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[[1842年]]、ワーグナーはパリを去って[[ザクセン王国]]に戻り、[[ドレスデン]]の[[シュターツカペレ・ドレスデン|ザクセン国立歌劇場管弦楽団]]指揮者となる<ref name="po574-585"/>。当時のワーグナーはドレスデン宮廷歌劇場監督で社会主義者のアウグスト・レッケルの影響で、プルードン、[[フォイエルバッハ]]、[[バクーニン]]など[[アナーキズム]]や社会主義に感化されており、国家を廃棄して[[アソシエーショニズム|自由協同社会(アソシエーション)]]を望んでいた<ref name="y-w-71-83">[[#吉田 2009]],p.71-83.</ref>。ワーグナーは[[1846年]]、ザクセン王立楽団の労働条件の改善や団員の増強や合理的な編成を要求したが、総監督リュッティヒャウ男爵はすべて却下し、さらに翌[[1847年]]にワーグナーは宮廷演劇顧問のカール・グツコーの無理解な専制を上訴したが、取り合ってもらえなかったため、辞任した<ref name="y-w-71-83"/>。1847年夏には、[[ヤーコプ・グリム]]の『ドイツ神話学』に触発され、古代ゲルマン神話を研究した<ref>[[#吉田 2009]],p.173.</ref>。
 
[[1848年]]3月のフランスのような「国民」をドイツで実現することを目指した[[ドイツにおける1848年革命|ドイツ三月革命]]では、レッケルがドレスデンで「祖国協会」を組織し、公職を追放されたが、宮廷楽長ワーグナーはこの協会に加入していた<ref name="y-w-71-83"/>。ワーグナーは5月に宮廷劇場に代わる「国民劇場」を大臣に提案したが、劇場監督が反対したため却下された<ref name="y-w-71-83"/>。6月には祖国協会で、共和主義の目標は貴族政治を消し去ることであり、階級の撤廃と、すべての成人と女性にも参政権を与えるべきであるとして、プロイセンやオーストリアの君主制は崩壊すると、演説で述べた<ref name="y-w-84-91">[[#吉田 2009]],p.84-91.</ref>。さらに、美しく自由な新ドイツ国を建設して、人類を解放すべきであると述べたが、この演説は、共和主義者と王党主義者からも攻撃された<ref name="y-w-84-91"/>。また、この演説では金権とユダヤ人からの解放について演説したともいわれる<ref name="ItoWag"/>。7月にはヘーゲルの歴史哲学に影響を受けて、「ヴィーべルンゲン、伝説に発した世界史」や「ジークフリートの死」の執筆をはじめた<ref name="y-w-84-91"/>。ワーグナーは、レッケルを通じてバクーニンと知り合い、[[1849年]][[4月8日]]の「革命」論文では、革命は崇高な女神であり、人間は平等であるため、一人の人間が持つ支配権を粉砕すると主張した<ref name="y-w-84-91"/>{{refnest|group=*|ただし、この文書の作者がワーグナーであることは証明されていない<ref>[[#吉田 2009]],p.94.</ref>。}}
 
