反ユダヤ主義

70年のユダヤ戦争エルサレム攻囲戦エルサレム神殿が崩壊し、熱心党エッセネ派が消滅し、パリサイ派だけが残った[1]。絵画『エルサレムの包囲と破壊』,David Roberts,1850年
ユダヤ教の祭具、ジュダイカ。ユダヤ教徒にとって安息日(ヘブライ語: שבת‎ シャバット)は聖なる全き休みの日であり、この日に働いた者は殺されるだろうと出エジプト記ではいわれる[2]ヘブライ語聖書タナハ、楽器ショファーシトロン箱。
ドレフュス事件の時のパリモンマルトルでの反ユダヤ暴動(Le Petit Parisien,1898年)
2014年ガザ侵攻イスラエル軍パレスチナ自治区ガザ地区を攻撃。反イスラエルのデモが各地で発生した。

反ユダヤ主義(はんユダヤしゅぎ)とは、ユダヤ人およびユダヤ教[* 1]に対する敵意、憎悪、迫害、偏見を意味する[5]。 旧約聖書エステル記に離散したユダヤ人(ディアスポラ)に対する反ユダヤ的態度がすでに記述されており、 19世紀以降に人種説に基づく立場は反セム主義(はんセムしゅぎ)またはアンティセミティズム英語: Antisemitism)とも呼ばれる[5][6]

目次

名称編集

反セム主義(Antisemitism)という名称は、ヴィルヘルム・マル(Wilhelm Marr)による1879年の使用が最初とされる[7][6][8]

セム族とアーリア族を人類の決定的区分としたのはエルネスト・ルナンのHistoire Générale et Systèmes Comparés des Langues Sémitiques. (初版1855、第三版1863)であり、またP.M.Massingは「反セム主義」を最初に用いたのもルナンであると主張している[6]

近代の反セム主義については、近代以前のユダヤ人憎悪とは区別して、人種論的反セム主義ともいう[9]

古代の反ユダヤ主義編集

以下では、反ユダヤ主義の歴史だけでなく、反ユダヤ主義が生まれた背景として、ユダヤ人をとりまく時代ごとの状況、各国各社会のなかでのユダヤ人の取扱いや、またユダヤ側の反応などの歴史を述べる。

離散の始まり編集

紀元前586年新バビロニア王国ネブカドネザル2世ユダ王国を滅ぼす。エルサレム神殿は破壊され、ゼデキヤ王を捕虜として連行され、ヘブライ人バビロン捕囚が行われた。

紀元前538年、ペルシャ王キュロス2世がエルサレム神殿再建を許可し、ユダヤ人は、バビロニア捕囚から解放された。この時、一部はパレスチナへ帰還せず、バビロンに留まり散在を始めた[10]紀元前537年から紀元前332年までのペルシャ支配の時代、ユダヤ人の離散(ディアスポラ)は発展した[10]

紀元前4世紀ギリシアの哲学者アブダラのヘカタイオス(Hecataeus of Abdera)はモーセは人間らしさと歓待の精神に反する生活様式を打ち立てたと記した[11]

紀元前2世紀セレウコス朝シリアの王アンティオコス4世エピファネスエジプトプトレマイオス朝を打倒したことで、当地のユダヤ人を支配したが、アンティオコス4世はユダヤの種だけは他の民と友好関係を結ぼうとせずにすべてを敵とみなしているため、ユダヤの種を完全に絶やす意図があったと、アパメイアのポセイドニオスは記録している[12]

紀元前167年マカバイ戦争が起きた。

古代ローマ帝国編集

 
『パウロの回心』(ピエトロ・ダ・コルトーナ作、1631年)。ユダヤ人パウロ(ユダヤ名サウロヘブライ語: שָׁאוּל‎) は、回心してキリスト教徒となり、聖人となった。
 
絵画『エルサレム神殿の破壊』フランチェスコ・アイエツ、1867年

1世紀ユダヤ教の堕落に対して洗礼者ヨハネが洗礼運動を開始した。洗礼者ヨハネは、古代イスラエルガリラヤのユダヤ王ヘロデ・アンティパスが異母兄の妻ヘロデヤと結婚したことを姦淫として非難したので、処刑された[13]ナザレのイエスイエス・キリスト)は洗礼者ヨハネからバプテスマ(洗礼)を受けた。イエスは、ユダヤ教を改革し、これを民族宗教から普遍宗教へ変化させた[14]

ユダヤ人キリスト教徒のステファノはユダヤ教を批判したため、35年または36年頃に処刑され、キリスト教で初めての殉教者となった[15]ファリサイ派のユダヤ人パウロは当初キリスト教徒を弾圧していたが、回心してキリスト教へ改宗した。

66年ローマ帝国ユダヤ属州総督のユダヤ迫害に対して、ユダヤ教過激派が反乱を起こしてユダヤ戦争が始まった[16]70年エルサレム攻囲戦でローマ軍はユダヤ軍を鎮圧した。エルサレム攻囲戦でエルサレム神殿が崩壊し、ヨセフスもローマ軍に投降し、熱心党サドカイ派エッセネ派のクムラン教団はこの戦争で消滅し、パリサイ派だけが残った[17][16][18]。戦後、ユダヤ教は存在を許されたが、エルサレムの神殿体制は崩壊し、ファリサイ派はヤブネの土地を拠点とした[18]。10万近いユダヤ人捕虜は、全ローマ帝国に銀貨一枚で奴隷として売られた[19]。ユダヤ戦争の際にキリスト教徒はユダヤの反乱に加わることはなかったため、これ以降、ユダヤ教徒はキリスト教徒を敵視した[16]

70年代にパレスチナ小アジアでキリスト教の福音書が成立したとみなされており、最古はマルコによる福音書で、他にマタイによる福音書ルカによる福音書があり、90年代にはヨハネ福音書やユダヤ教の系譜にあるヨハネの黙示録が成立した[20]。福音書では、エルサレム攻囲戦で生き残った唯一のユダヤ教集団のパリサイ派を偽善者して批判される[21][17]。『ヨハネによる福音書』で記されたイスカリオテのユダについて、ポリアコフはユダの名前は偶然というよりも意図が働いていたのではないかと疑っている[22]

97年頃、フラウィウス・ヨセフスは『アピオーンへの反駁』でリュシマコスを引用して、「モーセはユダヤ人に対して、何人にも愛想よくしてはならぬ」と説教したと記録されている[23][* 2]

105年タキトゥスは『同時代史』でユダヤ人は彼ら以外の人間には敵意と憎悪をいだき、自分たちの間ではすべてを許すと書かれた[24][25]

132年-135年ユダヤ属州バル・コクバの乱が発生した。135年、ハドリアヌス皇帝は乱を鎮圧後、ユダヤ教徒による割礼を禁止した政策をとったが、138年アントニヌス・ピウス皇帝が撤回した[26]。しかし、アントニヌス・ピウス皇帝もユダヤ教の改宗活動に歯止めをかけるために非ユダヤ人の割礼を禁止した[27]。バル・コクバの乱以後、ユダヤ人がエルサレムに居住することは禁止され、ユダヤ教祭儀の実践は死刑となった[28]

3世紀のローマ帝国ではユダヤ教よりも新興宗教のキリスト教が迫害された[27]。この当時、キリスト教はまだ制度化されておらず、キリスト教の聖典学者はみなラビに教えを請うていた[27]

313年、ローマ帝国皇帝リキニウスコンスタンティヌス1世は「キリスト者およびすべての者らに、何であれその望む宗教に従う自由な権限を与える」とのミラノ勅令を出した[29]

また、この頃、ユダヤ人はライン川流域に奴隷、ローマ軍兵士、商人、職工、農民としてやってきており、321年の勅令ではケルンにユダヤ人住民がいると明記されている[30]

330年、コンスタンティヌス1世がローマからコンスタンティノープル遷都した。やがて、西ローマ帝国東ローマ帝国に分かれていった。

380年ローマ帝国がキリスト教を国教とし、392年にはキリスト教以外の宗教、ローマ伝統の多神教が禁止された[31]。ユダヤ教は多神教でなく一神教なのでこの時に迫害は受けていない。

4世紀から5世紀になると、ゲルマン諸民族がヨーロッパに勢力を拡大し、西ゴート族アラリック1世がローマ帝国への侵入を繰り返し、457年には東西ローマ帝国が分離し、オレステスオドアケルクーデターによって476年西ローマ帝国が滅亡した。以後、東ローマ帝国ローマ帝国は継承された。

ヨーロッパのゲルマン諸王国ではカトリックへの改宗が進んだ。496年にはメロヴィング朝フランク王国クロヴィス1世が、またイタリアのランゴバルド王国587年にはイスパニア西ゴート王国がカトリックへ改宗していった。

初期キリスト教神学と反ユダヤ主義編集

3世紀の頃から、キリスト教神学者からの反ユダヤ主義がみられ、オリゲネスは『ケルソス駁論』でユダヤ人は救い主に対して陰謀を企てた罪を冒し、そのためにエルサレムは滅亡し、ユダヤの国民は破滅し、神による至福の招きはキリスト教徒に移行したと論じた[22]

5世紀初頭の『神の国』でアウグスティヌスは、ユダヤ人がキリスト教信仰を受け入れるだろうといっている[32]

カッパドキア教父ニュッサのグレゴリオスはユダヤ教徒を悪魔の一味、呪われた者と罵倒した[22]

コンスタンディヌーポリ総主教ヨアンネス・クリュソストモスはユダヤ人は盗賊、野獣、「自分の腹のためだけに生きている」と罵倒した[22]。これ以来、ビザンティン帝国で反ユダヤ主義の伝統が形成され、1000年後のモスクワ公国でのユダヤ人恐怖をもたらした[22]

西ゴート王国編集

 
西ゴート王国(415年 - 711年)
  • 589年、カトリックに改宗した西ゴート王国は、第3回トレド公会議でユダヤ人がキリスト教徒の奴隷や妻を持つことが禁止された[33]
  • 612年西ゴート王国のシセブート王がユダヤ人にキリスト教の洗礼を強制し、また第4回トレド公会議では改宗したユダヤ人に訴訟を禁止した[33]
  • 639年西ゴート王国の第6回トレド公会議でユダヤ教の宗教儀礼を禁止する誓約書を提出されるキンティラ王の政策を追認した[33]
  • 653年、第8回トレド公会議で西ゴート法典でユダヤ教の宗教儀礼を禁止した[33]
  • 680年、第12回トレド公会議でエルウィック王の反ユダヤ法が承認され、ユダヤ人の強制改宗が法的に定められ、違反者は追放、奴隷や財産の没収が課せられた[33]
  • 693年西ゴート王国のエギカ王が前王の勢力の陰謀に対して、第16回トレド公会議で、陰謀に加担した大司教や貴族の財産没収を命じるとともに、キリスト教に改宗しないユダヤ人の財産没収を命じ、西ゴート法典に同文が追加された[33]
  • 694年、第17回トレド公会議で、エギカ王はユダヤ人による王国転覆計画が発覚したので、「ヒスパニアのユダヤ人を全員奴隷とする」と司教たちは議決した[33]

フランク王国編集

7世紀メロヴィング朝フランク王ダゴベルトゥスⅠ世は、ヘラクリウス東ローマ皇帝の要請でユダヤ人を追放した[34]

カロリング朝フランク王国ではユダヤ人の大商人が活躍しており[34]、カロリング時代には、「ユダヤ人」は「商人」と同義語でもあった[35]。ユダヤ人は王室の庇護を受けて、キリスト教共同体に対して改宗活動を展開したが、これにキリスト教聖職者は反発した[34]

フランク王ピピン3世(在位751年 - 768年)が、南フランスのイスラム拠点であったナルボンヌを攻略した時、武器援助をしたユダヤ人にナルボンヌの半分を与えたという伝承がある[36]

フランク王・ローマ皇帝カール大帝(在位:768年 - 814年)は、キリスト教への改宗を国民にも強制したが、ユダヤ人は「聖書の民」であるため、ユダヤ教の信仰を許可した[37]。また、ユダヤ人は自由通商貿易を許可され、ユダヤ人共同体内での裁判権も許可された[37]。イスラム教とキリスト教の境界が確定したからは、キリスト教世界にとって東方との交易が難しくなったため、ユダヤ人商人が東方交易に乗り出し、ペルシャ、インド、中国まで進出した[37]801年、カール大帝の使節がバグダードのカリフ、ハルン・アル・ラシドと交渉した時は、ユダヤ人イザアクが通訳と交渉をした[35]

839年 - フランク王国皇帝ルートヴィヒ1世(ルイ1世、ルイ敬虔王)の宮廷助祭ボード (Bodo) がユダヤ教に改宗。ルイ敬虔王はユダヤ教徒に改宗運動を許可した。リヨン大司教アゴバール(778-840)はルイ敬虔王にユダヤ人による改宗運動を禁ずるよう訴えたが、王はユダヤ人の特権維持を宣言し、ユダヤ行政官エヴラ−ルが派遣されて、アゴバールは追放された[34]。アゴバールはキリスト教共同体のなかにユダヤ教が浸透していくことを嘆いた[34]。アゴバールから20年後、リヨン大司教アモロンはユダヤ教の「感染」からキリスト教教徒を守るため、ユダヤ人の食べ物や飲み物を口にすることを禁じた[34]

ハザール王国編集

ファーティマ朝編集

イスラム王朝ファーティマ朝第6代カリフアル・ハーキム(在位996年 - 1021年)がキリスト教とユダヤ教を弾圧した[34]1009年ファーティマ朝聖墳墓教会を破壊した[38]

中世の反ユダヤ主義編集

 
イスラムに破壊された後、再建された聖墳墓教会

中世ヨーロッパでは、十字軍以降にキリスト教の敵としてイスラム教とユダヤ教が看做され、反ユダヤ主義が強まり、ポグロムが各地で発生していった。また、血の中傷といわれるユダヤ人が儀式のために殺人をしているとして告発されて、襲撃されていった。また、18世紀以降もポーランド、ロシア、ダマスカス、ハンガリー、ギリシャ、チェコなどでユダヤ人への血の中傷事件が起こったが、これはユダヤ人による儀式殺人の中世の伝説が深く根をおろしていたためであった[39]

カペー朝フランス王国をはじめ西ヨーロッパ諸国で、1009年ファーティマ朝による聖墳墓教会破壊について、ユダヤ人が教会の破壊をそそのかしたという噂が流布し、局地的に強制改宗や追放がなされた[38][34]。これ以降、イスラム教徒とユダヤ教徒がキリスト教世界の覆滅を共謀しているという見方が一般的なものとなり、復活祭にはユダヤ共同体の長が平手打ちを受けるという慣習がはじまった[38]。1010年にルーアン、オルレアン、リモージュで、1012年にはマインツやライン川流域の都市、そしてローマなどでユダヤ人が強制改宗や虐殺、追放の対象となった[34]

1084年、ドイツのシュパイアー司教リューディガーは、ユダヤ人にキリスト教徒の下僕や農奴、畑や武器を持つことを許可しており、この時は反ユダヤ主義はまだ激しくはなかった[34]

十字軍と反ユダヤ主義編集

民衆十字軍とエーミヒョ伯爵によるポグロム編集

 
隠者ピエール率いる民衆十字軍

1096年 - 聖地エルサレムイスラム教諸国から奪還するための十字軍の派遣が始まった。十字軍は反ユダヤ主義を強化した[38]民衆十字軍を組織したと伝えられる隠者ピエールは、無駄な暴力を慎み、ユダヤ人には物資と資金を調達させたにとどめた[40]民衆十字軍からの攻撃に対してユダヤ教徒は買収によってまぬがれた場合もあった[38]

ルーアンの十字軍参加者は東にいる神の敵を打ち負かしに行きたいが、身近にも神の敵であるユダヤ人がいるがこれは本末転倒であると述べ、実際、ルーアンをはじめフランス全土でユダヤ人が虐殺されたという記録が残っている[40]

ラインラント地方では、ライニンゲンのエーミヒョ伯爵の軍団が、ライン峡谷を下りながら、ユダヤ人集落に対して「洗礼か死か」と二者択一を迫って、襲撃した[40]1096年5月3日、エーミヒョ侯軍はシュパイアーではユダヤ人11人を殺害し、5月18日から25日にかけてヴォルムスでユダヤ人800人を殺害または集団自決に追い込み[41]、5月27日(28日[42])にはマインツで同じくユダヤ人700人から1014人[43]を殺害または自決に追い込んだ[40]。このほか、7月8日ケルン7月14日にノイス、このほかトリーアバイエルンレーゲンスブルクバンベルクメッツプラハなどで襲撃が起こった[40][42]。各地の領主や司教は時には自らの命をかけてユダヤ人を守ろうとしたが、最下層民は十字軍兵士による虐殺に合流した[40]。ザクセンの年代記作家はこうした十字軍兵士に対して「人類の敵」「偽の兄弟」と叱責している[44]。エックスのアルベールは民衆十字軍ルーム・セルジューク朝に大敗北したのは、神の懲罰であり、ユダヤ人虐殺に対する正当な報いとした[44]

神聖ローマ皇帝ハインリヒ4世は、改宗を強制されたユダヤ人にもとの信仰に戻ることを許可した[40]。これが神聖ローマ皇帝とその臣民ユダヤ人という特殊な関係が生まれたきっかけとなった[40]。他方、教皇クレメンス3世は強制改宗の取り消しに強く憤った[40]

1146年、エデッサ伯領の喪失を受けてローマ教皇エウゲニウス3世が第2回十字軍を呼びかけた。クリュニー修道院長ピエールは、「マホメット教徒の千倍も罪深い」ユダヤ人が身近にいるのに、なぜ遠征するのかと唱え、ドイツの修道僧ルドルフも「今ここ、われわれに交じって暮らしている敵を討つ」べきであると説いた[40]。この時、ケルン、シュパイヤー、マインツ、ヴュルツブルク、フランスのカランタン、ラムリュプト、シュリーでユダヤ人が襲撃された[40]ヴォルムスでも襲撃があった[41]

儀式殺人(血の中傷)編集

 
ユダヤ人に儀式殺人で殺害されたといわれたノリッチのウィリアムの磔刑。ノーフォークロッドンホーリー・トリニティ教会
 
キリスト教教会の典礼で使われる「聖餅(ホスチア)」。小麦粉を薄く焼いたもの。

十字軍の時代には、ドイツとイギリス、フランスなどでユダヤ人による儀式殺人(meurtre rituel)が告発された[40]

  • 1144年、イングランドのノリッチで、ユダヤ人が儀式のために少年ウィリアムを殺したという儀式殺人が告発されたが、これが最初の告発であった[44]。告発者のケンブリッジの修道僧シーアボルドはキリスト教の洗礼を受けたばかりの改宗ユダヤ人だった[44]。ユダヤ人名士が一文無しの騎士に殺害される事件も起こった[44]
  • 1147年、ドイツのヴュルツブルクでユダヤ人数名が儀式殺人で告発され、何名かが殺害された[44]
  • 1150年、ケルンで、改宗ユダヤ人の男の子が教会で聖餅(ホスチア)を拝領すると、大急ぎで家に帰って、聖餅を土に埋めた[44]。僧侶が穴を掘り返すと、子供の遺体があり、光が下り、子供は天に上ったという話があった[44]
  • 1171年ブロワでユダヤ人38人がキリスト教徒の子供を誘拐して儀式殺人を行ったと告発され、焚刑に処された[44][* 3]

儀式殺人を行ったとしてユダヤ人を告発する事件はこれ以降も多発している。

ユダヤ金融業とユダヤ人の法的規制編集

 
高利貸し(Usury)。風刺文学『阿呆船』(1494年)挿絵。アルブレヒト・デューラー作と伝えられる。

ユダヤ人が金貸し業をはじめる前は、キリスト教修道院教会管区(シュティフト)が営んでおり、はじめは困った人々の支援から始まった金貸しは、やがて修道院金融業としてが大々的に発展していった[45]フランシスコ修道院では年利4〜10%を受けるほどであった[45]。これに対して、13世紀の修道院改革で、キリスト教徒間の利息をともなう金の貸し借りが厳格に禁止された[45]

12世紀に、教会はユダヤ人の土地取得にともなう十分の一税の補填を要求したため、ユダヤ人は土地を手放すようになり、また都市同業組織はキリスト教兄弟団の性格もあり、手工業はユダヤ共同体内部にとどまった[38]。こうしたことを背景に、ユダヤ人は金融に特化していった[38]。利子つきの金融をカトリックでは禁止しており、またユダヤ教でも「あなたが、共におるわたしの民の貧しい者に金を貸す時は、これに対して金貸しのようになってはならない。これから利子を取ってはならない。」(出エジプト記22-25)や戒律で禁止されていたが、ユダヤ教の場合は異教徒への金融は許されていた[38]。ユダヤ金融の利子は3から4割にも及んだので、多くの債務者は担保物件を失った[38]。こうしてユダヤ人金融業への敵意が増大していった[38]。第2回十字軍を勧進して回ったクレルヴォーのベルナルドゥスは、金貸し業はユダヤ人の本業(ユダイツァーレ)であるとした[46]

ルイ9世フィリップ4世は、ユダヤ金融を規制した[38]1180年、フランス王フィリップ2世は王国内のユダヤ人を逮捕し、身代金と引き換えに釈放した[47]1181年にフィリップ2世は、ユダヤ人の債権の5分の1を王のものとし、残りを破棄させた[47]。そして、1182年、フランス王フィリップ2世はユダヤ人を王領から追放した[38][47]。適用は王の直轄地に限られた[47]12世紀末から13世紀初めには、フランス領主が、ユダヤ人を相互に返還する取り決めをしていた[38]

12世紀末のイングランド財務裁判所にユダヤ財務局(Exchequer of the Jews)が作られ、ユダヤ人金融業が法規制の下におかれ、取引書類は王室官吏立会で行われるようになった[47]。イングランドのユダヤ人は金融業を営み、王侯の付き人として特殊な封臣となっていた[47]。しかし、1210年、ジョン欠地王はユダヤ人に法外な納税額を請求し、支払えなかったブリストルのユダヤ商人を幽閉し、歯を抜いて処刑した[47]

中世ドイツのユダヤ金貸し業の金利[48]
場所 年利
1244年 ウィーン 174%
1255年 ライン都市同盟 最高金利年33.3%、週単位の短期貸付の最高年利43.3%
1270年 ミンデン 86.7%
1273年 ケルン 78.3%
1276年 アウグスブルク 86.7%
1338年 フランクフルト 32.5〜43.3%
1342年 シュヴェービシュハール 43.3%
1346年 トリエル 43.3%
1350年 ブレスラウ 25%
1391年 ニュルンベルク 10-13.5%〜21.7%
1392年 レーゲンスブルク 43.3%〜86.7%

このように高い利息によってユダヤ人金貸し業は営まれていたが、やがて世間ではユダヤ人の家には暴利をむさぼる搾取によって不正な財産があり、それは取り返してもよいとするユダヤ人財産略奪の思想が形成されていった[49]1247年には、ユダヤ人から、諸侯や聖職者が財産や金品を不当に奪い取るという訴えがあった[50]。中世から19世紀までのドイツでのユダヤ地区への略奪は、このような高利貸し業像を源としている[51]

異端審問と反ユダヤ主義編集

アルビジョア十字軍と異端審問の始まり編集

 
1209年カルカソンヌから追放されるカタリ派。『フランス大年代記』(1415)

1179年3月、ローマで開かれた第3ラテラン公会議で南フランスのカタリ派異端の宣告を受けて、破門された。続けて、1184年リヨンピエール・ヴァルドーヴァルド派が教皇ルキウス3世から破門宣告を受けた。こうして、12世紀後半以降、ヨーロッパの教会と国家に広がった異端審問が開始した[52]

  • 1188年第3回十字軍でイングランドのロンドン、ヨーク、ノーウィッチ、リンでユダヤ人大虐殺[40]
  • 1191年、ブレ=シュール=セーヌで儀式殺人で告発されたユダヤ人約100人が焚刑に処された[44]
  • 1196年ヴォルムスでユダヤ人襲撃があった[41]
  • 1196年にフィリップ2世は追放していたユダヤ人を王領へ呼び戻した[38]

1201年、教皇インノケンティウス3世は、暴力や拷問によってキリスト教の教えに導かれたものでも、キリスト教の刻印を受けたことには変わりはなく、西ゴート王シセブートの治下でのように、神の秘跡とのつながりが確立してしまった以上、強制によって受け入れた信仰にその後も忠実であるよう求められてしかるべきであると教書で述べて、一度改宗したユダヤ人は棄教できないとした[40]

1208年、アルルのローヌ河畔で教皇特使ピエール・ド・カステルノーが、カタリ派のレイモン6世の家臣によって暗殺されると、ローマ教皇インノケンティウス3世は北フランス諸侯に十字軍を要請して、1209年、第5代レスター伯シモン4世モンフォール(1170年 - 1218年)率いられたアルビジョア十字軍が南フランス諸都市の異端カタリ派勢力圏の攻略に向かった[53]レスター伯シモンが1218年6月25日に戦死すると、その子アモリ4世モンフォール(Amaury VI de Montfort ,1195–1241) が転戦した[53]。このアルビジョア十字軍で南フランスは荒廃したが、そのなかでユダヤ人も迫害された[40]

1215年、それまでカトリック教会はユダヤ人への暴力による改宗を禁じていたが、第4ラテラノ会議でユダヤ人がキリスト教徒と性的関係を持てないように衣服に識別徴章をつけさせ、また法外な利息の取り立てなどユダヤ金融業を規制した[38][54]。第4ラテラノ会議ではキリスト教徒に高利貸し業を禁止し、カノン69条ではユダヤ人を公職から追放し、ユダヤ人はギルドからも締め出された[55]。バッジ(徴章)による識別はフランスではじまり、ユダヤ章は黄色とされた[54]。以降、違反者には罰金が課せられ、フィリップ4世はユダヤ章を有料として、財源とした[54]。ユダヤ人の服装は1179年第3ラテラン公会議でも規定されていたが守られていなかったため、ローマ教皇の使節は、ドイツ各地の教会に対して、キリスト教徒はユダヤ人との同席飲食の禁止、ユダヤ人の結婚式や祭儀への参加の禁止、ユダヤ人がキリスト教徒の公衆浴場や酒場への入店禁止、ユダヤ人商店で肉や食料を買うことを禁止すると厳しく命じた[56]1361年にはジャン2世がユダヤ章を赤と白の2色に変更し、また旅行中はバッジを着用しなくてもよいとされた[54]。ドイツでは、識別は頭巾や円錐形の黄色や赤色の帽子でなされ、ポーランドでも緑の帽子、イングランドでは二枚の布を胸に縫い付けることが義務化され、スペインとイタリアでは円形の章(ルエル)が義務づけられた[54]

  • 1223年ルイ8世は、ユダヤ人は王に帰属する権利を持つとする勅令をフランス全土に拡大した[47]
  • 1225年、『ザクセン法鑑』ではユダヤ人はまだ自由人であり、武器の携帯も許可されていた[47]。しかし、1275年の『シュヴァーベン法鑑(Schwabenspiegel)』ではユダヤ人の「永遠なる隷属」が書かれた[47]

1226年カペー家フランス王獅子王ルイ8世(在位1223~1226)がアルビジョア十字軍を引き継ぎ、1229年トゥールーズ伯レーモン7世を破り、パリ条約によりレーモン領東部が王領化された[53]。獅子王ルイ8世はパリへの帰路死亡した。南フランスには異端審問裁判所が設置された。ただし、アルビジョア十字軍は、カペー家など北フランス諸侯による南フランス征圧戦という性格もあり、単なる異端狩り戦争ではなかった[57]

  • カペー朝フランス王国の王聖王ルイ9世(在位:1226年 - 1270年)はユダヤ人の改宗政策を行った[38]
  • 1230年、フランス王国は、ムランの勅令で、ユダヤ人の借用証書を法的価値を有しないと宣言し、ユダヤ人の金貸し業者は農民や職人などの庶民に限られるようになり、大口の取引はロンバルディア人やカオール人が行うようになった[47]

教皇グレゴリウス9世による異端審問制度の確立編集

  • 1232年、教皇グレゴリウス9世(在位1227年 - 1241年)が勅書で教皇直属の異端審問法廷を設置して、地方の司教や世俗権力はドミニコ会とフランチェスコ会士の審問官に協力することが命じられた[52]。自白、または2名の証言のみで有罪判決が可能で、拷問が公認され、密告が奨励された[52]。このグレゴリウス9世勅書と、アルビジョア十字軍で獅子王ルイ8世が南フランスを制圧した1229年のトゥールーズ教会会議によって、異端審問制度が確立した[52]
  • 1234年、フランスのモンペリエとパリで、ユダヤ人のマイモニデス(モーシェ・ベン=マイモーン)の著作が焚書された[54]。これは、マイモニデスを異端とするユダヤ教ラビのシュロモ・ベン・アブラハムの要請であった[54]。同年、スペインで異端審問。
  • 1236年第6回十字軍でフランス、イギリス、スペインでユダヤ虐殺[40]。この年、ドイツで儀式殺人事件が数件発生した[44]。神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世(在位:1220年 - 1250年)は、改宗ユダヤ人による諮問委員会に儀式殺人の究明を命じると、ユダヤ教で人間の血を儀式で使用する根拠はどこにもなく、それどころか、ユダヤ教では人間の血をなにかに使用することは禁止されているとの報告がなされた[44]。1236年7月、フリードリヒ2世は金印勅書でユダヤ人を「皇帝奴隷」として血の中傷から守った[44][47]。神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世は、ドイツのユダヤ人が皇帝の国庫(カイザリッへ・カンマー)に属すると宣言した最初の皇帝となった[58]
  • 1240年、教皇命でパリをはじめフランス全土でタルムードが押収された[54][38]。改宗ユダヤ人のニコラ・ドナンはタルムードが背徳的であると教皇に告発し、教皇の要請でフランスの聖ルイ王(ルイ9世)がタルムードについての公開論争が繰り広げられ、その結果、押収されたタルムードが焚書された[54]
  • 1246年、ベジエ公会議でユダヤ人医師にかかることが禁止され、この禁止は1254年のアルビ公会議、1267年のウィーン公会議、1301年のパリ大学意見書などでも繰り返し採択された[59]。一説では、シャルル禿頭王、ユーグ・カペー、シャルルマーニュ皇帝もユダヤ人医師によって殺害されたといわれた[59]。一方で、ユダヤ人医師は人気を博しており、教皇のアレクサンドル3世や16世紀の教皇パウルス3世まで、伝統的にキリスト教指導者の主治医でもあった[59]。また、ベジエ公会議を擁護したポワティエ伯アルフォンスもユダヤを敵視する一方で、ユダヤ人医師にかかった[59]
  • 1247年、教皇インノケンティウス4世がユダヤ人に過越祭で子供の心臓を分け合っているという誤った告発がなされているという教書を公布した[44]
  • 1248年、ドミニコ会士アルベルトゥス・マグヌスはタルムード異端裁判での判決は正当とし、翌年ケルンの説教で普遍博士マグヌスはタルムードを弾劾した[54]
  • 1252年、教皇インノケンティウス4世は、取り調べに拷問を取り入れた。
  • 1255年、イングランドのリンカンにて儀式殺人。北フランスで異端審問。
  • 1261年、神学者トマス・アクィナスは「ユダヤ人の処し方について」で、ユダヤ人はイエス・キリストがメシアであることを拒否するために災難にあっており、また、ユダヤ人を正常な隣人として扱うべきではなく、ユダヤ人は永遠の奴隷として生きるべきである、なお、国王はユダヤ人を所有物(財産)として保有できる、と論じた[60]。アクィナスは「ユダヤ人を永遠なる隷属に置くことは法に照らして正しい」、そして諸侯はユダヤ人の財産を国家に帰属するものとみなすことができる。ただし、ユダヤ人の生活に必要な物資を奪ってはならない、また、ユダヤの習慣になかったような奉仕を強要してはならないと論じた[47][61]
  • 1267年、ウィーン公会議やブレスラウ公会議で、ユダヤ人が密かに毒を盛リカネないという恐れから、ユダヤ人の店で食料を買うことがキリスト教徒に禁止された[62]
  • 1268年、ヴュルツブルクの吟遊詩人コンラート(コンラート=フォン=ビュルツブルク)は「卑怯にして、聞く耳を持たないユダヤ人に災いあれ。彼らは邪な人々」で、タルムードによって愚かになったと歌った[54]。ジークフリート・ヘルプリングはタルムードは「偽りにしておぞましき書」で焚書にできれば申し分ないと歌った[54]
  • イングランドのローマ法学者ヘンリー・デ・ブラクトンは『イングランドの法と慣習法』で「ユダヤ人はみずから何も所有することはできない。ユダヤ人が手に入れるものすべてが王の所有物となる」とした[63][64]
  • 1273年にローマ教皇は儀式殺人による告発を戒める教書が公布した[44]
  • 1274年-1276年のシュヴァーベン法書では、キリスト教徒とユダヤ人との性交は火あぶりの刑によって処罰するとされた[65]

フィリップ4世端麗王の時代(1285 - 1314年)編集

カペー朝フランス王国フィリップ4世端麗王(在位:1285年 - 1314年)はユダヤ人を領外に追放したが、庶民はキリスト教徒の金貸し業者よりも親切なユダヤ人金貸し業者を懐かしんだ[47]。神聖ローマ皇帝アルブレヒト1世は「皇帝奴隷」であるユダヤ人の返還をフィリップ4世端麗王に求め、フィリップ4世端麗王はこれに応じたと年代記には記録されている[47]。なお、神聖ローマ帝国では、皇帝庇護の見返りとしてユダヤ人に課税したが、共同体を課税単位としたため、ドイツではユダヤ共同体組織は強固なものとなった[47]

1288年のフランスのトロワでの異端審問裁判で13名のユダヤ人が儀式殺人で火刑に処せられれた。トロワで犠牲になったイツハク・シャトランを称えた詩では、「復讐の神よ、妬み深き神よ、これら不実の輩に復讐せよ」と書かれた[47]

 
サン・ジャン・アン・グレーヴ教会(Église Saint-Jean-en-Grève )はフランス革命で教区が消滅して、1800年に解体されて現存しない。後にサン・ジャン・サン・フランソワ教会として再建された。

1290年、ビエット街事件。パリでヨナタスというユダヤ人債権者が、債務者のキリスト教徒にサン・メリー教会(4区)から聖餅(ホスチア)を盗めば借金のかたを返すといって、聖餅を手に入れた[66]。帰宅して聖餅をナイフで刺すと、血が流れ、熱湯に入れても血が流れ続けた。ヨナタスは隣のキリスト教徒の家に逃げて罪を告白し、聖餅はサン・ジャン・アン・グレーヴ教会司祭の手に渡った。ヨナタスは火刑となった。パリのユダヤ人の居住地域のマレ地区のカルメル教会(ビエット教会)のステンドグラスにビエット街事件は描かれた[66]。同年、パリでユダヤ人がキリスト教徒の子供を誘拐して儀式的殺人を行ったとしてユダヤ人が告発された[38]

  • 1290年、イングランドでロンバルディア商人が勢力を伸ばすと、ユダヤ人の特権は失われ、ユダヤ人商人はイングランドを追放された[47]
  • 1294年、スイスのべルンで儀式殺人事件が告発され、ユダヤ人が追放された[44]

1298年4月、レッティンゲンで聖餅(ホスチア)事件。聖餅を冒涜したとして、名士リントフライシュが復讐を叫び、ユダヤ人集落を襲撃して、殺害した[62]。さらにリントフライシュ率いる暴徒集団は、フランケン地方、バイエルン地方で「ユダヤの殺戮者」を名乗って、ユダヤ人の町を襲撃して、洗礼を受け入れた者以外を9月までの数ヶ月間に虐殺を続けて、ユダヤ人の犠牲者は数千人から10万人に及んだ[62]。同1298年、ヴュルツブルクでも迫害が起きた[67]

1306年 - フィリップ4世は財政窮乏に苦しんだため、ユダヤ人とロンバルド人(イタリア)商人の財産を没収し、国外追放し、一部は南フランスへ移住した[68][38]。これ以前にもフィリップ2世、聖ルイ王などもユダヤ人追放を計画したことはあったが、フィリップ4世淡麗王によって、初めてユダヤ人追放が実現した[69]

  • 1309年 - 十字軍計画が計画倒れになった際、ドイツのケルン、オランダ、バラバンでユダヤ人虐殺事件が起こった[40]
  • 1311年、ウィーン公会議で金利貸しを裁判にかける権限が異端審問裁判所に認められた[70]

中世のユダヤ人学者の著作編集

中世のユダヤ人学者の著作では、十字軍時代での迫害の記憶から、「キリスト」を「救いようのない男」「追放者の息子」、「教会」を「不浄の家」「忌み」、「十字架」を「悪しき印」などと言い換えた[47]。シュロモ・ベン・シメオンは、「罪深きローマ教皇」と呼んだり、迫害者エーミヒョの骨を呪ったりしたあとで、「復讐の神よ、姿を現したまえ」、隣人に罵りを7倍にして返せと書き、エリエゼル・ベン・ナタンはキリスト教徒に対して「彼らに悲しみと苦しみをもたらしたまえ。彼らに汝の呪いを差し向けたまえ。彼らを滅ぼしたまえ」と書いた[47]

ナフマニデス(Nahmanides 1194–1270)は、イザヤ書:2-4の「彼はもろもろの国のあいだにさばきを行い、多くの民のために仲裁に立たれる。こうして彼らはそのつるぎを打ちかえて、すきとし、そのやりを打ちかえて、かまとし、国は国にむかって、つるぎをあげず、彼らはもはや戦いのことを学ばない」を論拠にして、ユダヤ教は平和の宗教であるのに対して、キリスト教は夥しい血を流させてきて、戦争が主人として君臨していると論じた[71]

13世紀末、敬虔者イェフダ−(イェフダ−・へ・ハシッド)の『敬虔なる者の書』では、ユダヤ教徒は非ユダヤ教徒と二人きりになってはいけない、キリスト教の音楽で子供を寝かせてはならない、また盗みをすると、ユダヤ人が盗人であり詐欺師であるといわれるから、してはならない、などと教訓が説かれた[47]

中世のユダヤ人ラビは、イエスを詐欺師とみたり、また敬虔なユダヤ教徒であったが、弟子たちがイエスを聖人として新しい宗教を作ったとみた[72]。このようにユダヤ教においても、キリスト教への憎悪がむき出しになっていた[73]

14世紀:百年戦争とペストの時代編集

 
ペストを描いた絵画

14世紀は、ヨーロッパ史上頻繁に危機と災厄に襲われた時代であり、20世紀に比較しうる時代であった[62]。フランスとイングランドは百年戦争(1337年 - 1453年)を戦った。フランスが勝利したが内乱が発生し、イギリスでは薔薇戦争へ続いた。ドイツは恒常的な無政府状態が続いた[62]。百年戦争の長期化による略奪や課税強化などを理由として、フランスでジャクリーの乱(1358年)、イングランドではワット・タイラーの乱(1381年)が起こった。1315年から1317年の大飢饉や、ペストの流行(1348年 - 1349年)、そして世紀後半には魔女狩りがはじまった[62]。他方でイタリアではルネサンスがはじまった。

大飢饉と羊飼い十字軍編集

1315年から1317年にかけてのヨーロッパ大飢饉では、パリやアントワープでは何百人もの死体が街路に散乱した[62]。飢えのために、各地で人食(カニバリズム)が行われた[62]1315年、フランス王ルイ10世が高額賦課と引き換えにユダヤ人に2年の帰還を許可した[38]

1320年、貧窮に耐えかねたフランス北部の農民や修道僧は行き先のない行進をはじめた[62]。一人の若い羊飼いが、奇跡の鳥が生娘に姿を変えて、不信心者を打ち据えに行けと促した[62]。これによって、羊飼い十字軍(パストゥロー十字軍、牧童十字軍)がはじまり、フランス南西部、ボルドー、トゥールーズ、アルビ、さらにスペインで、ユダヤ人が襲撃される大規模なポグロムが発生した[40]。ユダヤ人は襲撃に抵抗したが、やがて集団自決を選び、ヴェルダン=シュール=ガロンヌでは500人が自決し、羊飼い十字軍によって、140のユダヤ居住地が絶滅した[62]。襲撃するユダヤ人がいなくなると、羊飼い十字軍は聖職者に矛先を向けていったため、教皇ヨハネ22世は羊飼い十字軍をたしなめ、年末にはフィリップ5世がフランス軍を出動して制圧した[62]

