こし、犬猿の仲となった鄧小平死後の21世紀に入ってから17年ぶりに訪中して中国に経済支援を仰ぐこととなった。
  • 歴史認識では「日中二千年の歴史に比べれば両国間の不幸な時期など瞼の一瞬き(ひとまばたき)にすぎない」と日本の首脳に述べたという[62]。ただし、奥野誠亮大臣の発言や閣僚の靖国神社参拝については「日中友好を好ましいと思わない人がいる」と批判している。

脚注編集

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  1. ^ この日、第1期全国人民代表大会第1回会議において政務院総理の周恩来が国務院総理に就任して国務院が成立。第1期全人代第1回会議の最終日である翌日、国務院副総理・秘書長の選出が行われた。副総理・閣僚・秘書長らが正式に任命されたのは9月29日
  2. ^ “著名共産党人改名趣事:鄧小平幼時叫“鄧先聖””. 人民網. (2009−01ー15). http://culture.people.com.cn/GB/40479/40482/8680378.html 2017年9月23日閲覧。 
  3. ^ “邓小平曾是蔣经国共青团组长 哀叹经国不死两岸会统一”. 新浪. (2012年10月16日). http://mil.news.sina.com.cn/2015-11-25/1125844814.html 2019年5月26日閲覧。 
  4. ^ 王成斌等主編 (编). 《民國高級將領列傳》(4). 北京: 解放軍出版社. 1998. p.491
  5. ^ 理查•伊文思著、武市紅等譯. 第三章〈军阀和布尔什维克〉. 《邓小平传》. 上海人民出版社. 1996. ISBN 9787208023642.
  6. ^ 刘志明. 〈蔣经国:邓小平比毛泽东更厉害〉. 鳳凰衛視. 2008-01-09.
  7. ^ 余敏令「俄国档案中的留蘇学生蔣経国」『中央研究院近代史研究所集刊』(第29期、1998年6月)、121頁
  8. ^ 伊藤正『鄧小平秘録』、25ページ。
  9. ^ 当初から鄧氏批判をねらう 教育革命で人民日報『朝日新聞』1976年(昭和51年)3月4日朝刊、13版、7面
  10. ^ “1978年日本の旅――鄧小平氏が訪日で学んだもの”. 人民網. (2008年12月3日). http://j.people.com.cn/95911/95954/6545780.html 2016年11月5日閲覧。 
  11. ^ a b 劉徳有 『忘れ難き歳月 : 記者たちの見た中日両国関係』222頁 五洲伝播出版社 2007年
  12. ^ 天児慧『巨龍の胎動 毛沢東VS鄧小平』、247ページ。
  13. ^ 実際の発言は「白猫」ではなく「黄猫」である(矢吹晋『鄧小平』、講談社現代新書版71-72ページ)。
  14. ^ R. MacKinnon "Flatter world and thicker walls? Blogs, censorship and civic discourse in China" Public Choice (2008) 134: p. 31–46, Springer
  15. ^ ChinaDefense.com – The Political History of Sino-Vietnamese War of 1979, and the Chinese Concept of Active Defense - ウェイバックマシン(2004年12月5日アーカイブ分)
  16. ^ French, Howard W. (March 1, 2005). "Was the War Pointless? China Shows How to Bury It". The New York Times.
  17. ^ 1982年9月に開催された第12回党大会における党規約改正で党主席制が廃止され、党の最高ポストとして中央委員会総書記が設置された。
  18. ^ Joseph Y.S. Cheng "Challenges to China's Russian Policy in Early 21st Century." in: Journal of Contemporary Asia, Volume: 34 Issue: 4 (November 1, 2004), p 481
  19. ^ S. Frederick Starr (2004). Xinjiang: China's Muslim Borderland (illustrated ed.). M.E. Sharpe. p. 158. ISBN 0-7656-1318-2. Retrieved May 22, 2012.
  20. ^ “'84 OLYMPIC EFFORT A GREAT LEAP FORWARD FOR CHINA”. ニューヨーク・タイムズ. (1984年1月9日). https://www.nytimes.com/1984/01/09/sports/84-olympic-effort-a-great-leap-forward-for-china.html 2019年11月25日閲覧。 
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  22. ^ 『中美関係史(1972-2000)』(上海人民出版社,2004)92-95頁
  23. ^ “Reagan, Deng build diplomatic bridge”. クリスチャン・サイエンス・モニター. (1984年4月30日). https://www.csmonitor.com/1984/0430/043022.html 2019年11月25日閲覧。 
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  31. ^ “【回歸廿年】回歸百科 ── 黑社會也有愛國的”. 蘋果日報. (2017年6月11日). http://hksar20.appledaily.com.hk/article/1_56811471 2019年7月25日閲覧。 
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  60. ^ “【秘録金正日(47)】中国の改革解放を「共産主義捨てた」と一蹴 トウ小平は「なんてばかなやつだ」と激怒”. 産経新聞. (2015年10月23日). http://www.sankei.com/premium/news/151020/prm1510200004-n5.html 2016年10月18日閲覧。 
  61. ^ 久保田るり子『金正日を告発する 黄長燁が語る朝鮮半島の実相』162頁、2008年
  62. ^ 徐鵬「鄧小平:從抗日主將到推動中日友好的歷史巨人」『中国共産党新聞』(『人民網』)、2012年9月24日閲覧。

参考文献編集

関連項目編集

外部リンク編集

  中華人民共和国
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1977年7月16日 – 1980年9月10日
次代:
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次代:
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中央軍事委員会主席
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江沢民
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1956年9月 - 1967年3月
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先代:
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総参謀長(2期目)
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