1849年5月の[[#1848年革命とユダヤ人解放|ドレスデン蜂起]]でワーグナーもバリケードの前線で主導的な役割を果たした<ref name="y-w-84-91"/>。ワーグナーはドレスデンを脱出したが、指名手配を受けて[[スイス]]の[[チューリッヒ]]に亡命した<ref name="y-w-84-91"/>。チューリッヒでワーグナーは『芸術と革命』(1849)を著作し、古代ギリシャ悲劇を理想としたが、アテネも利己的な方向に共同体精神が分裂したため衰退し、ローマ人は残忍な世界征服者で実際的な現実にだけ快感を覚え、またキリスト教は生命ある芸術を生み出すことはできなかったとキリスト教芸術のすべてを否定した<ref name="y-w-97-140">[[#吉田 2009]],p.97-140.</ref>。一方、ローマ滅亡後のゲルマン諸民族はローマ教会への抵抗に終始したし、またルネサンスは産業となって堕落したとする<ref name="y-w-97-140"/>。さらに近代芸術は、その本質は産業であり、金儲けを倫理的目標としていると批判した上で、未来の芸術はあらゆる国民性を超越した自由な人類の精神を包含する、と論じた<ref name="y-w-97-140"/>。また、同年の『未来の芸術作品』では、共通の苦境を知っている民衆(Volk)と、真の苦境を感じずに利己主義的な「民衆の敵」とを対比させて、「人間を機械として使うために人間を殺している現代の産業」や国家を批判して、未来の芸術家は音楽家でなく民衆である、と論じた<ref name="y-w-97-140"/>。
革命の失敗後、亡命先の[[スイス]]で[[ゲルマン神話]]への考察を深め、1849年には『ヴィーベルンゲン 伝説から導き出された世界史』で伝説は歴史よりも真実に近いとして、フランク族は王者たるにふさわしい人種であると考えた<ref>Die Wibelungen. Weltgeschichte aus der Sage (1849)</ref><ref name="po574-585"/>。
 
亡命先の[[スイス]]で[[ゲルマン神話]]への考察を深め、1849年には『ヴィーベルンゲン 伝説から導き出された世界史』で伝説は歴史よりも真実に近いとして、ドイツ民族の開祖は神の子であり、ジークフリートは他の民族からはキリストと呼ばれ、ジークフリートの力を受け継いだニーベルンゲンはすべての民族を代表して世界支配を要求する義務がある、とする神話について論じた<ref>Die Wibelungen. Weltgeschichte aus der Sage (1849)</ref><ref>[[#吉田 2009]],p.168-169.</ref><ref name="po574-585"/>。[[1848年革命]]の失敗によって、コスモポリタン的な愛国主義は、1850年代には排外的なものへと変容したが、ワーグナーも同時期にドイツ的なものを追求するようになっていった<ref>[[#吉田 2009]],p.163-165.</ref>。
[[1849年]]、テーオドーア・ウーリクがマイアベーアの『預言者』を批判した。翌[[1850年]]、[[リヒャルト・ワーグナー]]が変名で『[[音楽におけるユダヤ性]]』を発表し、ユダヤ人は模倣しているだけであり、芸術を作り出せないし、芸術はユダヤ人によって嗜好品になって堕落したと主張した<ref name="ItoWag">伊藤嘉啓「ワーグナーにおける反ユダヤ主義」大阪府立大学独仏文学研究会『独仏文学』15, pp.1-19. </ref><ref name="aritaWag">有田亘「帝国的人道主義:ワーグナーの反ユダヤ主義における国際的精神」大阪国際大学紀要「国際研究論叢」27巻3号、p31 - 42.2014.</ref>。ワーグナーは1850年以前はユダヤ人の完全解放を目指す運動に与していた<ref name="po574-585">[[#ポリアコフ III]],p.574-585.</ref>。ワーグナーは『音楽におけるユダヤ性』で、マイアベーアを名指しでは攻撃せずに、ユダヤ系作曲家[[フェリックス・メンデルスゾーン|メンデルスゾーン・バルトルディ]]を攻撃し、またユダヤ解放運動は抽象的な思想に動かされてのもので、それは自由主義が民衆の自由を唱えながら民衆と接することを嫌うようなものであり、ユダヤ化された現代芸術の「ユダヤ主義の重圧からの解放」が急務であると論じた<ref name="po574-585"/>。ただし、ワーグナーは[[フェリックス・メンデルスゾーン|メンデルスゾーン]]を『[[フィンガルの洞窟 (メンデルスゾーン)|ヘブリデス]]』序曲(1830年)を称賛し、完全な芸術家であるとも評価していた<ref name="po574-585"/>。『音楽におけるユダヤ性』を発表して以降、ワーグナーはマイアーベーアの陰謀で法外な非難を受けたと述べ、1853年にはユダヤ人への罵詈雑言を[[フランツ・リスト]]の前で述べるようになっていた<ref name="po574-585"/>。
 