 
ル・ピュイの大聖堂

同じ1320年、フランス南部オート=ロワール県ル・ピュイで起こった儀式殺人事件では、ユダヤ人が聖歌隊員を殺害して、民衆が取調を待たずに殺したために、1325年、シャルル4世は聖歌隊にユダヤ人に関する司法権を委ねた[74]

聖体冒涜事件編集

1321年、アキテーヌでユダヤ人がキリスト教徒を殺すために井戸に毒を入れたという噂が流れ、実際に井戸に毒が流された[62]。パルトゥネーの癩病患者がユダヤ人から謝礼をもらって井戸にキリストの聖体(聖餅)と混ぜて毒を入れたと告白したという事件が起きた[62]。フィリップ5世は調査を命じて、フランス全土でユダヤ人が逮捕、告発され、シャンパーニュ地方のヴィトリ−=ル=フランソワでは40人のユダヤ人が獄中で自殺し、トゥレーヌ地方シノンでは160人のユダヤ人が焚刑に処された[62]。ポリアコフは、ユダヤ人が綿密な陰謀でキリスト教徒の滅亡を図るという、罪のなすりつけが行われたのはこれが初めてであり、また王権がユダヤ人の財産を没収するために行ったと説明することもできるが、ナチスが「潜在的な復讐屋」としてユダヤ人殺害を正当化するメカニズムと同一のものとする[62]。これ以降、1361年までの40年間、フランスの資料、年代記で、フランス王国のユダヤ人の存在について言及するものはないため、フランスのユダヤ人はほとんどいなくなったとみられる[69]

  • 1322年、フランス王国で再びユダヤ追放令[38]
  • 1336年、アルザス、シュヴァーベンでユダヤ人虐殺[62]。その直後、バイエルンのデッケンドルフ、オーストリアのブルカで聖体冒涜事件が発生[62]
  • 1343年神聖ローマ皇帝バイエルン公ルートヴィヒ4世は、12歳以上のユダヤ人に人頭税を課した[69]。ルートヴィヒ4世は、ニュルンベルクのユダヤ人に対して、ユダヤ人はその身体や財産は皇帝が保有すると宣言した[69]

ペストと反ユダヤ主義編集

1347年(1348年)から1350年(1349年)にかけての黒死病(ペスト)大流行ではヨーロッパの人口の3分の1以上が被害となったが、そのスケープゴートとしてユダヤ人迫害が各地で発生した[76][38][77]。フランス王国ではユダヤ人による毒散布の噂が広まり、最大規模のポグロムが起きて、フランス王国内のユダヤ人共同体はほぼ消滅した[38]。改宗しなかったユダヤ人家族は火刑台の火が見えてくると皆で歌いだして、歌いながら火に飛び込んでいったといわれ、こうしたことの背景には、集団自殺の契約、また殉教者としての固い決意があったとされる[78]。また、ユダヤ教では、アブラハムが一人息子イサクを生贄に捧げるよう神に命じられるイサクの燔祭が信仰されており、アケダーと呼ばれる[79]

1348年 - ジュネーヴにてペストの原因としてユダヤ人迫害[76]。9月、教皇はユダヤ人もペストの被害にあっていると発布したが、ユダヤ人への襲撃はやまなかった[80]

1349年 - ベルンにてペストの原因としてユダヤ人迫害[76]ストラスブールでは暴徒による内乱状態が三ヶ月間続き、市当局がユダヤ人にペストの罪咎はないと発表すると、市政府は転覆され、新しい市政府が2000人のユダヤ人を逮捕し、1349年2月14に全員を火刑に処して、ユダヤ人の財産をキリスト教徒住民に分配した[80]。おなじような事件がヴォルムス、オッペンハイムでも発生して、ユダヤ人が集団自決をし、フランクフルト、エアフルト、ケルン、ハノーファーでユダヤ人が虐殺されたり、追放された[80]

鞭打苦行者編集

 
鞭打苦行者。

また、ドイツやフランスでは苦行と改悔のために公衆の面前で自分を鞭打つ「鞭打苦行者」が現れた[80][81]。1261年に鞭打苦行は異端として禁止されていたが、ペストの時代に大規模に展開した[81]。鞭打苦行者は自分たちの儀礼と歌の方が、教会の聖職者よりも美しく、威厳があると主張した[80]。この鞭打苦行者の通過後に病死や病気が止まなかったことから、人々は疫病はユダヤ人がキリスト教世界に毒を行き渡らせるために流行させたと信じられて、ユダヤ人虐殺事件が発生した[80]。ユダヤ人がまったくいなかったチュートン騎士修道会の地方では、ユダヤ起源を疑われたキリスト教徒が虐殺された[80]

ユダヤ人への課税と保護政策編集

神聖ローマ皇帝は、ユダヤ人への徴税権を担保にして種々の取引を行い、1308年にはルクセンブルク家の神聖ローマ皇帝ハインリヒ7世は、マインツ大司教に皇帝選挙で当選したらユダヤ人税を贈与すると約束している[82]神聖ローマ皇帝ルードヴィヒ4世(在位1314-47)は、「汝らは身も持ち物も全て我らのものなり。我らは望むまま、思いのままに汝らを処遇する」とユダヤ人を皇帝の財産であると述べた[82]封建制下で授封や贈与によって皇帝の収入が減るほど、ユダヤ人からの税収入は重視された[83]。皇帝権が動揺すると、ユダヤ人への徴税権は次第に諸侯や司教、都市の手に移っていった[83]。ユダヤ人は共同体として支払う税、個人で支払う税、滞在許可、結婚許可税など30種類の納税義務を負っていた[83]

14世紀半ばには、ドイツやフランスでユダヤ人保護政策がとられた。1352年、ドイツのシュパイヤーではユダヤ人を呼び戻すことが叫ばれ、『マイセン法書』ではユダヤ人のシナゴーグと墓地が攻撃から保護された[80]。1369年から1394年の間には、マインツ、フランクフルトなどでユダヤ人医師が厚遇されていたことが分かっている[59]

フランスは1337年からの百年戦争で、1346年クレシーの戦い1356年ポワティエの戦いイングランド王国に敗戦し、ジャン2世善良王はロンドンへ捕囚され、身代金を要求された。戦争による荒廃で、1358年にはフランス北東部の農村でジャクリーの乱が起きた。1361年にフランスで王国財政が壊滅的になると、イギリスの捕囚となっていたジャン善良王の身代金も払えないほどの事態になったため、王太子シャルルは、人頭税と引き換えにユダヤ人の家屋と地所の所有を認めて、さらに高利貸しでの87%という法外な高利も許可して、「ユダヤ人護衛官」として王の遠戚ルイ・デタンプを就任させるなどの以前よりはるかによい条件でユダヤ人の呼び戻しを行った[69][* 4]。これより20年間、フランスのユダヤ人は平穏な生活を取り戻すが、かつての親しみのある金貸し業者というよりも、忌み嫌われる金融ブローカーと見なされるようになっていった[69]

  • 1370年、ブリュッセルの聖体冒涜事件でユダヤ人20人が火刑[44]
 
ザクセンのルードルフの『Vita Christi(キリスト伝)』

カルトジオ会修道士ザクセンのルードルフ(Ludolf von Sachsen, 1295-1378)が1374年に書き終えた『キリスト伝』は、ユダヤ人共同体から追放された者に唾を吐きかけるのがユダヤの習慣であり、イエスも唾を吐きかけられ、また髭や髪を引っ張られ、「ピラトは、そうした屈辱的であることこの上ない非人間的な状態に置かれたままの姿で、イエスをユダヤの民全員の前に引き出すように命じ」、そして「悪魔の子」であるユダヤの民は、イエスを十字架につけよ、と叫んだ、とイエスの処刑について解説し、ユダヤ人は神の報いとして世界各地に散らばり、隷属状態に置かれていると説教した[84]。ザクセンのルードルフの『キリスト伝』はイグナチオ・デ・ロヨラ(1491年 - 1556年)にも影響を与えた[85][84]

1378年、キリスト教に改宗したユダヤ人によって、改宗しなかったユダヤ人が糾弾され、告発されるようになると、1380年代にフランスのパリで再び大規模なユダヤ襲撃が起こった[69]。シャルル6世はユダヤ人保護に成功するが、ユダヤ人への課税が重くなる一方で、ユダヤ人の特権も並行して拡大していった[69]


ドイツでは、ユダヤ人保護政策が続いていたが、1384年、南ドイツのアウクスブルク、ニュルンベルクでユダヤ人が収監され、莫大な身代金で釈放された[69]1385年には、ドイツ38の都市代表がウルム会議で、ユダヤ人の債権を全面的に破棄して、キリスト教徒の債務者を解放した[69]1388年には、シュトラスブルクでユダヤ人が一斉に追放された[69]

  • 1399年、プラハでユダヤ人迫害[86]

スペインと1391年のポグロム編集

 
エンリケ2世

スペインでは、718年からのレコンキスタ(イスラム勢力からの再征服)の過程で、十字軍のようにキリスト教国家の意識が高まっており、イスラム教への敵視から、ユダヤ教への敵視も強まっていった。

1366年以降、トラスタマラ朝カスティーリャ王国エンリケ2世が武装蜂起すると、エンリケ2世は、ユダヤ人を登用した前王ペドロ1世に対してユダヤ人と王妃との不義の子である、キリスト教徒の犠牲の上にユダヤ人を保護する残忍王であるとの反ユダヤのプロパガンダを行った[87]。のちのエンリケ2世首席国璽尚書官ロペス・デ・アヤラは『ペドロ一世年代記』でも、ペドロ1世はユダヤ人やムスリムなどの敵と同盟して教会を冒涜したとされた[87]

1370年以降、スペインのエシハ聖堂助祭フェラント・マルティネスが激しい反ユダヤ演説を繰り返した[88]

1391年6月9日カスティーリャ王国セビーリャで反ユダヤ運動が起こった[88]ペストの原因はユダヤ人とする反ユダヤ運動はカスティーリャ王国のブルゴスコルドバトレドバレンシア王国カタルーニャ君主国バルセロナアラゴン王国バレアレス諸島に飛び火し、各地で虐殺(ポグロム)を引き起こして、ユダヤ人共同体は潰滅的な打撃をうけて、キリスト教への改宗を強制され、また国外へ追放された[88]。改宗者はコンベルソと呼ばれた。

フランス王国のユダヤ追放令(1394)編集

1389年2月のフランス王国勅令で、キリスト教徒とユダヤ人との間の紛争は「ユダヤ護衛官」が担当し、またユダヤ人には債務者を収監する権利が認められた[69]。しかし、王国では反ユダヤ勢力が強くなっていったため、シャルル6世は、ユダヤ教の「贖罪の日(ヨム・キプール)」と同じ日の1394年9月17日にフランス王国で最終的なユダヤ追放令を発令した[38][69]。このユダヤ追放令は1615年にも更新された[89]

ただし、フランス王国以外の教皇領やプロヴァンス伯領ではユダヤ共同体が存続した[38]。しかし、プロヴァンス伯領でも1420年代からポグロムが発生した[38]ルネ・ダンジュ−プロヴァンス伯はユダヤ財力を利用するためにユダヤ人を保護したが、1473年以降教会と民衆のユダヤへの反感ははげしくなった[38]。ダンジュ−死後1481年にプロヴァンス伯領はフランス王国へ合併されたため、ユダヤ人は離散した[38]

1394年のフランスでのユダヤ追放令以降は、ユダヤ人は領土が細分化していた神聖ローマ帝国に移っていったが、そこでもまた追放が続いた[69]

中世の宗教劇、彫刻、絵画、文学におけるユダヤ人編集

 
聖アポロニアの殉難ジャン・フーケ装飾写本 Livre d'heures d'Étienne Chevalier(1452 -1460)

中世宗教劇の神秘劇、聖史劇、奇跡劇などでは、ユダヤ人は悪人として描かれ、『聖餅の聖史劇』ではユダヤ人高利貸しがキリスト教徒の女をたぶらかし、聖餅を盗み出させた後、聖餅を石で踏みつけたりしても聖餅は血を流すのみで、この奇跡によって、ユダヤ人は改宗するが、有罪判決となって、焚刑に処されるという筋書きであった[90]ドイツ聖史劇の『アルスフェルトの受難劇』では、悪魔がイエスの謀殺を14人のユダヤ人にゆだねて、ユダヤ人集団は拍手喝采しながら、イエスを罵倒しながらイエス磔刑を行うが、釘打ちや縄縛りなどが原文で700行以上費やされ、また舞台上では赤い液体が用いられて迫真な演技が行われた[91]。フランスのジュアン・ミシュレの受難劇では、ユダヤ人がイエスを拷問し、イエスの髪や髭が肉ごと引き抜かれ、イエスの体に担当ごとに投打が加えられた[92]

奇跡劇では、ユダヤ人が自分の財宝を守るためにキリスト教聖人聖ニコラに助けを求めて改宗する筋が描かれた[44]。ゴーティエ・ド・コワンシ−(1177-1236)の奇跡劇では、「獣よりも獣に近いユダヤ人」について「神もまた彼らを憎みたもう。よって誰しもが彼らを憎まなければならない」と書いた[44]

 
ストラスブール大聖堂にあったシナゴーガ像とエククレーシア像。ノートルダム美術館蔵。

また、教会ではシナゴーガ像とエククレーシア像が対比され、ユダヤ教会を表すシナゴーガ像は折れた槍を持ち、目隠しをされ、キリスト教会を表すエククレーシア像は十字架と聖杯を持つ[93]。シナゴーガ像とエククレーシア像は1225年から1439年までに建設されたストラスブール大聖堂の彫刻や、1235年から1340年までに建設されたマールブルクのエリザベート教会のステンドグラスなどがある[93]

14世紀末にはイタリア絵画で、ユダヤ人が蠍になぞらえられた[93]。ドイツやオランダでは雌豚に育てられたユダヤ人という図案が教会石碑に刻まれ、レーゲンスブルク教会やヴィッテンベルク教会では豚の乳を飲むユダヤ人の壁面彫刻が飾られた[93][94]。ヴィッテンベルク教会の豚の乳を飲むユダヤ人の壁面彫刻については、ルターがユダヤを攻撃した時に描写した[93]。また、14世紀以降には、頭に角を生やしたユダヤ人が、オーシュ大聖堂のステンドグラス、ヴェロネーゼのキリスト受難などで登場した[93]

1378年、フィレンツェの作家ジョヴァンニ・フィオレンティーノは『粗忽者(イル・ペコローネ』は、「人肉一ポンド」を抵当にするユダヤ人高利貸しを登場させ、シェイクスピアが『ヴェニスの商人』の底本とした[95]

1386年ジェフリー・チョーサーは『カンタベリー物語』の尼寺長の話で、「呪うべきユダヤ人」が少年の喉を切って、便所のなかへ投げ入れたとあり、また、1255年の儀式殺人についての『ヒュー殿、あるいはユダヤ人の娘』という14世紀に流布したバラッドから、「リンカーンのヒュー」がユダヤ人によって虐殺されたとある[96]

修道士の反ユダヤ主義とゲットーの形成編集

 
シエナのベルナルディーノ(Bernardino of Siena, 1380-1444)
 
フランシスコ会修道士カピストラーノの聖ジョヴァンニ

15世紀初頭の1412年頃、バレンシアのドミニコ会士ビセンテ・フェレール(ビセン・ファレ−)が鞭打苦行者の先頭にたって、トレド、サラゴサ、バレンシア、トルトサなどスペインやフランス各地で反ユダヤ説教を繰り返し、シナゴーグに入ってトーラーを捨て、十字架を受け入れよとユダヤ人に改宗を迫った[97]。しかし、フェレールは「刃でなく、言葉でユダヤ人を殺すべきである」として暴力は批判し、またユダヤ人であるという理由だけで毛嫌いする理由はないとして、キリストもユダヤ人であったとして「ユダヤ人を卑しめる者は、ユダヤ人として死ぬ者と同様の罰を受ける」とした[97]。しかし、フェレールは改宗できないユダヤ人は隔離状態に置くべきであるとして、1412年にはスペインで初めてのゲットーが築かれた[97]

中世末期には従来のユダヤ人居住地が、ゲットーへと変化していった[98]。ゲットーの住民は昼間の間だけキリスト教徒の街区に出入りすることが許され、夕刻になるとゲットーの門は施錠された[98]。ゲットーのユダヤ人住民は厳密に規定された質素で敬虔な生活を送った[98]。ゲットーの生活は、キリスト教修道院の生活に似ており、周囲から隔絶され、神への奉仕をもっぱらとし、敬虔と自己犠牲、知的作業に染め抜かれた[98]

ユダヤ教からキリスト教への改宗コンベルソ(スペイン語)もまた大きな問題となった[88]

  • 1401年、フライブルクでユダヤ人はキリスト教徒の血に飢えているという追放請願が行われた[69]
  • 1420年、オーストリア、マインツではマインツ大司教によって、ユダヤ人追放令[69]。同年、アルザスのリクヴィルでは、領主の許可なしに住民たちが、自発的にユダヤ人を拉致して、殺害したり、追放した[69]
  • 1424年、フライブルクとチューリヒ、ケルンから高利貸しの取り立てを理由に、ユダヤ人追放[69]
  • 1432年のザクセン、1439年のアウクスブルク、1453年のヴュルツブルク、1454年のブレスラウでユダヤ人追放[69]
  • 1434年、バーゼル公会議で、大学での研究にユダヤ人が従事することを禁止し、またユダヤ人を改宗させるために強制説教(predica coattiva)の必要が定められた[99]

シエナのベルナルディーノ(1380-1444)は1427年のオルヴィエートでの説教などで、ユダヤ人が金貸しと医学によってキリスト教への陰謀を企んでいると断じた[59]。これは、アヴィニョンのユダヤ人医者が生涯を通じて毒薬を薬として渡して数千人のキリスト教徒を殺害してきたのは喜びであったという自白に基づいたものであった[59]

イタリアとドイツで伝道活動したフランシスコ会修道士カピストラーノのジョヴァンニ(San Giovanni da Capestrano, 1386 – 1456) は、ユダヤ人を保護している領主に神の怒りが降り注がれると脅して、1453年から1454年にかけてシュレージエンの儀式殺人裁判を演出し、ポーランドのユダヤ人の特権を停止することに成功した[59]

1462年、フランクフルトでゲットーが完成し、ユダヤ人が強制移住させられた[100]。ユダヤ人は繁華街に住んでいたが、教会や市民の要望でユダヤ人を都市城壁の外に隔離する計画が1432年に始まり、皇帝フリードリヒ3世(在位1440-93)命で市が建設した[100]。ゲットーには門が設けられ、夜には夜警によって施錠された[101]。夜だけでなく、日曜日やキリスト教祭日もゲットーからの外出は禁止され、外出が可能な日でもユダヤ人であると識別するユダヤ服を着衣しなければならず、また二人以上徒党を組んで歩くことは禁止された[101]

ドミニコ会修道士ジロラモ・サヴォナローラはフィレンツェのメディチ家による独裁体制を批判し、信仰に立ち返るよう訴え、また1494年イタリア戦争においてフランス王シャルル8世のイタリア侵入を預言したことで、フィレンツェ共和国の政治顧問になった。サヴォナローラは司法制度を改革し、ユダヤ人を追放して、公営の質屋を開設した[59]。しかし、教皇を批判したため1497年に破門され、1498年に処刑された。

  • 1470年、ドイツのバイエルンのエンディンゲンで儀式殺人事件[44]
  • 1471年、マインツ大司教が再びユダヤ人追放令[69]。マインツでは追放令が出されたあと、撤回されたり、再度追放令が出されるなどした[69]
  • 1476年、レーゲンスブルクで儀式殺人を理由にユダヤ人が追放されたが、神聖ローマ皇帝から信頼されていたレーゲンスブルクのユダヤ人共同体の密使が宮廷に嘆願して、取り消しに成功したが、1519年にはレーゲンスブルクからユダヤ人が追放された[69]
  • 1477年、アルザス諸都市は、スイス同盟兵士がユダヤ人を襲撃するので、あらかじめユダヤ人を追放するよう請願した[69]
  • 1476年のマドリガル、1480年のトレドの議会で、ユダヤ人の居住制限、公職追放、ユダヤ人標識の表示、キリスト教召使の雇用禁止、農地購入などが制限されたが、これは伝統的政策の踏襲であって、あくまでも国王隷属民としてのユダヤ人を保護するためのものだった[102]

シモン少年儀式殺人事件編集

 
1475年にイタリアのトレントで起きた少年シモンの儀式殺害事件。ハルトマン・シェーデル『世界年代記』(1493年)挿絵。

フェルトレの福者ベルナルディーノ(Bernardino da Feltre、 1439 – 1494)は、「ユダヤ人高利貸しは貧者の喉を掻き切り、貧者の蓄えによって肥え太る」 と説教したり、1475年チロルトレント(イタリアのトレント自治県)ではユダヤ禍が来れば分かるだろうと説教した[59]。その数日後にシモン少年儀式殺人事件が起きた[59]。このシモン少年儀式殺人事件では、9人のユダヤ人が拷問を受けて、少年シモンの殺害を自白したユダヤ人たちは処刑された[44][103]。このユダヤ人の自白によって、ユダヤ人への中傷は広がり、オーストリア、イタリアでも儀式殺人と血の中傷事件が起こり、トレントには殉教者少年シモン(Simon of Trent)を記念する礼拝堂が建設され、1582年には教皇シクストゥス5世 によって列福された[44][* 5]。フェルトレの福者ベルナルディーノは、儀式殺人事件について広める一方で、高利貸しへの反対運動も行い、15世紀末にはフランシスコ会がイタリアの主要都市で公営質屋モンテ・ディ・ピエタ(哀れみの山)を開設し、フランス、ドイツにも開設された[59]

  • 1494年、スロバキア西部のティルナウ(トルナバ)で発生した儀式殺人事件では、ユダヤ人はキリスト教徒の血を儀式や薬として使っていると告発された[104]

イベリア追放編集

1492年、スペインでユダヤ人追放令[105][102]。これによって8万から15万のユダヤ人がスペインを退去した[102]。一部はオスマン帝国に逃れた[105]オスマン帝国1453年コンスタンティノポリスを占領し、東ローマ帝国を滅ぼした。多くのユダヤ人は新都市イスタンブールに移住した。ここでは、ムスリムが絶対的な優位を占め、キリスト教徒、ユダヤ教徒は差別を受けたものの、概ね共存が維持された。1497年には、ポルトガルでもユダヤ追放令が出された[105]

  • 1499年、トレドで、ユダヤ人の改宗者コンベルソの商人が課税をフアン2世に献策すると、キリスト教民衆が激昂して、コンベルソ商人の自宅を焼き討ちした[88]

近世の反ユダヤ主義編集

近世ドイツの人文主義編集

15世紀末、ドイツか経済的に繁栄し、バイエルン公国アウクスブルクには、鉱山・金融業の富豪フッガー家と金融業の富豪ヴェルザー家、イムホーフ家(Imhoff)、ホーホシュテッター家(Hochstetter)などがおり、巨万の富を築いた[106]。そうした経済の大物に庶民は「ユダヤ人のようなキリスト教徒(クリスト=ユーデ)」と呼んでいた[106]

ドイツの人文学者ヨハネス・ロイヒリン(1455 – 1522)は1505年の『回状』でユダヤ人は日々、イエスの御身において神を侮辱し冒涜している、イエスを罪人、魔術師、首吊り人と呼んで憚らず、キリスト教徒を愚かな異教徒と見下していると説教した[107][106]。ロイヒリンは、宗教改革で活躍したフィリップ・メランヒトンの大伯父であったが、ルターの改革は支持しなかった[108]

 
ウルリヒ・フォン・フッテン

1509年、改宗ユダヤ人のドミニコ会修道士ヨハンネス・プフェファーコルン(Johannes Pfefferkorn,1469 – 1523)がユダヤ人の偏屈さの原因はタルムードにあると告発し、タルムードの廃棄を『ユダヤ人の鑑』で主張した[106]。プフェファーコルンは神聖ローマ皇帝マクシミリアン1世に謁見し、勅令でタルムード廃棄が命じられた[106]。プフェファーコルンは、フランクフルトのマインツ大司教からタルムード調査委員会による調査の権限を取り付けた[106]。タルムード調査委員会にはドイツ唯一のヘブライ学者だったヨハネス・ロイヒリンがおり、タルムードやカバラーを擁護すると、1511年、ロイヒリンとプフェファーコルンは論争をした[106]。論争は国際的なものとなり、エラスムスたち人文主義者はロイヒリンを支持し、パリ大学神学部はプフェファーコルンを支持した[106]。ただし、両者とも反ユダヤ的であるという点では同じであり、ロイヒリンはプフェファーコルンに対して「彼は先祖たるユダヤ人の精神のあり方をそのままに、嬉々として不敬の復讐に打ってでた」といい、ロイヒリン支持者でカトリック教会を激しく批判した人文主義者のウルリヒ・フォン・フッテン(1488年 - 1523年)はプフェファーコルンがドイツ人でなかったことは不幸中の幸いで、「彼の両親やユダヤ人だった。彼自身、どんなにその恥辱の肉体をキリストの洗礼水に浸そうと、依然としてユダヤ人であることに変わりはないのである」と批判した[106]エラスムスも「プフェファーコルンは真のユダヤ人であり、まさにその種にふさわしい姿を公然とさらしている。彼の先祖たちは、たった一人のキリストを相手に猛り狂った。プフェファーコルンがその同宗者のために行うことのできる最良の貢献は、みずからキリスト教徒になったと偽善的に言い張ることによって、キリストの神性を裏切ってみせることなのだ」と批判した[106]

アルザスの人文学者ベアートゥス・レナーヌス(Beatus Rhenanus 1485-1547)は、「ユダヤ人ほど他者を憎み、また他者に嫌悪を催させる民はほかに存在しない」と述べた[106]

ドイツの人文学者コンラート・ツェルテス(Conrad Celtis, 1459 – 1508)はユダヤ人は「人類の社会を侵し、混乱に招き入れる」と述べた[106]

ドイツの修道院長ヤーコプ・トリテミウス(1462 - 1516年)は高利貸しのユダヤ人には激しい怒りを覚える、その不法な搾取から守るための法的措置が必要で、「異国の民が、われわれの土地で権勢を振るうなどというこおtが許されてよいものだろうか」と述べている[106]

ガイラー・フォン・カイザーベルク(Johann Geiler von Kaysersberg, 1445 -1510) は「ユダヤ人は、みずから手を汚しての労働を欲しない」「金貸しを生業とすることは労働の名に値しない」と批判した[106]

一方、プファルツ領邦宮中伯フリードリヒ1世のハイデルベルク宮廷にいた人文主義者ヤーコプ・ヴィムフェリング(Jakob Wimpfeling, 1450-1528)は、「唾棄すべきなのは、ユダヤ人と、ユダヤ人よりもさらに質の悪い一部のキリスト教徒が手を染めている高利貸しなのである」と、キリスト教徒の高利貸しのことも非難した[106][109]

同じようにセバスティアン・ブラント(Sebastian Brant)は『阿呆船』(1494年)で、「ユダヤの高利貸しはまだよいが、それでも町には留まれぬ。自分の暴利を棚に上げ、ユダヤの高利貸しを追い出すクリスト=ユーデども」と皮肉った[106]

 
宗教改革を代表するルターは論文『ユダヤ人と彼らの嘘について』でユダヤ人を攻撃する反ユダヤ主義者でもあった[110]

宗教改革の時代編集

ルターの反ユダヤ主義編集

1517年宗教改革をはじめたマルティン・ルターは、キリスト教の歴史にあるユダヤ教批判または反ユダヤ主義的な意識を持っており、1543年の『ユダヤ人と彼らの嘘について』で7つの提案を行った[111][110]

  1. シナゴーグや学校(イェシーバー)の永久破壊
  2. ユダヤ人家を打ち壊し、ジプシーのようにバラックか馬小屋のようなところへの集団移住
  3. ユダヤ教の書物の没収
  4. ラビの伝道の禁止
  5. ユダヤ人護送の保護の取消
  6. 高利貸し業の禁止。金銀の没収。
  7. 若いユダヤ人男女に斧、つるはし、押し車を与え、額に汗して働かせること。

ルターは「ユダヤ人はわれわれの金銭と財を手中にしている。われらの国にあって、彼らの離散の地にあって、彼らはわれわれの主になったのだ」として、ユダヤ人は労働に従事していないし、ドイツ人もユダヤ人に贈与していなのだから、ユダヤ人による物の所有を禁じて、彼らの財産はドイツに返還されるべきであると主張した[112]。ユダヤ人はドイツにとっての災厄、悪疫、凶事であり、誰もユダヤ人にいて欲しいなどとは思っていない、その証拠に、フランスでも、スペインでも、ボヘミアでも、レーゲンスブルクでもマグデブルグでも追放されたのであると論じた[112]。ドイツ人はユダヤ人に宿を提供し、飲食も許しているが、ユダヤ人の子供をさらったり殺したりはしないし、彼らの泉に毒を撒いたり、彼らの血で喉の渇きを癒やそうともしていない、ドイツ人はユダヤ人の激しい怒り、妬み、憎しみに値することは何かしただろうか、と論じた[112]。大悪魔を別にすれば、キリスト(キリスト教徒)が「恐れなければならない敵はただ一人、真にユダヤ的であろうとする意志を備えた真のユダヤ人である」と論じた[112]。ユダヤ人を家に迎え入れ、悪魔の末裔に手を貸す者は、「最後の審判の日、その行いに対し、キリストは地獄の業火をもって応えてくださるであろう。その者は、業火のなかでユダヤ人とともに焼かれるであろう」とルターは述べた[112]。数ヶ月後の『シェム・ハメフォラスについて』[113]でユダヤ人の改宗は、悪魔に改宗させるのと同じぐらい困難な業であり、ユダヤ人の福音書外典は四福音書が正統であるのに対して偽書であり、ユダヤ人は悪魔の使いであり、「ユダヤ人は悪魔の群れよりもさらに悪辣である」「神よ、私は、あなたの呪われた敵、悪魔とユダヤ人に抗しながら、必死の思いで、これほどまでの恥じらいとともにあなたの神々しき永遠の威厳を語らねばならないのです」と論じて、最後に「私はこれ以上、ユダヤ人と関わりを持ちたくないし、彼らについて、彼らに抗して、何かを書くつもりもまったくない」と閉じた[112]。ルター晩年のこうしたユダヤ攻撃に対しては、ブリンガー、メランヒトン、ユダヤ人のロースハイムのヨ−ゼル(Josel von Rosheim, 1480-1554)は批判した[112]。ルターは死の四日前の2月18日の最後の説教では、ドイツ全土からユダヤ人を追放することの必要を訴えた[112]。なお、ルターは神を「最大級の愚か者(stultissimus)、「キリストは淫乱であったかもしれない」と述べたり、ローマ教皇への攻撃の時は、ユダヤ人攻撃の時よりももっと汚い言葉を使って罵詈雑言を浴びせた[112]

宗教改革全盛期にはルターは、ユダヤ教徒を反教皇運動の援軍とみなしていた。ヴォルムス国会の期間中にユダヤ人と討論したルターは、1523年に『イエスはユダヤ人として生まれた』などの小冊子を著して、愚者とうすのろのロバの教皇党たちが、ユダヤ人にひどい振る舞いをしてきたため、心正しきキリスト者はいっそユダヤ人になりたいほどだ、と述べたり、ユダヤ人は主と同族血統であるから、ユダヤ人はメシアであるイエスに敬意を表明し、キリストを神の子として認めるよう改宗を勧めた[114][112]。しかし、騎士戦争(1522年-1523年)、ルター派のトマス・ミュンツァー農民戦争(1524年-1525年)を起こしたが、ルターはミュンツァーや反乱農民を批判して、ミュンツァーは処刑されるなどの事件を通じて、ルターは人間世界のいたらなさや、政治的責任を強く感じるようになっていった[112]。そして、人間の内的自由に、神によってもたらせた地上の事物の秩序が対置され、服従の義務を唱え、キリスト教徒は従順で忠実な臣下でなければならないと説くようになった[112]。ルターは、不首尾の原因をユダヤ人のなせる業とみなすようになっていく[112]。ユダヤ人のなかで改宗したものはごくわずかで、改宗した者もほとんどが間をおかずしてユダヤ教に回帰したためか、1532年には「あのあくどい連中は、改宗するなどと称して、われわれとわれわれの宗教をちょっとからかってやろうというぐらいにしか思っていないのだから」と述べている[112]。1538年、ロースハイムのヨーゼルに対してルターは、私の心はいまもユダヤ人への善意に満ちあふれているが、それはユダヤ人が改宗するために発揮されると述べた[112]。その後まもなく、ボヘミアの改革派がユダヤ人の教唆のもとユダヤ教に改宗し、割礼を受けて、シャバトを祝ったという知らせが入り、それ以来、ルターは1539年12月31日には「私はユダヤ人を改宗させることができない。われらが主、イエス・キリストさえ、それには成功しなかったのだから。しかし、私にも、彼らが今後地面を這い回ることしかできないように、その嘴を閉じさせるぐらいのことはできるだろう」と述べた[112]。ルターの反ユダヤ主義は、タルススのパウロス(聖パウロ)やムハンマドと同様の転機を経て、ユダヤに対する深い憎悪となった[112]。ルターの反ユダヤ文書はルター死後あまり重視されなかったが、ヒトラー政権になって一般向けの再販が出て、よく読まれた[112]

ロースハイムのヨーゼル編集

16世紀、スペインやポルトガル出身の改宗ユダヤ人(マラーノ)が、オランダ、イタリアの金融市場、大西洋貿易、東方貿易の開拓者となっていった[3]。マラーノが権勢を誇る一方で、ドイツのユダヤ人は生活の基盤を失われ苦しんでいたため、マラーノを「純粋ユダヤ人ではない」とする状況になった[3]。1531年、ロースハイムのヨーゼルは、富裕なマラーノの入植地がしっかり根を張っていたアントワープに対して、ここにはユダヤ人がいないと書いた[3]

ロースハイムのヨーゼルはアルザスのユダヤ居住地の代弁者で、1520年以降は、ドイツユダヤ人全共同体を語り、新生ローマ皇帝カール5世は「帝国ユダヤ人指揮官ならびに統治者」の称号をヨーゼルに与えた[3]。ヨーゼルは、アウクスブルク国会で、改宗ユダヤ人のアントニウス・マルガリータを論敵として、ハンガリーとボヘミアのユダヤ追放令を廃案にした[3]。改宗ユダヤ人のアントニウス・マルガリータはラビの息子だったが、レーゲンスブルクのユダヤ共同体を公権力に告発し、1522年、カトリックに改宗し、プフェファーコルンを模範としたユダヤ教批判を行った[3]。アウクスブルク国会でヨーゼルが「ユダヤ教の背教者によるユダヤ教の主張は根拠を持たない」と主張すると、マルガリータは有罪としてアウクスブルクから追放された[3]。ルターはアントニウス・マルガリータの著書を最大の典拠の一つとした[3]

ロースハイムのヨーゼルはユダヤ人が法外に高い金利を要求しないこと、利子に粉飾をほどこさないこと、キリスト教徒への支払いを逃れようとするユダヤ人債務者を破門にして追放することなど、ユダヤ人の商業モラルを掟とした[3]。ヨーゼルは死ぬまでカール5世に寵遇された[3]

フランクフルト・ゲットーとフェットミルヒ編集

 
1614年8月22日のフランクフルト・フェットミルヒの略奪(Fettmilch-Aufstand)
 
フランクフルトを退去するユダヤ人

1614年8月22日、フランクフルトの豚肉商フェットミルヒたち職人層がユダヤ人のゲットーを襲撃し、暴徒は金品を強奪し、借用証書とトーラーを焼き払うために火を放った[3]。ユダヤ人住民は命の犠牲は免れたが、財産を失ったまた、他の土地へ移っていった[3]。数ヶ月後、ヴォルムスでもユダヤ人ゲットーが襲撃され、同様の事件となった[3]。地方行政も帝国政府も和解につとめたが、暴動の首謀者は熱烈な歓呼に包まれ、ドイツの大学法学部は、今回の襲撃は昼間の襲撃であったが松明をもって行われており、法範疇に属さないため、罪科の対象とはならないと判断した[3]。その後、皇帝マティーアスによってユダヤ人は帝国軍隊の厳重な護衛のもと、フランクフルトに戻った[3]。しかし、このフランクフルト騒動後、ドイツでにおける反ユダヤの実力行使は途絶えた[3]。国家権力がユダヤ人を保護したためであり、その後数世紀、反ユダヤ主義を主張する多くの作家、思想家が登場しても、ドイツのユダヤ人には一定の平和が訪れたのであった[3]

17世紀、ユダヤ人虐殺事件は少ないものの、フランクフルト市では、ユダヤ人識別章の着用が義務化され、キリスト教徒の下僕の雇用禁止、明確な目的になしに街路を通行することの禁止、キリスト教祭日や君主の滞在期間中の外出禁止、市場ではキリスト教徒が買い物を済ませた後でなければ買い物はできなかったなど、制限されていた[3]。ユダヤ人はフランクフルトの「市民」ではなく、「被保護者」または「臣民」と規定され、これはナチスドイツ時代も採用した区分であった[3]

三十年戦争以前のブルボン朝フランス王国編集

1614年の『聖なる花束と聖地への旅』で、フランシスコ会修道士ジャン・ブーシェはユダヤ人を「かつて祝福の対象とされながら、今では呪いの対象とされている種」、「世界の四方を惨めにさまよい歩いている種」として、トルコ人はユダヤへの憎悪の結果、ゴルゴダの教会広場でユダヤ人を見かけたキリスト教徒はユダヤ人を殺してよく、罪に問われないとされたし、また1291年のイングランドで追放され、フランスでは1182年にフィリップ2世尊厳王、1306年にフィリップ4世美麗王、1322年にフィリップ5世長躯王が、1492年にスペインのフェルディナンド2世がユダヤ人を追放したのは、ユダヤ人がキリスト教徒に対して不敬の態度を示し、讒言を差し向けたからであるとした[116][117]

1615年5月12日、14歳のフランス王ルイ13世とその母で摂政のマリー・ド・メディシスが数年来、ユダヤ人が身分を偽って王国に入り込んだとして、1394年のユダヤ人追放令(シャルル6世による)を更新した[118]。ただし、ボルドーとバイヨンヌのマラーノには適用されなかった[118]1615年について年代記作家は、「不信心と良俗紊乱」の一年であり、「魔法使い、ユダヤ人、呪術師が堂々とシャバト(安息日)を祝い、シナゴーグでの儀式を行った」と記録している[118]魔女シナゴーグとも呼ばれ、また安息日を意味するヘブライ語のシェバトからサバトとも呼ばれるようになった。

三十年戦争がはじまってからの1627年、詩人マレルブ(François de Malherbe,1555 - 1628)が最晩年に、ユダヤ教はヨルダン川の岸辺におしとどめられるのが望ましいが、ユダヤ教徒はセーヌ川流域まで勢力を広げているとして、「私はどこにいても神を頼みとして戦う」と書いた[119][117]

三十年戦争と主権国家体制編集

1618年から1648年にかけて、宗教改革による新教派(プロテスタント)とカトリックとの対立のなか展開された最後で最大の宗教戦争といわれる三十年戦争が起こった[120][121]。この戦争で、オーストリア・スペインの東西ハプスブルク家は打撃を受けた一方で、ブルボン家のフランスはヨーロッパ最強国家となった[121]。また、神聖ローマ皇帝ローマ教皇を政治的・宗教的首長とする「キリスト教共同体」は崩壊し、ヨーロッパ世界では一つの国家の主権と独立とが原則となった[120]

