「御池通」の版間の差分

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→‎概要: 御池通の命名起源を現在の学問水準に合わせ補記。
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京都市の中心に位置する[[中京区]]の中央部を横断し、[[川端通]] - [[堀川通]]間は京都市内で最も通りの幅が広く、京都市は[[川端通]]から[[堀川通]]までを[[シンボルロード]]として整備した<ref>御池通シンボルロード [http://www.city.kyoto.lg.jp/kensetu/page/0000013052.html HTML]/[http://www.city.kyoto.lg.jp/kensetu/cmsfiles/contents/0000013/13052/sinboru.pdf PDF] @ 京都市建設局</ref>。[[京都市営地下鉄|地下鉄]]の[[京都市営地下鉄東西線|東西線]]が走っている。
 
[[平安京]]の'''三条坊門小路'''にあたる。御池通の名は江戸時代初期に成立したとされる(『京都市の地名』平凡社・1979)。東は[[川端通]]から西は[[太秦]]の[[天神川通]]までの4.9[[キロメートル|km]]であるが、途中[[二条駅]]前で行き止まりとなり、一筋北に通りがずれている。[[神泉苑]]の池の傍を通るためこの名前になったという説が現在広まっているが、[[江戸時代]]初期の[[1665年]]([[寛文]]5年)発行の[[地誌]]『[[京雀]]』には「【三条坊門通】この筋を東にては八幡町通と云、…、西にては御池通と云、此筋室町に御池町あり、むかし鴨居殿とて御所あり、鴨の下居池の井ありける跡也とかや」とあり、神泉苑には結びつけていない。また、江戸時代中期の[[1762年]]([[宝暦]]12年)発行の『[[京町鑑]]』には「此通の号は神泉苑の前通ゆへ斯くよぶ 又此通両替町人家の裏に御池の旧跡なりとて今讒(纔わずか)に残り池中に社等有とぞ」と両論併記している。これらから「御池通神泉苑起源説」は「御池」の痕跡が薄れ人々の記憶から失われた後に生まれた説である可能性が大きい。なお、江戸時代初期の地図に「小池通」と表記した例が見られる
 
今も[[烏丸御池]]付近には「御池之町」「龍池町」「二条殿町」の[[地名]]が残る。池も含めて[[二条殿]]の地は『京雀』が言う「鴨居殿」の故地ではなくその東隣の[[二条家|二条関白家]]の邸跡であり、[[織田信長]]の「二条新御所([[二条城]])」の故地でもある。この二条殿は『京雀』う「鴨居殿」が後に拡張された屋敷と見られては[[二条良基]](1320~1388)の『[[おもひまゝの日記]]』に池の中に「島々」や「五尺ばかりの滝」があったと記すから<ref>同書「東にたかき松山あり、山のふもとよりわきいづる水のながれ、松のひびきをそへていとすゞし、ながれの末の池のすがた、入江々々しまじまのたたずまい、いとおもしろく、西のながれのすえに山を隔て五尺ばかりの滝落ちたり」</ref>、御池通の地名起源に相応しい大規模な池があったことが分かる。滝があったことは室町時代の洛中洛外図屏風にも描かれている。[[室町通]]御池上ルには「二条殿御池跡」の碑も現存する。が立ち邸内(『京町鑑』に言う御池此通両替人家名も[[文亀]]年間の文書裏」当たる)には小さな池も存する。神泉苑の池は古来池」と呼んだことが確認く聖なるい一方で、二条殿の池を小池と呼んだことが『[[老人雑話]]』に確認あっき、またこの屋敷考慮すれば「御池殿」と呼んだという説([[吉田東伍]]『大日本地名辞書』、『京都市の地名』)が見えるから、「御池通神泉苑起源説」は俗説とすべきで、「二条殿御池起源説」に従うべきだろう。
 
=== 川端通 - 堀川通 ===