ウクライナのユダヤ人ピアノ奏者ヨーゼフ・ルービンシュタインはワーグナーに『音楽におけるユダヤ性』には一点の疑義もないが、自殺するか、ワーグナーに師事するかしか残されていないと述べて、ワーグナーはルービンシュタインを庇護し、専属奏者とした<ref name="po585-595">[[#ポリアコフ III]],p.585-595.</ref>。同じくカール・タウジヒもユダヤ人でワーグナーの庇護下にあったし、ワーグナーが[[ローエングリン]]と[[ジークフリート (楽劇)|ジークフリート]]役に好んで起用した歌手で後に[[プラハ国立歌劇場|プラハ新ドイツ劇場]]監督になるアンゲロ・ノイマンもユダヤ人であった<ref name="po585-595"/>。
[[1849年]]、テーオドーア・ウーリクがマイアベーアの『預言者』を批判した。翌[[1850年]]、[[リヒャルト・ワーグナー]]が変名で『[[音楽におけるユダヤ性]]』を発表し、ユダヤ人は模倣しているだけであり、芸術を作り出せないし、芸術はユダヤ人によって嗜好品になって堕落したと主張した<ref name="ItoWag">伊藤嘉啓「ワーグナーにおける反ユダヤ主義」大阪府立大学独仏文学研究会『独仏文学』15, pp.1-19. </ref><ref name="aritaWag">有田亘「帝国的人道主義:ワーグナーの反ユダヤ主義における国際的精神」大阪国際大学紀要「国際研究論叢」27巻3号、p31 - 42.2014.</ref>。また、「ユダヤ人は現に支配しているし、金が権力である限り、いつまでも支配し続けるだろう」とも述べた<ref name="ItoWag"/>。ワーグナーは1850年以前はユダヤ人の完全解放を目指す運動に与していた<ref name="po574-585">[[#ポリアコフ III]],p.574-585.</ref>。ワーグナーは『音楽におけるユダヤ性』で、マイアベーアを名指しでは攻撃せずに、ユダヤ系作曲家[[フェリックス・メンデルスゾーン|メンデルスゾーン・バルトルディ]]を攻撃し、またユダヤ解放運動は抽象的な思想に動かされてのもので、それは自由主義が民衆の自由を唱えながら民衆と接することを嫌うようなものであり、ユダヤ化された現代芸術の「ユダヤ主義の重圧からの解放」が急務であると論じた<ref name="po574-585"/>。ただし、ワーグナーは[[フェリックス・メンデルスゾーン|メンデルスゾーン]]を『[[フィンガルの洞窟 (メンデルスゾーン)|ヘブリデス]]』序曲(1830年)を称賛し、完全な芸術家であるとも評価していた<ref name="po574-585"/>。『音楽におけるユダヤ性』を発表して以降、ワーグナーはマイアーベーアの陰謀で法外な非難を受けたと述べ、1851年にワーグナーは[[フランツ・リスト]]に向けて、以前からユダヤ経済を憎んでいたと述べ<ref name="ItoWag"/>、[[1853年]]にはユダヤ人への罵詈雑言を[[フランツ・リスト]]の前で述べるようになっていた<ref name="po574-585"/>。ウクライナのユダヤ人ピアノ奏者ヨーゼフ・ルービンシュタインはワーグナーに『音楽におけるユダヤ性』には一点の疑義もないが、自殺するか、ワーグナーに師事するかしか残されていないと述べて、ワーグナーはルービンシュタインを庇護し、専属奏者とした<ref name="po585-595">[[#ポリアコフ III]],p.585-595.</ref>。同じくカール・タウジヒもユダヤ人でワーグナーの庇護下にあったし、ワーグナーが[[ローエングリン]]と[[ジークフリート (楽劇)|ジークフリート]]役に好んで起用した歌手で後に[[プラハ国立歌劇場|プラハ新ドイツ劇場]]監督になるアンゲロ・ノイマンもユダヤ人であった<ref name="po585-595"/>。
 