中世以来の神聖ローマ帝国では、教皇皇帝の対立の結果、特に金印勅書により、選帝侯の自治権が認められ、地方分権的な領邦国家体制が形成されていたが[122][123][124]、三十年戦争によってドイツでは領邦主権は確固たるものとなり、神聖ローマ帝国は名目的な存在となった[121][120][125]。フランスが中央集権絶対王政を確立したのに反して、ドイツではこの地方分権的な領邦国家体制によって、国民主義的統一が遅れた[122]。神聖ローマ帝国内では諸侯たちが自分たちを領邦を代表する「国民」 と意識していたが、諸侯の共通言語はフランス語であり、民族よりも身分が重視されるなど、国民国家の形成は妨げられていた[123]。こうしたドイツ領邦国家体制に対する反発が、近代の啓蒙と合理主義の影響で18世紀以降のドイツにおける国民主義ナショナリズム)を形成していくことになる[123]

  • 1648年 - 1657年 ウクライナフメリニツキーの乱で一時ユダヤ人とイエズス会士が追放されたが、後で返還された。この過程でポグロムも起こった[126]
  • 17世紀後半、偽メシアのシャブタイ・ツヴィがトルコに現れると、ヨーロッパ各地のラビは歓迎して、ユダヤ人は財産を売って、コンスタンティノープルへの船に乗ろうとしたほどであった[3]。しかし、1666年、ツヴィはオスマン帝国において逮捕されイスラム教への改宗を選択した。
  • 1675年1680年頃 サヴォイア公国ピエモンテで数年間の凶作によって救済保護政策のなかで、プロテスタントからの改宗者、貧民、ユダヤ人をゲットーに強制移住させて、管理を強めた[127]

ルイ14世の時代 (1643 - 1715)編集

フロンドの乱とジャン・ブルジョワ事件編集

1648年、当時フランス王国は、10歳の国王ルイ14世(在位:1643年 - 1715年)の摂政としてジュール・マザランが集権体制を強化させたが、マザランに反発した高等法院官僚や法服貴族が反乱を起こして、フロンドの乱が起こった[128]。フランスは一時は無政府状態となり、王家は国外へ脱出する。1648年10月24日ヴェストファーレン条約が締結され三十年戦争が終結すると、フランス軍コンデ公ルイ2世がフロンド派を制圧するが、ルイ2世もマザランに対抗したが、1653年にマザランが勝利した[128]。フロンドの乱に依ってフランスは王権による中央集権体制が確立されていった[128]

フロンドの乱の真っ只中の1652年8月15日、トネルリーの古着商集団に対して、ジャン・ブルジョワ青年が「シナゴーグの殿方連のお通りだよ」とからかったところ、古着商集団は青年を矛槍とマスケット銃で滅多打ちにしたうえ、賠償金も払わせた[129]。青年は代官に告発したが、古着商集団は青年をおびき出し、拷問の果てに殺害するという事件が発生しており、このような小規模な局地戦はいくつか発生していた[129]。このジャン・ブルジョワ殺人事件の後、ユダヤ問題が世論で論争となり、ユダヤ人が高利貸しに手を染め、嘘偽りと不実の行いによって腐敗が撒き散らされてきたとユダヤ人を非難する文書と、古着商集団を弁護する文書が現れ、『ユダヤ人に対する憤怒』という文書では、ユダヤ人に識別するための印をつけるべきだと主張され、『シナゴーグに対する判決文』という文書ではユダヤ人全員を去勢すべきだと主張された[129]。こうした文書の横溢によって、古着商は隠れユダヤ教徒、マラーノであったのかという疑いを持ったが、事件における古着商集団は被害者も加害者もカトリック・キリスト教徒であった[129]

ボシュエと太陽王の絶対王政編集

オラトリオ会修道院の神学者ジャック=ベニーニュ・ボシュエは1657年アンヌ・ドートリッシュへの説教で宮廷説教師となった。ボシュエはユダヤ人を「誰からも哀れまれることなく、その悲惨のなかにあって、一種の呪いによりもっとも卑しき人々からも嘲笑の的とされるにいたった民」とし、ユダヤ人の最大の罪はイエスの処刑ではなく、処刑後に、悔い改めない姿勢であるとした[130]

1661年、マザラン没後、23歳のルイ14世太陽王は親政を開始した。ルイ14世は、王権神授説とフランス教会のローマからの独立(ガリカニスム)を提唱する宮廷説教師ジャック=ベニーニュ・ボシュエによって、ローマ教皇よりもフランス国王の権力を強化して、絶対君主制を確立した[130]

ルイ14世は「唯一の王、唯一の法、唯一の宗教」を方針として、「最大のキリスト教徒の王」を自負し、異端のジャンセニストユグノーを抑圧した[131]ジャンセニストとは、オランダの神学者コルネリウス・ヤンセンが『アウグスティヌス』(1640年、遺作)で、アウグスティヌスは、人間の自由意志よりも神の恩恵を重視して、人間の無力さを強調したと論じた。ヤンセンの説を信奉したサン・シラン修道院長のジャン・デュベルジエ・ド・オランヌ(1581―1643)や、ポール・ロワイヤル修道院でジャンセニスムが教えられたが、イエズス会教皇庁はヤンセンの著作を異端として攻撃した[132]1711年ポール・ロワイヤル修道院はルイ14世王命により破壊された[132]ジャンセニスムを信奉した哲学者ブレーズ・パスカル(1623 - 1662)は、遺稿『パンセ』で「栄誉に抗して純一であり、それがゆえに死んでゆく、ユダヤ人」とユダヤ人を称賛した[133]ルイ14世は、1680年代ユグノー弾圧を開始。1682年新築のベルサイユ宮殿に移り、1685年フォンテーヌブローの勅令信教の自由を約したナントの勅令を廃止した[131]

メッス儀式殺人事件とリシャール・シモン編集

1657年、ルイ14世は東方への野心のために、軍馬調達、駐屯地への補給のためにアルザス=ロレーヌ地域のユダヤ人を利用するために、メッスのシナゴーグを訪れ、アンリ4世とルイ13世がユダヤ人に与えた勅許状を更新し、古物だけでなく新物を商う権利を付与した[134]

しかし、メッスの高等法院とキリスト教徒商人は反ユダヤ感情を利用して、1669年に儀式殺人裁判でユダヤ人ラファエル・レヴィが処刑された[134]。これに対して、聖書学者リシャール・シモン(Richard Simon 1638-1712)がユダヤ人を弁護した[134]1670年にメッスで儀式殺人事件と裁判が繰り広げられると、パリで行方不明になった若者について、ユダヤ人が連れ去ったという噂が流れた[129]。リシャール・シモンは、1670年のメッス儀式殺人裁判について匿名でユダヤ人を擁護したり、1674年にはヴィネチアのラビ、レオン・ダ・モデナ(Leon Modena 1571–1648)の著作を翻訳して、その序文で「新約聖書を書いたのはユダヤ人であった」と主張し、またユダヤ教徒の信仰心の篤さを賞賛した[133][135]。しかし、1684年になると、シモンは手紙でレオン・ダ・モデナの翻訳書の序文については好意的なことを書きすぎたと反省して、「ユダヤ人が救いようのない民であるということを、私はその後、彼らのうちの幾人かと付き合ってみてはじめて理解した。彼らはいまだにわれわれのことを深く憎悪している」と述べるにいたった[133]。シモンは1678年、近代聖書文献学のさきがけとされる『旧約聖書の批判的歴史』を著作したが、宮廷説教師ボシュエの激しい怒りを買い、1687年に発禁処分に至り、死ぬまで周囲から激しい攻撃を受けた[133][136][133]

フランス・カトリックのカテキズムと反ユダヤ主義編集

アドリアン・ガンバール(1600-1668)はカテキズムで、聖体を拝領することは全ての罪のなかで最も重い罪であり、それによって、「ユダやユダヤ人たちと同じように、イエス・キリストの肉と血に対する罪を犯すことになる」とした[137][117]

 
イエズス会士オラトリオ会修道院説教師ルイ・ ブルダルー

イエズス会士オラトリオ会修道院説教師ルイ・ ブルダルー(Louis Bourdaloue, 1632-1704)は、ステファノを石で撲殺したユダヤ人は、「神秘の石」であるステファノを殴打して、神の慈悲と神の愛の火花を散らしたといい、「罪のうちに死ぬこと」をユダヤ人は天からくだされていると説教した[130]

 
ニーム司教エスプリ・フレシエ

ニーム司教エスプリ・フレシエ(Esprit Fléchier,1632-1710)は、不信心者のユダヤ人は神の正しき裁きによって、この世が終わり、神がイスラエルの残骸を集める時まで、あらゆる民から眉をひそめられる存在であり続けると説教した[130]

クロード・フルーリー神父(1640-1723)はカテキズム『歴史公教要理』で、イエスの敵は肉的なユダヤ人、ユダヤ人はイエスを死に至らしめたために隷属状態となり、離散させられた、と解説した[138][117]

 
宮廷説教者ジャン・バティスト・マシヨン

クレルモン司教でベルサイユ宮廷説教者ジャン・バティスト・マシヨン(Jean Baptiste Massillon, 1663-1742)は「血の罪の刻印」を受けて「見境を失った民」のユダヤ人は、「盲目的な敵愾心」で怒り狂い、「イエスの血がみずからとみずからの末裔の頭上に降り注ぐことを望んでいる」、ユダヤ人は「世界の恥辱とみなされたまま、さまよい、逃げまどい、軽侮され続けている」と説教した[130]

しかし、16世紀においては、反ユダヤ的な暴動はみられない[130]。それは、宗教改革とそれに続く宗教戦争において、プロテスタント側がユダヤ人に近い立場に立たされ、憎悪が向けられたからであった[130]。カトリック派は、改革派の秘密集会を蔑み、悪意に満ちた話に尾ひれをつけて触れ回った[139]

宮廷ユダヤ人とユダヤ人強盗団編集

1670年、神聖ローマ皇帝レオポルト1世(在位1658年 - 1705年)はウィーンからユダヤ人を追放したが、1673年、同じ神聖ローマ皇帝レオポルト1世が、ハイデルベルクのユダヤ人ザームエル・オッペンハイマーを帝国軍の補給係に任命して、1683年のトルコ軍のウィーン包囲やフランスとの戦争などを通じて食料、武器、輸送用の牛馬を提供して、首尾上々に任務を遂行した[3]。当時は、外交取引に宮廷ユダヤ人が活躍し、ハノーファーのレフマン・ベーレンツ Leffmann Behrends(Liepmann Cohen) of Hanover ,1630年頃 - 1714年)はルイ14世とハノーファー公の間を取り持ったが、孫たちは借財を背負って牢獄で過ごした[3]。ハルバーシュタットの宮廷ユダヤ人ベーレント・レーマン Issachar Berend Lehmann 1661年 - 1730年) は、ザクセン選帝侯アウグストをポーランド王位につかせたが、息子はザクセンから追放された[3]ヨーゼフ・ズュース・オッペンハイマーはヴュルテンベルク公カール・アレクサンダーの宮廷ユダヤ人として財政と行政を立て直し、権勢を誇ったが、最後は絞首刑に処された[3]。グリュッケル・フォン・ハーメルン(Glückel of Hameln)は『回想録』で宮廷ユダヤ人の婚礼を描いた[3][140]

この頃、オーストリア説教者アーブラハム・ア・ザンクタ・クラーラ1683年トルコ軍によるウィーン包囲に際して、トルコ人は「貪欲な虎、呪われた世界破壊者」、ユダヤ人は「恥知らずで、罪深く、良心を持たず、悪辣で、軽率で、卑劣でいまいましい輩、悪党」として、ペストはユダヤ人、墓掘り人、魔女によって引き起こされたと説教し[141][142]、また「イエスを司直に売り渡したあのユダヤ人の子孫は、その後永劫の罰を受けねばならない」と説教した[143][144]

プロイセン王フリードリヒ・ヴィルヘルム1世(在位1713 - 1740)は、ユダヤ人代表団の謁見に際して、「主を十字架にかけた悪党」とは面会しないと断ったが、侍従がユダヤ人からの高価な贈り物があると聞くと、王は、「主が十字架にかけられた時は、彼らはその場にいなかった」のだから、謁見を許可したという逸話が伝えられる[3]

宮廷ユダヤ人は豪勢な家屋敷を構え、ミュンヘンの銀行家ヴォルフ・ヴェルトハンマーが開いた狩猟競技会ではイングランド大使や貴族が参加した[3]。宮廷ユダヤ人の大部分はユダヤ教を遵守していたが、シュタドラン(世話役)として、滞在禁止命令を追放令を解除させたり、ユダヤ人共同体を統轄して、ユダヤ人の敵対分子を牢獄につながせた[3]

一方で、ユダヤ人強盗団もおり、1499年の『放浪者たちの書』の盗賊仲間隠語集にはヘブライ語起源が多くを占めており、17世紀以降には、組織的ユダヤ人強盗団の記録がある[3]。18世紀ドイツには強盗団首領ドーミアン・ヘッセルが死刑になった[3]

しかし、宮廷ユダヤ人もユダヤ人強盗団も例外の部類であり、大多数のユダヤ人は、中世的な風習にこだわり、しきたりを忠実に守りながら暮らした[3]

近世イングランド編集

イングランドでは1290年にユダヤ人は追放されたため、イギリスに来るユダヤ人商人は王立の改宗者収容施設「ドムス・コンウェルソーム(Domus Conversorum)」(1234年創建)に滞在した[145]。14世紀、15世紀には未改宗のユダヤ人も改宗ユダヤ人を偽って宿泊した[145]

1492年のスペインでのユダヤ追放以降、ヘンリー7世が、息子とアラゴン王女カザリンとの結婚に際して、ユダヤ人の立入りを禁じた[145]。しかし、この禁止令は部分的にしか守られなかった[145]1540年、ロンドンに37家族のマラーノによる植民地が形成されたが、1542年に解散させられた[145]

ヘンリー8世は亡兄ウェールズ公に嫁いだアラゴン王女カザリンと結婚していたが、カザリンとの離婚の根拠を探すために、イタリアのラビに問い合わせ、レビ記18-16「あなたの兄弟の妻を犯してはならない。それはあなたの兄弟をはずかしめることだからである」に基づき、結婚の無効を訴えるが、申命記25-5での「兄弟が一緒に住んでいて、そのうちのひとりが死んで子のない時は、その死んだ者の妻は出て、他人にとついではならない。その夫の兄弟が彼女の所にはいり、めとって妻とし、夫の兄弟としての道を彼女につくさなければならない」の方が重んじられた[145]

17世紀には、清教徒の至福千年派は、ユダヤ人の改宗はキリスト再臨のために欠かせない条件であるとして、ユダヤ人をパレスチナに呼び戻すべきだと主張した[145]。1649年、清教徒革命では、市民階級の清教徒が「イスラエルよ、汝らの幕屋に戻れ!」を合言葉とした[145]。クロムウェルの出自はユダヤ人ではないかと囁かれ、またクロムウェルはセントポール大聖堂を80万ポンドでユダヤ人に売却しようとしているという噂が流れた[145]

アムステルダムのラビ、マナセ・ベン・イスラエル(1604‐57)は、1650年にアムステルダムで刊行され、6ヶ国語に翻訳されて1652年にロンドンで出版された『イスラエルの希望』において、終末の到来を確かならしめるためには、ユダヤ人の拡散を完全のものとして、世界の末端であるイングランド(アングル・ド・ラ・テール 地の角)をユダヤ人の植民地と化するべきだと考えた[146][145]1655年9月にマナセ・ベン・イスラエルが、イングランドへやってきて追放されたユダヤ人の召喚計画をクロムウェルと交渉すると、クロムウェルは、スペインを打ち破ってスペインの植民地を奪取するための協力をユダヤ人マラーノから期待していたため、マナセ・ベン・イスラエルによるユダヤ人の召喚許可を認めた[145]。しかし、こうしたイングランド政府によるユダヤ人の召喚計画に対して反発は強く、貴族マンモス伯はイギリスにシナゴーグが建設されることに不快感を示し、またロンドンでは傷痍軍人が「わしらも全員ユダヤ人になるしかあるまい」と噂し、商人は恐るべき競争相手と警戒し、聖職者は社会転覆の危険を見た[145]

清教徒の弁護士で、のちに王党派議員、ロンドン塔公文書館長となるウィリアム・プリンは、1634年に演劇の観客は「悪魔、不敬の怪物、無神論的ユダの化身である。彼らはみずからの宗教に対しては喉を掻き切る殺人鬼」と述べ、仮面劇を支援した王妃ヘンリエッタ・マリア・オブ・フランスへの誹謗中傷と名誉毀損の罪によって、両耳を切断され、左右の頬に煽動的誹毀者(seditious libeller)を意味する「S.L.」の烙印が押されたが、民衆の絶大な人気を博した[145][147]1655年にプリンは、イングランド政府によるユダヤ人の召喚計画に反対して『ユダヤ人のイングランド移入に関する簡潔な異議申し立て』を書いて、一週間で完売した[148][145]。その後、クレメント・ウォーカーが『イングランドの無政府状態』やアレクサンダー・ロスが『ユダヤ人の宗教』などでユダヤ人召喚に反対した[145]

1655年12月18日の一般公開議場ではユダヤ人受け入れに反対する者が多数詰めかけ、クロムウェルは審議の不利をさとり、ユダヤ人召喚諮問委員会の解散を宣言し、さらに、演説では、ユダヤ人の改宗は聖書に予告されており、そのためにはユダヤ人が聖地に住むことが唯一の手段であると述べられたが、ユダヤ人召喚は実現しなかった[145]

1656年、マナセ・ベン・イスラエルの『ユダヤ人からの要求』[149]に影響されたユニテリアン派のトマス・コリアー(Thomas Collier, 1615 – 1691)は、ユダヤ人によるイエス殺害は神の意志を実現するためであり、それによってキリスト教を誕生させるためであったと論じた[150][145]

以後、イングランドでは公的な入国許可はなかったが、非公式の寛容政策によってロンドンのマラーノ入植地は、シナゴーグも建設して、イギリス国内の事実上の小国家となっていった[145]

ポーランド・ウクライナのユダヤ人編集

ポーランドのユダヤ人は、ユダヤ教国ハザール帝国や、ビザンティウムから来たと考えられている[151]。伝承では、一日だけユダヤ人がポーランドの王位に即位したといわれ、中世11世紀、12世紀の貨幣にヘブライ語で「ミエシュコ大王」「アブラハム・ドゥハス」などの銘が刻まれている[151]

ポーランドではユダヤ人への優遇政策は進んでいた。1264年、ポーランドのカリシュのボレスワフ王(1221-79)は、ドイツ諸侯のようなユダヤ勅許状を出した[151]。しかし、1267年、ブラスラウ公会議は12条でポーランドはキリスト教徒の新しい入植地であるため、ユダヤ人の迷信や悪習からの影響を懸念した[151]。1279年、ユダヤ人識別章が計画されたが実現しなかった[151]1364年、カジミェシュ王(1310-70)はユダヤ人を貴族と同等の扱いとして、ユダヤ人に危害を加えた者を罰した[151]。しかし、14世紀末、ポーランドで聖体冒涜事件と儀式殺人事件が起こった。1454年、カピストラーノのジョバンニの影響で、ヤギェウォ朝のカジミェシュ4世がユダヤ人の特権を一部撤回した[151]1565年、ポーランドのユダヤ人は卑しい職業に従事しているわけでもなく、土地を所有し、医学、占星術を研究し、大きな富を蓄えて、武器の携帯も認められている、と教皇使節が報告しており、他国の境遇との隔たりがあった[151]。当時、ポーランドのユダヤ人は商業、行政、森林開拓、岩塩採掘、農業、銀行、ポーランド貴族の御用商人、宮廷ユダヤ人など、多岐にわたって浸透しており、ユダヤ人から利益を得ていたポーランド貴族はユダヤ人を庇護した[151]

他方で、ポーランドの聖職者はユダヤ人を攻撃し、イエズス会のピョトル・スカルガ(Piotr Skarga 1536年 ‐ 1612年)は、トレントのシモン少年儀式殺人事件や、聖餅冒涜裁判の原告にもなった[151]。イエズス会の神学生はユダヤ人へのポグロムを繰り返し、またポーランドの農民は農民が稼いだ金でユダヤ人は腹を満たすとして、「ユダヤ人、ドイツ人、悪魔」の三人兄弟のうち、悪魔が一番ましという諺もあった[151]

ポーランド・リトアニア共和国の支配下にあったウクライナにおいて、ギリシア正教を奉じるウクライナ農民にとってカトリックの領主とその家令ユダヤ人は憎悪の対象であった[151]1648年ボフダン・フメリニツキーはギリシア正教徒で、「ギリシア人」を名乗り、「ポーランド人とそのお抱えの家令、仲買人たるユダヤ人から受けた屈辱を忘れまい」と叫び、ユダヤ人、ポーランド人の別なく改宗を迫ったり、殺害していった[151]。このフメリニツキーの乱(1648年 - 1657年)はやがてロシアとポーランドの戦争(1654年-1667年)となり、ロシア軍もユダヤ人を殺害した[151]。この戦乱でユダヤ人は奴隷としてトルコに売られていった[151]

この大洪水時代によって、ポーランドは荒廃し、ポーランドのユダヤ人も致命的な打撃を受けて、17世紀後半にはポーランドのユダヤ人は銀行家の地位を追われ、1765年、ポーランド政府は、従来の集団単位の課税から人頭税に切り替え、ユダヤ人の組織「四邦議会」を廃止した[151]。多くのユダヤ人が国外のハンガリーやルーマニアへ逃亡し、またポーランドのユダヤ難民を救済するための募金活動が各地のユダヤ社会で行われた[151]

同じ、1648年、トルコのスミルナで偽メシアのシャブタイ・ツヴィも頭角を現していった[151]。また、カバラー学者は1666年をメシア到来の時と解釈した[151]

ウクライナガリツィアイスラエル・ベン・エリエゼル(バアル・シェム・トーブ)は、奇跡の治癒と悪魔祓いを行いながら、自然に聖なる花火として偏在する神の存在を説いて、ハシディズム運動を起こし、ポーランド、東ヨーロッパ各地に広まった[151]。しかし伝統的なユダヤ教ラビはハシディズムを異端として排斥した[151]

ウクライナ・ロシア戦争 (1658年-1659年)の時、バシリ・ヴォシュトシロは、不実のユダヤ人が暴行、殺人、略奪を平気で犯し、キリスト教徒の女性を侵している、かくして「余は、キリスト教の聖なる信仰にたいする熱意に駆られ、数名の清廉の士を同士として、ユダヤの呪われた民を根絶やしにする決意を固めた」と宣告した[151]

1772年、第一次ポーランド分割前夜には、ポーランドの暴徒たちが、エカチュリナ大帝の皇帝勅書をふりかざし、全スラヴ的信仰を旗印として、ユダヤ人とポーランド領主に対する組織的な絶滅作戦を展開した[151]。しかし、この皇帝勅書は、ロシア正教のメルヒセデブ神父が作成したとみられる偽の皇帝勅書であり、そこには、ポーランド人とユダヤ人が全スラヴ的信仰に対して軽侮しており、冒涜者たるポーランド人とユダヤ人を根絶やしにすることが目的であると書かれていた[151]

また、18世紀には、儀式殺人が多発した[151]。改宗ユダヤ人のミハイル・ネオフィートが、自分は以前はリトアニアのラビであったが、ユダヤ教では儀式殺人が掟であり、自分はかつてキリスト教徒の子供を殺したと自白した[151]。ネオフィートの証言記録は、ポーランドやロシアで反ユダヤ主義の典拠となっていった[151]

近世ロシア編集

モンゴルのくびきから解放されたイヴァン3世(在位1462年 - 1505年)がモスクワ大公国を四倍に拡大した時代、ユダヤ人はモスクワ大公国に足を踏み入れた[152]

1470年頃、スハリヤという男がノヴゴロドでユダヤ教の優位を説教し、キリスト教聖職者もユダヤ教へ改宗したが、布教活動が公然と行われるようになると記録が途絶えた[152]。しかし、スハリヤユダヤ教団は「ユダヤ教まがいのキリスト教徒」[153]として密かに活動を続け、イエスはモーセと同じ位格であり、父なる神と同格ではないと主張したが、これは4世紀の東ローマ帝国アンキラのマルケロス派(Markellos of Ankyra)、フォティノス派(Photinus)の教えと同じであった[152]。この「ユダヤ教」の教えはロシアで広まったが、全スラブ主義者が勝利して、イヴァン4世(在位1533年 - 1547年)治世下の1540年、スハリヤユダヤ教団の指導者たちは処刑された[152]。スハリヤユダヤ教団事件以降、モスクワ大公国では異邦人は特別居住区に住まわせられ、ユダヤ人への隔離政策も行われた[152]

1550年、イワン雷帝は、ポーランド王ジグムンド=アウグストからユダヤ人商人のモスクワ入りの許可を求められると、毒薬を持ち込むユダヤ人を入国することはできないと拒否した[152]

1698年、ピョートル大帝がアムステルダム市長ウィトセンからユダヤ人商人のモスクワ滞在の許可を求められると、自由思想の持ち主であったピョートル大帝は時期尚早と断った[152]

ピョートル大帝死後の皇后エカチェリーナ2世は、ウクライナ、ロシアからのユダヤ人全員を追放し、以後入国も禁止した[152]1743年には元老院がユダヤ人商人の市場参加で帝国国庫がいかに潤うかを報告しても、女帝はキリストの敵からの利益は不要であると認めなかった[152]

パーヴェル1世(在位:1796年 - 1801年)は、ガヴリ−ナ・デルジャーヴィンにポーランドのユダヤ人調査を命じて、デルジャーヴィンは、シナゴーグは迷信と反キリスト教的憎悪の巣以外の何物でもない、ユダヤ人自治機構カハルは危険な国家内国家であり、ユダヤ人は隣人の財産を奪い取ることを目的としていると報告した[154]

オーストリア・ハプスブルク帝国編集

神聖ローマ皇帝カール6世(在位:1711年 - 1740年)のウィーンではユダヤ人の人口増加を防ぐために、1726年の法で、正式に結婚できるのは長男だけとされた[3]。この結婚制限法は、ボヘミア、モラビア、プロイセン、パラティナ、アルザスでも適用された[3]。この結果、多くのユダヤ人若者がポーランドやハンガリに流出した[3]

印刷術の発達によって、反ユダヤ的著作は毎年のように夥しい量が出版され、書誌学者ヨハン・クリストフ・ヴォルフの『ビブリオテカ・ヘブラエア』(1715-1733 全四巻)では反ユダヤ的著作が1000点以上掲載された[3]

ハイデルベルク大学の東洋学・ヘブライ学者ヨハン・アンドレアス・アイゼンメンガー(Johann Andreas Eisenmenger)は1700年、『暴かれたユダヤ教(Entdecktes Judenthum)』全二巻を著したが、オーストリア宮廷ユダヤ人のハイデルベルクのザームエル・オッペンハイマーによって、発禁処分となり、アイゼンメンガーは無念のうちに4年後に死んだ[3]。しかし、アイゼンメンガー死後まもなくして、プロイセン王フリードリヒ1世の後ろ盾を得て、遺族が再刊し、以後、ドイツの反ユダヤ主義の枕頭の書となった[3]

オーストリア継承戦争でユダヤ人がプロイセンのスパイとして活動したということから、1744年オーストリア大公マリア・テレジアがボヘミアでユダヤ追放令を出した[3]。しかし、ヴォルフ・ヴェルトハイマーがユダヤ人の国際連帯活動を行い、フランクフルト、アムステルダム、ロンドン、ヴェネツィアのユダヤ人居住地は警戒態勢を敷き、ローマのゲットーには教皇に働きかけるよう指示があり、宮廷ユダヤ人の国際ネットワークの力によって、イギリスとオランダがマリアテレジアへ抗議して、マリアテレジアは追放令を解除した[3]。このウィーンでのユダヤ追放令が国家による大規模な追放政策としては最後のものとなった[3]

近代の反ユダヤ主義編集

イギリス理神論編集

 
ユダヤ・セファルディム系オランダ人哲学者バールーフ・デ・スピノザはユダヤ教共同体から破門された後に匿名で書いた『神学・政治論』(1670年)でユダヤの神を憎しみの神であると論じて、これが啓蒙思想に広がっていった[155]
 
理神論哲学者ジョン・トーランド(1670 – 1722) は当時イギリスで唯一ユダヤ人を擁護した[156][157]

宗教改革と宗教戦争を経て、16世紀ソッツィーニ派聖書権威を批判し、三位一体説予定説、キリストの神性を否定し、教会国家の分離(政教分離)を主張し、神だけの神性を主張し,イエスの神性を否定するユニテリアンに影響を与えた[158]。やがて、この潮流はハーバート卿やトーランドなどイギリスの自由思想家によって理神論(自然宗教)という理性に基づく合理主義的な有神論となった。

1624年、チャーベリーのハーバート卿は『真理について』を公刊し、デカルトなどに影響を与えた[159][160]

オランダのユダヤ・セファルディム系哲学者スピノザにとってユダヤ教は確かな論拠と証明に基いていないのでそれがユダヤ共同体から離れる原因となり、さらにスピノザはユダヤ人の男に短剣で襲撃されたことでスピノザはユダヤ共同体と絶縁した[161]。スピノザはユダヤ共同体から破門され、追放された[161]。その後、スピノザは匿名で1670年に『神学・政治論』を書き、ヘブライ人の宗教は他の民族とは絶対に相反的なものであり、ユダヤ教において他の民族への憎しみは敬神と敬虔から生じた神聖なものと信じられていると、ユダヤ教について激しく攻撃的に論じた[155][162]。スピノザの聖書批判はキリスト教神学者の間でも反発を呼んだ[163]。スピノザによって、ユダヤの神は憎しみの神であるという考え方、そしてユダヤ教は迷信にすぎないといった見方が啓蒙思想に広がっていった[155]ピエール・ベールは『歴史批評辞典』 (1696年)でスピノザの聖書批判を紹介し、フランスやイギリスでも知られるようになった[156]。ポリアコフは、スピノザは近代の反ユダヤ主義の形成において重要な役割を果たしたと論じている[155]

1696年に自由思想家で合理主義(理神論)哲学者ジョン・トーランドは『キリスト教は秘蹟的ならず』を著し、教父たちは真のキリスト教を堕落させてきたとして、「理に適った」(合理的な)教説を説き、キリスト教はもとはユダヤ教徒であったと論じた[156][164]。1718年の『ナザレ人』では、「ユダヤ教徒が奉じる真のキリスト教」はローマ帝国の異教徒たちによって圧殺され、また教皇制度はキリスト教を歪める一方で、ユダヤ教の儀式を非難してきたが、こうしたことの根拠は聖書には書かれていないと論じた[165][156]。トーランドにおいては、これまでのキリスト教世界が批判される一方で、ユダヤ人が擁護された[156]

トマス・ウールストンは1705年の著作『ユダヤ人と復活した異邦人に対するキリスト教の真実のための古い弁明』以来の著作やパンフレットで、ユダヤ人は「騒音と悪臭の根本」であり、「世界はユダヤ人の毒に満ちている」と論じた[166][156]。ウールストンの著作は何万部も刷られ、ヴォルテールはウールストンの著作を典拠にした[156]

トーランドは1714年に、『ユダヤ人帰化論、および全ての偏見に対してのユダヤ人の擁護』を刊行し、ヨーロッパ大陸からユダヤ人を受け入れるよう主張した[167][156]

ニュートンの推薦でルーカス教授職に就いたウィリアム・ホイストン1722年の『旧約聖書再現試論』でユダヤ人は旧約聖書の写本を歪め、故意に改悪したと論じた[168][156]

1724年、アンソニー・コリンズは『キリスト教基礎論』でユダヤ教は民族宗教にすぎないと主張した[169][156]ドルバック伯爵はコリンズから影響を受けた[156]

1730年、マシュー・ティンダルは『天地創造と同じ古さを持つキリスト教、あるいは自然宗教の福音』を刊行し、これは理神論のバイブルといわれたが、ユダヤ人の悪しき影響力を論じたものでもあった[170][156][171][156]

1737年、トマス・モーガンは『キリスト教徒の理神論者フィレラテスとキリスト教徒ユダヤ人テオファネスとの対話のなかの道徳哲学者』では、スピノザの神学を引き写して、イスラエルの神は戦の神であり、その土地の民族の神にすぎないとして、理神論者がキリスト教徒ユダヤ人に打ち勝つ[172][156]

1737年から1741年にかけてのウィリアム・ウォーバートンの『モーセの聖使節』では、神が最も粗野で卑しい民族を選んだということが啓示の根拠であると論じた[173] [156]

ボーリングブルックはユダヤ人とキリスト教教父たちはキリスト教を悪質なものへと変えたと非難した[156]

こうしたイギリス理神論は、ユダヤ人に取り憑かれたように非難していたわけではなかった[157]。しかし、ジョン・トーランドだけを唯一の例外としてほとんどの者が伝統的なキリスト教的な反ユダヤ主義を保持し続けた[157]。イギリスでの理神論は、ユダヤ=キリスト教の窮屈さ、旧約聖書排他主義を批判し、文明や人類の起源をエジプトやインドに求めていくようになり、これが後年の「アーリア神話」そして、ヒトラーの人種主義に行き着くことになった[157]

イギリス理神論は、フランスのヴォルテールジュネーヴルソーなど百科全書派や啓蒙主義者をはじめとして、ヨーロッパの思想に大きな影響を与えた[174][156]

啓蒙思想と反ユダヤ主義編集

 
啓蒙思想家ヴォルテールは反ユダヤ主義者でもあった[175][176]

ヴォルテール、カント、フィヒテなど啓蒙思想家のなかでも反ユダヤ主義は多くみられた[175]。また、それはドイツの啓蒙思想、ドイツ観念論でも同様であった。

フランス啓蒙思想編集

1762年ジャン=ジャック・ルソーは『エミール』で、ユダヤ人を「もっとも卑屈な民」と称し、ユダヤの神は怒り、嫉妬、復讐、不公平、憎悪、戦争、闘争、破壊、威嚇の神であり、「はじめにただ一つの国民だけを選んで、そのほかの人類を追放するような神は、人間共通の父ではない」とした[177]

同じ1762年、ヴォルテールはユダヤ人のイザーク・ピントへの批判に対して「シボレットを発音できなかったからといって4万2千人の人間を殺したり、ミディアン人の女と寝たからといって2万4千人の人間を殺したり、といったことだけはなさらないでください」と「キリスト者ヴォルテール」と署名して答えた[178][* 7]1764年の『哲学辞典』ではヴォルテールは、ユダヤ人は「地上で最も憎むべき民」「もっとも忌まわしい迷信にもっとも悪辣な吝嗇を混ぜ合せた民」等と非難した[180]。しかし、ヴォルテールは啓蒙主義の進展に寄与したため、当時のユダヤ人側から厳しい評価が寄せられなかった[181]

モンテスキューはオランダ人の一部の人以上にユダヤ的なユダヤ人はいないと旅行記で述べた[182]

ドイツ啓蒙思想、ユダヤ人解放論、ユダヤ啓蒙編集

1768年 - ポーランド支配下のウクライナでハイダマク(ハイダマキ運動)によるポグロムが発生した[126]

1776年自由主義神学者ヨーハン・ゼムラーは「無能にして不信心なユダヤ人」は「誠実なるギリシア人やローマ人とは比較の対象にすらならない」として、旧約聖書、とりわけエズラ書ネヘミヤ書にはキリスト教的精神が欠如しており、聖書として永遠に必要不可欠なものであるのかと問いかけた[183][184]

1779年、フランソワ・エルがアルザスのユダヤ人を「国家内国家」として非難した[185]。「国家内国家」という表現はユグノーに対して使われたもので、1685年にはナントの勅令が廃止された[185]

 
サンスーシ宮殿(1747年)。サンスーシはフランス語で「憂いのない」を意味する。
 
「フリードリヒ2世 プロイセン王」アントン・グラフ(Anton Graff)1781年画。アドルフ・ヒトラーは強力な軍事力でプロイセンの領土を拡大させていったフリードリヒ2世を理想の人物と仰ぎ、官邸に大王の肖像画を掛けていた[186]

一方、フランス・ロココ様式サンスーシ宮殿を築き、ヴォルテールを招くなど啓蒙思想を庇護したプロシアのフリードリヒ2世は、1780年に『ドイツ文学について。非難されるべき欠点、その原因と改善策』 をフランス語で著述した[187][188]。フリードリヒ2世は、ドイツ文学で評価できるはゲラートの寓話[189]、エヴァルト・クリスティアン・フォン・クライスト [190]、ザロモン・ゲスナーの『牧歌』[191]、アイレンホフの『郵便馬車』[192]ぐらいで、他はシェークスピアやゲーテの『ゲッツ』のように芸術の規則を無視したものばかりであるとする[188]。フリードリヒ2世は、そのようなドイツ文学の惨状の原因は、戦争、そしてドイツが政治的な統一国家を作れないこと、ドイツ語は多種の異なる方言をもち、未発達な言語であり、統一言語がないことなどにあるとする[188]。ドイツ語は未発達な言語であるため、宮廷ではフランス語が使われた[188]。また、フリードリヒ大王のプロイセンでは、言論の自由が保障されているが、服従が国家の核心にあったとクラインは述べ、またカントは日常の職務では自由を制約されると論じて、ハーマンはこれを批判した[188]

プロイセン王国枢密顧問官のクリスティアン・コンラート・ヴィルヘルム・ドーム(1751-1820)は、エルのユダヤ人非難文書に刺激されて、ユダヤ系哲学者モーゼス・メンデルスゾーンとともにユダヤ人の解放と信教の自由を訴え、1781年9月に『ユダヤ人の市民的改善について』を発表して、ユダヤ人が特別な許可がなくては結婚もできず、課税は重く、仕事や活動が制限されていることを批判した[193][194][185]。ド−ムの『ユダヤ人の市民的改善について』に対して、ヘブライ語やモーセ律法の研究で高名なゲッティンゲンのルター派神学者ヨハン・ダーフィト・ミヒャエーリス(1717 – 1791)は、悪徳で不誠実な人間であるユダヤ人は背が低く、兵士としても役立たずで、国家公民になる能力を欠いており、さらにその信仰は誤った宗教であるのに、ドームは職業選択の自由だけでなくユダヤ人が固有の掟に従うことまでを許しているとして、ドームを批判して、ユダヤ人解放を拒否した[195][196][197][185]

1782年、オーストリアの神聖ローマ皇帝ヨーゼフ2世がボヘミアとオーストリアのユダヤ人の市民権を改善する寛容令を公布した[185]

ユダヤ人の工場経営者で哲学者であったモーゼス・メンデルスゾーンはユダヤ啓蒙運動を展開して、詩篇とモーセ五書をドイツ語に翻訳し、ユダヤ人子弟の教育では従来の律法重視を改めて世俗的な科目や職業訓練を訴えて、ユダヤ人のキリスト教社会への同化を進めた[185]1770年にはメンデルスゾーンは街路を歩くと罵声を浴びせかけられるのが日常であったため、外出しないようにしていた[198]1782年、メンデルスゾーンはマナセ・ベン・イスラエルの『イスラエルの希望』(1652年)のドイツ語訳前書きで、国家が宗教への介入をやめるという政教分離原則を主張しながら、ユダヤ人社会の宗教的権威から独自の裁判権を放棄するよう求めた[185]

フランス革命と革命戦争編集

フランス革命とユダヤ人問題編集

フランスのアルザスでは、1784年、地方領主が徴収していたユダヤ人通行税が廃止され、同年7月にはユダヤ人への農地所有が認められた[185]。これは外国人のユダヤ教徒の排除が目的であり、ユダヤ人の当地の人口を抑制するための政策であった[185]

1787年メッスの王立学芸協会は「ユダヤ人をフランスでよりいっそう有益かつ幸福にする手段は存在するか」で論文を公募し、アンリ・グレゴワール神父(Henri Grégoire)とザルキント・ウルウィッツのユダヤ人擁護論が表彰された[185][199][200]。グレゴワール神父は1789年ジャコバン派の三部会議員となり、ユダヤ人解放に尽力し、ウルウィッツは著書『ユダヤ人擁護論』を書いて、ミラボーに注目された[185][201]

 
フイヤン派ミラボー伯爵オノレ・ガブリエル・ド・リケッティはフランス革命で、ユダヤ人解放を実現した。

1789年フランス革命が勃発し、人権宣言が出された。ミラボー伯爵はドームとベルリンのサロンで親交して影響を受けて、フランス革命でユダヤ人解放を実現した[194]1791年1月28日フランス革命中のフランスでは、イベリアから移住したポルトガル系ユダヤ人と、アヴィニョン教皇領のセファラディームの職業と居住地が保障された[202]1791年9月27日に反対者によって国民議会は分裂寸前となったが、ユダヤ人解放令は議決し、1791年11月に発効した[194]。しかし、フランス革命の動乱でユダヤ人が解放されることはなく、ユダヤ人の解放政策が進展したのはナポレオン時代以後のことであった[203]

フランス革命戦争以後のドイツ編集

 
エドマンド・バークは『フランス革命の省察』でフランス革命を批判して、ドイツにも影響を与えた。
 
ヴァレンヌ事件。ヴァレンヌからパリへ連れ戻されるルイ16世国王一家。
 
1791年のパリ脱出時のルイ16世王妃マリー・アントワネット。王妃は神聖ローマ皇帝フランツ1世マリア・テレジアの娘で、神聖ローマ皇帝レオポルト2世の妹だった。1793年に斬首された。

フランス革命戦争(1792年-1802年)とそれに続くナポレオン戦争(1803年–1815年)で、オーストリア帝国プロイセン王国がフランスに敗れ、神聖ローマ帝国が崩壊した。フランスの覇権が拡大するなか、ドイツではドイツ至上主義・ゲルマン主義が台頭すると同時に、反フランス主義と反ユダヤ主義が高まっていった。

ドイツの教養市民はゲーテを例外として、フランス革命を「理性の革命」として熱狂的に歓迎した[204]。しかし、フランス革命の恐怖政治が現出するとやがてドイツの知識人は革命を憎悪するようになり、反革命へと転化した[204]。詩人クロプシュトックはフランス革命を称えた数年後に「愚民の血の支配」「人類の大逆犯」としてフランスを糾弾した[204]。同じく革命発生時には称賛したフリードリヒ・ゲンツは1790年エドマンド・バークの『フランス革命の省察』をドイツ語に翻訳した[204]。プロイセンではヴェルナー宗教令への反対者は「ジャコバン派(革命派)」として糾弾され、シュレージエンでは革命について語っただけで逮捕され。オーストリアでは外国人の入国が制限された[204]。フランス以外の国が反革命国家となった要因としては、アルトワ伯などのフランスの亡命貴族たちの活躍があった[204]アルトワ伯はコーブレンツに亡命宮廷をひらき、ラインラントを拠点として反革命運動を策動した[204]

1791年6月、ルイ16世マリー・アントワネット国王一家がフランスを逃亡しようとしたが、国境付近で逮捕されたヴァレンヌ事件が起きた。啓蒙君主であった神聖ローマ皇帝レオポルト2世は妹のマリー・アントワネットを危惧し、プロイセン王フリードリヒ・ヴィルヘルム2世と共にピルニッツ宣言を行い、フランスに王権復旧を要求した[204]神聖ローマ帝国とプロイセンの反革命宣言はフランスへの挑発となって、1792年3月1日、フランスの好戦派はオーストリアに宣戦布告し、プロイセンもオーストリアの同盟国として参加して、革命戦争がはじまった[204]。フランスの革命勢力は、外国の反革命勢力を倒し、また「自由の十字軍」として好戦的であり、ジロンド党のブリソは「戦争は自由をかためるために必要である」と演説した[204][205]。革命側は短期決戦による勝利を期したが、軍の貴族将校の半数が亡命しており、フランス軍は敗退すると、革命派は国王一家がオーストリア・プロイセン軍と内通しているとみなして宮殿を襲撃して国王一家を幽閉する8月10日事件が起こった[205]。また、反革命派1200人が虐殺される九月虐殺が起こった[205][206][207]。9月、フランス国民軍ヴァルミーの戦い傭兵を中心としたプロイセン軍に勝利して、フランスでナショナリズムが高揚した[205]。ヴァルミーの戦いでのフランスの勝利によって、革命戦争が革命対反革命の戦争から、フランスの大陸制覇戦争へと性格を変えていった[204]

1793年1月にルイ16世が処刑されると、ドイツ側にイギリス、スペイン、イタリアなどの反革命諸国家が参加し、第一次対仏大同盟が形成された[205]フランス1793年8月23日国家総動員法を発令し、徴兵制度を施行し、史上初の国民総動員体制をもって恐怖政治のもとに戦時下の非常処置がとられた[205]。戦争はフランス軍有利な情勢となり、1794年9月、フランス軍はオランダへ侵攻し、ネーデルラント連邦共和国は崩壊、1795年1月にはフランスの傀儡国(姉妹共和国)としてバタヴィア共和国が宣言された。バタヴィア共和国ではユダヤ人にも公民権を授与した[203]1795年4月、フランスはプロイセンを破り、またプロイセンはポーランド分割に関心を向け、バーゼルの和約でプロイセンはフランス革命政府によるラインラント併合を承認して、対フランス連合から退いた[204]1794年から1795年にかけてウィーンでは、「ドイツ・ジャコバン派」が処刑された[204]ゲオルク・フォルスターたちはマインツ共和国をつくったが、マインツがプロイセンとオーストリアの連合軍に占領され、崩壊した[204]

プロイセンの対フランス連合脱落によって、オーストリアは単独でフランスと対峙した[204]1796年以来、ナポレオン・ボナパルト率いるフランス軍はオーストリア軍を連破し、1797年10月、カンポ・フォルミオ条約によって、フランスはイオニア諸島ネーデルラント、ライン川左岸地区を保有し、オーストリアはヴェネツィア共和国を領有した[208]。これによって、対仏大同盟は崩れ、各地にフランスの衛星国がつくられた[205]

カンポ・フォルミオ条約後、ゲットーが解体された。ナポレオンはイタリア、ローマ教皇領のユダヤ人の市民権を認めて解放し、ライン地方のユダヤ人も市民権を授与され解放された[203]。しかし、アムステルダムのセファルディはそれ以前の身分制度に満足していたため、市民権を不必要であるとしてユダヤ共同体も分裂状態となった[203]。こうしてナポレオンとフランスはユダヤ人解放者としての名声を確立した[203]。しかし、そのナポレオンもユダヤ人の非ユダヤ教化を望んでおり、またユダヤ人に対してはイナゴの大群のような臆病で卑屈な民族であるとして、ユダヤ人の「解放」は、これ以上他人に害悪を広めることができない状態に置いてやりたいだけであると述べ、ユダヤ人とフランス人との婚姻を進めれば、ユダヤ人の血も特殊な性質を失うはずだと、ユダヤ人種の抹消を目標としていた[203]。また、ナポレオンのユダヤ政策の作成過程では、「ユダヤ人」は好ましくない偏見があるので、公文書から「ユダヤ人」の名称を一掃することが提案されたこともあった[182]。ドイツ諸邦では行政の場では「モーゼ人(Mosaiste)」が奨励されたが定着しなかった[182]

1798年、ロシア、トルコが参戦し、オーストリアも戦列に復帰して第二次対仏大同盟が結ばれ、1799年11月、ナポレオンがクーデターによって政権を握った[205]

ドイツ観念論と反ユダヤ主義編集

 
哲学者イマニュエル・カントは、ユダヤ人がキリスト教を公に受け入れれば、ユダヤ教は安楽死できると述べるなど、ユダヤ教を否定した[209]
 
ドイツ観念論の哲学者ヨハン・ゴットリープ・フィヒテはユダヤ人の害から身を守るには、ユダヤ人全員を約束の地に送り込むしかないと論じた[210]。またナポレオン占領下のベルリンで『ドイツ国民に告ぐ』((1807年-1808年)を講演して反響を呼び、ドイツ国民運動の祖となった。
 
ドイツ観念論の哲学者ゲオルク・ヴィルヘルム・フリードリヒ・ヘーゲルは『法の哲学』(1821年)において、自己内へ押し込められ無限の苦痛にあるユダヤ民族に対して、ゲルマン民族は客観的真理と自由を宥和させると論じた[211]

ドイツの哲学者イマヌエル・カントは、モーゼス・メンデルスゾーンなどユダヤ人哲学者と交流していたが著作では反ユダヤ主義的な見解を繰り返し述べており、『単なる理性の限界内での宗教』(1793年) で、「ユダヤ教は全人類をその共同体から締め出し、自分たちだけがイェホヴァ−に選ばれた民だとして、他のすべての民を敵視したし、その見返りに他のいかなる民からも敵視されたのである」[212]と述べ、また晩年の『実用的見地における人間学』(1798年)でも、「パレスティナ人(ユダヤ人)は、追放以来身につけた高利貸し精神のせいで、彼らのほとんど大部分がそうなのだが、欺瞞的だという、根拠がなくもない世評を被ってきた」と書き[213]、『諸学部の争い』ではユダヤ人がキリスト教を公に受け入れればユダヤ教とキリスト教の区別が消滅し、ユダヤ教は安楽死できると述べている[209]。カントは、啓蒙思想によるユダヤ人解放を唱えながら、儀礼に拘束されたモーセ教(ユダヤ教)を拒否した[214]。他方のモーゼス・メンデルスゾーンはラファータ−論争でキリスト教への改宗を断じて拒否した[215]

また、カントは、フランス革命を賛美しつつも、教会や圧政などの「外界からの自由」というフランス革命の自由観を批判して、自律的な自己決定という概念によって、外界の影響に左右されない「完全な自由」観を生み出した[216]。 カントは、人間は外なる世界ではなく、自己の内なる世界、自律的な精神の中の道徳律に従うときに自由であると論じたが、このようなカントの哲学が政治に適用されると、自律性と自己決定をもって道徳に従う政治がよい政治とされ、自決権の獲得が政治目標となる[216]。こうしたカントの思想はフィヒテによって継承された。

当初、フランス革命の熱心な支持者であったドイツの哲学者フィヒテは、「フランス革命覚書」(1793年)[217]で革命を理論的に根拠づけるととともに、ユダヤ人がドイツにもたらす害について述べた[210][218]。フィヒテはまた、「ユダヤ人から身を守るには、彼等のために約束の地を手に入れてやり、全員をそこに送り込むしかない」[219]「ユダヤ人がこんなに恐ろしいのは、一つの孤立し固く結束した国家を形作っているからではなくて、この国家が人類全体への憎しみを担って作られているからだ」とし、ユダヤ人に市民権を与えるにしても彼らの頭を切り取り、ユダヤ的観念の入ってない別の頭を付け替えることを唯一絶対の条件とした[210]。フィヒテは、世界は有機的な全体であり、その部分はその他の全ての存在がなければ存在できないとされ、個人の自由は全体の中の部分であり、個人より高いレベルの存在である国家は個人に優先すると論じて、個人は国家と一体になっ たときに初めてその自由を実現すると、主張した[216]。このようなフィヒテの国家観は、シェリング、ミューラー、 シライエルマッハーによって支持された[216]

フィヒテと同じく当時はまだフランス革命の熱心な支持者であったフリードリヒ・シュレーゲルは「共和主義の概念にかんする試論」(1793年)で民主的な「世界共和国」を論じて、革命的民主主義に疑念を呈したカントの『永遠平和のために』(1795年)を乗り越えようとしたが、シュレーゲルもナポレオン時代にはドイツ国民意識を鼓舞する役割を果たした[218]

1799年自由主義神学者ヨーハン・ゼムラーの弟子フリードリヒ・シュライアマハーは宗教論第5講話で、ユダヤ教は聖典が簡潔し、エホバとその民との対話が終わったときに、死んだと述べた[220][221]

ヘーゲルは『宗教哲学講義』でユダヤ人の奴隷的意識と排他性について論じ[222]、『精神現象学』(1807年)でユダヤ人は「見さげられつくした民族であり、またそういう民族であった」[223]1821年の『法の哲学』ではイスラエル民族は自己内へ押し込められ無限の苦痛にあるのに対して、ゲルマン民族は客観的真理と自由を宥和させるとした[224][211]。『キリスト教の精神とその運命』ではユダヤ人は「自分の神々によって遂には見捨てられ、自分の信仰において粉々に砕かれなければならなかったのである」、「無限な精神は牢獄に等しいユダヤ人の心の中には住めない」と批判した[225][226]

哲学者アルトゥル・ショーペンハウアー(1788- 1860)は、インド仏教に発したキリスト教が、荒削りなユダヤ教の古い幹を覆い、キリスト教によってユダヤ教はまったく別のもの、いきいきとした真実なものに変えられた、とした[227]。みずからの被造物をよしとする造物主という発想をショーペンハウアーは受け入れず、「すべてをたいへん良いと見たユダヤ的楽天観の光は消えて、いまや悪魔そのものがこの世の君と呼ばれる」と書いた[228][227]。ショーペンハウアーにとって、シナゴーグも哲学の講堂も本質的に大差はないが、ユダヤ人はヘーゲル派よりも質が悪いと考えていた[229][227]。ショーペンハウアーは「ユダヤ人は彼らの神の選ばれた民であり、神はその民の神である。そしてそれは、別にほかのだれにも関係のないことである」と述べている[230][227]

ナポレオン戦争と神聖ローマ帝国の崩壊編集

 
1800年12月3日ホーエンリンデンの戦い。ナポレオン軍がハプスブルク帝国オーストリア軍に勝利し、この後、神聖ローマ帝国は崩壊していく。
 
神聖ローマ帝国が喪失したラインラント1815年ウィーン議定書でプロイセンに割譲される。

1800年、ナポレオンがマレンゴの戦いホーエンリンデンの戦いでオーストリア軍を撃破し、1801年リュネヴィルの和約神聖ローマ帝国はライン川西岸のラインラントを喪失した[204]。リュネヴィルの和約によって、ドイツ世俗諸侯による聖界領の接収という世俗化の原則と、諸侯が領邦国家としての自立性と皇帝直属の臣下の身分を剥奪されて、他国の支配下に入る陪臣化の原則が打ち立てられた[204]

1801年、作家フリードリヒ・フォン・シラーはリュネビルの講和後に、ドイツ帝国とドイツ国民は別であり、「ドイツ帝国が滅びようと、ドイツの尊厳がおかされることはない」と述べた[231]

1803年2月25日帝国代表者会議主要決議により、帝国騎士領は全て取り潰され、聖界諸侯ではマインツ選帝侯のみレーゲンスブルクに所領を得たが、ケルン、トリーアの聖界諸侯は消滅した[204]アウクスブルクニュルンベルクフランクフルト・アム・マインブレーメンハンブルクおよびリューベックの6都市と、ライン左岸4都市をのぞく41の帝国自由都市陪臣化された[204]。ナポレオンは西南ドイツを自立させて、プロイセンとオーストリアに対する政策をとった[204]。バーデン、ヴュルテンベルク、バイエルンなど西南ドイツ諸国は、失ったライン左岸の補償として領地を拡大することとなった[204]

1803年、イギリスとフランスは再び開戦し、ナポレオン戦争(1803年–1815年)がはじまる。イギリスは、オーストリア帝国、ロシアなどと第三次対仏大同盟を結成した。

1804年、ナポレオンがフランス皇帝を称したのに対してフランツ2世はオーストリア皇帝を称した(オーストリア帝国[204]。この1804年、オーストリア帝国外相メッテルニヒの秘書官を務めたフリードリヒ・フォン・ゲンツ(Friedrich von Gentz,1764-1832)は、ユダヤ人サロンの常連であったが、「近代世界のすべての害悪が最終的にすべてユダヤ人に起因している」と書簡で本音を述べた[232]。ゲンツは、フランス革命が起きた時には、「理性の革命」であり、「哲学の最初の勝利」として熱狂的に歓迎したが、やがて反革命の騎手となっていた[204]

1805年からの第三次対仏大同盟戦争で、フランス軍は1805年10月のウルム戦役でオーストリアを降伏させ、12月アウステルリッツの戦い(三帝会戦)でオーストリア・ロシア連合軍に勝利した[204]プレスブルクの和約でドイツは「帝国」ではなく「連盟」と呼ばれ、皇帝は「ローマ=ドイツ皇帝」でなく、「「ローマ=オーストリア皇帝」を名乗り、また、フランスの同盟国であったバイエルンヴュルテンベルクバーデンは選帝侯国から王国・大公国に昇格し、バイエルン王国にはオーストリア領チロルバーデン大公国にブライスガウが割譲された[204]

1806年7月12日バイエルンヴュルテンベルクバーデンなど西南ドイツの16領邦諸国家はナポレオンを保護者とするライン同盟(ラインブント)を結成し、帝国脱退を宣言した[204]1806年10月、フランツ2世はオーストリア皇帝の称号は保持したまま、神聖ローマ皇帝としての退位を宣言し、こうして1512年以来の「ドイツ国民の神聖ローマ帝国」は終焉を迎えた[204][233]。この頃のドイツは大半がフランスの支配下にあり、マインツケルントリーアなどのライン左岸地域は1794年以来フランス軍政下にあり、1801年にフランスに割譲された[234]。ナポレオンはライン同盟をプロイセンやオーストリアに対する緩衝地帯として、またフランスはライン同盟と軍事援助協定を結んで、ライン同盟からの軍事協力を確保した[234]。ライン同盟はその後、ナポレオンの傀儡国家であるヴェストファーレン王国ザクセン王国など39のドイツ連邦が加盟した[234]。ライン同盟はプロイセンとオーストリアとデンマーク領ホルシュタイン、スウェーデン領ポメルン以外のすべてのドイツ連邦がこれに属した[234]

フランス占領下のドイツからドイツ解放戦争まで編集

プロイセンとオーストリアの敗戦編集

プロイセン1805年のフランスとの条約でハノーファーを獲得していたたが、1806年になると、ナポレオンはハノーファーをイギリスに返還しようとしたため、プロイセンはイギリス、ロシア、スウェーデン、ザクセン王国スウェーデン第四次対仏大同盟を結成し、1806年10月9日にフランスへの宣戦した[234]。しかし、10月14日のイエナ・アウエルシュタットの戦いでプロイセン軍は壊滅的な敗北を喫し、ナポレオンはベルリンへ進軍し、大陸封鎖令を発布する[234]。プロイセン軍は同盟国ロシアに頼ったが、1807年6月14日フリートラントの戦いでフランス軍はロシア軍を撃滅し、ロシアはフランスと7月のティルジットの和約で講和した[234]。ティルジットの和約によってプロイセンは、エルベ川以西の領土とポーランドを失い、国の面積は半分以下となり、巨額の賠償金を課せられた[234]。プロイセンは、ブランデンブルグ、東西プロイセン、ポメルン、シュレージエンの4州に縮小し、15万のフランス軍が進駐した[234]。プロイセン旧領の北西諸邦にはナポレオンの弟ジェロームを王とするヴェストファーレン王国が置かれた[234]

1807年にプロイセンがフランスに敗北するとオーストリアは独力で模索することとなり、1808年には一般兵役義務制度が導入され、正規軍とならんで民兵制が施行された[234]。この頃、半島戦争(スペイン独立戦争)でフランスがスペインに苦戦すると、オーストリアは会戦準備を始めた[234]

オーストリア外相シュターディオン伯爵は国内で愛国主義キャンペーンを実施して、バークの『フランス革命についての省察』を翻訳していた政論家ゲンツや、フリードリヒ・シュレーゲルもこのキャンペーンに協力した[234]。1809年3月、オーストリアはスペイン独立戦争でのスペイン国民の反フランス戦争のようにドイツ国民が決起するののを期待して、単独でフランスと開戦した[234]。しかし、期待されたような民衆蜂起はチロルを除いて起こらず、7月のヴァグラムの戦いでオーストリア軍はフランスに敗れ、10月14日のシェーンブルンの和約でオーストリアはザルツブルク、ガリツィア、チロルを放棄し、巨額の賠償金を課せられた[234]

また、戦勝国のフランスでは、1807年にユダヤ陰謀説が取沙汰されるようになり、その後、フリーメイソン陰謀説と交代して取沙汰されていき、これが19世紀以降の反ユダヤ主義の潮流と合流していった[235]

反フランス的報道の規制編集

ナポレオン占領地域では、反フランス的報道は厳しく弾圧され、バーデンでは1810 年に新聞発行が停止され、プロイセンでは検閲局が作られ、ラインラント新聞はフランス語との2言語表記が義務づけられた[123]。ニュルンベルクの書店主パルムは『奈落の底にあるドイツ』 というビラを配ったために1806年に銃殺された[236][123]

ナポレオンにライン左岸を奪われ、神聖ローマ帝国が解体し、40のドイツ領邦が支配され、新聞や出版の統制が進むと、ドイツ人は自分たちの弱さを自覚し、失望が広がるとともに、反ナポレオン運動はドイツ国家とドイツ民族を復古させるドイツ国民運動となっていった[123]

プロイセンでは1810年から宰相カール・アウグスト・フォン・ハルデンベルク指導のもと、改革が進められた[237]。ハルデンベルクは「リガ覚書」で「不死鳥よ、灰の中からよみがえれ」と書き、君主政治における民主的原則の実現が目指された[237]。プロイセン改革では、フランス革命の刺激を積極的に受け止められ、自由と平等が主張されたが、「フランス革命の血まみれの怪物どもがその犯罪の隠れみのした『自由と平等』」ではなく、君主国の賢明な方法によると説かれた[237]

ユダヤ教徒解放令編集

1812年 - プロイセン王国ユダヤ教徒解放勅令を出す[238]。前年の1811年にハルデンベルクの改革でユダヤ人の土地所有権が認められると、プロイセン王国の貴族は、国家の敵であるユダヤ人はやがて国の土地を買い占め、プロイセンをユダヤ人国家にしてしまうと抗議した[239]

ゲーテはユダヤ人解放はドイツ人の家庭の倫理を台無しにすると批判し、ユダヤ人解放の背後にロスチャイルド家を見ていた[240]

1815年、法学者サヴィニーはユダヤ人解放令を批判して、従来のユダヤ人例外措置を復活して、ユダヤ人をゲットーに再送するべきだと主張した[241]

ドイツでのユダヤ人解放は、ユダヤ人のドイツ人への同化と、ユダヤ教徒のキリスト教徒の改宗を前提にしており、1822年に創立された「ユダヤ人・キリスト教普及協会」が改宗を後押しした[242]

ドイツロマン派とゲルマン主義編集

 
エルンスト・アルントは自由で誠実なゲルマン人の血は純粋であると論じた。
 
教育者でドイツ国民運動家のフリードリヒ・ルートヴィヒ・ヤーン(Friedrich Ludwig Jahn)は原始ゲルマン人の末裔であるドイツ人と古代ギリシア人だけが聖なる民であると論じた。1817年のヴァルトブルク祭の立役者となった。

ドイツ・ロマン主義ではフランスの啓蒙主義に対抗して、ドイツ固有の国民文学の創造が主張された[243]。1799年の『キリスト教世界あるいはヨーロッパ』でフランス革命は神聖なるものを根こそぎにしたと考えたノヴァーリス[244]ヘルダーリンにも「選民としてのドイツ人」という概念が見られた[245]

フィヒテの思想的影響を受けた作家エルンスト・モーリツ・アルント農奴制廃絶運動を行った後、1806年の著書『時代の精神』や1813年の歌「ドイツの祖国とは何か」などで、ナポレオンのドイツ支配を批判した。アルントはナポレオン批判のなかで、ゲルマン人種が選民であると論じ、自由で誠実なゲルマン人の血の純粋さの根拠として、タキトゥス創世記を引き合いに出して、主の怒りである大洪水は雑種化に対するものであったとする[245]。ただし、アルントはドイツ人種への脅威としては主に「フランス人種」を見ており、ユダヤ人に対しては、ユダヤ系ポーランド人のドイツ受け入れには反対したものの、ユダヤ人は改宗すれば消滅すると考えていた[245]。アルントの「ゲルマン人の血」の思想は、ハインリヒ・フォン・クライスト、ケルナー、愛国詩人のマックス・フォン・シェンケンドルフ(Max von Schenkendorf)と並んでドイツ国民に武器を取るよう促したが、他方のフランスでも革命後の国歌ラ・マルセイエーズ」の歌詞では「汚れた血」についてあるなど、民族の血を優劣でみることに両国で違いはなかった[245]ナポレオン戦争での敗北がドイツ人にとって屈辱的であったことから、ゲルマン性への狂信が教科書でも載せられるようになっていった[245]。 教育家コールラウシュ(Heinrich Friedrich Theodor Kohlrausch 1780-1867)の教科書「ドイツ史」(1816年)ではドイツ人の純潔性が、ユダヤ人、ギリシア人、ラテン人とは好対照をなすと諭されている[245]

政治経済学者のアダム・ミュラーはエドマンド・バークタキトゥスと並べて賞賛し、またノヴァーリスはゲルマン詩の精神によって世界を征服しようとしたと称賛して、宗教改革とフランス革命によって崩壊していく中世的ゲルマン的な世界と中世の普遍的な団体「ゲマインデ」を賛美した[246]。ミュラーは「いつの日か、ヨーロッパ諸民族からなる一大連邦が築かれるであろうが、その色調はなおドイツ的なものとなるであろう」と予言して、ヨーロッパの政体の偉大なものはすべてドイツに由来すると主張した[245]。アダム・ミュラーはナポレオン支配に対してドイツ民衆の抵抗運動(ヘルマンの戦い)を呼びかけ、またハルデンベルクの改革を批判した[246]。アダム・ミュラーはプロイセン改革を批判したため、1811年ウィーンに亡命して、メッテルニヒに仕えた

1806年から1815年にかけて、作家のクレメンス・ブレンターノアルニム、『ドイツ民衆本』を刊行したヨハン・フォン・ゲレス、グリム兄弟たちが寄り集まったハイデルベルクでドイツ民族主義の「ドイツの火」が点火された[231]。アルニムとブレンターノはドイツの民謡をあつめて『少年の魔法の角笛』(1806-8)を出版した[247]。ゲレスは『ドイツの没落とその再生の条件』(1810年)で、かつてのユダヤ王国のようにドイツは現在の聖なる土地であるとした[248][245]グリム兄弟は民話を蒐集し、『子供と家庭のための童話』(1812-1822)、『ドイツの伝説』(1816 -18)を出版し、『ドイツ語辞典』(1852)ではユダヤ人を「利得ずくで、暴利を貪り、不潔である」と解説した[3][247]ヤーコプ・グリム1835年に『ドイツ神話学』を刊行し、ワーグナーにも影響を与え[249]、また1848年革命でのドイツ憲法動議では、ドイツ憲法はドイツフォルクの信条でなくてはならないと述べた[250]

1807年12月から翌1808年にかけてフランス軍占領下のベルリン学士院講堂において、哲学者フィヒテは『ドイツ国民に告ぐ』を連続講演し、フランス文化に対するドイツ国民文化の優秀さを説き、また、ドイツ国民の統一、ドイツ人の内的自由、商業上の独立を主張した[231]。フィヒテの『ドイツ国民に告ぐ』講演は、ドイツ国民精神を発揚し解放戦争を準備する力となった[251]。フィヒテはすでに、個人は、個人より高い存在である国家と一体化することによって自由を実現すると論じていたが、『ドイツ国民に告ぐ』では、民族・国民(ネーション)に個人が没入することによって自由を達成すると論じられ、唯一正統な統治形態は国民による自治であると主張した[216]。ドイツでは出版の自由が著しく制限されていたが、フィヒテの講演や、シュライエルマッハーの説教は、口コミで反響が広がり、文書よりも口頭でのコミュニケーションが重要な役割を演じていた[123]

1808年、ベルリンでクライストが『ヘルマンの戦い』を書き、ナポレオンへの憎悪とドイツ民族の蜂起を託し、ドイツの解放戦争が期待された[231]

進歩主義的な教育者フリードリヒ・ルートヴィヒ・ヤーンはアルント、フィヒテ、シュライアーマッハーとならんでドイツ国民運動の有名な組織者であった[252]。ヤーンは1810年に秘密結社ドイツ同盟(Deutscher Bund)を結成しドイツ全域にわたる愛国組織の模範となり、またトゥルネンというドイツ国民体育を始めた[252]。ヤーンは、1810年に著わした『ドイツの国民性』で、ドイツの国民性に基づいた全人教育をめざして体育を提唱するなかで、「混血の民は国民再生産の力を失う」として、フランスの影響力を排除する国民革命を目指して、ドイツ語からの外国起源の人名の抹消、民族衣装の着用などの民族浄化を訴え、原始ゲルマン人の末裔であるドイツ人と古代ギリシア人だけが聖なる民であると論じた[253][254][255][256]。ヤーンに先立って教育学者ヨハン・クリストフ・グーツ・ムーツ1793年にルソーの影響下に執筆した『青少年のための体育』において原始ゲルマン人の身体を理想的な目標として称賛した[257][256]。ヤーンは「ドイツを救うことができるのはドイツ人のみである。異邦の救い主はドイツ人を破滅に導くことしかできない」とした[258]

1813年、言語学者でプロイセン政府大使であったフンボルトは、「ドイツはひとつの国民、ひとつの民族、ひとつの国家である」と断言し、ドイツは自由で強力でなければならない、「ただ外にむかって強力な国民のみが、すべての内的聖化がそこから流れ出る精神を内に蔵することができる」と宣明した[231]

ドイツ解放戦争と反ナポレオン編集

 
1813年ライプツィヒの戦い(諸国民の戦い)でのオーストリア・プロイセン・ロシア連合軍

フランスの支配下にあったプロイセンでは反ナポレオン感情が保持され、ドイツ解放戦争(ナポレオン戦争)となった。

1812年、ナポレオンは60万の大陸軍を率いてロシア遠征を開始した[231]。ナポレオン軍の3分の1は、ライン同盟諸邦、プロイセン、オーストリアなどのドイツ人であった[231]。ドイツ軍のなかではナポレオン側に立つことを潔しとせずに寝返る者もおり、『戦争論』で知られるプロイセン将校クラウゼヴィッツはロシア軍へ身を投じた[231]1812年12月30日、プロイセン将校ヨルク・フォン・ヴァルテンブルク(ヨルク)将軍は、国王フリードリヒ・ウィルヘルム3世の同意を待たずに専断して、ロシア軍とタウロッゲン協定を結んで部隊を中立化し、ナポレオン軍から離脱した[231]

プロイセンとロシアが停戦すると、ヨルク軍が入った東プロイセンから北ドイツ諸邦でフランスの支配への蜂起に繋がっていき、プロイセン王国の元首相でロシア帝国の皇帝顧問カール・シュタインがロシアを説得して1813年2月27日にプロイセンとロシアが同盟した[231]。プロイセンでは一般兵役義務が布告され、国軍と義勇軍が組織された[231]3月16日に、フランスへ宣戦が布告され、翌日プロイセンでは国王フリードリヒ・ウィルヘルム3世が「わが国民へ」で祖国解放のための国民の決起が訴えられた[231]3月25日のカーリッシュ宣言では、ライン同盟の解散が宣言され、「ドイツ国民の本源的精神からうまれる、若返った、強力な、統一されたドイツ帝国」の再興が約束された[231]。ドイツ解放戦争の中心にいたのはシュタインであり、「祖国はただひとつドイツ」とするシュタインはライン同盟諸君主を軽蔑し憎悪し、ライン同盟諸国家の主権剥奪を計画した[231]。愛国記者アルントはシュタインとともにして、フランスの殲滅を鼓吹し、戦死した詩人ケルナーはドイツの聖戦を歌った[231]。そして、学生、手工業者、農民の若者たちが、身銭を切って武装し、志願兵団や義勇兵団に身を投じ、反ナポレオン感情がこれまでになく高まった[231]ドイツ解放戦争で教育者フリードリヒ・ルートヴィヒ・ヤーンは1813年、リュッツォウ少佐と抗仏組織リュツォー義勇団を創設し、体操など体育教育を普及させ、「体操の父」としてドイツの国民的英雄となった[254]。ヤーンの傘下には学生結社ブルシェンシャフトもあった[254]。ただし、リュツォー義勇団にはユダヤ人の参加者もおり、ユダヤ人を排斥していたわけではない[254]

1813年6月にイギリスが、7月にスウェーデンベルナドットがプロイセンとロシアの同盟に参加し、8月11日、オーストリアもフランスへ宣戦して、第六次対仏大同盟が成立した[231]。10月の最大規模の戦闘ライプツィヒの戦い(諸国民の戦い)で、36万の対仏連合軍はグナイゼナウの指揮下、19万のフランス軍を破った[231]。メッテルニヒはライン川で講和しようとしたが、アルントはライン川はドイツの川で、国境ではないと論じ、ゲレスも反ナポレオンの論陣を張った[231]1814年にメットラーカンプと共同してハンブルク市民軍を創設したフリードリヒ・クリストフ・ペルテス(Friedrich Christoph Perthes) はゲレスへの手紙で「ドイツ人は選ばれた民、人類を代表する民である」と述べた[245]

対仏連合軍は1814年3月30日パリへ入城し、ナポレオンはエルバ島に流され、こうしてナポレオンのドイツ支配は打倒された[231]

ウィーン体制(1815-1848) の時代編集

ナポレオンの敗北以降の1814年9月1日から1815年6月9日まで開催されたウィーン会議では1792年より以前の状態に戻すことと勢力均衡が原則とされた[259]。ウィーン会議で承認されたウィーン議定書によって出現したウィーン体制により、オーストリア帝国主導でかつての神聖ローマ帝国の領域にほぼ合致したドイツ連邦(Deutscher Bund)が成立した[123]。しかし、ドイツ連邦はかつての神聖ローマ帝国の再興とはいいがたく、ナポレオン統治下の陪臣化で消滅した群小諸邦の君侯は復位できなかった[260]。また、ドイツ国民にとっての新体制ドイツ連邦は、従来の領邦国家体制と変わらず、対ナポレオン戦争=ドイツ解放戦争で一体となって戦い、国民的な国家を期待していたドイツ国民は失望した[123]。ライン川西岸一帯のラインラントプロイセン王国に割譲され、また、プロイセンはオーストリア主導に反発を強めた。ウィーン体制は1848年革命で崩壊した。

エルンスト・アルントが呼びかけて、1814年10月にライプツィヒの戦い1周年を記念して、最初のドイツ国民祝祭が催された[123]

 
カント主義の哲学者ヤーコプ・フリードリヒ・フリースは『ユダヤ人によるドイツの富と国民性の危機』(1816年)でユダヤ人を「根こそぎ絶滅」に追いやることを訴えた[261]

ドイツ解放戦争に志願兵として参加した学生たちはドイツ国民の統一国家を期待していたが、ウィーン体制ではドイツの君主国諸国家への分裂を固定化されたため、祖国の現状に不満を抱いて、学生結社ブルシェンシャフト運動を展開した[262]1815年に結成されたブルシェンシャフト主流派のイエナ大学の結社は愛国心の涵養と心身練磨をはかり、ギーセン大学のカール・フォレンはドイツに自由で平等な共和国を目指した[262]

1816年カント主義の哲学者ヤーコプ・フリースは『ユダヤ人を通じてもたらされるドイツ人の富ならびに国民性の危機について』において、「ユダヤ人のカーストを根こそぎ絶滅に追いやること」を訴えた[261]

1817年10月18日ルター新約聖書をドイツ語に翻訳したアイゼナハヴァルトブルク城で、宗教改革300周年のヴァルトブルク祭が学生結社ブルシェンシャフトによって開催された[263][123][262]。ヴァルトブルク祭には全ドイツから460人以上のブルシェンシャフトの学生運動家が結集し、祖国ドイツへの愛と、ドイツ統一とドイツの自由と正義とが高唱された[262][123]。教育者でドイツ国民運動家のヤーンは、反ユダヤ主義者の新カント派哲学者ヤーコプ・フリースとともにこのヴァルトブルク祭の立役者であった[254]。祭典にはヤーコプ・フリース、医学者キーザー、科学者オーケン、法学者シュバイツァーが来賓として参列した[263]。フリースの門下生レーディガーは「祖国のために血を流すことのできる者は,どうすれば最もよく平和のときに祖国に尽くすかについても語ることができるのだ。こうして我々は自由な空のもとに立ち,真理と正義を声高に口にする。何となればもはやドイツ人が狡猜な密偵や暴君の首切り斧をおそれることなく,またドイツ人が聖なるものと真理を語るときに誰も気兼ねする必要のない、そんな時代が有難いことにやって来たのだ。......我々はすべての学問が祖国に仕えるべきであり,同時にまた人類の生活に仕えるべきであるということを決して忘れまい」と演説し、この演説は国務大臣で文豪のゲーテも称賛した[263]。この祭典では、反ドイツ的とされた書物が焚書され、ユダヤ系作家ザウル・アシャーの『ゲルマン狂』も焼かれ、後年のナチス・ドイツの焚書の先駆けともなった[254][263]。こうしてドイツの大学を温床として、人種差別的な汎ゲルマン主義が生まれていった[254]。メッテルニヒはこうした過激化した学生運動に警戒を強めた[262]

コツェブー事件以後の言論統制と反ユダヤ暴動編集

 
1819年フランクフルトのヘップヘップ暴動。

1819年3月には、ブルシェンシャフトの自由主義と愛国思想を雑誌で揶揄していた作家アウグスト・フォン・コツェブー(August von Kotzebue)が、ロシアのスパイとして過激派の学生に暗殺された[254][264][123]

コツェブー暗殺事件の発生によって、メッテルニヒは1819年9月20日カールスバート決議で、学生運動と自由主義運動の弾圧を決定し、出版法による検閲制度、大学法、捜査法などによる革命運動の取締りをドイツ連邦全土で強化した[123][262]。マインツには革命的陰謀や煽動的結社運動を監視する委員会が置かれた[262]。こうしてドイツ政府は学生運動の取締りに乗り出し、フリースやアルントやヴェルガ−兄弟など著名な教授は大学から追放され、ヤーンは大逆罪で幽囚され、シュタインやグナイゼナウなどの改革派も政界から追放された[262][254]。1848年の3 月革命まで出版が自由化されることはなく、新聞や雑誌の発行部数は激減したが、出版に代わって祝典や集会が盛んに行われるようになった[123]。また急進派は地下に潜り、1833年4月にはフランクフルトで衛生兵襲撃事件が起こった[262]

1819年8月から10月にかけて、プロイセン以外のヴュルツブルクなど全ドイツの各州、ボヘミア、アルザス、オランダ、デンマークで反ユダヤ暴動が発生し、ユダヤ人が暴行を受け、シナゴーグや住宅は略奪された[265]。暴動では1096年に十字軍兵士が叫んでいたとされる「ヒエロソリマ・エスト・ペルディータ(Hierosolyma Est Perdita)」(エルサレムは滅んだ)という言葉に因んで「Hep! Hep!」という合言葉が使われたため、「ヘップヘップ暴動」もいう[265]。この暴動で、アメリカ合衆国へのユダヤ人移住が活発になった[265]ユダヤ教徒サロン主催者のラーエル・ファルンハーゲン=レーヴィネは暴動の責任は作家アルニムブレンターノ一派にあると見た[265]1830年1834年にもドイツで反ユダヤ暴動が発生した[265]

1819年11月からの連邦議会で、メッテルニヒはドイツ連邦は自由都市をのぞいて君主国であり、すべての国家権力はドイツ連邦国元首のもとに統轄されるという1820年5月15日のウィーン最終規約を定めた[262]。これによって、ドイツ各邦は国民代表制的な運用に歯止めをかけて、各邦を連邦政府の監視下におく君主制原理が貫徹された[262]