[[1851年]]の『オペラとドラマ』でワーグナーは、古代ギリシャ人の芸術を再生できるのはドイツ人であると論じ、また死滅したラテン語にむすびついたイタリア語やフランス語とは違って、ドイツ語は「言語の根」とむすびついており、ドイツ語だけが完璧な劇作品を成就できる、と論じた<ref>[[#吉田 2009]],p.155-160.</ref>。
 
1851年12月にフランスで[[ナポレオン3世|ナポレオン3世のクーデター]]が起きると、ワーグナーは革命を期待したが、翌年末にフランス帝政が宣言されると、落胆して、ドイツへの帰国を考えるようになった<ref>[[#吉田 2009]],p.172.</ref>。
 
[[1855年]]、ワーグナーの知り合いでもあった作家[[グスタフ・フライターク]]は、自由主義者であり、反セム主義者とはいえないが、フライタークの小説「借方と貸方(Soll und Haben)」はドイツの長編小説の中で最も読まれたといわれ、ドイツ人商人が、浪費癖の強いドイツ人貴族を助けて、ドイツへの憎しみに燃えるユダヤ人商人は没落して、最後には汚い川で溺死するという話で、影響力があった<ref name="sim110"/>。
 
[[1861年]]にはワーグナーが実名で『音楽におけるユダヤ性の解説』を刊行した。[[1865年]]、ワーグナーは[[バイエルン国王]][[ルートヴィヒ2世 (バイエルン公)|ルートヴィヒ2世]]のために『[[パルジファル]]』を書き、「ゲルマン=キリスト教世界の神聖なる舞台作品」と呼んだ<ref name="po585-595"/>。しかし、『[[ニュルンベルクのマイスタージンガー]]』([[1868同1865]])9月11日の日記では、ユダヤ性「私はもっ対比してドイツ国粋主義を表現するが的な人間であり作中ドイツ精神ユダヤ人は出てこなある」と書<ref>[[#吉田 name="aritaWag"2009]],p.197.</ref>。
 
[[1867年]]、ワーグナーは南ドイツ新報に連載した「ドイツ芸術とドイツ政治」において、フランス文明は退廃的な物質主義であり、優美を礼儀作法に変形させ、すべてを均一化させ死に至らしめるものであり、この物質的文明から逃れることができるのがドイツであり、[[古代末期]]に[[ローマ帝国]]を滅ぼして新生ヨーロッパを作ったゲルマン民族と同じ国民である、と論じた<ref>[[#吉田 2009]],p.236-238.</ref>。『[[ニュルンベルクのマイスタージンガー]]』([[1868年]])では「たとえ神聖ローマ帝国は雲散霧消しても、最後にこの手に神聖なドイツの芸術が残る」(3幕5場)と述べられた<ref>[[#吉田 2009]],p.255.</ref>。しかし、この作中でユダヤ人は出てこない<ref name="aritaWag"/>。
 
[[1869年]]に[[北ドイツ連邦]]で宗教同権法(宗教の違いに関係ないドイツ市民同権法)が承認され、[[1871年]]に[[ドイツ帝国]]全域で施行されると、ユダヤ人をめぐる軋轢が生じて、反ユダヤ主義運動が高まりを見せたが、ワーグナーは同時代の反ユダヤ主義には同調しなかったが<ref name="y348">[[#吉田 2009]],p.348-349.</ref>、プロイセン政府はユダヤ人資本家、宮廷ユダヤ人によって操られていると批判した<ref name="y352-358"/>。
 
[[普仏戦争]]の始まった[[1870年]]にワーグナーは著書『ベートーヴェン』で、フランス近代芸術は独創性を完全に欠如させているが、芸術を売りさばくことで計り知れない利潤をあげているが、ベートーヴェンがフランス的な流行([[モード]])の支配から音楽を解放したように、ドイツ音楽の精神は人類を解放する、と論じた<ref>[[#吉田 2009]],p.278-285.</ref>。
 