1820年、作家アルニムは小説「世襲領主」では、高貴な世襲領主が斜陽になっていくなか、路地から這い出てきた強欲なユダヤ人が描かれた[266]。アルニムは義兄のクレメンス・ブレンターノとともに、ベルリンで「ドイツキリスト教晩餐会」を開催し、ユダヤ人は改宗者であっても入会禁止とした[266]

1820年、オスマン帝国からの独立を目指してギリシア独立戦争をはじめた。ギリシアでは、フランス革命やドイツロマン主義の影響でナショナリズムが台頭していた。当初ウィーン体制下のヨーロッパ諸国は正統主義によってオスマン帝国を支持したが、ロシアがロシア正教を攻撃したオスマン帝国へ国交断絶を通告し、1828年にロシアは露土戦争を始めた。ロシアの影響拡大を恐れたイギリスやフランスも介入して、1830年ロンドン議定書でギリシアの独立が承認された。

1823年にはベルリンのユダヤ人の半数がキリスト教に改宗した[267]

 
ヴァルハラ神殿(1807ー1842)
 
ヴァルハラ神殿の広間にはドイツの著名人130体の胸像が飾られている。

1824年バイエルン王国皇太子ルートヴィヒ1世はドイツの偉人を祀ったヴァルハラ神殿を建設した[268]。ヴァルハラ神殿にはドイツ2000年の歴史を示す偉人、例えばローマ帝国によるゲルマニア征服を阻止したアルミニウス)から、西ゴート族の王アラリック1世フランク王国の王クロヴィス1世ベートーヴェンなどの銘板胸像が収められている。

1820年代後半以降には、出版に代わって祝典や集会が盛んに行われるようになり、デューラー300年記念祭(1829)、ハンバッハ祭(1832)、 グーテンベルク祭(1837、1840)、シラー記念祭(1839 )、ドイツ合唱祭(1845)などが開催され、政府による取締を逃れてドイツ民族の英雄が称賛され、ドイツ統一と国民連帯を要求することができた[123]。また1841年からは記念碑が作られる運動が高まり、ジャン・パウル、モーツァルト、ボニファティウス、バッハ、 ゲーテなどの記念碑が作られていった[123]

1832年のハンバッハ祭とドイツ国民運動編集

 
1832年のハンバッハ祭。3万人が集まり、1817年ヴァルトブルク祭の規模を超える盛況となった。
 
ハンバッハ祭を計画した記者ジーベンプファイファー(Philipp Jakob Siebenpfeiffer)
 
ハンバッハ祭を計画した出版者のヴィルト(Johann Georg August Wirth)

1818年に公布されたバイエルン憲法では出版の自由も明記されるなど、ナポレオン法典で認められていた権利が保証されていたが、1830年フランス7月革命以降、バイエルン政府は検閲を強化した[269]。ジャーナリストのヤコブ・ジーベンプファイファーとゲオルク・ヴィルトはドイツの再統一のために自由な言論は唯一の手段であるとする「自由な出版を支援するためのドイツ祖国協会(出版祖国協会)」を結成したが、プロイセン政府やハンブルク、バイエルンなどの国でも禁止された [269][270]。このようななか、バイエルン憲法記念祭計画について情報を得たジーベンプファイファーは憲法記念祭に代わって「民族祭(Volksfest)」としての祭典を計画して、5月27日に「ドイツ5月祭」をハンバッハ城で開催することを宣伝した[269]。ハンバッハ祭は「内的 ・外的な暴力廃止のための祝祭」であり、「法律に保証された自由とドイツの国家としての尊厳の獲得」を目的とした[269]。ライン・バイエルン政府では、フランス占領時代から集会は禁止されていたが、祝典(Festmahl)や民族祭典(Volksfest)は許可されていた[269]。しかし、ライン・バイエルン政府は「ドイツ5月祭」を禁止しようとして、集会を禁止しようとしたが、参事会の反対もあり、政府が禁止命令を撤回したが、こうした撤回は前代未聞であり、政府の敗北とみなされた[269]

こうして、1832年5月27日から6月1日までバイエルン王国のプファルツ地方で「ドイツ5月祭=ハンバッハ祭」が開催され、3万余が集まり、ドイツ統一と諸民族の解放、人民主権や共和制の樹立などが叫ばれた[271][269]。参加者は「ドイツ祖国とは何か」「輝きの渦のなかの祖国」といった歌(リート)を歌いながら行進し、医師ヘップはドイツ統一とドイツの自由によってドイツは再生すると演説した[269]。ハンバッハ祭には、ユダヤ系のルートヴィヒ・ベルネがパリから参加した[269]。ベルネの著書『パリ便り』は禁書になっていたがは大きな反響をプロイセンで呼んでおり、ドイツの自由の守護神として学生たちから歓迎された[269]。ベルネは、ポーランド・ロシア戦争でユダヤ人3万人がポーランド支援のためにかけつけ、ポーランドという祖国を戦い取ろうとしているのに対して、「ユダヤ人をひどく軽蔑している誇り高く、傲慢なドイツ人には祖国が未だない」と述べている[272][269]。また、フリッツ・ロイターも参加した。

ジーベンプファイファーは演説で「国民と呼ばれるうじ虫は,地べたをうごめきまわっている」と述べ、祖国の統一を望むことさえ犯罪になるのだと主張し、34人のドイツ諸国家の君主を「国民の虐殺者」と罵り、君主が王位を去り市民になることを求めた[269]。ヴィルトは祖国の自由のための戦いには、外国の介入なしで独力でなされなければならないと愛国主義を演説した[269]。しかし、その後の演説では、革命を望まないという商人の演説がなされる一方で、弁護士ハルアウァーは臆病な奴隷でいるよりも名誉の戦死を訴えたり、ブラシ職人ヨハン・フィリップ・ベッカーは武装した市民だけが祖国を守ると演説するなど、慎重な意見と急進派とで意見が分かれた[269]。祝祭後、指導的な参加者はノイシュタット町で臨時政府国民会議の結成を模索したが、結局、ドイツ祖国出版協会の名前が「ドイツ改革協会」に変わることで会議は終わった[269]。パリにいたハイネはドイツ革命もドイツ共和国の誕生もそんなに早くはこない、というのも、ドイツの本質は王党主義であり、ドイツは共和国ではありえないと同情しながら批判した[269]。なお、ハイネは1840年の『ベルネ論』で革命を説くベルネに対して「テロリスト的な心情告白」として批判し、ベルネの演説が「最下層の人々のデマゴーグ」になったのは、「人生において何もなしえなかった男の自暴自棄な行動」と非難した[269]

ハンバッハ祭の後、ドイツ各地で倉庫や市場が過激派によって襲撃されるなど、混乱が広まったため、1832年6月24日、バイエルン政府軍は首都シュパイエルに進駐し、戒厳令下においた[269]。メッテルニヒは革命がドイツ全土に拡大するのを恐れて、弾圧を強化し、集会や祭典は禁止され、ヴィルトやジーベンプファイファーなど多くの活動家が逮捕拘禁されて有罪判決を受けた[273][269]。1833年4月には「出版祖国協会」過激派の地下組織の50人がフランクフルトで警察を襲撃したが、これによって1800人が逮捕された[273]。こうしてドイツ国民運動は弾圧されたが、国民運動は非政治的な協会の姿をとって持続して、10万人以上のメンバーを持った男性合唱協会はドイツ語の民謡を普及させ、またヤーンの体操協会なども、ドイツ国民意識の形成に大きな役割を持った[273]

フランス7月革命とドゥーズ事件 (1830)編集

 
フランソワ=ルネ・ド・シャトーブリアンはユダヤ人を「大いなる裏切り者」とした[274]
 
ヴィクトル・ユゴーはユダヤ人を「世界の恥辱」と評した[274]

1830年フランス7月革命オルレアン家ルイ・フィリップが国王になり、ブルボン家はイギリスへ逃れた。1832年、ブルボン家の元国王シャルル10世の息子の妻ベリー公爵夫人マリー・カロリーヌ・ド・ブルボンが、改宗ユダヤ人シモン・ドゥーズの密告によって、ルイ・フィリップ政府に引き渡された[274]

これに対してフランソワ=ルネ・ド・シャトーブリアンヴィクトル・ユゴーはユダヤ人攻撃を開始した[274]。シャトーブリアンは「大いなる裏切り者と、サタンに取り憑かれたイスカリオテのユダの末裔」、ユゴーは「卑しき異教徒、変節漢、世界の恥辱、屑ともいえるような輩」である「さまよえるユダヤ人」と述べ、改宗ユダヤ人シモン・ドゥーズの密告を非難した[274]

青年ドイツ派の発禁処分編集

  • 1834年ハインリヒ・ハイネは「キリスト教は、あの残忍なゲルマン的好戦心を幾分和らげたが、しかしけっして打ち砕くことはできなかった」として、カント主義者、フィヒテ主義者などの哲学者に気をつけるように警告して、ゲルマン主義者から大きな憤慨を買った[275]
  • 1835年、フランクフルト議会は、カール・グツコー、ハインリヒ・ラウベ、テオドール・ムント(Theodor Mundt)、ヴィーンバルク(Ludolf Wienbarg)などが中心作家であり、ユダヤ系作家のハイネベルネなども参加していた「青年ドイツ派」の作品を禁書処分にした[276]。ゲルマン主義の文芸批評家ヴォルフガング・メンツェル(Wolfgang Menzel)は「青年ドイツ派」を「青年パレスティナ派」と評して告発した[276]。青年ドイツ派はユダヤ系サロンの主催者ラーエル・ファルンハーゲン=レーヴィネの影響を受けていた[276]
  • 1835年、作家ティークはユダヤ人は国家内異分子であり、ドイツ文芸を独占してしまったと述べた[277]
  • 1836年、作家インマーマンの『エピゴーネン』では、ヤーンが指定した服装を着ていた登場人物が迫害されるが、ドイツ人に化けたユダヤ人の追い剥ぎであった[277]。この作中でユダヤ人は「何かを手に入れようとしてうちは恭しく、きわめて低姿勢だが、いったんそれを手に入れると居丈高になる」と描かれた[277]
  • 1842年プロイセン国王フリードリヒ・ヴィルヘルム4世(在位:1840 - 1861)は忌まわしいユダヤ人はドイツを混沌とした無秩序状態におとしめようとしていると述べた[278]。若い頃にドイツ解放戦争(対ナポレオン戦争)に加わったフリードリヒ・ヴィルヘルム4世は、キリスト教ゲルマン主義を信奉し、王の養育係はユダヤ人をゲットーに再送すべきであると考えていた法学者サヴィニーだった[241]。フリードリヒ・ヴィルヘルム4世はヤーンに鉄十字章を授与し、アルントの大学への復帰など名誉回復を行った[241]。フリードリヒ・ヴィルヘルム4世は、ユダヤ人に対して兵役義務を免除すると同時に公職から退け、王の庇護下にある「隔離民族」としたが、ユダヤ人共同体からのドイツへの愛国心をアピールした抗議が相次ぎ、この政策は実現しなかった[241]
  • 1844年、ドイツで反ユダヤ暴動が発生[265]
  • 1847年、プロイセン連合州議会代議士ビスマルクはフランクフルト市議会で、ユダヤ人が国王になると考えただけで深い当惑と屈辱の感情が沸き上がってくると述べるが、フランクフルトのアムシェル・マイアー・フォン・ロートシルトは「正真正銘の悪徳ユダヤ商人(Schacherjude)」であるが気に入ったと好意を寄せることも述べた[279]
  • 同年、青年ドイツグループのハインリヒ・ラウベはそれまでユダヤ人に好意的であったが、ユダヤ系作曲家マイアーベーアから盗作の嫌疑で告訴されてからは、ユダヤ人を嫌うようになった[280]

文学における「さまよえるユダヤ人」編集

 
フランソワ・ジョルジャン(François Georgin)「さまよえるユダヤ人」1830年
 
ポール・ガヴァルニ「さまよえるユダヤ人」1845年
 
ギュスターヴ・ドレ画「さまよえるユダヤ人」1856年
 
ナチス時代の「さまよえるユダヤ人」1937–1938年。

「さまよえるユダヤ人」の伝説は近世にさかのぼる。1602年、ドイツのクリストフ・クロイツァーが『アハスウェルスという名のユダヤ人をめぐる短い物語』で、ユダヤ人はイエス磔刑の証人としてイエス再臨(最後の審判の)までさまよい歩くという劫罰を言い渡されたという「さまよえるユダヤ人」の伝説を出版した[3]。この伝説の背景には、1208年のインノケンティウス3世の勅書での「イエスの血の叫びを身に受けてやまないユダヤ人たちはキリスト教徒の民が神の掟を忘れないようにするため、決して殺されてはならない」が、ユダヤ人はキリスト教徒が主の名を探し求める時代が来るまで地上のさすらい人であり続けなければならないという記述がある[3]

「さまよえるユダヤ人」という主題は16世紀以来の伝説で、ゲーテ、シューバルト、シュレーゲル、ブレンターノ、シャミッソー、グツコー、バイロン、シェリー、ワーズワースたちが扱い、1833年には共和党左派の歴史家エドガール・キネが『さまよえるユダヤ人―アースヴェリュス』で労苦にあえぐプロメテウスファウストの象徴を援用した[281]

ヴィクトル・ユーゴーは「クロムウェル」(1827)「マリー・チュードル」(1833)では大量のキリスト教徒の血が流れるのを望むユダヤ人を描き、「嘘と盗み」がユダヤ人のすべてであるというセリフがあった[282]。ユゴーは1882年の「トルケマダ」でイスラエルに謝罪した[282]

1844年ウージェーヌ・シューは「さまよえるユダヤ人(Le Juif errant)」を連載した[281]

こうしてユダヤ人への神話的なイメージは、裏切り者であった「イスカリオテのユダ」から、「さまよえるユダヤ人」に変わっていった[281]

ダマスクス事件(1840)編集

1840年2月、シリアのダマスクスでカプチン会修道士トマ神父が失踪した[283]。フランス領事は地元のユダヤ教徒たちが事件の黒幕と断定し、ユダヤ教徒たちを儀式殺人の容疑で告訴した[283]。ユダヤ教徒たち2名がオーストリア国籍であったため、オーストリア領事はユダヤ人を救援しようとした[283]。当時エジプト・トルコ戦争(1831年~1840年)でオスマン帝国とエジプトが対立しており、東方問題としてヨーロッパ各国の外交問題ともなっていた。エジプト・トルコ戦争の講和条約ロンドン条約でイギリス、ロシア帝国、オーストリア帝国、プロイセン王国はオスマン帝国を支持し、エジプトのムハンマド・アリーのシリア領有放棄とエジプト総督就任を認めていた。フランスはエジプト総督ムハンマド・アリーを支持し、他のヨーロッパ各国はオスマン帝国を支持し、オーストリア帝国とフランスのティエール政府はダマスクス事件で対立した[283]

ダマスクス事件はフランス国内では、東方ユダヤではいまなお儀式殺人という迷信をユダヤ教徒の義務として定めており、カプチン僧はユダヤ人によって食べられたなど、反ユダヤ主義と愛国主義が流布した[283]

イギリスではフランスへの敵意がユダヤ人擁護の傾向となって出た[283]。イギリス政府は、クレミユ−など特使団を派遣するなどしたが、アドルフ・ティエールが解任されたことで、国際紛争は幕切れとなった[283]。この解任にはロスチャイルド家のジャムが働きかけたという見方もある[283]

このダマスクス事件を出発点として、ユダヤ人側ではアドルフ・クレミューが中心となって、国際組織「世界イスラリエット同盟(AIU, L'Alliance israélite universelle)」が誕生した[283]

1842年クレミュー、セルフベール、フールドの3人のユダヤ人がフランス下院議員となった[283]。ユダヤ新聞「イスラリエット古文書」は、もはや分裂の種も、宗教の差異も、永年の憎悪もなくなった、「ユダヤ民族なるものはもはやフランスの土地には存在しない」と報道した[284]

1845年、ヴィルヘルム・テオドア・フォン・シェジー(Wilhelm Theodor von Chézy)は『敬虔なユダヤ人』でドイツ国民を隷属状態に置くことを目的として解放運動に精を出すユダヤ人を描いた[285][286]

1848年革命とユダヤ人解放編集

 
1848年のフランクフルト国民議会で掲げられたフィリップ・ファイトの絵画『ゲルマニア』。ドイツ三月革命ではドイツ連邦の国家統一を目指して汎ゲルマン主義が鼓舞された。

1848年、イタリア、フランス、オーストリア、ハンガリー、ボヘミア、ドイツ、デンマーク、スイスなどのヨーロッパ各地で1848年革命が起こった。

ドイツ三月革命では、ドイツ連邦の国家統一と憲法制定を目指して、民族的自由を獲得することが目指された[287][288][289]。ドイツ三月革命の目標は、フランスが革命で実現した「国民」、つまり、階級や宗教にかかわりなく人民の権利が保障される共同体としての「国民」を、ドイツで実現することであった[290]。ドイツ三月革命によってユダヤ人に参政権が認められた[238]。統一的な選挙規則のないままであったが、選出された議員による憲法制定国民議会では四人のユダヤ教徒の議員がいた[238]。そのユダヤ教徒の一人ガブリエル・リーサーは「イスラエル民族」は虚構にすぎないと指摘して、「ユダヤ教徒は公正な法律の下で、ますます熱烈な、そしてますます愛国的なドイツの信奉者となるでしょう」と演説し、満場の拍手で迎えられた[238]。またオットー・フォン・ビスマルク議員(のち宰相)は「私はユダヤ教徒の敵ではない。また、彼らが私の敵であろうとも、私は彼らを許す。どんな場合にも、私は彼らを愛する。私は彼らに対してどんな権利も惜しまない。ただ彼らがキリスト教国家における行政上の官職に就く権利だけは認めるわけにはいかない」と演説した[238]。こうして、自由主義的な統一ドイツ国家を創出した三月革命の大義の下、「ユダヤ教徒の解放」はドイツのナショナリズムと幸福な結合として位置づけられる[238]。しかし、同年9月28日にはバーデン大公国ヴァルデルン市から「ユダヤ教徒の解放は断じて民族の声ではなく、ドイツ民族はドイツカトリック教徒との同権を要求していない」と請願が出された[238]。また、同じ1848年に、ドイツで反ユダヤ暴動が発生した[265]

 
ドレスデン五月蜂起。

翌年の1849年3月28日、フランクフルト国民議会統一ドイツ憲法を採択し、プロイセン王フリードリヒ・ヴィルヘルム4世を統一ドイツ皇帝に選出したが、王は人民主権の原則を持つ憲法を「犬の首輪」として嫌い、帝冠も憲法も拒否した[291]。その後、ドイツ各地の邦国で帝国憲法を承認することを求める帝国憲法闘争が展開するなか、フランクフルト国民議会は解体した[291]。4月末、ザクセンでは祖国協会などの革命派が帝国憲法の承認を求めたが、ザクセン王フリードリヒ・アウグスト2世は拒否し、上下両院を解散させた[292]。このため、5月3日にバクーニンが指揮したドレスデン五月蜂起が起きた[292]。しかし、ザクセン王はプロイセン軍を派遣して蜂起を鎮圧した[292]。革命の失敗後、「ユダヤ教徒解放」は撤回された[238]。しかし、ザクセン、ワイマール、アイゼナハなどではユダヤ教徒の法的平等が実現し、ユダヤ教徒が大学教授や裁判官に就任するなど、ユダヤ教徒の解放は進展した[238]

1848年革命の失敗によって、それまでコスモポリタン的で寛容なユートピア的なものであった愛国主義が変容し、1850年代にはヨーロッパのナショナリズムは排外的で自己中心的なものとなっていった[293]

イギリス・ディズレーリのユダヤ主義編集

 
セファルディム系ユダヤ人のベンジャミン・ディズレーリは小説家から政治家へ、さらに急進派から保守党へ転身し、イギリス首相(在任:1868年1874年 - 1880年)となった。1848年革命についてディズレーリは、選民たるユダヤ人種が、恩知らずのキリスト教を破壊するために行ったと論じた[294][295]。ディズレーリのユダヤ人を貴種とする思想は、反ユダヤ主義者によるユダヤ陰謀論の典拠ともなった[296]

イギリスでは評論家カーライルや教育家トマス・アーノルドによってゲルマン至上主義が広まっていた[295]。これに対してイタリア系セファルディムのユダヤ系イギリス人の政治家・小説家のベンジャミン・ディズレーリは1844年のロバート・ピールを批判した『カニングスビー』、1845年の『シビル(女預言者)』、1847年『タンクレッド』で、ヨーロッパの修道院や大学にはマラーノなどのユダヤ人がひしめき、ヨーロッパではユダヤ的精神が多大な影響力を行使していることを描いて、ゲルマン至上主義の逆を突いた[295]。『タンクレッド』では、「思い上がりではりきれんばかり、叩いてみて響きだけはよい革袋のような鼻のひしゃげたフランク人ゲルマン人)」を揶揄し、セム的精神(ユダヤ精神)を称揚し、セム的精神が光明をもたらすことがなかったらゲルマン民族は共食いで滅亡していたと、いった[295]。同時に、ディズレーリはみずからの人種を恥とみなしていたユダヤ人を批判した[295]

1847年下院での国会演説でディズレーリは、初期のキリスト教徒はユダヤ人であったし、キリスト教を普及させたのはまぎれもなくユダヤ人であった、そのことを忘れて迷信に左右されているのが現在のヨーロッパとイギリスだと演説し、議会では憤怒のさざ波が行き渡った[296]

1848年革命についてディズレーリは、1851年の政治文書『ジョージ・ベンティンク卿』で、この全ヨーロッパ的暴動はユダヤ人指導者によると述べ、「(ユダヤ人という)選民たる人種が、ヨーロッパのありとあらゆる人種もどき、ありとあらゆる下賤の民に手を差し伸べるのである。その狙いは、ほかでもない、恩知らずのキリスト教を破壊し尽くすことである」と論じた[295]

カーライルはディズレーリの「ユダヤ狂」演説に憤慨し、医師ロバート・ノックスは『人間の種』で、ディズレーリが挙げたユダヤ人一覧(カント、ナポレオンなどを含む)には一人もユダヤ的特徴を示している者はいなかったと批判した[297][296]

ディズレーリのユダヤ主義的な歴史観は、フランスの反ユダヤ主義者グジュノー・デ・ムソー(Roger Gougenot des Mousseaux)やエドゥアール・ドリュモンによって好意的に引用され、ユダヤ人が秘密外交を行っていることはイギリスのユダヤ人首相によって見事に明らかにされたと述べるにいたっている[296]。また、ナポレオンを嫌っていた歴史学者のミシュレも、ディズレーリのナポレオンユダヤ人説に梃入れした[296]

イタリア統一と教皇領の消滅編集

1848年初頭、ローマの司祭アンブロゾーリがユダヤ人の解放を訴え、教皇ピウス9世が1848年4月にゲットーの壁を取り壊した[298]。しかし、11月にローマ革命が起ると、教皇はガエータに避難した[298]。1849年7月にナポレオン3世のフランスがローマ共和国革命政府を制圧すると、教皇は1850年にローマに戻るが以後はユダヤ人対策を差し控えるようになった[298]

1858年、イタリアのボローニャでユダヤ人の6歳の少年エドガルド・モルターラが異端審問所警察によって連れ去られ、カトリック教徒として育てらて、司祭となった[298]。カトリック教徒の家政婦が極秘に洗礼を受けさせていたためであった[298]。ヨーロッパ全土のユダヤ人がこのモルターラ事件に抗議して、ローマのゲットー代表と教皇が交渉した[298]。教皇は、私はユダヤ人にもっと大きな苦しむを与えることもできるが、ユダヤ人を憐れむためにこうした抗議を赦すと述べ、ユダヤ人代表は感動して、1848年革命の時にはローマのユダヤ人は教皇に忠実であったことを確認し、モルターラ事件で騒ぐのは政治的情念を充足させる下心しかないと述べて、和解した[298]。1864年にはモルターラ事件に似たフォルトゥナート・コーヘン少年の洗礼事件も起きた[298]

1859年オーストリア帝国からのイタリア独立戦争で、サルデーニャ王国ナポレオン3世と同盟し、ソルフェリーノの戦いでサルデーニャ・フランス連合軍はオーストリア軍に勝利した[299]。しかし、ロマーニャ・トスカーナなどイタリア各地で教皇支配からサルデーニャ王国への合併運動が展開すると、フランス国内のカトリック派も戦争に冷淡であり、またプロイセンも干渉の気配を見せたことなどから、ナポレオン3世はサルデーニャ王国に黙ってオーストリアとヴィッラフランカで単独で講和して、オーストリアがヴェネト州を保持して、トスカーナなど亡命君主の復位も約束された[299]。フランスの単独講和にサルデーニャ王国は戦争継続を希望したが、やむなく容認し、仮条約に署名した[299]1860年、ナポレオン3世はサヴォイニースのフランスへの割譲を条件に、サルデーニャ王国による中部イタリア併合を承認した[299]。1860年4月、共和主義者ジュゼッペ・ガリバルディ率いる義勇軍赤シャツ隊両シチリア王国を滅ぼしてローマに進軍したが、サルデーニャ王国は赤シャツ隊によるローマ制圧を恐れ、赤シャツ隊より先にサルデーニャ王国軍が教皇領ナポリ王国軍を撃破した[299]。やむなくガリバルディは征服した南イタリアをサルデーニャ王ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世に献上し、両者は並んでローマに入城した[299]1861年に、ローマとヴェネト州をのぞくイタリア王国ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世イタリア王の下に成立した[299]。ローマに駐留したフランス軍については、1864年に2年以内に撤退するという9月協定がイタリアとフランス間で締結された[299]1866年プロイセン・オーストリア戦争で、イタリアはプロイセンと同盟を結んで参戦するが、イタリア軍は指揮官の党派的反目で機動的作戦が妨げられ、敗戦を重ねた[299]。プロイセンはイタリアに無通告でオーストリアと休戦し、イタリアは国民的恥辱のうちにあったが、ヴェネト州を回収できた[299]

1867年、3年前の9月協定によってフランス軍がローマを撤退すると、過激な反教皇主義者のガリバルディがローマ占領を試みるが、再派遣されたフランス軍によって撃破され、その後もフランス軍はローマに駐留した[299]1870年9月、プロイセン=フランス戦争セダンの戦いでフランスが降伏すると、イタリア王国は共和主義者マッツィーニ派によるローマ奪回に先んじて、イタリア軍は9月19日に簡単な砲撃戦の後、ローマを占領した[300]。教皇は教皇の世俗権力の廃棄に関与するすべてのものを破門にすると宣告したが、10月2日の住民投票では、ローマのイタリア王国への併合が圧倒的に賛成され、可決した[300]。翌1871年5月、イタリア王国は教皇保障法(Legge delle Guarentigie)を制定し、教皇は反対したが、政府は一方的に成立させ、イタリア統一を完成させた[300]

ロスチャイルド家と反ロスチャイルド、反ユダヤ的感情編集

 
1854年にフランスのジャム・ド・ロチルド分家がセーヌ=エ=マルヌ県に建造した19世紀最大の別荘フェリエール邸
 
ドイツ・フランクフルトのロスチャイルド分家アムシェルが1845年に建てたGrüneburgschlößchen|グリューネブルク邸

フランクフルト・ゲットー出身の銀行家マイアー・アムシェル・ロートシルト宮廷ユダヤ人となり、ロートシルト家(ロスチャイルド家))の基礎を築くと、ロスチャイルド家は19世紀ヨーロッパの政界と金融界を支配し、栄華を誇り、「ユダヤ人の王にして諸王のなかのユダヤ人」と呼ばれた[274]1807年のベルリンの銀行52のうち30がユダヤ人が経営するようになっていた[241]。その他、ドイツの百貨店、シュレージエン地方鉱床などもユダヤ系事業が大部分を占めた[241]。フランスではマイアーの五男でオーストリア領事でもあったジャム・ド・ロチルドがロスチャイルド家の筆頭格となった[274]。ジャムはフランスに帰化することはなかった[274]ロチルド家(ロスチャイルド家)は、フランス中央銀行の大株主の200家族の1族であり、金融貴族(Haut Banque オート・バンク)と呼ばれた[301]

ロチルド家以外のユダヤ人銀行家としては、サン・シモン主義のペレール兄弟がおり、ナポレオン3世の金融改革と殖産興業政策を援助して、1852年にペレール兄弟はアシーユ・フール(Achille Fould)とともに投資銀行クレディ・モビリエを創設した[302]。1860年代にはクレディ・リヨネとソシエテ・ジェネラルが創設された[302]

しかし、ロスチャイルド家の栄華は、その後数世代にわたって反ユダヤ主義宣伝活動の餌食となっていった[274]

1848年フランソワ=ルネ・ド・シャトーブリアンは『墓の彼方からの回想』(没後出版)で「人類はユダヤ人種を癩病院に隔離した」と述べたり、「今日のキリスト教世界を牛耳っているユダヤ人よ」と述べたり、ロスチャイルド家が原因で自らが政治家として不首尾に終わったとみなしていた[282]

アルフレッド・ド・ヴィニーは、ユダヤ人を金にがめつい唯物的な人種として嫌悪し、1822年の『ヘレナ』では「ユダの息子たちにはすべてが許され、彼らの財宝箱にはすべてが受け入れられる」と書き、1847年にユダヤ人アルフェンがパリ2区区長に任命されると驚くなど、世界が「ユダヤ化」ことを諦念をもって眺めた[303]。1837年には7月革命をユダヤ人は金で購ったと書いている[303]。1837年に書かれた小説『ダフネ』(生前未発表)ではユダヤ人銀行家について「現在、一人のユダヤ人が、教皇の上、キリスト教の上に君臨している。彼は君主に金を渡し、諸国民を買収する」と、ロスチャイルド家について記した[303]。しかし、ヴィニーは改宗ユダヤ人ルイ・ラティスボンヌと友人になると、1856年にはユダヤ人は原初の光、原初の調和に満ちており、芸術の分野で頂点を極め、学業も優秀と述べるにいたった[303]

歴史家ジュール・ミシュレは『フランス史』(1833-1873)において、自分はユダヤ人が好きだが、「汚らわしきユダヤ人」は「いつのまにか世界の王座に就いてしまった」、ユダヤ人は地球上で「最良の奴隷」だったと述べた[304][274]

1900年にはドイツの人口の1%にすぎないユダヤ人が、大企業、金融会社の取締役会の25%を占めており、こうしたユダヤ人の経済界での活躍が、ユダヤ人による侵略や支配という印象を深めることになった[241]。こうした状況は、ロシアでも同様であった[241]。ロスチャイルド家や政界に進出するユダヤ人などが活躍していくにつれて、「ユダヤ人に支配された世界」という見方が広まり、フランスやドイツなどでは、「ユダヤ人からの解放」を訴える主張が多数出されていくようになった。

19世紀ロシア編集

ロシア皇帝アレクサンドル1世(在位:1801年 - 1825年)は、ユダヤ人を市民として解放すれば、ユダヤ人のキリスト教への改宗を早めることができるとして、ユダヤ人解放を計画した[154]

1825年に起きたデガブリストの指導者の一人パーヴェル・ペステリ(1793年 - 1826年)は、ニコライ1世の対ユダヤ強硬政策に同調して、ユダヤ人は強制的にロシア人に同化させるか、パレスチナへ追放するかのいずれかであると述べた[305]

ロシア皇帝ニコライ1世(在位:1825年 - 1855年)は、ユダヤ人対策を強化した。ニコライ1世は、教育相セルゲイ・ウヴァーロフの提案で、ユダヤ人に対してロシアの学校に通学するか、ロシア語で授業をすることを強要した[154]。しかし、ロシア帝国公認の学校に通うユダヤ人生徒数は数千人にとどまり、皇帝はユダヤ人への不信感をつのらせ、密輸入やスパイ容疑をかけられたユダヤ人は定住地域の境界線から50km以内の町や村からの強制退去を命じられた[154]1844年にはユダヤ人自治機構カハルを解体し、ユダヤ書物への検閲が始まり、モーシェ・ベン=マイモーンの書物が儀式殺人を教唆するものとして差し押さえられた[154]。またゴーゴリの『死せる魂』も神の全知全能に言及せずに自然の諸力を扱ったとして差し押さえた[154]。また皇帝は、正教会でイディッシュ語で執行されるミサへの参列をユダヤ人に義務づけようとした[154]。さらにユダヤ人徴兵法を施行し、それまで人頭税で兵役を免除されていたユダヤ人にも兵役が義務づけられ、プロイセンのカントン制度を模して7歳以上のユダヤ人の子供をカントニストとして軍事教練に送り、キリスト教に改宗させた[154]。ダマスクス事件(1840)の発生によって、ニコライ1世はヴラディーミル・ダーリに併合したポーランドのユダヤ人の調査を命じて、ユダヤ人の大多数は儀式殺人の慣習を持たないが、ハシッド派の狂信的な宗派は儀式殺人を行っていると報告された[306]

作家アレクサンドル・プーシキンは作品でユダヤ人を裏切り者やスパイとして描いた[305]

作家ニコライ・ゴーゴリは小説『タラス・ブーリバ』(1835年)で、卑怯な搾取者のユダヤ人ヤンキェルが、コサック領主によってドニエプル川に沈められる姿や、「羽をむしられた鶏」のような姿を滑稽に描いた[305]

ツルゲーネフの『ユダヤ人』(1846年)では、密偵のユダヤ人の死刑執行が「見ていて本当に滑稽だった」として、「奇妙な仕草、実に非常識な叫びや身震いなどによって」「その光景がどれほど嘆かわしいものであってもわれわれはどうしても微笑んでしまうのだった」と描かれた[305]。しかし、ツルゲーネフ後期の作品ではユダヤ人は人間味溢れる者として描かれた[305]

ロシア皇帝アレクサンドル2世(在位:1855年 - 1881年)は、ユダヤ人徴兵法を廃止し、学校での宗教教育を自由選択として、ユダヤ人からは「解放ツァーリ」と呼ばれた[154]。ユダヤ人の富裕層ではロシア語使用がすすみ、ユダヤの新聞がロシア語で出版されるようになった[154]

ロシアの富裕ユダヤ人には、銀行や金鉱開発や鉄道事業で成功したギンツブルグ家や、金融資本家で南ロシア炭鉱会社を経営してロシア貴族ともなったポリャーコフ家があった[307]ネクラーソフはスラヴ人商人は良心の呵責によって窓から金を投げ捨てる一方で、富裕ユダヤ人は平気で搾取横領し、その成果を外国で貯蓄運用すると対比させた[305]

1862年、汎スラブ主義を主張する評論家イヴァン・アクサーコフは、ユダヤ人解放に反対して、「ロシアの民衆をユダヤ人のくびきから解放すること」を主張し、またキリスト教徒をユダヤ教からも解放すべきであると主張した[308]

1869年、ロシア正教会に改宗したユダヤ人のヤコブ・ブラフマンは『カハルの書』『地域的ならびに世界的なユダヤ人同胞組織』において、ユダヤ人は非ユダヤ教徒を商業・産業から追い出し、あらゆる資本や不動産を自分の懐に集めており、また、国際的な活動をするユダヤ人同胞組織によって世界中のユダヤ共同体(カハル)が同じ方向に向かっていて、「世界イスラリエット同盟」はフランス革命を起こしたと報告した[308]

1877年ロシア・トルコ戦争によって、ロシアでは反ユダヤ主義が国家上層部と大衆の間で広まった[305]

1879年にはカフカース地方のクタイシで儀式殺人裁判が行われ、この裁判によってドストエフスキーもユダヤ人に疑念を持った[309]

ドストエフスキーと反ユダヤ主義編集

 
文豪フョードル・ドストエフスキーは反ユダヤ主義者で、アーリア民族を賛美し、後年の反ユダヤ主義にも影響を与えた[305]

文豪フョードル・ドストエフスキーは、ゴーゴリのユダヤ人描写を模して、『死の家の記録』(1862年)ではユダヤ人徒刑囚ブムシュテインを「羽をむしられた鶏」として滑稽に描いた[305]。なお、この「羽をむしられた鶏」としてのユダヤ人のイメージは、シチェドリンの『ペテルブルグのある田舎者の日記』や、チェーホフの『広野』、バーベリの『騎兵隊』(1926)でも描かれた[305]。ドストエフスキーは、1861年には反ユダヤ的な例外法の廃止を求めることもしたが、1873年以降は、ユダヤ人への攻撃が激しくなり、1876年にはユダヤ財界人が自分たちの利益のために農奴制の復活をもくろんでいるとし、1877年にはコンスタンティノープルを征服してキリスト教の教会を解放するために十字軍を派遣すべきであると日記に書き、さらに「ユダヤ人問題」と題した文書では、ロシア人はユダヤ人への怨恨などは持っていないが、ユダヤ人の方はロシア人を軽蔑し、憎んでおり、ユダヤ人はヨーロッパの取引市場に君臨し、各国の外交や道徳までも自由に操作し、「ユダヤ人の完全な王国が近づきつつある」と書いた[310][305]。ドストエフスキーによれば、キリスト教は失敗したが、ユダヤ教は全世界を掌握しようとしているのであった[305]

1879年夏、ドストエフスキーは、ドイツの保養地バート・エムスに療養で訪れた際に、湯治客の半分はユダヤ人であり、ドイツとベルリンはユダヤ化されてしまったとロシア宗務院長ポベドノスツェフに報告している[311]。これに対してポベドノスツェフ宗務院長は「ユダヤ人はすべてを侵略し、蝕んでいますが、『この時代の精神』が彼らに有利に作用しているのです。ユダヤ人は、社会民主的運動やツァーリ暗殺運動の根幹に位置し、新聞・雑誌を支配し、金融市場を手中におさめ、一般大衆を金融面での隷属状態に追い込み」、「今ではロシアの新聞はすでにユダヤ人のものになっています」と返信した[312]

さらにドストエフスキーは、小説『カラマーゾフの兄弟』では儀式殺人で快楽を引き出すユダヤ人について描写し、また1880年8月には「偉大なるアーリア民族」を賛美した[313]

ポリーナ・スースロワの夫ヴァシリー・ローザノフはドストエフスキーを尊敬し、アーリア人の威光とユダヤ人の血の欲望について論じた[314]

トルストイと反ユダヤ主義編集

トルストイは『アンナ・カレーニナ』(1875-1877年)で、アンナの兄の貴族オブロンスキが権限を持つユダヤ人に「勝ち誇ったように」就職を拒絶する場面を描いた[315][305]。トルストイはソロヴィヨフに自分はユダヤ人のテーマを扱う気にはなれないと打ち明け、また1903年の大規模なポグロムについて、自分に言えることがあるとしても出版には適さないと発言した[305]日露戦争に際してトルストイは、ロシアの敗走ではなく、「偽キリスト教文明の敗走」であったとして、「芸術・科学的活動において、金銭を得て成功するための戦いにおいて、ずっと前から崩壊は始まっていた。ユダヤ人はそれらの活動において、あらゆる国々ですべてのキリスト教徒に打ち勝った」として、日本がユダヤ人と同じように行動していると日記に書いた[305]。1906年にはトルストイは、チェンバレンはキリストがユダヤ人ではなかったことを証明したと手紙でチェンバレンの著作について賞賛した[305]

アレクサンドル2世暗殺と19世紀末ロシア編集

1881年3月13日、ユダヤ解放政策をとってきたアレクサンドル2世がテロ組織「人民の意志」のポーランド人メンバーのイグナティー・グリネヴィツキーによって暗殺された。『ノーヴォエ・ヴレーミャ』は「鉤鼻をした東洋風の男」が、『ヴィリニュス通信』はユダヤ人が犯人であると報道した[308]1881年4月の復活祭に先立つ聖週間には、ウクライナのエリサヴェトグラード、キエフ、オデッサで大規模なポグロムが発生した[308]。扇動者一団は鉄道で訪れ、ユダヤ人は皇帝を殺害したというビラが街中に貼られ、街頭で反ユダヤ新聞を読み上げて、ユダヤ人への暴行がなされていった[308]。扇動者一団には、君主制護持派の大公や将校が結成した聖従士団の一部が関わっていた[308]