ワーグナーはヴィルヘルム・マルやオイゲン・デューリングの反ユダヤ主義の著書は評価しなかったが、ユダヤ人の儀式殺人をとりあげたプラハ大学教授のアウグスト・ローリング神父の『タルムードのユダヤ人』(1871年)<ref>August Rohling,Der Talmudjude. Zur Beherzigung für Juden und Christen aller Stände, Münster 1871</ref>を愛読した<ref name="po596-607"/>。
 
[[1873年]]には[[ビスマルク]]の反カトリック政策である[[文化闘争]]を支持し、しかし、カトリックだけではなく、横暴なフランス精神との闘争を主張した<ref>[[#吉田 2009]],p.315.</ref>。しかし、ビスマルクがワーグナーの劇場計画や支援要請を拒否すると、ワーグナーはビスマルクとプロイセンに失望し、今日のドイツの軍事的優位は一時的なものにすぎず、「アメリカ合衆国とロシアこそが未来である」と妻に述べ、[[1874年]]に「私はドイツ精神なるものに何の希望も持っていない」とアメリカの雑誌記者デクスター・スミスへの手紙で述べた<ref>[[#吉田 2009]],p.316-320.</ref>。[[1877年]]にはバイロイトを売却して、アメリカ合衆国に移住する計画をフォイステルに述べた<ref>[[#吉田 2009]],p.318.</ref>。
晩年の[[1881年]]、ワーグナーは[[バイエルン国王]][[ルートヴィヒ2世 (バイエルン公)|ルートヴィヒ2世]]への手紙でユダヤ人種は「人類ならびになべて高貴なるものに対する生来の敵」であり、ドイツ人がユダヤ人によって滅ぼされるのは確実であると述べている<ref name="po585-595"/>。しかし、同じ年に、ユダヤ人歌手アンゲロ・ノイマンが反ユダヤ主義者に攻撃を受けると、ノイマンを擁護してもいる<ref name="po585-595"/>。[[1882年]]、ワーグナーは「人類が滅びること自体はそれほど惜しむべきことではない。ただ、人類がユダヤ人によって滅ぶことだけはどうしても受け入れがたい恥辱である」と述べている<ref name="po585-595"/>。この1882年、ワーグナーの崇拝者であったユダヤ人[[指揮者]][[ヘルマン・レーヴィ|ヘルマン・レヴィ]]は、『[[パルジファル]]』の[[バイロイト祝祭劇場]]初演を指揮した<ref name="po585-595"/>。前年には匿名でユダヤ人に指揮させないでほしいという懇願とともに、そのユダヤ人はワーグナーの妻[[コジマ・ワーグナー|コジマ]]と不義の関係にあるとする手紙がワーグナーのもとに届いた<ref name="po585-595"/>。ワーグナーが手紙をレヴィに見せると、レヴィは指揮の辞退を申し出たが、ワーグナーは指揮をするよう言った<ref name="po585-595"/>。ワーグナーの娘婿であったイギリス人反ユダヤ主義者の[[ヒューストン・ステュアート・チェンバレン]]は終生ワーグナーに忠実であった[[ヘルマン・レーヴィ|ヘルマン・レヴィ]]を例外的ユダヤ人として称賛した<ref name="po585-595"/>。
 