皇帝アレクサンドル3世(在位:1881年 - 1894年)は1882年にユダヤ人の搾取からキリスト教徒を守る臨時条例を定め、1883年2月には「ユダヤ人についての現行法見直し委員会」を設置し、5年間の討議の末、委員会は反ユダヤ的な政策を廃止して、ユダヤ人をキリスト教徒と融和させることが必要であると結論したが、空文となった[308]。1883年、皇帝アレクサンドル3世は、「ユダヤ人がキリスト教徒から搾取し続ける限り、この憎悪が和らぐことはないだろう」と書いている[308]

1881年から1882年にかけて大規模なポグロムがロシアで発生した。その後、サルティコフ(シチェドリン)は「限りない苦しみ」としてユダヤ人に同情し、レスコフは1884年の『ロシアのユダヤ人』でユダヤ人を弁護した[305]。マクシム・ゴーリキーはユダヤ人のこと思うと当惑と恥辱で胸いっぱいになるとして、作中ではユダヤ人はつねに善人として描写された[305]

最後のロシア皇帝ニコライ2世は1882年の臨時条例よりもユダヤ定住地域をさらに狭めて、農民がユダヤ人から搾取されないようにユダヤ人の田園地帯での居住や、キエフ、皇帝離宮のあるヤルタなどでもユダヤ人の居住は禁じられた[308]。定住地域外ではユダヤ人への検挙が行われ、ユダヤ人がロシア風を名乗る改名を禁止し、ユダヤ商店ではユダヤ人であると分かるように店舗に明示することが義務づけられ、また1887年から学校でのユダヤ人定員が制限された[308]

ドストエフスキーの友人でもあったロシア宗務院長ポベドノスツェフは、ユダヤ人は寄生虫であるためつまみだす要があるとして、「ユダヤ人の三分の一は国外へ移住させ、三分の一はキリスト教に改宗させ、残る三分の一は死に絶える」と提案した[308]。ロシア政府は、ユダヤ人の海外移住を推進した[308]

ゴビノーの人種論編集

1853年-56年 フランスのアルテュール・ド・ゴビノー伯爵が『人種不平等論』で、黒人は全人種の最下位にあり、黄色人種は体力は弱く無気力の傾向にあり自分たちで社会を創造できないとして、この二つの人種は「歴史における残骸」であるが、これに対して白人種だけが文明化の能力と思慮を備えたエネルギーを持つ歴史的な人種であるとし[316]、インド・エジプト・アッシリア・中国・ギリシアなど歴史上の文明はすべて白人種のアーリア民族によるイニシアチブによってのみ可能であったとした[317]。なお、18世紀の哲学者ヒュームカントなども白人種を最優秀として非白人種の東洋人や黒人種を劣等としており[318][319]、ゴビノーの主張は特殊な主張ではない。ゴビノーによれば、白人種にはセム人ハム人、ヤペテ(アーリア人)がいるが、このなかでアーリア民族はセムやハムとは違って純血を保ち、金髪、碧眼、白い肌を持っており、卓越している[320]。しかし、古代ギリシャはセム化したため単一化されてしまったし、ローマ帝国もセムの血が流入したため、中背で褐色の肌をした「凡庸で取り柄のない人間」「横柄で、卑屈で、無知で、手癖が悪く、堕落しており、いつでも妹、娘、妻、国、主人を売り飛ばす用意ができていて、貧困、苦痛、疲労、死をむやみに怖がる」退廃的な人間を産出したとする[321]

ただし、このゴビノーの「セム化」はこれまで反ユダヤ主義として嫌疑がかけられてきたが、これは白人の血に黒人の血が混入することを指しており、ユダヤ人による世界支配を批判したわけではなかった[322]。ゴビノーはユダヤ人を自由で強力で知的な民族であると称え、他方で黒人種についても芸術に秀でていると称え、これは歴史家のジュール・ミシュレが「黒人であることは人種というより、病いである」といったのに比べれば抑制がきいたものであった[323]。ワーグナーはゴビノーと固い友情で結ばれていた[324]

ワーグナーと反ユダヤ主義編集

 
ワーグナー
 
ワーグナーを庇護したユダヤ人作曲家マイアベーア

作曲家リヒャルト・ワーグナーは、若い頃には青年ドイツ派の影響を受けて、21歳で書いた1834年の最初の論文『ドイツのオペラ』では、歌唱美を持つイタリア音楽や、イタリアオペラの欠点を補ったグルックなどのフランス音楽に比して、ドイツ音楽は学識的(gelehrt)であり、民衆の声や真実の生活からかけ離れており、新しい音楽はイタリア的でもフランス的でもドイツ的でもないところから生まれると論じ、「ドイツなど世界のひとかけらにすぎない」と感じていた[325]

1837年から1840年頃までワーグナーはユダヤ人作曲家ジャコモ・マイアベーアから生活費の工面や『リエンツィ』や『さまよえるオランダ人』の上演の庇護を受けた[326]。ワーグナーもマイアベーアはグルック、ヘンデル、モーツァルトと同じくドイツ人であり、ドイツの遺産、感情の素朴さ、音楽上の新奇さに対する恥じらい、曇りのない良心を保持していると称賛していた[326]。マイアベーアはパリで1824年に『エジプトの十字軍』を成功させ、『悪魔のロベール』(1831年)、サン・バルテルミの虐殺に基づくグランド・オペラユグノー教徒』(1836年)の大ヒットなどで名声を博し、1842年にはベルリン宮廷歌劇場音楽監督に就任した。また、マイアベーアは多くのユダヤ人がキリスト教に改宗する時代において、改宗を拒否した唯一の例であった[327]。一方でマイアーベーアは聴衆のほとんどは反ユダヤ主義であるとハイネへの手紙で述べている[326]1840年の「ドイツの音楽について」でワーグナーは、ドイツ国はいくつもの王国や選帝侯国、公国、自由帝国都市に分断されており、国民が存在しないために音楽家も地域的なものにとどまっていると嘆いたうえで、しかしドイツはモーツァルトのように、外国のものを普遍的なものにつくりかえる才能があると論じた[328]。ワーグナーにとってジャコモ・マイアベーアはフランスとドイツのオペラを美しく統一した作曲家であった[329]

しかし、1839年から1842年春までパリに住んだワーグナーは、パリの音楽界に反感を持つようになり、偽名で発表したエッセイ「ドイツ人のパリ受難記」(1841)では「パリでドイツ人であることは総じてきわめて不快である」と書き、ドイツ人は社交界から排除されているのに対して、パリのユダヤ系ドイツ人はドイツ人の国民性を捨て去っており、銀行家はパリでは何でもできる、と書いた[330]。ワーグナーの身近にいたマイアベーアは事実、偽客(サクラ)を動員したり、ジャーナリストを買収するなどしており、ハイネもそうして獲得したマイアーベーアの名声に対して「金に糸目をつけずにでっちあげた」と批判していた[331]。成功しないワーグナーは次第にマイアーベーアが妨害していると思い込むようになり、1842年頃には、ワーグナーはシューマンへの手紙でマイアベーアを「計算ずくのペテン師」と呼ぶようになった[326]。この頃、ハイネから素材をとり『さまよえるオランダ人』(1842年)を作成した[247]。ワーグナーはハイネと親しく、ハイネがユダヤ系のルートヴィヒ・ベルネを『ベルネ覚書』で批判すると、ワーグナーはハイネを擁護した[247]1843年の自伝スケッチでワーグナーは、イタリア人は「無節操」で、フランス人は「軽佻浮薄」であり、真面目で誠実なドイツ人と対比させたが、パリでの不遇が背景にある[326]

1840年、フランスのティエ−ル内閣がライン川を国境とすべきだとドイツに要求すると、これを「ライン危機」とする反フランス的な愛国運動がドイツで広がった[332]。ドイツでは「ドイツのライン」「ラインの守り」「ドイツの歌」などの愛国歌謡が作られたが、ワーグナーはこれには吐き気を催すといって共感しなかった[332]

1842年、ワーグナーはパリを去ってザクセン王国に戻り、ドレスデンザクセン国立歌劇場管弦楽団指揮者となる[326]。当時のワーグナーはドレスデン宮廷歌劇場監督で社会主義者のアウグスト・レッケルの影響で、プルードン、フォイエルバッハバクーニンなどアナーキズムや社会主義に感化されており、国家を廃棄して自由協同社会(アソシエーション)を望んでいた[290]。ワーグナーは1846年、ザクセン王立楽団の労働条件の改善や団員の増強や合理的な編成を要求したが、総監督リュッティヒャウ男爵はすべて却下し、さらに翌1847年にワーグナーは宮廷演劇顧問のカール・グツコーの無理解な専制を上訴したが、取り合ってもらえなかったため、辞任した[290]。1847年夏には、ヤーコプ・グリムの『ドイツ神話学』に触発され、古代ゲルマン神話を研究した[333]

1848年3月のフランスのような「国民」をドイツで実現することを目指したドイツ三月革命では、レッケルがドレスデンで「祖国協会」を組織し、公職を追放されたが、宮廷楽長ワーグナーはこの協会に加入していた[290]。ワーグナーは5月に宮廷劇場に代わる「国民劇場」を大臣に提案したが、劇場監督が反対したため却下された[290]。6月には祖国協会で、共和主義の目標は貴族政治を消し去ることであり、階級の撤廃と、すべての成人と女性にも参政権を与えるべきであるとして、プロイセンやオーストリアの君主制は崩壊すると、演説で述べた[292]。さらに、美しく自由な新ドイツ国を建設して、人類を解放すべきであると述べたが、この演説は、共和主義者と王党主義者からも攻撃された[292]。また、この演説では金権とユダヤ人からの解放について演説したともいわれる[247]。7月にはヘーゲルの歴史哲学に影響を受けて、「ヴィーべルンゲン、伝説に発した世界史」や「ジークフリートの死」の執筆をはじめた[292]。ワーグナーは、レッケルを通じてバクーニンと知り合い、1849年4月8日の「革命」論文では、革命は崇高な女神であり、人間は平等であるため、一人の人間が持つ支配権を粉砕すると主張した[292][* 8]

1849年5月のドレスデン蜂起でワーグナーもバリケードの前線で主導的な役割を果たした[292]。ワーグナーはドレスデンを脱出したが、指名手配を受けてスイスチューリッヒに亡命した[292]。チューリッヒでワーグナーは『芸術と革命』(1849)を著作し、古代ギリシャ悲劇を理想としたが、アテネも利己的な方向に共同体精神が分裂したため衰退し、ローマ人は残忍な世界征服者で実際的な現実にだけ快感を覚え、またキリスト教は生命ある芸術を生み出すことはできなかったとキリスト教芸術のすべてを否定した[335]。一方、ローマ滅亡後のゲルマン諸民族はローマ教会への抵抗に終始したし、またルネサンスは産業となって堕落したとする[335]。さらに近代芸術は、その本質は産業であり、金儲けを倫理的目標としていると批判した上で、未来の芸術はあらゆる国民性を超越した自由な人類の精神を包含する、と論じた[335]。また、同年の『未来の芸術作品』では、共通の苦境を知っている民衆(Volk)と、真の苦境を感じずに利己主義的な「民衆の敵」とを対比させて、「人間を機械として使うために人間を殺している現代の産業」や国家を批判して、未来の芸術家は音楽家でなく民衆である、と論じた[335]

亡命先のスイスゲルマン神話への考察を深め、1849年には『ヴィーベルンゲン 伝説から導き出された世界史』で伝説は歴史よりも真実に近いとして、ドイツ民族の開祖は神の子であり、ジークフリートは他の民族からはキリストと呼ばれ、ジークフリートの力を受け継いだニーベルンゲンはすべての民族を代表して世界支配を要求する義務がある、とする神話について論じた[336][337][326]1848年革命の失敗によって、コスモポリタン的な愛国主義は、1850年代には排外的なものへと変容したが、ワーグナーも同時期にドイツ的なものを追求するようになっていった[338]

1849年、テーオドーア・ウーリクがマイアベーアの『預言者』を批判した。翌1850年、ワーグナーが変名で『音楽におけるユダヤ性』を発表し、ユダヤ人は模倣しているだけであり、芸術を作り出せないし、芸術はユダヤ人によって嗜好品になって堕落したと主張した[247][339]。また、「ユダヤ人は現に支配しているし、金が権力である限り、いつまでも支配し続けるだろう」とも述べた[247]。ワーグナーは1850年以前はユダヤ人の完全解放を目指す運動に与していた[326]。ワーグナーは『音楽におけるユダヤ性』で、マイアベーアを名指しでは攻撃せずに、ユダヤ系作曲家メンデルスゾーン・バルトルディを攻撃し、またユダヤ解放運動は抽象的な思想に動かされてのもので、それは自由主義が民衆の自由を唱えながら民衆と接することを嫌うようなものであり、ユダヤ化された現代芸術の「ユダヤ主義の重圧からの解放」が急務であると論じた[326]。ただし、ワーグナーはメンデルスゾーンを『ヘブリデス』序曲(1830年)を称賛し、完全な芸術家であるとも評価していた[326]。『音楽におけるユダヤ性』を発表して以降、ワーグナーはマイアーベーアの陰謀で法外な非難を受けたと述べ、1851年にワーグナーはフランツ・リストに向けて、以前からユダヤ経済を憎んでいたと述べ[247]1853年にはユダヤ人への罵詈雑言をリストの前で述べるようになっていた[326]。ウクライナのユダヤ人ピアノ奏者ヨーゼフ・ルービンシュタインはワーグナーに『音楽におけるユダヤ性』には一点の疑義もないが、自殺するか、ワーグナーに師事するかしか残されていないと述べて、ワーグナーはルービンシュタインを庇護し、専属奏者とした[324]。同じくカール・タウジヒもユダヤ人でワーグナーの庇護下にあったし、ワーグナーがローエングリンジークフリート役に好んで起用した歌手で後にプラハ新ドイツ劇場監督になるアンゲロ・ノイマンもユダヤ人であった[324]

1851年の『オペラとドラマ』でワーグナーは、古代ギリシャ人の芸術を再生できるのはドイツ人であると論じ、また死滅したラテン語にむすびついたイタリア語やフランス語とは違って、ドイツ語は「言語の根」とむすびついており、ドイツ語だけが完璧な劇作品を成就できる、と論じた[340]

1851年12月にフランスでナポレオン3世のクーデターが起きると、ワーグナーは革命を期待したが、翌年末にフランス帝政が宣言されると、落胆して、ドイツへの帰国を考えるようになった[341]

1855年、ワーグナーの知り合いでもあった作家グスタフ・フライタークは、自由主義者であり、反セム主義者とはいえないが、フライタークの小説「借方と貸方(Soll und Haben)」はドイツの長編小説の中で最も読まれたといわれ、ドイツ人商人が、浪費癖の強いドイツ人貴族を助けて、ドイツへの憎しみに燃えるユダヤ人商人は没落して、最後には汚い川で溺死するという話で、影響力があった[342]

1861年にはワーグナーが実名で『音楽におけるユダヤ性の解説』を刊行した。1865年、ワーグナーはバイエルン国王ルートヴィヒ2世のために『パルジファル』を書き、「ゲルマン=キリスト教世界の神聖なる舞台作品」と呼んだ[324]。同1865年9月11日の日記では「私はもっともドイツ的な人間であり、ドイツ精神である」と書いた[343]。ワーグナーは『パルジファル』にあたって、大ドイツ主義者の聖書学者グフレーラーの『原始キリスト教』に影響を受けた[344]

1867年、ワーグナーは南ドイツ新報に連載した「ドイツ芸術とドイツ政治」において、フランス文明は退廃的な物質主義であり、優美を礼儀作法に変形させ、すべてを均一化させ死に至らしめるものであり、この物質的文明から逃れることができるのがドイツであり、古代末期ローマ帝国を滅ぼして新生ヨーロッパを作ったゲルマン民族と同じ国民である、と論じた[345]。『ニュルンベルクのマイスタージンガー』(1868年)では「たとえ神聖ローマ帝国は雲散霧消しても、最後にこの手に神聖なドイツの芸術が残る」(3幕5場)と述べられた[346]。しかし、この作中でユダヤ人は出てこない[339]

1869年北ドイツ連邦で宗教同権法(宗教の違いに関係ないドイツ市民同権法)が承認され、1871年ドイツ帝国全域で施行されると、ユダヤ人をめぐる軋轢が生じて、反ユダヤ主義運動が高まりを見せたが、ワーグナーは同時代の反ユダヤ主義には同調しなかったが[347]、ユダヤ人資本家、宮廷ユダヤ人によって操られているプロイセン政府を軽率な国家権力として批判した[348]

普仏戦争の始まった1870年にワーグナーは著書『ベートーヴェン』で、フランス近代芸術は独創性を完全に欠如させているが、芸術を売りさばくことで計り知れない利潤をあげているが、ベートーヴェンがフランス的な流行(モード)の支配から音楽を解放したように、ドイツ音楽の精神は人類を解放する、と論じた[349]

ワーグナーはヴィルヘルム・マルやオイゲン・デューリングの反ユダヤ主義の著書は評価しなかったが、ユダヤ人の儀式殺人をとりあげたプラハ大学教授のアウグスト・ローリング神父の『タルムードのユダヤ人』(1871年)[350]を愛読した[351]

1873年にはビスマルクの反カトリック政策である文化闘争を支持し、しかし、カトリックだけではなく、横暴なフランス精神との闘争を主張した[352]。しかし、ビスマルクがワーグナーの劇場計画や支援要請を拒否すると、ワーグナーはビスマルクとプロイセンに失望し、今日のドイツの軍事的優位は一時的なものにすぎず、「アメリカ合衆国とロシアこそが未来である」と妻に述べ、1874年に「私はドイツ精神なるものに何の希望も持っていない」とアメリカの雑誌記者デクスター・スミスへの手紙で述べた[353]1877年にはバイロイトを売却して、アメリカ合衆国に移住する計画をフォイステルに述べた[354]

ワーグナーは1880年の論文「宗教と芸術」で、音楽は世界に救いをもたらす宗教であると論じて、キリスト教からユダヤ教的な混雑物を慎重に取り除き、崇高な宗教であるインドのバラモン教や仏教などを参照して、純粋なキリスト教を復元しなくてはならないとし、失われた楽園を再発見するのは、菜食主義と動物愛護、節酒にあるとし、南米大陸への民族移動を提案した[355]。この論文では、「ドイツ」は一語も登場しない[356]。ワーグナーに影響を与えたショーペンハウアーは、キリスト教の誤謬は自然に逆らって動物と人間を分離したことにあるが、これは動物を人間が利用するための被造物とみなしたユダヤ教的見解に依拠する、と論じた[357]。ワーグナーの菜食主義は、ヒトラーの菜食主義にも影響を与えた[358]。また、ワーグナーは動物実験の禁止を主張した[351]。また、1880年には哲学者ニーチェの妹エリーザベトの夫ベルンハルト・フェルスターによって、ユダヤ人の公職追放や入国禁止を訴えるベルリン運動(Berliner Bewegung)が展開され、26万5千人の署名が集まった[247]。しかし、ワーグナーはベルリン運動への署名は拒否した[347]

晩年の1881年2月の論文「汝自身を知れ」において、ワーグナーは現在の反ユダヤ運動は俗受けのする粗雑な調子にあると批判し、ドイツ人は古代ギリシア格言汝自身を知れ」を貫徹すれば、ユダヤ人問題は解決できると論じた[359]。ワーグナーの目標はユダヤ人を経済から現実に排斥することでなく、現代文明におけるユダヤ性(Judenthum)全般を批判し、フランスの流行や文化産業と一体化したものとして批判した[359]。ワーグナーにとって、ユダヤ人は「人類の退廃の化身であるデーモン」であり「われわれの時代の不毛性」であり、ユダヤへの批判は、キリスト教徒に課せられた自己反省を意味した[359]。また、ユダヤ教は現世の生活にのみ関わる信仰であり、現世と時間を超越した宗教ではないとした[359]

1881年9月の論文「英雄精神とキリスト教」では、人類の救済者は純血を保った人種から現れるし、ドイツ人は中世以来そうした種族であったが、ポーランドやハンガリーからのユダヤ人の侵入によって衰退させられたとして、ドイツの宮廷ユダヤ人によってドイツ人の誇りが担保に入れられて、慢心や貪欲と交換されてしまったとワーグナーは論じた[360]。ユダヤ人は祖国も母語も持たず、混血してもユダヤ人種の絶対的特異性が損なわれることがなく、「これまで世界史に現れた最も驚くべき種族保存の実例」であるに対して、純血人種のドイツ人は不利な立場にあるとされた[361]。なお、ワーグナーはユダヤ系の養父ルートヴィヒ・ガイアーが自分の実の父親であるかもしれないという疑惑を持っていた[362]

1881年、ワーグナーはバイエルン国王ルートヴィヒ2世への手紙でユダヤ人種は「人類ならびになべて高貴なるものに対する生来の敵」であり、ドイツ人がユダヤ人によって滅ぼされるのは確実であると述べている[324]。しかし、同じ年に、ユダヤ人歌手アンゲロ・ノイマンが反ユダヤ主義者に攻撃を受けると、ノイマンを擁護してもいる[324]

1882年、ウィーンのリング劇場で800人が犠牲となった火災事故に対してワーグナーは「人間が集団で滅びるとは、その人間たちが嘆くに値しないほどの悪人だったということだ。あんな劇場に人間の屑ばかり集めて一体何の意味があるというのか」と述べ、鉱山で労働者が犠牲になった時こそ胸を痛めると述べた[324][* 9]。また、ワーグナーは「人類が滅びること自体はそれほど惜しむべきことではない。ただ、人類がユダヤ人によって滅ぶことだけはどうしても受け入れがたい恥辱である」と述べている[324]

1882年夏、ワーグナーの崇拝者であったユダヤ人指揮者ヘルマン・レーヴィはルートヴィヒ2世の命によって、『パルジファル』のバイロイト祝祭劇場初演を指揮した[324][364]。『パルジファル』でワーグナーはインドの仏教やラーマーヤナをモチーフにしたが、「キリスト教世界の外部」の中世スペインとして設定された[365]。宗教と芸術の一致を目標としてたワーグナーは、ユダヤ人のレーヴィをキリスト教に改宗せずに指揮してはならないと言ったが、レーヴィは拒否した[366]。レーヴィはワーグナーの論文「汝自身を知れ」に感銘し、ワーグナーのユダヤとの戦いは崇高な動機からのものであり、低俗なユダヤ人憎悪とは無縁であると考えた[367]。前年の1881年6月には匿名でユダヤ人に指揮させないでほしいという懇願とともに、そのユダヤ人はワーグナーの妻コジマと不義の関係にあるとする手紙がワーグナーのもとに届いた[324]。ワーグナーが手紙をレヴィに見せると、レーヴィは指揮の辞退を申し出たが、ワーグナーは指揮をするよう言った[324]。ワーグナーの娘婿でイギリス人反ユダヤ主義者チェンバレンは終生ワーグナーに忠実であったレーヴィを例外的ユダヤ人として称賛した[324]

ワーグナーは1883年に死ぬ直前に「われわれはすべてをユダヤ人から借り出し、荷鞍を乗せて歩くロバのような存在である」と述べている[324]

社会主義・無神論と反ユダヤ主義編集

 
シャルル・フーリエはユダヤ人解放政策は金儲け精神によるもので、やがてフランスはシナゴーグとなり、ロトシルト(ロスチャイルド)王朝が創始されると論じた[368]

フランスの反ユダヤ主義は、フランス革命の後遺症とみなすこともできるとポリアコフはいう[235]。なかでも、フランスの社会主義者はサン=シモン主義者を唯一の例外として反ユダヤ主義に染まっていった[235][* 10]

1808年、社会思想家シャルル・フーリエは人々を破産に追い込み稼いだユダヤ人についての教訓話を書き、ユダヤ人がフランスに拡散すると、フランスは巨大なシナゴーグになると論じた[368]1829年、フーリエはユダヤ人解放政策は金儲け精神の助長であり悪政であるとして、「高利貸しの民族」であるユダヤ人は文明化を遂げていないと論じた[368]。しかし、フーリエは1838年には『偽りの産業』でロスチャイルド家旧約聖書エズラセルバベルになぞらえ、ダビデソロモンの王を復活させ、ロトシルト(ロスチャイルド)王朝を創始できると称賛しており、ポリアコフはフーリエはロスチャイルド家の共感をとりつけようとしたのではないかと指摘している[368]。しかし、フーリエの思想に共鳴したフーリエ主義者は第二共和政時にユダヤ人議員クレミューが司法省にいることは脅威であるといったり、ドレフュス事件では反ユダヤ主義を標榜し、またフーリエから影響を受けたロシアの小説家ドストエフスキーもユダヤ嫌いであった[368]

1845年、フランスでシャルル・フーリエの弟子アルフォンス・トゥースネルが『ユダヤ人、時代の王 - 金融封建制度の研究』を刊行した[369]。トゥスネルは産業革命のもとで生じた7月王政期の議会の腐敗や社会不安について、フランスが道徳的に無気力に陥り堕落したのはユダヤの金融資本家を中心とした「金融的封建支配」のせいだと主張し、大臣たちはフランスをユダヤ人に売ったと非難し、「貨幣の貴族支配」を除去するため王と人民との結合を主張した[370]。トゥスネルは「ユダヤ人」を「他人の資材と労働を食い物にしている通貨の取引人すべて、みずから生産に従事しない寄生者のすべて」といい、ここにプロテスタント、神の意思を読み取るのにユダヤ人と同じ書物を読むイギリス人、オランダ人、ジュネーヴ人も指し示しているという[371]。トゥスネルのこの本は、ドリュモンの『ユダヤ人のフランス』(1886)が登場するまでは反ユダヤ主義の古典となった[371]

1846年キリスト教社会主義ピエール・ルルーはトゥースネルと同じ題の『ユダヤ人、時代の王』をものし、「ユダヤ人」とは高利貸し、貪欲に金を稼ぐことに熱意を示す人間すべてを意味するが、ユダヤ人の病は人類の病であり、投機売買と資本によってイエスは磔刑に処されていると論じ、敵は「ユダヤ的精神」であり、個々のユダヤ人ではないといった[371]

 
社会主義共和政の統一ドイツを目指したフェルディナント・ラッサール

プロイセンのフェルディナント・ラッサールはユダヤ人の社会主義者・労働運動指導者だったが、奴隷として生まれついたユダヤ人に対して正しい復讐がわかっていない、と自己指弾し、「私はユダヤ人のことをまったく好きになれない」と述べた[372]

ユダヤ系社会主義者モーゼス・ヘスはユダヤ人は魂のないミイラ、さまよい歩く幽霊のような存在であり、「ユダヤ教とキリスト教の神秘が、ユダヤ=キリスト教徒の商店主の世界に開示された」と述べるなどしていたが、後年、人種主義者となり、1862年の『ローマとイェルサレム』などでヨーロッパ社会にユダヤ人は同化できないとして、シオニズムテオドール・ヘルツルに影響を与えた[373]

1847年理神論者のゲオルク・フリードリヒ・ダウマーは『キリスト教古代の秘密』で聖書批判を行い、過去数世紀にわたってキリスト教徒による儀式殺人を列挙した[374][375]。儀式殺人はユダヤ教徒によってなされたとみなされてきたもので、血の中傷ともよばれるが、ダウマーはハーメルンの笛吹き男などの中世の幼児誘拐事件、異端審問魔女裁判サン・バルテルミの虐殺、ユダヤ人の大量虐殺などもキリスト教徒による儀式殺人であったと論じた[375]。これは厳密な証拠ではなく、漠然とした疑いで書かれたものであったが、共産主義秘密結社義人同盟」のパリ代表ヘルマン・エーヴァ−ベック(August Hermann Ewerbec)はダウマーの『キリスト教古代の秘密』をフランス語に訳し、1848年にロンドンにいたカール・マルクスはダウマーによってキリスト教儀式で人間の肉や血を食べたことが実証され、これは「キリスト教に加えられた最後の一撃」であると評価した[376][375]。ダウマーはキリスト教側から攻撃を受けて、ユダヤ教に近づき、1855年には『ユダヤ人の知恵』を書いて、ユダヤ人共同体への加入を表明したが、ユダヤ共同体側は断っている[375]。ダウマーの弟子フリードリヒ・ウィルヘルム・ギラニ−はダマスクス事件以後、ユダヤ人の食人風習を告発した[375]

無神論哲学者フォイエルバッハはダウマーの親友であり、ダウマーから影響を受けていた[375]。フォイエルバッハは『キリスト教の本質』でユダヤ人の原理は利己主義と述べている[375]

レオン・ポリアコフは、ヴォルテールの反宗教キャンペーンから、ソ連の反宗教政策まで、反キリスト教を掲げる無神論の十字軍は、ダウマーと同種の思考様式が共通して見いだせると指摘している[377]。ハイネは「無神論の狂信的な修道士たち」と述べている[378]

アルノルト・ルーゲはゲルマン主義の学生運動の活動家であったが、青年ヘーゲル派となり、1838年に機関誌『ハレ年報』を創刊した[379]。ルーゲは1839年、『ハレ年報』で「キリスト教世界というチーズのなかに巣くったウジ虫ともいうべきユダヤ人」は無神論的であると論じた[380][379]。ルーゲはマルクスと悶着した際に「恥知らずのユダヤ人」と言い、社会主義運動を「忌まわしきユダヤ魂の寄り合い」と非難している[379]。ルーゲは後年、ビスマルク支持者となった[379]

 
ブルーノ・バウアー

青年ヘーゲル派ブルーノ・バウアー1841年、教授職を追われ、『ユダヤ人問題』で、すべての人間が宗教から解放されなけれならないのに、ユダヤ人だけを解放の対象とみなすことに反意を表明して、ユダヤ人解放論へ反論した[381]。ユダヤ人が政治的権利を剥奪されているとされているが、ユダヤ人は金融でも政治でも一大権力をほしいままにしていると反論した[381]。バウアーは1843年の『暴かれたキリスト教』で無神論な立場を表明して、発禁処分となった[381]。同年、社会主義者で無神論者のヴィルヘルム・マルが『暴かれたキリスト教』の縮約版を刊行したが、このマルはのちに「反ユダヤ主義(Antisemitismus)」を創造した[381]。バウアーはその後、十字新聞のメンバーとなり、ビスマルク支持者となった[381]

マルクスと反ユダヤ主義編集

 
思想家カール・マルクスはユダヤ系であったが、反ユダヤ主義者でもあった[382][383]。マルクスには「ユダヤ的自己嫌悪」があったとキュンツリは指摘している[384]

社会思想家カール・マルクスはラッサールと同じくユダヤ系であったが、ラッサールを嫌ってラッサールは黒人、ユダヤ人、ドイツ人の交配から生まれた「ユダヤ人のニグロ」とエンゲルスへの書簡で述べるなど、反ユダヤ主義的でもあった[372]1843年、マルクスは『ユダヤ人問題によせて』において、ユダヤ教の基礎は、実際的な欲求と利己主義であるとする[382]。そして、ユダヤ教の世俗的祭祀は商売であり、その世俗的な神は貨幣であるとして、商売とあくどい貨幣からの解放が、現実的なユダヤ教からの解放であり、自己解放となり、「ユダヤ人の解放は、その究極的な意味において、ユダヤ教からの人類の解放である」と論じた[382]。マルクスは「貨幣は世界の支配権力となり、実際的なユダヤ精神がキリスト教的諸国民の実際的精神になった」、「貨幣はイスラエルの妬み深い神」であり、手形はユダヤ人の現実的な神である、ユダヤ人の民族性は金銭的人間の民族性であるなどと論じた[382]。マルクスは生涯を通じてみずからをユダヤ人と認識することを拒み、ユダヤ人による社会主義を快く思わなかった[382]。マルクスは「ユダヤ人」を他人を批判するときに使っており、ユダヤ教学者シュタインタール、ウィーンのジャーナリストフリートレンダー(Max Friedländer)を「呪われたユダヤ人」、銀行家ルートヴィヒ・バンベルガー (Ludwig Bamberger) を「パリの証券シナゴーグ」の一員と呼んだり、また「ニューヨーク・デイリー・トリビューン」では匿名で金の商人は大部分ユダヤ人であるなどと書いた[382]。マルクスにとってユダヤ主義は資本主義や利己主義の別名であり、ユダヤ人は高利貸しの別名であった[383][384]

1848年にマルクスが編集長となった新ライン新聞の特派員エードゥアルト・テレリングは、1848年革命後、テレリングはプロイセン政府の御用記者となり、1850年に小冊子「来るべきマルクスとエンゲルスによるドイツ独裁制の前兆」でマルクスを批判した[382][385]。テレリングは反ユダヤ主義と反マルクス主義の一大勢力の前兆であった[382]

プルードンと反ユダヤ主義編集

 
社会主義・無政府主義者プルードンは金利に通暁したユダヤ人はサタンであると非難し、その反ユダヤ主義は生涯続いた[386]

フランスの社会主義無政府主義者プルードンはユダヤ人は「でっちあげ、模倣、ごまかしをもって事に当たる」、ユダヤ人は金利の上昇と下降、需要と供給の気まぐれに通称しており、まさに「悪しき原則、サタン、アーリマン」であると非難した[386]1858年に出版したプルードンの主著『革命の正義と教会の正義』では近代世界の退廃はユダヤ人が原因であると論じた[386]。プルードンは、カトリシズムという有害な迷信の生みの親であるユダヤ人は頑迷で救いようがなく、進歩派の行動指針としては、ユダヤ人のフランスからの追放、シナゴーグの廃止、いかなる職業への従事も認めず、最終的にユダヤ信仰を廃棄させるとしたうえで、「ユダヤ人は人類の敵である。この人種をアジアに追い返すか、さもなくば絶滅にいたらしめなければならない」と手帳に記した[386]。プルードンは、ユダヤ人だけでなく、外国人労働者に対しても憎悪と懸念を抱いており、「彼らは国の住民ではないのだ。彼らは単に利益を手に入れようとして国に入ってくるだけである。こうして政府自体が外国人を優遇することで得をし、外国の人種がわれわれの人種を目に見えないかたちで追い払っているのだ」と見ていた[386]。プルードンは、ベルギー人、ドイツ人、イギリス人、スイス人、スペイン人などの外国人労働者がフランスに侵入して、フランスの労働者に取って代わることを嘆き、フランス革命、人権宣言、1848年革命自由主義も、外国人に利益をもたらすのみであったとし、「私は自分の民族に原初の自然を帰してやりたい」と述べて、フランスの民族はこれまでにギリシア人、ローマ人、バルバロイ、ユダヤ人、イギリス人によって支配されてきたことを嘆いた[386]。プルードンにとって、ユダヤ人作家ハインリヒ・ハイネ、アレクサンドル・ウェイルは密偵であり、ロトシルト、クレミュー、マルクス、フールドは妬み深く刺々しく、フランス人を憎悪している[386]。またプルードンは、女性解放運動に対して激しく攻撃する男性至上主義者でもあった[386]。ポリアコフは、こうしたプルードンには20世紀のファシストの原型として権威主義的人格の先駆けを見て間違いないとしている[386]

無政府主義者無神論者のロシア人革命家ミハイル・バクーニンは、パリでプルードンに感銘を受けて、政治活動を展開したが、バクーニンは、ドイツ人とユダヤ人を憎悪する反ドイツ・反ユダヤ主義者であった[387]

19世紀末までに社会主義、反資本主義と反ユダヤ主義とが密接に関連していくことで反ユダヤの言説が強大になっていった[370]社会主義と反ユダヤ主義のむすびつきは、1873年からの世界大不況の時代にさらに大きく展開していった

「ユダヤ人からの解放」論編集

これまでに見てきたように、マルクスの『ユダヤ人問題によせて』(1843)、ワーグナーの『音楽におけるユダヤ性』(1850)やプルードンなどの反ユダヤ思想では、ユダヤ人が一大勢力となっていることを脅威に感じ、支配勢力であるユダヤ人からの解放が論じられてきた。そして、19世紀後半から20世紀にかけて、「ユダヤ人からの解放」はユダヤ陰謀論などともなり、様々に現れていった。世界大不況時代1880年代には、 ドイツ語圏で「ユダヤ教徒の解放」をもじった「ユダヤ人からの解放」というスローガンが流布した[238]

1861年 - 匿名で『ユダヤ人迫害とユダヤ人からの解放』が刊行された。そのなかで「貨幣の権力、すなわち、自らは労働せずに、いわゆる営業の自由の利益を独り占めし」ている権力が批判され、金権支配の物質主義と官僚支配の機械主義が進行しているなか、貨幣権力は大部分ユダヤ教徒の手中にあり、ユダヤ人は近代自由主義のすべてを独占することに成功したと主張された[238]。ここでは「ロートシルト家(ロスチャイルド家)を筆頭としてヨーロッパの証券取引所を支配しているユダヤ人金融家」を論じる一方で、ユダヤ教徒迫害は愚かで退けるべきであるとし、「ユダヤ人からの解放」が主張された[238]

同1861年 - ドイツで『ユダヤ人とドイツ国家』が匿名(H.G.ノルトマンであることが判明している)で発表され、ベストセラーになった[238]。この本は伝統的なキリスト教的なユダヤ教徒への嫌悪(Judenhaß)を復活させ、シェイクスピアの『ヴェニスの商人』からシャイロックの台詞が何度も引用され、「ユダヤ人であること(das Judenthum)は、極端な分離主義と人種的思い上がりによって特徴づけられ、ユダヤ人の人間としての範囲はアブラハムの 子孫を越えることはない」「ユダヤの血とユダヤの意識は分離できないのであり、 我々は、ユダヤ教(das Judenthum)を宗教や教会としてだけではなく、人種的特性の表現として把握しなければならない。だから、ユダヤ人とドイツ人の宗教的分離が廃止されれば二つの民族のあらゆる本質的区別がなくなるとか、両者の融合がさらに進めばユダヤ的性格がドイツ人に影響を及ぼすことはなくなるとか、思ってはならない」と主張し、ユダヤ人を人種(Race)、種族(Stamm)として論じた[238]

1862年 - ブルーノ・バウアーが「異邦人の中のユダヤ人」で「ユダヤ人支配はキリスト教徒の所業だ。それは我々の責任だ。しかし、まさにそれが我々の責任であるがゆえに、我々はまだ負けてはいない」「人道主義的に軟化した瞬間に我々がユダヤ教徒を同等なもの、仲間として取り扱った」こと、それが「我々の誤り」であったと主張し、「我々がユダヤ人に対して自らを防衛しなければならないことの責任は、我々のみに、とりわけ我々ドイツ人にある。ユダヤ人が一時的に手に入れた勝利は、彼らが闘い取ったものではなく、我々が彼らにプレゼントしたものなのだ。彼らではなく、我々こそが現代にそのユダヤ的性格を刻印したのだ」と述べた[238]

市民的リアリズムを代表する小説家ヴィルヘルム・ラーベ(1831年 - 1910年)の『飢餓牧師』(1864年)では、改宗ユダヤ人の野心家が、「私には、気の向くままにドイツ人になったり、その栄誉を手放したりする権利がある」と述べる[227]。同じく市民的リアリズムの作家テオドール・フォンターネ(1819 - 1898年)の小説では、ユダヤ人は一定の好意をもって描かれているが、ユダヤ人はユダヤ人同士でキリスト教徒と分かれて暮らした方がいい、レッシングの三つの指環という宗教的寛容を説く『賢者ナータン』の物語は不都合を引き起こしたと述べている[227]

聖書学編集

19世紀には聖書学が進展した。青年ヘーゲル派ダーフィト・シュトラウス1835年に『イエスの生涯』を発表し、福音書での奇跡を神話として批判的に研究した。後年、ニーチェから批判された。

エルネスト・ルナン1861年にコレージュ・ド・フランスでの開講初日にイエスを「神と呼んでもいいほどに偉大なる比類なき人間」と呼んで講義が停止され、翌1863年、『イエスの生涯』を刊行した[388]。なお、ルナンはフォイエルバッハの反キリスト教の立場やゲルマン主義には批判的であり、新約と旧約を分離する反ユダヤ主義者ではなく、1882年ハンガリーのティルツラル・エツラルでの儀式殺人事件には抗議し、ロスチャイルド家から資金を調達して反ユダヤ主義の標的にもなった[389]。しかし、ルナンは初期イエスはユダヤ教の枠の中にあったが、ユダヤ共同体での論争の激しさの犠牲となり、イエスはユダヤ教を徹底的な破壊者となり、偏狭なユダヤ性を克服していったと論じて、ユダヤ教を拒絶した[390]。ルナンやダーフィト・シュトラウスによって史的イエスの研究が展開していった。

ダーフィト・シュトラウスから大きな刺激を受けたユダヤ教改革派ラビアーブラハム・ガイガーは『ユダヤ教とその歴史』(1865-71)などで、イエスの教えはオリジナルなものではなく、パリサイ派の倫理の延長にあり、イエス教では天国崇拝が新しいだけであるとして、イエスはガリラヤ出身のパリサイ派ユダヤ人であるとした[391][392]。ガイガーは、リベラル・プロテスタントの視線でユダヤ教の歴史を描き、パリサイ派を進歩派、サドカイ派を保守派とみた[393]。ガイガーによるパリサイ派のサドカイ派の対立の図式は、モムゼンにも影響を与えた[394]。ガイガーは、当時1870年代の文化闘争などでカトリックに対抗するドイツのプロテスタントやリベラルな国民主義に接近し、ラビのユダヤ教を改革することで、ユダヤ社会の近代化を目指した[395]

ユリウス・ヴェルハウゼンは『パリサイ派とサドカイ派』(1874)『イスラエル史』(1878)などで、モーセ五書律法よりも預言者エレミヤの個人的敬虔を重視し、さらに『申命記』などの祭祀法典はバビロン捕囚後に成立したとみた[396][397]。ヴェルハウゼンは、6世紀頃からユダヤ教は古代イスラエル宗教を圧迫し、祭祀階層が預言者をとどめを刺して、律法が固定されたとして、このことによってパリサイ派は権力を把握した一方で、精神的イスラエルとしてのキリスト教が成長したとみた[398]。ヴェルハウゼンは、ニーチェ、ヴェーバー、フロイトにも大きな影響を与えた[399]

プロイセンの台頭とドイツ帝国の成立(1871)編集

 
プロイセン中心の連邦国家「ドイツ帝国」の成立によってドイツ統一が実現された。

1866年に7週間で終わった普墺戦争(プロイセン=オーストリア戦争)プロイセン王国が勝利したことによってドイツ連邦は解体され、翌1867年にオーストリアと南ドイツを除いた北ドイツ連邦が成立した。

1867年 - フェリクス・ダーンの大衆小説「ローマ攻防戦(Ein Kampf um Rom)」[400]は、中世のゴート人によるイタリア遠征が題材で、誠実で情潔なゲルマン人とは対照的に、卑劣で臆病で計算ずくのユダヤ人の非業の最後が描かれる[342]

1869年、教権派のグージュノー・デ・ムソーが著書『ユダヤ人、ユダヤ教、そしてキリスト教諸民族のユダヤ化』において、世界イスラリエット同盟、儀式殺人、フリーメイソンのユダヤ人などの害悪を論じ、反キリスト教の陰謀を企て、各地で革命の種を蒔いているとする一方で、ユダヤ人の血には価値があり、高貴な民族であり、神秘的な生命力を持っていると称賛した[401][402][235]。グージュノーは、野蛮なタルムードは憎悪と横領の教えであり、タルムードが破棄されるまではユダヤ人は非社会的な存在であり続けるが、それに先立ち、これまでにないほどの苛酷な試練が待ち受けている、そしてユダヤ人は「父の家」にふたたび加わり、「永遠に選ばれた民、諸々の民のなかにあってもっとも高貴にしてもっとも威厳に満ちた民」として祝福されると論じた[235]。グージュノーは、教皇ピウス9世から称賛され、教皇庁騎士号を与えられた[403]

1871年普仏戦争(プロイセン=フランス戦争)でプロイセンと南北ドイツ諸邦がフランス帝国に勝利し、プロイセン王ヴィルヘルム1世ヴェルサイユ宮殿で皇帝に即位してドイツ帝国(正式にはドイツ国 Deutsches Reich)が成立した。

ユダヤ人による儀式殺人を中心テーマとして書かれたプラハ大学教授アウグスト・ローリング神父の『タルムードのユダヤ人』(1871年[404]は、ヨハン・アンドレアス・アイゼンメンガーの1700年の著作『暴かれたユダヤ教』を底本にしたものだったが、1885年、ラビのヨーゼフ・ザームエル・ブロッホから名誉毀損裁判を起こされ負けて、プラハ大学教授職を辞した[405][406]。しかし、ローリングの著作はヨーロッパのカトリック界で支持され、フランスでは1889年には『タルムードのユダヤ人』の翻訳が三種類も出版された[405]。ドイツ語圏では、1867年から1914年までに儀式殺人訴訟が12件繰り返された[405]

1899年、ボヘミアの儀式殺人訴訟では、レーオポルト・ヒルスナーが有罪となったが、これ以外の儀式殺人訴訟はすべて被告は無罪であった[405]。ヒルスナー事件では、プラハ大学の哲学教授トマーシュ・ガリッグ・マサリクが弁護して、儀式殺人は退けられるが、ヒルスナーは19歳の娘を殺害したとして死刑判決を受けたが、のち恩赦された[405]。マサリクはチェコスロヴァキア共和国初代大統領となる。

19世紀後半期ドイツのマスメディア編集

 
家庭雑誌『ディー・ガルテンラウベ(Die Gartenlaube)』

自由主義者エルンスト・カイルが1853年に創刊した家庭雑誌『ディー・ガルテンラウベ(Die Gartenlaube)』は、1848年の3月革命の失敗に自信を喪失した市民階級が、政治や社会から目を背けて、家庭に心の避難場所を求めていた時代に発行部数を伸ばし、1860年には86000部、1875年には38万部の部数を誇った[407]。家庭雑誌『ガルテンラウベ』の専属作家E.マルリットは1873年の「荒野のプリンセス」でユダヤ人の祖母を排除しようとしたプロテスタントが批判されるなど、寛容をテーマとした[407]。家庭雑誌『ガルテンラウベ』は基本的な立場は啓蒙的で進歩主義的であり、1848年革命で目指されたドイツ統一を主張する「国民自由主義」の立場にあった[407]1870年普仏戦争では、家庭雑誌『ガルテンラウベ』に従軍記事も多く掲載され、立場を超えて、「全ドイツ人の一体感が呼び起こされた」という記事も掲載された[407]。また、1873年には文化闘争において、カトリックやイエズス会を批判した[407]。そのようななか、1874年に「ユダヤ人は自分では働かず、他人の知的、肉体労働による生産物を搾取している。この異族はドイツ国民を支配し、その骨の髄までしゃぶりつくしている」という記事を掲載した[405]。すでにエルンスト・カイルら3月革命の自由主義者はエリート層となり、既得権を守ろうという意識が働いていた[407]

1870年代当時は、プロテスタントの『十字架新聞』とカトリック系の『ゲルマーニア』が二大新聞だった[405]。カトリック系の『ゲルマーニア』では、ビスマルクの内政を批判して、『ゲルマーニア』はユダヤ人迫害とは宗教上のものではなく、異民族の侵入に対するゲルマン民族の抗議であると主張したが、反ユダヤ運動には加担しないという姿勢をとった[405]。一方で、プロテスタントの『十字架新聞』は反ユダヤ主義の論調を続けた[405]。『十字架新聞』に掲載されたヘルマン・ゲートシュの幻想小説は、『シオン賢者の議定書』に影響を与えた[408][405]

世界大不況の時代 (1873年-1896年) とユダヤ資本主義論編集

1873年から1896年まで世界大不況が展開して、ヨーロッパ各地で反ユダヤ主義が高まっていった。

大不況下の帝政ドイツ編集

 
ドイツ皇帝ヴィルヘルム1世1878年にヴィルヘルム1世暗殺未遂事件が起こり、社会主義者鎮圧法が作られた。

ドイツ帝国の成立によってドイツが統一されると、投機ブームが起こって、1872年の会社設立数は、1790年から1867年までの会社設立数の二倍にのぼった[405]。しかし、1871年から1872年にかけてのドイツ統一の投機ブームは、1873年恐慌からの世界大不況がはじまったことによって終焉を迎え、多くの投資家が破産し、企業の倒産が続いた[405]

ドイツでユダヤ人の解放が実現した19世紀後半は後発の産業革命の時代でもあり、さまざまな商工業分野で成功したユダヤ人が少なくなかった。例えば、ユダヤ人の大学入学率はプロテスタントの10倍、カトリックの15倍となり、ウィーン大学とプラハ大学では学生の3分の1がユダヤ人学生であり、1885年頃のドイツの大学全体では8人に1人がユダヤ人であった[405]。ユダヤ人は近代化、近代社会の象徴とされ、憎悪された[405]。当時の反ユダヤ主義の背景には、このような躍進著しいユダヤ人に対する人々の妬みや反感があった[409]

大不況下の帝政ドイツでは社会主義運動が高まり、1875年ドイツ社会主義労働者党が結成、1878年には反ユダヤ主義で社会主義のキリスト教社会党が結成された。1878年5月11日と6月2日に元ドイツ社会主義労働者党員によってドイツ皇帝ヴィルヘルム1世暗殺未遂事件が二度起こると、「社会民主主義の公安を害する恐れのある動きに対する法律(社会主義者鎮圧法)」が作られた[407]

シュテッカー、マルの反ユダヤ主義編集
 
勤労者キリスト教社会党を創設したアドルフ・シュテッカー司祭

1878年、帝宮礼拝堂付司祭アドルフ・シュテッカー(Adolf Stoecker)は、社会主義を穏健なキリスト教社会主義と破壊的なユダヤ社会主義とに区別して、ユダヤ人の市民権制限、公職追放、ユダヤ人移民制限、工場法、利子制限法、累進課税相続税徒弟制度などを主張して、勤労者のためのキリスト教社会党(Christlich-soziale Partei)をベルリンで結成し、1879年にはプロイセン議会議員、1881年には帝国議会議員となった[405][410]。経済学者アドルフ・ワーグナーも党の創設に関わったキリスト教社会党は反ユダヤ宣伝を行った[9]

1879年、無神論者で社会主義者だったジャーナリストのヴィルヘルム・マル(Wilhelm Marr,1819 – 1904)が反ユダヤ主義(Antisemitismus)という語を用いた[381][7]。ハンブルグ出身のマルは無神論に傾倒して、1844年にスイスで労働運動を組織して失敗し、1848年革命ではハンブルグで革命に参加後、スイスに亡命して無政府主義グループに参加した[411]。マルは1862年に『ユダヤの鑑』を発表して、1879年に『非宗教的見地から見たゲルマン主義に対するユダヤ世界の勝利』というパンフレットを出版した[412][411]。マルはこのなかで、金融界の慣習はユダヤ的であることに疑いはなく、ユダヤ人は迫害に耐えて生き抜くことを可能にした人種的素質によって勝利したとし、「ユダヤ人は、いかなる非難を受ける筋あいはない。彼らは、18世紀もの長きにわたって西洋世界を相手に戦い抜いてきたのだ。彼らはこの世界を打ち負かし、支配下に置いた。われわれは敗者であり、そして、勝者がウァエ・ウィクティス(敗者に災いあれ)」を叫ぶのは当然のことなのだ」として、ドイツ人はすでにユダヤ化しており、反ユダヤ感情が暴発しても、ユダヤ化した社会の崩壊をくい止めることはできないと論じて、「われわれにとっては神々の黄昏の始まりだ。あなた方(ユダヤ人)は支配者であり、われわれ(ドイツ人)は農奴となった。ゲルマン世界は終焉を迎えた」と結論した[405]。マルはドイツの自由主義がドイツ財政および産業をユダヤ人が支配することを許していると批判した[9]。この書物は出版から数年で十数回の版を重ねた[405]。マルは、同じ1879年に反セム主義者連盟(Anti Semiten Liga)を結成して、反ユダヤ主義の最初の大衆運動となり、フリッチュに影響を与えた[411]。こうしたマルの活動は、ドイツ民族によるユダヤ的本質の絶滅を目標にしていたとされる[9]

トライチュケ・グレーツ・モムゼン論争編集
 
ルター派の歴史学者ハインリヒ・フォン・トライチュケは「ユダヤ人はわれらの禍である」(Die Juden sind unser Unglück! ) と述べ、ナチス時代にジャーナリスト・ナチ党大管区指導者ユリウス・シュトライヒャーが発刊した新聞『シュテュルマー』 でスローガンとされた。

ルター派の歴史学者ハインリヒ・フォン・トライチュケは、1879年に『プロイセン年報』に発表した論文「われらの展望」で、ユダヤ人は株式相場や出版界を支配するが、ユダヤ人とゲルマン的人間との間には深い溝があり、「ユダヤ人こそわれらが不幸」であり、寛容な最良のドイツ人でも心の奥底ではこうした見解を共有していると論じた[413][405][414]。「ユダヤ人は我々の不幸だ」というフレーズはナチス時代にもよく引き合いに出された[415]。トライチュケは、ユダヤ人の同化と改宗による編入を希求したが、改宗を拒否したポーランド(ポーゼン)出身のグレーツに対して「わが(ドイツ)民族を理解することも、また理解しようともしないオリエント人」と非難した[242]。トライチュケは、スピノザの汎神論に心を寄せ、また反プロテスタント主義でカトリックの歴史学者ヨハネス・ヤンセンを支持していたが、病気や不幸によってプロテスタントに入信した[416]。トライチュケはビスマルクを批判していたが、1866年普墺戦争でプロイセンがオーストリア帝国に勝利したのを機にドイツ帝国、プロイセン、プロテスタントを支持するようになり、カトリック、社会主義から離別していった[416]

トライチュケの論文の背景には、ユダヤ教徒の歴史家ハインリヒ・グレーツの存在があり、グレーツは1853年から1874年にかけて全11巻の著書『最古の時代から現代にいたるユダヤ人の歴史』を書き上げて、この中でキリスト教を明確に敵視するとともに、ユダヤ人のキリスト教への改宗を「裏切り者」として厳しく批判した[417][242]。グレーツはシオニズムに近いユダヤ民族主義の立場にあり、新約聖書をタルムードを使って読み直し、ユダヤ教とキリスト教の亀裂を拡大した[242]。グレーツはイエスを神の子とするキリスト教は、メシア意識の混乱にあるとして、イエスは神の子だと主張したために訴訟が起こされたのであり、イエス処刑後の福音書は、メシアの出現物語を後知恵で証明しようとしたものにすぎないと論じた[242]。「神の子」という観念は、異教の土地ギリシャのものであり、ヘレニズムの不純物であるとするグレーツの考え方は、マックス・ヴェーバーや、ヴェーバーの伯父で教会史学者のアードルフ・ハウスラートも認めた考えであった[242]タルムードでは、イエスはヨセフ・パンデラと処女ミリアムとの不倫の子であり、ユダヤ共同体から追われて、神の名を用いて奇跡の力を学んだが、ラビ団のユダに打ち負かされて死刑となったというイエス物語があるが、グレーツはタルムードのイエス物語を作り話として、イエスはエッセネ派とした[73]。トライチュケはグレーツの『ユダヤ人の歴史』を、キリスト教に対する狂信的な怒りであるとし、ゲルマン人への憎悪があるとして、論文「われらの展望」でも名指しで攻撃した唯一の相手がグレーツであった[242]

トライチュケは1879年から1894年にかけて大著『19世紀ドイツ史』をグレーツを意識して競作した[242]。ただし、トライチュケは人種主義者ではなかった[242]。しかし、ポーランドから流入する東欧ユダヤ人はいつかドイツの新聞と株式を支配するだろうと警告した[242]。実際、ポーランド(ポーゼン)からの東欧ユダヤ人には、『ベルリナー・ターゲブラット』紙社長・新聞広告業でモッセ・コンツェルンを築いたルドルフ・モッセ(弟アドルフは日本の憲法起草に携わった)[418]国民自由党指導者エドゥアルト・ラスカー、経済学者アルトゥール・ルッピン、ゲルショム・ショーレムの曽祖父がおり、そして歴史家グレーツがいた[242]

トライチュケの論文「われらの展望」に対して歴史家テオドール・モムゼンはトライチュケによって反ユダヤ主義は品行方正なものとなったが、反ユダヤ主義は国民感情の堕胎であり、狂信的愛国主義であると批判した[405]。しかし、そのモムゼンも、キリスト教は文明人同士をつなぐ唯一の絆であり、ユダヤ人にキリスト教への改宗を執拗なまでにすすめた[405]。モムゼンは、ユダヤ人がドイツ人に同化するには犠牲を払う必要があるとして、ドイツ文化に友好的に参加すべきであるし、公民の義務を果たし、ユダヤ人の特殊な作法を廃すべきであるとした[242]。他方で、モムゼンは『ローマの歴史』などでユダヤ人は歴史を動かす酵母であり、ユダヤ人が諸部族を解体したことでローマ帝国の建設に貢献したと評価し、またテオドール・フリチュやチェンバレンらのユダヤ人を国民集団の破壊者とする反ユダヤ主義に対しては国民感情の妖怪として批判するなど、通常の意味での反ユダヤ主義ではなかった[242]。トライチュケとグレーツの論争では、ユダヤ民族主義の立場にあるグレーツは支持されず、モムゼンもグレーツを支持したわけではなかった[242]。モムゼンはトライチュケと同じく国民自由党に所属していたが、トライチュケがビスマルクを支持した一方で、モムゼンはビスマルクを国民統合の破壊者とした[242]

モムゼンはリベラル・プロテスタントの「反ユダヤ主義防衛連合」の創立者となったが、モムゼンはユダヤ人のドイツへの融合を願った[242]。また、反ユダヤ主義防衛連合はシオニズムに不快感を表明し、「ユダヤ信仰のドイツ国家市民中央連合」を創設して対抗した[242]。反ユダヤ主義防衛連合のアルプレヒト・ウェーバーは、ユダヤ人にも反ユダヤ主義についての責任があるとして、同化を拒否するユダヤ人を批判した[242]。 ヘルツルは、自尊感情を持って最後の避難所を見つけようとしているユダヤ人を、反ユダヤ主義防衛連合は貶めようとしていると批判した[242]。異物としてのユダヤ性を除去するという点では、モムゼンもトライチュケも同じ土俵に立っていた[242]。モムゼンはトライチュケとの論争において、トライチュケが攻撃しているグレーツは文芸界の隅っこにいる「タルムード学史の編纂屋」にすぎず、ローマ帝国にいたユダヤ人歴史家ヨセフスや哲学者フィロンとは比較にならないほど小さな存在であるのに、なぜそんな相手に論争を挑むのか、とトライチュケを戒めた[242]。トライチュケは、グレーツが著書でキリスト教を「宿敵」「不倶戴天の敵」と表したことを取り上げて反論した[242]

トライチュケの論文に対するユダヤ人知識人の反論は、ハインリヒ・グレーツを例外として、ユダヤ人は同化しており、ドイツへの愛国心を保有しているというもので、新カント派のユダヤ系哲学者ヘルマン・コーエンは、ユダヤ人は皆、ドイツ人の容貌を備えていたらどれほど幸せであっただろうと常常感じていると主張した[405]

1880年代ドイツのその他の思想編集

ベルリンでは1880年から1881年にかけて、暴徒がユダヤ人を襲撃したり、ユダヤ人商店やシナゴーグに放火するという暴動が続いた[405]。ポール・マッシングの調査によれば、反ユダヤ主義を広めたのは、学校教員、学生、公務員、事務員、レーベンスフォルム(Lebensreform 生活改革運動)、菜食主義者生体解剖反対論者ナチュリスト(自然復帰主義、Freikörperkultur)などであり、田舎ではなく都会人であり、農民や貴族の大地主や聖職者でもなかった[405]裸体運動では、ゲルマン人種と、ロマンス人種、スラヴ人種、ユダヤ入種との婚姻が禁止された[419][420]

社会主義者の経済学者オイゲン・デューリングは、カール・マルクスやフェルディナンド・ラッサールを批判して、またエンゲルスによって批判されたが、1881年に『人種、風俗、文化問題としてのユダヤ人』[421]1885年に『より完成に近いものによる宗教の代替、ならびに近代民族精神によるユダヤ世界の根絶』[422]などで「ユダヤ人は事実的なことや現実的なことに関して才能がない。 というのも、ユダヤ人はオリエント人であり、形象や夢にとらわれて暮らし、比輸によって思考している空想家であるからだ。ユダヤ人は本当の神話形成者である。北方の人間はより厳しいより冷静な天空の下で、際限を知らないこの民族を論理で撲滅しなければならない」と述べ、ユダヤ人を抑えつけるためには社会主義体制以外の方法はないと主張した[423][405]

自由主義者のユダヤ人ベルトルト・アウエルバッハ(Berthold Auerbach, 1812-1882)はユダヤ人の平等を訴えてきたが、死の直前、キリスト教社会党のアドルフ・シュテッカーやドイツ保守党のヴィルヘルム・フライヘル・フォン・ハンマーシュテイン[424]のユダヤ人狩りが及んだときに、「自分はドイツ人であり、ドイツ人以外の何ものでもなく、生涯全体を通してもっぱらドイツ人であると感じてきたし、ドイツの風度のひとつの声であった」「消え失せろ、ユダヤ人、おまえはわれわれてとは何の関係もない」と手紙に書いた[425]

ニーチェの反キリスト教・反ユダヤ主義編集
 
哲学者フリードリヒ・ニーチェは反ユダヤ主義を批判しつつも、ユダヤ教とキリスト教は道徳上の奴隷一揆をはじめたと論じた[227]
 
ニーチェの妹エリーザベト・フェルスター=ニーチェはナチ党を支援した。

大不況によって反ユダヤ主義が高まるなか、哲学者フリードリヒ・ニーチェはユダヤ人に対して繰り返し称賛と感謝を表明し、反ユダヤ主義者を「絶叫者ども」と批判した[227]。ただし、ニーチェは1872年の『悲劇の誕生』の頃までは反ユダヤ的な偏見を持っており、また東欧ユダヤ人のドイツ流入には後年でも反対だった[416]1869年5月22日のワーグナーへの手紙では、ショーペンハウアーを引き合いに出し、ドイツの豊かな世界観が、「哲学上の狼藉や押しの強いユダヤ気質」によって消え去ったと嘆いた[416]

ニーチェは『反時代的考察』(1873年-1876年)で、ダーフィト・シュトラウスや雑誌『グレンツボーテン』の執筆陣を教養俗物として批判し、雑誌『グレンツボーテン』もニーチェを批判した[426]。雑誌『グレンツボーテン』の中心にいた作家グスタフ・フライタークは、皇太子フリードリヒ3世のブレーンであった[427]。ニーチェは1875年に、キリスト教の勝利とは「粗野な力と鈍感な知識人が、諸民族にあった貴族主義的天才に対しての勝利」であり失敗であったとし、キリスト教によって古代ギリシャの範型が消滅し、またキリスト教はその「ユダヤ的性格」のため、ギリシャ的なものを不可能にした、と論じた[416]

ニーチェは1878年の『人間的な、あまりに人間的な』で「ヨーロッパをアジアに対して守護したのはユダヤの自由思想家、学者、医者だった」として、ユダヤ人によってギリシア・ローマの古代とヨーロッパの結合が破壊されずにすんだことについては、ヨーロッパ人は大いに恩に着なければならない、と述べた[227]1881年『曙光:道徳的先入観についての感想』で、ユダヤ人の美徳と無作法、反乱奴隷特有の抑えがたき怨恨について論じたあと、「もしイスラエルがその永遠の復讐を永遠のヨーロッパの祝福に変えてしまうならば、そのときはかの古きユダヤの神が、自己自身と、その創造と、その選ばれた民を悦ぶことができる第七日が再び来るであろう」と、ユダヤ人に人類再生の希望を見た[227]

当時「反セム主義」は、プロイセン皇帝とビスマルクのドイツ帝国の下でのドイツ統一運動を意味していた[416]。これに対して、ヨーロッパ主義者であったニーチェは『善悪の彼岸』(1886年)において、「国粋主義の妄想」であり、「畜群」「奴隷の一揆」であると批判した[428][416]。さらに『善悪の彼岸』では、ヨーロッパはユダヤ人に最善で同時に最悪なもの、すなわち「道徳における巨怪な様式、無限の欲求、無限の意義を持つ恐怖と威厳、道徳的に疑わしいものの浪漫性と崇高性の全体」を負うており、ユダヤ人に感謝していると書いたあとで、「ユダヤ人がその気になれば、あるいは、反ユダヤ主義者たちがそう欲しているかに見えるように、ユダヤ人をそうせずにいられないように強いるならば、いますぐにもヨーロッパに優勢を占め、いな、まったく言葉通りにヨーロッパを支配するようになりうるであろうことは確実である」と述べて、反ユダヤ主義を批判しつつも、ユダヤ人がヨーロッパ世界の支配者となることに関して述べ、また、ユダヤ古代の預言者は富と無神と悪と暴行と官能を一つに融合し、貧を聖や友の同義語とするなど価値を逆倒し、道徳上の奴隷一揆をはじめたと論じた[429][227]

ニーチェはユダヤ教を古代の純粋なユダヤ教と、第二神殿以降の祭祀ユダヤ教とを区別し、新約聖書は祭祀ユダヤ教を体現したものであり、キリスト教と祭祀ユダヤ教は奴隷道徳を生み出したと批判する一方で、古代の純粋なユダヤ教を称賛した[416]。ニーチェは『道徳の系譜』(1887年)でユダヤ人を「ルサンチマンの僧侶的民族」とみなしている[430]

1888年、皇帝ヴィルヘルム2世はルター派教会を把握し、リベラル・プロテスタントは国民主義の担い手となった[431]。ニーチェはその結果、反ユダヤ主義が形成されたとみており、パウロの出自であるユダヤ人を称賛したのは、こうした背景があった[416]。さらにニーチェはパウロや使徒によるイエスの神学化を嘘つきでイカサマ師であると非難した[416]

1888年9月の『アンチキリスト』では「ユダヤ人は人類を著しくたぶらかしたために、キリスト教徒は、自身このユダヤ人の最後の帰結であることを悟らずに、今日なお反ユダヤ的な感情を抱いている」と書いた[227]。ポリアコフはこの箇所で、ニーチェは反ユダヤ的な方向へ屈折したとみている[227]。オーバーベックはニーチェの反キリスト教は反ユダヤ主義から来ているとする[416]

また、ニーチェの妹エリーザベト・フェルスター=ニーチェは夫のベルンハルト・フェルスターとともに反ユダヤ主義運動を展開し、のちにナチ党の支援者となった。

大不況下のフランス第三共和政編集

第三共和政(1870年 - 1940年)が1881年出版の自由法を成立させると、フランス市民は自分たちの政治的な意見を自由に表明することが可能となり、反ユダヤ主義的な意見の公表もその権利を保護されることとなった[432]。1881年7月、カトリックの機関誌『同時代人』はロシアのポグロム、そしてドイツとルーマニアでも反ユダヤキャンペーンが猛威を振るっているが、カリクスト・ド・ウォルスキのユダヤ人の今回の不幸は自分の責を問うよりほかに仕方がないのであり、ユダヤ人は太古の昔より地上の支配権を持つことを目的にしていると報じ、その典拠はゲートシュの小説『ビアリッツ』(1868)に求められ、これは『シオン賢者の議定書』で取り入れられた[235]。同じく1881年、パリで『反ユダヤ人(L'Anti-juif) 民族防衛機関誌』が週間で出版された[433][434][235]

1881年末にフランスのカトリック資本系の大手銀行ユニオン・ジェネラル(Union générale)銀行が破綻すると、ユニオン・ジェネラルの創始者ボントゥー(Paul Eugène Bontoux)も破産し、破綻の原因をロスチャイルドによる金融操作と述べた[235]。カトリック聖母被昇天修道会のバイイ兄弟が発刊した『クロワ』紙[* 11]や雑誌「ペルラン(巡礼者)」などで、銀行の倒産はユダヤ系財閥のロスチャイルド家の策謀によるものであるというユダヤ陰謀論が繰り広げられ、財産を失ったカトリック市民の反ユダヤ感情を醸成させていった[432]。この騒動はモーパッサンの『モントリオル』(1887)、ゾラの『金』(1891)、ポール・ブールジェの『コスモポリス』(1893)などの小説で描かれた[235]。また、シャボティー師による『我らの支配者ユダヤ人』[435]やシラクの『共和国の王』など、ユダヤ資本主義論が登場した[432]

左翼のウジェーヌ・ジェリオン=ダングラールは、1882年に刊行した『セム人とセム主義』で、歴史学者ジュール・ミシュレの『人類の聖書』での昼の民族と夜の民族の区分を引いて、アーリア民族あるいはインド・ヨーロッパ民族だけが偉大な文明と正義と美を持ち、セム人は退化と退廃にあるとし、「セムの血と教義がアーリアを本質とする住民と文明に浸透していくのではないか」と懸念し、セム主義(ユダヤ主義)を「真の国家内国家。これこそは考えうる限りの唯一の社会悪、もっとも恐ろしい国際的災厄である」と主張した[436][235]

プルードン派社会主義者のオーギュスト・シラクはフランス第三共和政の背後にロスチャイルド家をはじめとするユダヤ系銀行家の策謀をみて、1883年に『共和国の王者たち、ユダヤ金融の歴史』を発表した[437][438]

1882年には、反ユダヤ主義の週刊誌『反セム主義 我らが敵、ユダヤ人![439]』、1883年には週刊誌『L'Antisémitique(反セム)』が創刊された[432][434]

1884年、革命家ブランキの右腕でパリ・コミューン政府のコミューン評議会議員をつとめた革命的社会主義者のギュスタヴ・トリドン(Gustave Tridon1841-1871)は『ユダヤのモロク主義』を出版した[440]。トリドンは同書で、劣等人種セム族は文明の闇、地球の悪であり、ペストをもたらすとして、セム族との戦争は貴種アーリア人の使命であるとした。古代パレスチナのモロク神信仰での人身御供を批判した。なお、レビ記ではモロク神に子供を儀式で捧げることを禁止している[441]

このようにフランス第三共和政(1870-1940)では、反ユダヤ主義は反教権主義左翼によって担われた[235]。しかし、1880年代になると、フランスの反ユダヤ主義を主導するのは、社会主義からカトリック陣営に引き継がれた[235]。1879年から1881年にかけて、シャボティー神父のほか、クローディオ・ジャネ、ダルゾン神父などが反フリーメイソンと反ユダヤの思想を展開した[235]

エマニュエル・シャボティー神父は1880年には偽名サン=タンドレで『フリーメイソンとユダヤ人』を発表していたが、出版自由法施行後の1882年には本名で『われらが主人、ユダヤ人』を刊行した[442][235]

1882年4月、『歴史問題評論』は、「ユダヤ人が世界を牛耳っている。必然的に結論づけられるのは、フリーメイソンがユダヤ化を果たし、ユダヤ人がフリーメイソン化を果たしたという事実である」と報じた[235]。イエズス会は隔月の教皇庁機関誌『チヴィルタ・カトリカ』で中世以来の儀式殺人を取り上げて、ユダヤ攻撃を開始、19世紀末まで間断なく続けられた[235]

1884年、クローディオ・ジャネとルイ・デスタンプは共著『フリーメイソンとフランス革命』を発表した[443]。ジャネは1892年の『19世紀における資本、投機、金融』では、反ユダヤ運動は元来宗教運動であり、反資本主義闘争として反ユダヤを掲げる社会主義は、キリスト教から本質を奪おうとする扇動であると論じた[444][445]

カトリック勢力による反共和主義・反ユダヤ主義の背景には、フランス革命以来の反キリスト教化運動政教分離の過程があり、第三共和政政府とフランス・カトリック教会との熾烈な対立があった[432]。教会は公教育から分離され、カトリックが家庭を破壊すると反対していた離婚法も、フリーメイソンジュール・フェリーや、ユダヤ系のアルフレッド・ナケによって成立した[432]。1880年には政府無許可の宗教団体が解散され、1886年には公立学校教師を非聖職者に限定する法律も成立した。ナケはユダヤ系であったためカトリック司教たちが差別的な言辞を受けた[432]

1880年代当時、フランスのユダヤ人の人口は8万人弱であり、全体の約0.2%であったが、実業や文学、芸術で活躍するユダヤ人が目立った[446]

1880年代に多くの著作でコレージュ・ド・フランス心理学教授ジュール・スーリは、人間は人種に由来する本能によって動かされ、アーリア人種の勇敢さやセム人種の無気力さは本性によるものとした[370]

ドリュモンの反ユダヤ主義編集

 
エドゥアール・ドリュモン(1844-1917)
 
ドリュモン『ユダヤのフランス (La France juive)』(1886年)
 
作家アルフォンス・ドーデ。「最後の授業」で高名な作家ドーデはユダヤ人嫌いでも有名だった[447]

1886年、ジャーナリストのエドゥアール・ドリュモンが1200ページの大著『ユダヤのフランス (La France juive)』を出版した[448]。ドリュモンはフーリエ派のアルフォンス・トゥースネル社会主義者プルードンなど社会主義的反ユダヤ主義の影響を受けていた[370]。ドリュモンはこの書物の冒頭で「フランス革命で唯一得をしたのはユダヤ人である。すべてはユダヤ人に由来し、すべてがユダヤ人の手元に帰っていく」とし、十字軍から聖ルイ王、アンリ4世、ルイ14世のフランスではユダヤ人に門戸を閉ざしていたのに、共和主義と非宗教性(ライシテ)の近代フランスは「ユダヤ人のフランス」となったとする[446]。さらに、ユダヤ人は「金ずくめで強欲、陰謀と策謀を好む狡猾なセム人」であり、それに対して「情熱豊かで英雄的で人を疑うことを知らないアーリア人」とを対比し、昨今のキリスト教徒迫害は、フランスの破滅を目的をした陰謀の序章にすぎず、巻末では、1800年前からな変わることなくキリストは民衆の家の窓に吊るされ、罵詈雑言にさらされ、そして町には神殺しの執着に衰えをみせないユダヤ人が溢れかえっているとした[446]。また、ユダヤ人は敵国ドイツ人のスパイであり、ドイツのユダヤ人であるロスチャイルドの銀行によって、フランス民衆はドイツとユダヤに搾取されていると論じた[449]。この書物は19世紀フランス最大のベストセラーとなり、フランスの反ユダヤ主義を醸成した[447]。ドリュモンは、従来のキリスト教の反ユダヤ教主義と近代の科学的人種理論とをつなぎ合わせて、新しいタイプの反ユダヤ主義としての反セム主義(antisémitisme)を拡散させた[447]

ドリュモンは無名で出版社を見つけるのに苦労していたが、ユダヤ人嫌いで有名な流行作家アルフォンス・ドーデが尽力して出版が実現した[447]。ドーデは普仏戦争での敗戦によってプロイセン(ドイツ帝国)領土となったアルザスの学校で、フランス語に基づく愛国心を描いた「最後の授業」で知られる。ドーデのサロンにドリュモンは出入りしており、そこにはバルべー・ドールヴィイ、エレディア、フィガロ編集章フランシス・マニャールが集っていた[447]

ドリュモンの『ユダヤのフランス』が出版されると、作家のドーデは「人種の啓示者」として、批評家でアカデミー・フランセーズ会員のジュール・ルメートル(Jules Lemaître)は「19世紀最大の歴史家」、ベルナノスは「千里眼を超えた観察者」としてドリュモンを絶賛した[446]。この本に対してユダヤ系メディアは批判したが、聖職者の間で熱狂的な反響を呼び、カトリック系『クロワ』 紙は、反ユダヤ主義者のジョルジ ュ・ド・パスカル神父がユダヤ人に対する「戦友」であると支持した[447]。カトリック系の若いジャーナリスト、ジャック・ド・ビエ(Jacques de Biez)、フランソワ・ブルナン(Francois Bournand),アルベール・サヴィヌ(Albert Savine)らが影響をうけた[370]。さらに高級日刊紙『フィガロ』1886年4月19日号で編集長フランシス・マニャールが、ドリュモンの主張するユダヤ人財産の没収とは、共和主義者によるカトリック教会の財産没収と同じであるし、ドリュモンは共和主義者富裕層に対する「カトリック社会主義者」であると紹介すると、当時最大の大衆紙『プチ・ジュルナル』『マタン』『プチ・パリジャン』、 ボナパルティスト、リベラル派カトリック、社会主義急進派など右派と左派を問わずに他のメディアもドリュモンを取り上げた[450]。ただし、『プチ・パリジャン』は「狂信的な憎悪の書」「中傷文書」であると批判した[432]。ドリュモンの『ユダヤ人のフランス』に3000人の人名一覧が掲載されていた[446]。右派オルレアニストの「ゴーロワ」編集長メイエルがドリュモンの本で「ユダヤ人」として中傷されているのに怒り、決闘を申し込んだ[450]。決闘でメイエルが規則違反をすると、ドリュモンは「汚いユダヤ人!ゲットーへ消えろ!」とわめいて決闘が中止になると、メディアのトピックとなり、やがて「善良なアーリア人が卑怯なセム人にやられた」という噂が広まっていった[450]。ドリュモンの『ユダヤのフランス』はドレフェス事件で爆発するフランスの反ユダヤ主義の醸成に多大な影響を与えていっただけでなく、ドイツ、イタリア、ポーランド語へ翻訳され[432]、また、カリクスト・ド・ウォルスキ『ユダヤ人のロシア』(1887)、ジョルジュ・メーニエ『ユダヤ人のアルジェリア』(1887)、フランソワ・トルカーズ『ユダヤ人のオーストリア』(1900)、ドエダルス『ユダヤ人のイギリス』(1913)などの模倣書が続々と刊行されていった[446]。ドリュモンは続編『世論を前にした「ユダヤ人のフランス」』(1886年)、『一つの世界の終焉』(1889年)、『最後の戦闘』(1890年)、『ある反ユダヤ主義者の遺言』(1891年)を立て続けに刊行した[446]

同じ1886年に、社会心理学者ギュスターヴ・ル・ボンは、ユダヤ人は芸術、科学、産業など文明に寄与しうるものを一切手にしてこなかったし、旧約聖書は卑猥な物語を満載したものと非難した[446][451]

1888年パナマ運河疑獄事件では、実業家フェルディナン・ド・レセップススエズ運河を建設したあとにパナマ運河の建設に着手したが、技術的に工事が不可能であることが発覚したため債券を発行して資金を集めたが破綻した。レナック男爵とコルネリウス・エルツ、アルトンなど買収工作人がみなユダヤ人であったため反ユダヤ主義が高まった[446]

1889年9月、ジャック・ド・ビエと陸軍士官学校のマルキ・ド・モレス(Marquis de Morès)が「フランス反ユダヤ同盟(Ligue antisémitique de France)」を設立し、ドリュモンは会長となった[452][370][* 12]。副会長のビエの肩書は「民族社会主義者(National-Socialiste)」であり、ナチス党国家社会主義ドイツ労働者党,Nationalsozialistische Deutsche Arbeiterpartei )の先駆けであった[452]

革命100周年の1889年に、改宗ユダヤ人のジョゼフ・レマン神父は論文『ユダヤ人の優位』でユダヤ人は無実な神の子を死にいたらしめたと述べ、2年後に風刺週刊誌に「ロスチルド家」を発表した[453][446]1890年、パリ国立割引銀行の経営が行き詰ると、ロスチルド家が原因とされた[446]。同1890年、カトリック系の新聞『ラ・クロワ』は「フランスで最も反ユダヤ的な新聞である」と自称したが、これは反ユダヤ主義であるということが支持されたためである[446]1891年にはユダヤ人の蔑称であるyoutre(ユダ公)を冠した新聞『反ユダ公(L'Anti-youtre)』が創刊され、これまでの反ユダヤ主義は教権派によるものだったと不満を表明した[446]