ワーグナーは[[1880年]]の論文「宗教と芸術」で、音楽は世界に救いをもたらす宗教であると論じて、キリスト教からユダヤ教的な混雑物を慎重に取り除き、崇高な宗教であるインドのバラモン教や仏教などを参照して、純粋なキリスト教を復元しなくてはならないとし、失われた楽園を再発見するのは、菜食主義と動物愛護、節酒にあるとし、南米大陸への民族移動を提案した<ref>[[#吉田 2009]],p.336-346,352.</ref>。この論文では、「ドイツ」は一語も登場しない<ref>[[#吉田 2009]],p.336.</ref>。ワーグナーに影響を与えたショーペンハウアーは、キリスト教の誤謬は自然に逆らって動物と人間を分離したことにあるが、これは動物を人間が利用するための被造物とみなしたユダヤ教的見解に依拠する、と論じた<ref>[[#吉田 2009]],p.339.</ref>。ワーグナーの菜食主義は、[[アドルフ・ヒトラーのベジタリアニズム|ヒトラーの菜食主義]]にも影響を与えた<ref>[[#ポリアコフ III]],p.595-596</ref>。また、ワーグナーは[[動物実験]]の禁止を主張した<ref name="po596-607">[[#ポリアコフ III]],p.596-607.</ref>。また、[[1880年]]には哲学者[[フリードリヒ・ニーチェ|ニーチェ]]の妹[[エリーザベト・フェルスター=ニーチェ|エリーザベト]]の夫[[ベルンハルト・フェルスター]]によって、ユダヤ人の[[公職追放]]や入国禁止を訴えるベルリン運動(Berliner Bewegung)が展開され、26万5千人の署名が集まった<ref name="ItoWag"/>。しかし、ワーグナーはベルリン運動への署名は拒否した<ref name="y348"/>。
 
晩年の[[1881年]]2月の論文「汝自身を知れ」において、ワーグナーは現在の反ユダヤ運動は俗受けのする粗雑な調子にあると批判し、ドイツ人は[[古代ギリシア]]の[[格言]]「[[汝自身を知れ]]」を貫徹すれば、ユダヤ人問題は解決できると論じた<ref name="y-w-349-354">[[#吉田 2009]],p.349-354.</ref>。ワーグナーの目標はユダヤ人を経済から現実に排斥することでなく、現代文明におけるユダヤ性(Judenthum)全般を批判し、フランスの流行や文化産業と一体化したものとして批判した<ref name="y-w-349-354"/>。ワーグナーにとって、ユダヤ人は「人類の退廃の化身であるデーモン」であり「われわれの時代の不毛性」であり、ユダヤへの批判は、キリスト教徒に課せられた自己反省を意味した<ref name="y-w-349-354"/>。また、ユダヤ教は現世の生活にのみ関わる信仰であり、現世と時間を超越した宗教ではないとした<ref name="y-w-349-354"/>。
 
[[1881年]]9月の論文「英雄精神とキリスト教」では、人類の救済者は純血を保った人種から現れるし、ドイツ人は中世以来そうした種族であったが、ポーランドやハンガリーからのユダヤ人の侵入によって衰退させられたとして、ドイツの宮廷ユダヤ人によってドイツ人の誇りが担保に入れられて、慢心や貪欲と交換されてしまったとワーグナーは論じた<ref>[[#吉田 2009]],p.356-357.</ref>。ユダヤ人は祖国も母語も持たず、混血してもユダヤ人種の絶対的特異性が損なわれることがなく、「これまで世界史に現れた最も驚くべき種族保存の実例」であるに対して、純血人種のドイツ人は不利な立場にあるとされた<ref>[[#吉田 2009]],p.357-358.</ref>。なお、ワーグナーはユダヤ系の養父ルートヴィヒ・ガイアーが自分の実の父親であるかもしれないという疑惑を持っていた<ref>[[#吉田 2009]],p.369.</ref>。
 
[[1881年]]、ワーグナーは[[バイエルン国王]][[ルートヴィヒ2世 (バイエルン公)|ルートヴィヒ2世]]への手紙でユダヤ人種は「人類ならびになべて高貴なるものに対する生来の敵」であり、ドイツ人がユダヤ人によって滅ぼされるのは確実であると述べている<ref name="po585-595"/>。しかし、同じ年に、ユダヤ人歌手アンゲロ・ノイマンが反ユダヤ主義者に攻撃を受けると、ノイマンを擁護してもいる<ref name="po585-595"/>。
 
[[1882年]]、ウィーンのリング劇場で800人が犠牲となった火災事故に対してワーグナーは「人間が集団で滅びるとは、その人間たちが嘆くに値しないほどの悪人だったということだ。あんな劇場に人間の屑ばかり集めて一体何の意味があるというのか」と述べ、鉱山で労働者が犠牲になった時こそ胸を痛めると述べた<ref name="po585-595"/>{{refnest|group=*|ポリアコフはカール・フリードリヒ・グラーゼナップ『リヒャルト・ワーグナーの生涯』(全6巻、1894-1911)の6巻、p.551.を典拠としている<ref>[[#ポリアコフ III|ポリアコフ 3巻]],p.588 注(208);p.688.</ref>。}}。また、ワーグナーは「人類が滅びること自体はそれほど惜しむべきことではない。ただ、人類がユダヤ人によって滅ぶことだけはどうしても受け入れがたい恥辱である」と述べている<ref name="po585-595"/>。
 
1882の[[1881年]]、ワーグナーの崇拝者であったユダヤ人[[バイエルン国王指揮者]][[マン・レヴィヒ2世 (バイエルン公)|]]はルートヴィヒ2世]]へ手紙でユダヤ人種は「人類ならびになべて高貴なるものに対する生来の敵」であり、ドイツ人がユダヤ人によって滅ぼされる、『[[パルジファル]]』は確実であると述べている[[バイロイト祝祭劇場]]初演を指揮した<ref name="po585-595"/><ref>[[#吉田 2009]],p.360.</ref>。しかし、同じ年に、ユダヤ人歌手アンゲロ・ノ『[[パルジファル]]』でワーグナーはンドの仏教や[[ラーンが反ユダ主義者ナ]]をモチーフ攻撃を受けるとしたが「キリスト教世界の外部」の中世スペを擁護してもいる設定された<ref>[[#吉田 name="po5852009]],p.336-595"344.</ref>。[[1882年]]、宗教と芸術の一致を目標としてたワーグナーは「人類が滅びること自体はそれほど惜しむべきことではない。ただ人類がユダヤ人のレーヴィをキリスト教よっ改宗せずに指揮し滅ぶこはならないだけ言ったが、レーヴィどう拒否ても受け入れがい恥辱である」と述べている<ref>[[#吉田 name="po5852009]],p.360-595"361.</ref>。レーヴィはワーグナー1882年論文「汝自身を知れ」に感銘し、ワーグナーのユダヤとの戦いは拝者高な動機からのものであったり、低俗なユダヤ人[[指揮者]][[ヘルマン・レーヴィ|ヘルマン・レヴィ]]憎悪と、『無縁であると考えた<ref>[[パルジファル#吉田 2009]]』の[[バイロイト祝祭劇場]]初演を指揮した,p.361-362.</ref name="po585-595"/>。前年の1881年6月には匿名でユダヤ人に指揮させないでほしいという懇願とともに、そのユダヤ人はワーグナーの妻[[コジマ・ワーグナー|コジマ]]と不義の関係にあるとする手紙がワーグナーのもとに届いた<ref name="po585-595"/>。ワーグナーが手紙をレヴィに見せると、レヴィは指揮の辞退を申し出たが、ワーグナーは指揮をするよう言った<ref name="po585-595"/>。ワーグナーの娘婿であったイギリス人反ユダヤ主義者[[ヒューストン・ステュアート・チェンバレン|チェンバレン]]は終生ワーグナーに忠実であった[[ヘルマン・レーヴィ|ヘルマン・レヴィ]]を例外的ユダヤ人として称賛した<ref name="po585-595"/>。
このほか、ワーグナーはアーリア人は菜食主義であり、ユダヤ人は肉食主義であるとして、動物を殺すことに罪を見ており、[[アドルフ・ヒトラーのベジタリアニズム|ヒトラーの菜食主義]]にも影響を与えた<ref>[[#ポリアコフ III]],p.595-596</ref>。また、ワーグナーは[[動物実験]]の禁止を主張した<ref name="po596-607">[[#ポリアコフ III]],p.596-607.</ref>。
 
ワーグナーは1883年に死ぬ直前に「われわれはすべてをユダヤ人から借り出し、荷鞍を乗せて歩くロバのような存在である」と述べている<ref name="po585-595"/>。