1892年、ドリュモンが反ユダヤ主義日刊紙『リーブル・パロール』を創刊し[447]、1892年5月より同紙上でユダヤ人将校は国防機密を取引すると非難するキャンペーンを始めた[454]。ユダヤ人の子弟には軍職に就くものが多く、士官学校でも1%の4万人中300人がユダヤ人であった[454]。なお、『リーブル・パロール』の出資者の利権屋ゲランはその2年前には反ユダヤ主義への戦いと称してユダヤ人に資金提供を求めており、また『リーブル・パロール』の管財人クレミューは改宗ユダヤ人であった[446]。またユダヤ系将校マイエールとモレスの1892年6月23日の決闘でマイエールが死ぬと、ドリュモンはこれほどの勇者の血が戦場で祖国のために流されなかったことを嘆かわしく思うと述べるなど、ユダヤ人であっても「血のよる洗礼」を経れば「よきユダヤ人」になるという観念があり、フランスの反ユダヤ主義はドイツやオーストリアよりも弛みがあったとポリアコフはいう[446]

カトリックの思想家レオン・ブロワは同1892年、ドリュモンへの返答として著書『ユダヤ人による救い』を刊行し、「ユダヤ人の歴史は、あたかも堤防が川を堰き止め、その水位を上昇させるがごとく、人類の歴史を堰き止めている」とし、ユダヤ人とは「キリストの忠実なる友、初期の殉教者全員を生み出した民」であり、中世のヨーロッパはユダヤ人を「専用の犬小屋に押し込め、特殊なぼろ着でくるむことにより、一般人に彼らとの出会いをあらかじめ回避させるという良識(ボン・サンス)を発揮した」と論じた[455][235]。同1892年、ランス教区広報ではロトシルド家はユダヤ人種のドイツ国籍であり、フランス人ではないと書かれ、クレルモン教区広報では、ドイツ人とユダヤ人はフランス人を敗者・奴隷として扱ってきたと書かれた[446]

ドレフュス事件編集

 
ドレフュス大尉の不名誉な除隊を描いた挿絵

1894年ドレフュス事件が発生した。ドイツ大使館付き武官マクシミリアン・フォン・シュヴァルツコッペンのゴミ箱から発見された軍事機密文書は、筆跡鑑定から砲兵長ドレフュスのものとされ、さらにドレフュスはさらにイタリア大使館からも買収されていたと告発された[454]。軍は、証拠不十分のまま非公開の軍法会議においてドレフュスに「有罪」の判決を下し、南米の仏領ギアナ沖の悪魔島での禁錮刑とした[454]。この事件は、参謀本部に勤めるユダヤ人大尉であったアルフレド・ドレフュスに対する冤罪事件であったが、ドリュモンたちの言論活動も活発になり、フランス民衆の間に反ユダヤ主義の声がことさらに高まった。1880年代の反ユダヤ主義はドレフュス事件までは常軌を逸した奇習にすぎなかったが、これ以降は決定的な潮流となった[446]

ドレフェス事件は国際的な話題となり、ドリュモンは、ドイツ人、イギリス人、イタリア人はなぜ反フランス的な人間であるドレフェスの肩を持つのかと述べた[454]

レオン・ドーデは「ドレファスはわれわれ(フランス人)の破滅を画策した。しかし、彼の犯罪はわれわれの意気を高揚させもしたのだ」として、「われらが人種、われらが言語、われらが血のなかの血」以外は信を抱くまいと表明した[454]。ドーデはアクシオン・フランセーズの中心的な活動分子となった[454]

 
モーリス・バレス

作家のモーリス・バレスは、ユダヤ人を「比類なき論理学者で、銀行口座そのままの明晰さ、非人称性に裏打ちされている」と賞賛したり、ディズレーリにも賛辞を捧げた[446]。しかし、ドレフェス事件が発生すると、「ドレフェスが裏切りをやりかねないということを、私は彼の属する人種から判断する」と述べ、バレスはドレフェス事件以降は「国民的エネルギー」三部作でユダヤ人金融業者が「われわれの政府」であると描いた[456][446]

1896年に情報部長ピカール中佐は、真犯人はハンガリー生まれのフェルディナン・ヴァルザン・エステルアジ少佐であることを突き止めたが、軍は権威失墜を恐れてもみ消しを図り、ピカールを左遷、エステルアジを無罪釈放した。

ゾラ事件とアンリ大佐事件、フランス祖国同盟とアクションフランセーズ編集

作家エミール・ゾラは、1898年1月13日新聞「オーロール」で「私は弾劾する」を発表し、ドレフュスの不法投獄を告発した。しかし、ゾラは告訴され、名誉棄損で有罪となった。1898年の1月と2月にフランス各地で69件の反ユダヤ暴動が起き、アンジェとマルセイユで約4000人,ナントで約3000人、ルアンで約2000人の群衆がユダヤの商店やシナゴーグを破壊した[370]。反ユダヤ主義のデモや暴力沙汰が相次ぐなか、ドレフェス派のフィガロ編集長ロデーは更迭された[454]。アルジェリアで反ユダヤ暴動が発生すると、マックス・レジはドリュモンに立候補を打診した。1898年5月総選挙で、ドリュモンは当選し、アルジェリア選出の3名の議員と議会内で反ユダヤグループができた[457]

1898年夏、ドレフェス有罪の証拠とされてきた文書が偽書であったことをアンリ大佐が認めた後、自殺した[454]。9月6日ガゼット・ド・フランスでシャルル・モーラスはアンリ大佐は「国家の偉大な利益への英雄的奉仕者」であると論じた[458]。またモーラスは「ユダヤ教の育まれた真のプロテスタントは、生まれながらにして国家の敵」と、プロテスタントも敵視していた[459]。1898年12月にドリュモンはアンリ大佐未亡人のための募金活動を開始、ドリュモンやモラスらはアンリ大佐は祖国への殉教者であると主張し、アンリ大佐記念碑のための募金には73名の議員、モーリス・バレス、詩人ジャン・ロラン、ジープ、ピエール・ルイス、フランソワ・コペ−、ポール・ヴァレリー、ポール・レオトーなどの文人詩人が名を連ねた[454][460]

1898年は、フランスにおける反ユダヤ主義の頂点であると同時に、出発点となった[454]。詩人フランソワ・コペを会長とした「フランス祖国同盟」、ドリュモンの「全国反ユダヤ青年会」、シャルル・モーラスとアルフォンス・ドーデの息子レオン・ドーデによるアクション・フランセーズなどの反ユダヤ主義組織が誕生した[454]

1898年12月12日、「フランス祖国同盟(Ligue de la patrie française)」が結成される[460]。創設者の一人モーリス・バレスは「ドレフェス事件それ自体は無意味である。重大なのは反軍国主義と国際主義の教義のために、ドレフェスが捏造され利用されている」ことであると宣言した[460]。ただし、、同盟では反ユダヤ主義とナショナリズムの教義は退けるとしながら、反ユダヤ主義者も受け入れるとした[460]。フランス祖国同盟には、コペー(François Coppée)、フェルディナン・ブリュヌティエール(Ferdinand Brunetière)、ジョゼ・マリア・ド・エレディア、アルベール・ソレル(Albert Sorel)、ポール・ブールージェ(Paul Bourget)、ジュール・ルメートル(Jules Lemaître)、エミール・ファゲ(Émile Faguet)などのフランス学士院会員、カラン・ダシュ、フォラン、画家のドガルノワール、作曲家ヴァンサン・ダンディ、1904年にノーベル文学賞を受賞した作家フレデリック・ミストラル、作家ピエール・ルイス、評論家サルセー(Francisque Sarcey)、SF小説の開祖ジュール・ヴェルヌ、作家ジプ、ドゥミック、ドーデ、モーラスが会員となった[460]。ほかに、アンドレ・ベルソール、政治家アルベール・ド・ブロイ、天文学者オクターブ・カランドロー、物理学者ピエール・デュエム、動物学者アルフレッド・マチュー・ジアール(共同代表)、数学者シャルル・エルミートコレージュ・ド・フランス教授・数学者カミーユ・ジョルダン、数学者エミール・ピカール、化学者アンリ・ルシャトリエ、画家ジャン=レオン・ジェローム、画家ジャン=フランソワ・ラファエリ、画家シュザンヌ・ヴァラドンがフランス祖国同盟に加入した。1899年1月19日、フランス祖国同盟議長ルメートルが、ユダヤ人、プロテスタント、フリーメイソンが連帯して過去の復讐を償わせるために、ここ20年フランスの権力を握っていると演説をした[460]。ただし、同盟会員のアナトール・フランスはドレフェス擁護派だった[460]

1898年10月末、スタニスラス学院教師ルイ・ドーセ、歴史教師ガブリエル・シブトンが哲学教授アンリ・ヴォージョア(Henri Vaugeois)の助力を得て、反ドレフェス文書を作成して、リセを一巡した[461]。1898年12月、ヴォージョアとジャーナリストのモーリス・ピュジョ(Maurice Pujo)が「アクション・フランセーズ」記事を発表して、フランスの社会を再建して、強力な国家になることを主張し、さらにモーラスとともに「反ユダヤ主義-反議会主義-フランス伝統主義」の組織アクション・フランセーズが1899年6月に誕生した[462]。アクション・フランセーズはフリーメイソン精神、プロテスタント精神、ユダヤ精神に対して、カトリックを称揚した[462]。モーラスは完全なナショナリズムは君主復興にあるとして王政主義を主張した[462]

社会主義者ギュスタヴ・テリーは反軍国主義、反教権主義、反ユダヤ主義であり、創刊したルーブル紙では「ユダヤ人は敵」、「ユダヤ禍」「権力が組織するユダヤ侵略」「いたるところにユダヤ人」という決まり文句が多用された[463]。また、『シオン賢者の議定書』は1897年から1899年のあいだにパリで練り上げられた[454]。『シオン賢者の議定書』はロシア帝国内務省警察部警備局パリ部長のピョートル・ラチコフスキーが現在も身元不明の作者に依頼して作成したものであった[454]

社会主義者ジョルジュ・クレマンソーはドレフェス擁護派であり、ゾラの「公開告発文「我弾劾す」を掲載した「オーロール」紙主幹であったが、1898年の『シナイの麓にて』ではユダヤ人は「爪を尖らせた両手でいかがわしい品々にがめつくしがみつく」、活力に満ちた人種であり、「この世で最も貴重な人間の宝」であると賞賛する一方で、「みずからの神々をわれわれに押しつけようとしたがために、蔑まれ、憎まれ、迫害され続けてきた彼(セム人)は、地上の覇者となることによって立ち直り、みずからを完成に導こうとしている」と述べ、クレマンソーは「アーリア的理想主義の見地から、私はこの事実(ユダヤ人の活力)を一つの不幸としてとらえている」と論じた[464][454]。クレマンソーによれば、キリスト教徒はユダヤ人を根絶する必要性を感じているが、しかし、それはキリスト教徒の素行を正すだけでその必要はなくなるとした[454]

1899年8月8日、ドレフェス事件の再審が開始し、9月の軍法会議で禁錮10年に減刑された[465]

反セム主義政党・団体とシオニズム運動編集

  • 1878年、キリスト教社会党(Christlich-soziale Partei)がベルリンで結成。ドイツ宮廷司祭アドルフ・シュテッカー。
  • 1879年、ドイツで反セム主義者連盟(Anti Semiten Liga)結成。ヴィルヘルム・マル。
  • 1889年、フランス反ユダヤ同盟(Ligue antisémitique de France)結成。ジャック・ド・ビエとマルキ・ド・モレス。
  • 1893年、テオドール・ガルニエ師がカトリック的ポピュリズムの組織「ユニオン・ナショナル」を設立[370]
  • 1894年、デュビュ(Dubue)が「反ユダヤ青年(Jeunesse antisemitique)」を設立[370]
  • 1894年、反セム主義を標榜した政党が続出するなか、最大の政党であるドイツ社会改革党(Deutschsoziale Reformpartei) が結成され、「ユダヤ人問題は20世紀最大の問題となるであろう、そしてそれはユダヤ人の完全な分離と、最終的にはその絶滅によって解決される」と党の方針に明記した[9]
  • 1896年ドレフュス事件に衝撃を受けたテオドール・ヘルツルは『ユダヤ人国家』を著してシオニズム運動を起こした。ヘルツルは「フランスのユダヤ人はもうユダヤ人ではない」と述べたが、これはフランスのユダヤ人の同化が進んでいたためであり、フランス人への同化を主張するユダヤ長老会議(コンシトワール)は、「フランス革命をもってすでにメシアの時代が到来済みである」と唱え、また多くのユダヤ人思想家たちがキリスト教徒よりもフランス人でありたいと公言していた[446]。翌1897年、ヘルツルはバーゼルで第1回シオニスト会議を主催した[454]。ヨーロッパのみならず、ロシア、パレスチナ、北アフリカなどから200人以上の代表が集まり、白と青の二色旗が掲げられた。
  • 1897年春、実業家ジュール・ゲランが「反ユダヤ同盟」を結成した[370]。モレス侯爵が国政選挙活動のためにつくった反ユダヤ組織を再建したもので、「国民の労働」を擁護して、フランスで銀行や鉄道等の企業を所有するユダヤ人のくびきからフランス人と国民を解放することが目指され、ユダヤ人の公職追放を主張した[370]

オーストリア・ハンガリー帝国編集

フランツ・ヨーゼフ1世(在位1848年 - 1916年)の治下でオーストリア・ハンガリー帝国が成立(1867年)。しかしプロイセン王国ドイツサルデーニャ王国イタリアに破れ、ドイツから締め出された形となった上にロシアとの深刻な対立を抱えていた。内には、妥協策として成立した二重帝国の複合民族国家としての苦悩があった。ここにおいてオーストリアは、多民族共生・多文化共存の方針を打ち出さざるを得なくなった皇帝フランツ・ヨーゼフは対ユダヤ人融和策をとり、1860年代の自由主義的な風潮の中で、職業・結婚・居住などについてユダヤ人に課せられていた各種制限を撤廃した。これは、前世紀のヨーゼフ2世の「寛容令」の完成であり、アメリカ独立宣言やフランス人権宣言において唱えられた自由平等の実現でもあった。土地所有が禁じられていたユダヤ人たちに居住の自由が与えられたため、それまで縛り付けられていた土地から簡単に離れることができた。

ハプスブルク帝国のオーストリアで最初に大々的な反ユダヤ主義を主張したのは、ゲオルク・フォン・シェーネラー(Georg Ritter von Schönerer 1842 - 1921)であり、シェーネラーは反教権主義的社会主義とゲルマン民族主義を主張した[405]

オーストリアでは1882年、納税額にもとづく制限選挙が改正され、普通選挙となった[405]。このことによって、中間層、下層、手工業者、小地主にまで選挙権が拡大して、政治団体が支持を取り付けるために反ユダヤ主義的政策を打ち出していった[405]1882年、ドレスデンで反ユダヤ主義の国際会議が開かれ、1883年にはケムニッツで開かれた[405]。当時、ウィーンの社会主義者フェルディナント・クローナヴェッター(Ferdinand Kronawetter)は、「反ユダヤ主義とは愚者の社会主義である」といった[466]

1887年、オーストリア・キリスト教社会党を率いたカール・ルエーガーは反ユダヤ主義を旗印として、オーストリアの貴族や聖職者からは批判されたが、都市プロレタリア層と教皇レオ13世やマリアーノ・ランポッラ枢機卿の支持を受けて、ウィーン市長となった[405]。ルエーガーは、「誰がユダヤ人であるかは私が決めることだ」として、ユダヤ人を公職から追放したが、知己のユダヤ人は解雇しなかったし、また貧しいユダヤ人には寛大で、シナゴーグの祭式にも参列した[405]。ヒトラーは不滅の偉大なドイツ人として称賛した[405]

民俗学者オットー・ベッケル(Otto Böckel)は1887年にパンフレット『時代の王、ユダヤ人』を出版し、反教権、反資本主義を論じ、帝国議会議員にも当選した[467][405]

他方、ユダヤ系の心理学者ジークムント・フロイトは1882年の手紙でヘルマン・ノートナーゲル(Hermann Nothnagel)教授の容貌に対して「ゲルマンの森に住む野蛮人」「金髪で、頭、頬、頸、眉、それらすべて毛で被われ、皮膚と毛とはほとんど見分けがつかない」と述べており、ユダヤ系知識人にも人種的な考えがみられた[405]

1893年にはベッケル率いる反ユダヤ国民党(Antisemitische Volkspartei)は議席数が16席にもなった[405]。この1893年はオーストリアにおける反ユダヤ主義における絶頂であった[405]世紀末ウィーンは、当時の反ユダヤ主義運動の中心地であり、1897年の普通選挙では、反ユダヤ主義陣営が帝国議会に送り込まれていた[227]

世紀末ウィーンの音楽界では、音楽的に保守的であったブラームス派はバッハ、ベートーヴェンなどのドイツ伝統音楽を模範として、ワーグナー派のブルックナー派はワーグナーやリストなど「未来の音楽」を標榜する進歩派であった[468]。 しかし、ワーグナー派のブルックナー派はドイツ民族主義と反ユダヤ主義と結びついており、他方でブラームスは自由主義者で親ユダヤ的であった[468]。またユダヤ人マーラーはワーグナー派でブルックナー派に属しており、反ユダヤ主義政治家で知られるキリスト教社会党のカール・ルエーガーがウィーン市長になった同じ11897年にマーラーはウィーン宮廷歌劇場監督に就任した[468]。ウィーンで美術を学んでいたアドルフ・ヒトラーは、当時、キリスト教社会党を指導していたカール・ルエーガーの反ユダヤ主義演説に感動し、汎ゲルマン主義と反ユダヤ主義に基づく民族主義政治運動を率いていたゲオルク・フォン・シェーネラーからも強い影響を受けていた。

20世紀の反ユダヤ主義編集

イギリス編集

 
(図1)反ユダヤカートゥーン。Judge magazine, 1892.

イギリスの社会主義者でフェビアン協会シドニー・ウェッブは、イギリス人は多数の家庭が産児制限をしている一方で、カトリック系のアイルランド人やポーランド人、ロシア人、ドイツ系のユダヤ人たちが制約もなく子どもを産み続けているが、これはイギリスの国民的な衰退をもたらすとした[419][469]

ジェームズ・マレー(1837年 - 1915年)が編集した『オックスフォード英語辞典』で「ユダヤ人」では侮蔑の意味があり、「強欲、高利貸し、狡猾な商売人」を意味すると定義された[145]

アメリカ合衆国編集

19世紀のアメリカ合衆国では、カートゥーンなどに反ユダヤ主義が見られる。1892年のJudge magazineの反ユダヤカートゥーン(右図1)では、「我慢と産業」と書かれた紙を持つ男が西を見ている。東のロシアからの難民が殺到して、ニューヨークが「ニューエルサレム(新しいエルサレム)」になり、オッペンハイマーコーヘンレヴィスタインバーグなどのユダヤ人の姓名の看板が並んでおり、ユダヤ資本家による経済支配を描いた。

また、1896年アメリカ合衆国大統領選挙での反ユダヤカートゥーン(右図2)では、"歴史は繰り返す". "これがユダヤの手にあるUSAだ"としてアンクル・サムが十字架にかけられている。左側の鉤鼻の「ウォール街の海賊」が「債務」の壺から「利息」という毒を口に含ませようとしている。右側の鉤鼻の男は「金本位制」という槍で突いている。共和党を表す「共和主義」と、民主党を表す「民主主義」がアンクル・サムのポケットから金貨銀貨を盗んでいる。こうしたアメリカ合衆国のカートゥーンにおける反ユダヤ主義は、19世紀末の世界大不況下のヨーロッパの反ユダヤ主義と共通している。

ロシア編集

革命以前:『シオン賢者の議定書』編集

1881年から1884年まで、南ウクライナのキエフエリザヴェトグラートで農民や出稼ぎ労働者によってユダヤ人のポグロム[126][470]

1895年、ロシア警察には『ユダヤ教の秘密』という文書が保管されており、そのなかでは、ユダヤ人はキリストを十字架にかけた時から壮大な陰謀を仕組み、キリスト教を世界に普及させた後でキリスト教をあらゆる手段を用いて破壊することを計画したと書かれていたが、この文書は皇帝に提出はされなかった[471]

他方、ユダヤ人は革命運動に参加するようになり、1897年にはユダヤ人労働者政党ブンド(Bund)(正式名称リトアニア・ポーランド・ロシア・ユダヤ人労働者総同盟)が結成された[308]

ロシア帝国内務省警察部警備局パリ部長のピョートル・ラチコフスキーが作成を命じた『シオン賢者の議定書』(1899年)では、ユダヤ人が世界を支配して、すべての民をモーセの宗旨の前に平伏させることが望まれていた[454]。シオンの賢者は、シオン血統の専制君主のために、「自由、博愛、平等」のスローガンを考案し、フランス革命を起こして、シオンの専制君主が全世界の法王となることを画策した、とされる[454]。こうした陰謀論は、イエズス会、フリーメイソンを悪役とする陰謀論でもみられた[454]。しかし、ストルイピン大臣が憲兵隊に調査を命じると、この文書が偽書であることが判明したため、皇帝ニコライ2世はこの文書の廃棄を命じため、ラチコフスキーの立身出世には役に立たなかった[472]。ラチコフスキーはその後、反ユダヤ団体黒百人組のロシア民族同盟の結成に関わった[473]

また、『シオン賢者の議定書』が作られた当時のロシア宮廷にはパピュスことジェラール・アンコースフランス語版等のオカルティストがコネクションを有しており、後年、パピュスに『議定書』捏造の濡れ衣を着せる記事がポーランドで書かれたこともあった。『議定書』の草稿のロシアへの持ち込みに関与したとされる、ユリアナ・グリンカという女性も神智学に傾倒していた[474]

ロシアでのユダヤ人行政が強硬になると、ユダヤ人はアメリカ合衆国へ移住したり、またユダヤ人の間では、パレスチナへの愛とシオニズムが広まっていったが、1903年にはロシア政府がシオニズムを禁止した[308]。同1903年には『シオン賢者の議定書』(プロトコル)がロシアで一般に出版された。『シオン賢者の議定書』は1921年には英『タイムズ』紙により捏造本であることが解明・報道されたが、アメリカではヘンリー・フォードが、ドイツではヒトラーが熱狂的な信奉者となり、日本でも翻訳がなされた。

キシニョフ事件編集

ベッサラビアのキシニョフではユダヤ人が住民の半数を占めていたが、クルーシェヴァンの地方新聞は反ユダヤ報道を続け、1903年2月の少年殺害事件はユダヤ人が犯人としていた[475]。キシニョフでユダヤ人への復讐を宣言する「真のキリスト教徒労働者党」が結成され、「キリスト教徒の血を吸うユダヤ人が、民衆を反皇帝運動に扇動している」と主張した[475]復活祭の日曜日の1903年4月6日、ポグロムが発生した[475]。死者は49人、負傷者数は500人、町の3分の1が破壊された[475]。軍が暴徒を鎮圧したのは翌日の夕方であった[475]。キシニョフ事件に対して欧米諸国は非難し、ロシア語の「ポグロム」が広く認知された[475]。ウルーソフ公爵は、当時のロシア警察、官吏にとって反ユダヤは義務と捉えられていたとし、一方で、ロシア民衆にユダヤ人への敵意は見られないと回想している[476]。同1903年ドゥボサリーで儀式殺人事件が起こった[477]

1904年から1905年にかけての日露戦争では、反ユダヤのパンフレットが招集兵に配布され、ユダヤ人がロシア敗戦のスケープゴートとされた[478]

ロシア第一革命とポグロム編集

 
1905年、オデッサでのポグロムで殺害されたブンド党員。
 
1905年のポグロムで犠牲になったユダヤ人の子どもたち

1905年1月に血の日曜日事件が起きると、春にかけて各地で大規模な抗議ストライキが起きて、ロシア第一革命が6月まで続いた。2月にはモスクワ総督でロシア大公セルゲイ・アレクサンドロヴィチが爆弾で暗殺された。6月には戦艦ポチョムキンの水兵が叛乱した。夏には農民一揆や、ビアウィストク、ブレスト=リトフスク、ミンスク、クリミア半島のケルチでのポグロムが発生した[479]。8月にニコライ2世はドゥーマ(議会)の創設を許可した。9月に日本との講和条約ポーツマス条約が結ばれたが、国内の騒乱は収まらなかった。ロシア第一革命を通してユダヤ人への猜疑は深まり、セルゲイ・ヴィッテはユダヤ=フリーメイソンの陰謀に加担したとして告発された。しかし、ヴィッテもユダヤ人の横暴が度を越したと見ていた[480]。10月、セルゲイ・ヴィッテは「国家秩序の改良に関する詔書」で立憲主義を導入して皇帝の専制権力を制限したが、ロシア皇帝はニコライ2世は反発した。十月詔書を歓迎するデモが起こり、皇帝派の対抗デモが起こった[479]。「ユダヤ人と革命派打倒」をスローガンとする皇帝派は、数百箇所の町でポグロムを起こした[479]。ポグロムは、ラチコフスキーの指示によって行われ、憲兵隊長コミサーロフ(Kommissarov)は、ポグロムはいつでも組織できると豪語していた[479]。オデッサではネイドガルド総督がポグロム犠牲者に対して「これこそはユダヤ的自由だ」と言った[479]。1905年10月の最後の10日間だけで数百件のポグロムが発生した[479]。この年のポグロム全体の犠牲者は死者810人、負傷者1770人となった[479]

皇帝ニコライ2世十月詔書直後に革命運動の9割がユダヤ人であったため、民衆によって反ユダヤのポグロムが起こったと母親への手紙で報告し、2ヶ月後にはユダヤ人国際的共同行動についての法案が認可した[481]。ロシア政府は「革命家」を「ユダヤ人」の類義語としていた[405]。また、ニコライ2世はユダヤ人の破壊活動に脅かされているドイツとカトリック教会との協調路線外交を支持した[482]。モスクワに発した暴動は、ポーランドやロシア各地でも勃発しており、ヴィッテストルイピン首相もユダヤ人組織が世界規模で動いていると考えていた[483]。他方、革命運動におけるユダヤ人の活動については、ロシア・マルクス主義の父と称されるゲオルギー・プレハーノフは、ユダヤ人活動家を「ロシア労働者軍の前衛部隊」として、またレーニンもユダヤ人の国際主義と前衛的な運動に対するユダヤ人の敏感さを賞賛した[308]

1906年、蔵相ココフツォフはユダヤ人の侵入を防ごうとしても、彼らは簡単に合鍵を見つけるので無駄であり、抑圧政策はユダヤ人を苛立たせるだけであるし、行政側の不正や越権行為を助長することにしかならないので、反ユダヤ法の制定には反対した[484]。1906年以降は、ビアウィストクとシェドルツェのポグロムで合計110人が殺害された[479]

1906から1916年にかけて、反ユダヤの著作物が2837冊出版され、皇帝も1200万ルーブル財政援助した[479]。クルーシェヴァンの『軍旗(ズナーミャ)』紙は、ユダヤ問題は宗教問題ではなく、人種の問題であり、ユダヤ人は「寄生虫的で貪欲な本能」を持ち、「彼らの侵入を許してしまった社会には確実に死をもたらす」と報道した[479]。政治家ニコライ・マルコフは、左派代議士に向かって、「ロシア人の子供の喉を切り裂いてその血を吸うユダヤ国の末裔の正体」を暴くこともできなくなった時、正義も司法も頼りにならないとロシア民衆が確信した時には、最終ポグラムが発生して、ユダヤ人の「一人残らず、最後の一人にいたるまで、文字通り喉を掻き切られる」と演説した[479]

1911年、キエフでユダヤ人ボグロフが皇帝の目の前でストルイピン大臣を銃撃した[475]

1912年、改宗ユダヤ人の2世、3世は士官への昇進を禁止された[479]

1911年3月20日、13歳の男の子の死体がキエフ郊外で発見されると、ロシア民族同盟らが儀式殺人の方向で調査をした[485]。7月、ユダヤ人の煉瓦工場職工長メンデル・ベイリスが「儀式殺人」の疑いで逮捕された[485][486]。アメリカは抗議して米ロ通商条約を破棄し、内相マカロフは訴追を断念した[485]。しかし、法相イヴァン・グリゴリェヴィチ・シチェグロヴィートフは新たに起訴状を作り、裁判は1913年9月25日に開廷された[485]。裁判では、ベイリスは無罪とされたが、少年が儀式殺人で殺害されたことは事実と認められた[485]

ソ連におけるユダヤ人編集

フランス編集

シオニズム編集

シオニストのヨーゼフ・クラウスナーは、1902年『タンナイ時代におけるユダヤ民族のメシア的理念』で、イエスはメシアではありえず、預言者として認められたわけではないとした[490]

オーストリア編集

オーストリアのユダヤ系哲学者オットー・ヴァイニンガーは、1903年の主著『性と性格』で、男性的精神と女性的自然の対立について論じて、いま選択すべきは、「ユダヤ教かキリスト教か、商売か文化か、女性か男性か、無価値か価値か、地上の生か高次の永遠なる生か、無か神か」であると論じて、23歳で自殺した[491][227][492][423]。ヴァイニンガーの『性と性格』は物理学者エルンスト・マッハ、ユダヤ系哲学者のゲオルク・ジンメルアンリ・ベルクソンフリッツ・マウトナー、アロイス・ヘーフラー(Alois Höfler)なども読み、アドルフ・ヒトラーはヴァイニンガーの著作を称賛した[227][423]

 
ゲオルク・フォン・シェーネラー(Georg von Schönerer,1842-1921)

1903年には、ゲオルク・フォン・シェーネラーの汎ドイツ運動(Alldeutsche Vereinigung)を支持したドイツ労働者党(Deutsche Arbeiterpartei)がオーストリア=ハンガリー帝国チェコで結成され、1918年にはドイツ国家社会主義労働者党(Deutsche Nationalsozialistische Arbeiterpartei、DNSAP)と改称した。1920年ドイツのドイツ労働者党が改称した国家社会主義ドイツ労働者党(ナチス、Nationalsozialistische Deutsche Arbeiterpartei)の略称はNSDAPである。オーストリアのドイツ国家社会主義労働者党は帝国議会でズデーテン地方選出の3議席を持った。

ドイツ編集

帝政ドイツ(1871年 - 1918年)編集

1905年1月、リガのデモに対してドイツ皇帝ヴィルヘルム2世は「またもユダヤ人!」と書きつけた[405]

ドイツ歴史学派の経済学者・社会学者のヴェルナー・ゾンバルトは、1911年の『ユダヤ人と経済生活』で、ユダヤ世界と資本主義を同一視するという、ブルーノ・バウアーカール・マルクスらの考え方を再利用して、「太陽のようにイスラエル(ユダヤ人)はヨーロッパを飛翔した。そして彼らが来るところに新しい生命が生い立ち、彼らが退くところでは、今まで咲き誇っていたものはすべて荒廃に帰する」と述べた[493][227]。ゾンバルトの『ユダヤ人と経済生活』はマックス・ヴェーバーや、ユダヤ人、そして反ユダヤ主義者からも批判された。翌1912年の小冊子『ユダヤ人の未来』では、ユダヤ人はドイツの芸術、文学、音楽、演劇、新聞を牛耳っており、それはユダヤ人が聡明で器用であるからだが、このユダヤの優位性は放置すると取り返しのつかないことになる「人類最大の問題」であると主張した[494][227]。また、スペイン、ポルトガル、フランスも、ユダヤ人追放後の後遺症に悩み、さりとて、ユダヤ人とヨーロッパ人との同化や融合も自然の法則に反しており、ユダヤ人種と北方民族の血の融合は不吉な星に司られているとし、しかしドイツはユダヤ人なしにはやっていけないとゾンバルトは論じた[495][227]。ポリアコフは、こうしたゾンバルトの主張を、アパルトヘイト政策であるとしている[227]

1912年、ユダヤ系のドイツ語学者モーリツ・ゴルトシュタイン(Moritz Goldstein,1880-1977)は、「ユダヤ人はドイツの文化活動を掌握しつつある」「ユダヤ人はある一国民の精神的財産の管理者となった」として、「愚かで妬み深いゲルマン系キリスト教徒」も敵であるが、「最悪の敵といえば、見てみぬふりをしているユダヤ人だ。[…]ユダヤ人の贋物の類型を体現してひどく目立っている彼らこそ、その地位から引きずり下ろし、黙らせて、徐々に根絶やしにしていかねばならない」と主張した[496][227]。ゴルトシュタインがこれを書いたのは、ドイツの大学でユダヤ人との決闘を拒むという習慣が、ユダヤ人が名誉心なき被造物であるという前提にもとづいていることに刺激されてのことであった[227]。ゴルトシュタインの文章は、1935年にゲッベルス国民啓蒙・宣伝省ユダヤ問題研究所機関誌「ドイツのユダヤ人」に「ドイツ文化の管財人としてのユダヤ人」と改題されて転載された[497][227]

1914年からの第一次世界大戦前夜には、ユダヤ人は不文律で出世が制限されるなどしていたが、ユダヤ人のヴァルター・ラーテナウはドイツ戦時経済を整え、ユダヤ系哲学者ヘルマン・コーエンは、いかなる国のユダヤ人もドイツを支持する義務があると論じた[405]。ラーテナウは1922年に暗殺された。

作家アルトゥル・ディンター(Artur Dinter , 1876-1948)が1917年に『血に対する罪』を発表するとベストセラーとなり、1931年までに60万部が販売された[498][405]。ディンターはドイツ民族自由党の党員となった。

ネオパガニズムとアーリア神話編集

テオドール・フリッチュ(Theodor Fritsch, 1852-1993)は、1887年『反ユダヤ主義のカテキズム』を出版し、1902年、 雑誌「ハンマー(Der Hammer – Blätter für deutschen Sinn)」を創刊し、「ハンマー同盟」を結成した[405]。このほか、ウルダ同盟、ヴェルズング騎士団、アルタム同盟、オスタラ派などのネオパガニズム的な反ユダヤ主義団体があった[405]

1889年、オーストリアの元シトー会修道士・神秘主義者イェルク・ランツ新テンプル騎士団を結成した[499]。ランツは1904年の著書『神聖動物学』でアーリア人を神人として、劣等人種との隔離を主張した。1905年、ランツはゲルマン民族の春の女神からその名をとった機関誌『オスタラ、金髪と男性権利のための手帳』を創刊した[500]

チェンバレンのアーリア主義編集
 
ヒューストン・ステュアート・チェンバレン(1855-1927)はヨーロッパ人をアーリア人と呼び、汎ゲルマン主義と反ユダヤ主義を唱え、ヒトラーに影響を与えた。

汎ゲルマン主義で反ユダヤ主義のヒューストン・ステュアート・チェンバレンは、1899年の著書『19世紀の基礎』で、ヨーロッパ人をアーリア人と呼び、その支配者はゲルマン系のチュートン人とノルド人として、アーリア人を高貴な人種とした[501][502]。チェンバレンは、神秘・秘儀(Mysterien)を真の宗教の源泉とみており、ユダヤ教には神秘と神秘主義が欠如しているが、キリスト教にはアガペー聖餐における実体変化復活など現代に生きる神秘主義があるとする[503]。ただし、プロテスタント的世界観を受け入れていたチェンバレンは、カトリック教会での儀式をそのまま認めたのではなく、秘儀がドイツ人の心情として精神化することを案出した[503]。チェンバレンはキリスト教の聖餐は、ギリシア密議やヘレニズム密議を引き継ぎ、魔術的・物質的な要素が排除されていったものであり、「真のヘレニズム人」の心情がアーリア人に受け継がれたとした[503]中世ゲルマン神秘主義エックハルトベーメ、そしてルター、カント、ゲーテ、ベートーヴェン、ワーグナー、ホーエンツォレルン家がキリスト教の生きた真髄であり、ゲルマン民族を守護する神性の体現者であるとした[503]。また、イエスについては、当時のガリラヤはアッシリアによる植民地化でギリシャ人やフェニキア人が移住しており、バビロン帰還後の純血思想の強かったユダヤ人との通婚は認められなかったために、イエスはユダヤ人ではなく、アーリア人の血統にあると主張した[503]。なお、イエス=アーリア人説は社会主義者のデューリングも唱えていた[503]

『19世紀の基礎』は多大な反響をよび、ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世セオドア・ルーズベルトバーナード・ショーレフ・トルストイが称賛した[405]。『19世紀の基礎』でもディズレーリのユダヤ主義的人種決定論が引かれた[296]

改宗ユダヤ人のアッシリア学者フリードリヒ・デーリッチュは『バビロンと聖書』(1902)で、旧約聖書の一神教はバビロンが出自であるとし、反発したユダヤ教徒、キリスト教徒と論争となったが、反ユダヤ団体からは熱狂的に迎えられ、デーリッチュは皇帝ヴィルヘルム2世に私的な謁見を許された[504][503]。当時皇帝ヴィルヘルム2世はドイツの宗教政策に悩んでおり、デーリッチュ説に興味を持ったが、デーリッチュがキリスト教もユダヤ教も信仰していないことから悩みが深まったところへ、チェンバレンから皇帝へ手紙が届いた[503]。チェンバレンは『バビロンと聖書』論争において、デーリッチュの説を批判して、アッシリアもセム族の影響を受けており、イスラエルもバビロンも、古代ペルシャに起源を持つアーリア文化の借り物に過ぎないと論じていた[503]。皇帝ヴィルヘルム2世は自由主義神学(文化プロテスタンティズム)のアドルフ・フォン・ハルナックを、ルター派の保守派の反対を押しきってベルリン大学教授に就任させるなど、リベラリズムを重視していた[503]。チェンバレンはリベラリズム、民族主義、反ユダヤ主義、文化闘争という当時のドイツに適合した思想を持っていたため、皇帝はチェンバレンに感化され、アーリア主義を抱くようになった[503]

チェンバレンはイギリスからドイツへ渡り、ドイツへ帰化し、リヒャルト・ワーグナーの娘エーファと結婚した。ヒトラーは1923年にバイロイトでチェンバレンと出会い、チェンバレンにルターの再来を感じたといわれるが、ヒトラーは第二帝政期のドイツ教養層によるフェルキッシュ民族主義を批判していたため、影響は小さかったともされる[503][505]。他方、ナチ幹部アルフレート・ローゼンベルクはチェンバレンの書物に強烈に感化された[506][507]

ゲルマン騎士団、トゥーレ協会、ドイツ労働者党からナチスへ編集

こうした潮流のなかから、1912年ゲルマン騎士団(Germanenorden ゲルマン教団)が結成され、スワスティカ(鉤十字の「卍」)をシンボルとして、北方人種の優越を反ユダヤ主義を説いた[508]。ゲルマン騎士団はグイド・フォン・リストアドルフ・ヨーゼフ・ランツから影響を受けている。

1918年8月、ルドルフ・フォン・ゼボッテンドルフ男爵を名乗るルドルフ・グラウアー(Rudolf Grauer,1875‐1945)が、伝説の極北の島ウルティマ・トゥーレから名付けて、トゥーレ協会が設立された[508][509]。トゥーレ協会にはディートリヒ・エッカートアドルフ・ヒトラーがいた[509]

 
16世紀の古地図『カルタ・マリナ』でのトゥーレ(Tile)。島の付近に「怪物」のクジラ(balena)とシャチ(orcha)が描かれている。

1919年、トゥーレ協会のアントン・ドレクスラードイツ労働者党(Deutsche Arbeiterpartei)を結成した。ドイツ労働者党の初期の党員には共同設立者カール・ハラーのほか、ゴットフリート・フェーダーディートリヒ・エッカートアルフレート・ローゼンベルクハンス・フランクエルンスト・レームアドルフ・ヒトラーがいた。1920年2月24日にドイツ労働者党はオーストリア=ハンガリー帝国のドイツ国家社会主義労働者党を意識して国家社会主義ドイツ労働者党(Nationalsozialistische Deutsche Arbeiterpartei、ナチス)へと改称した。

1922年にゲルマン主義者のオランダ人文献学者ヘルマン・ヴィルト(Herman Wirth)は1933年に「北方人種の聖書」と称して『オエラ・リンダの書』をドイツ語に訳した。1934年5月にベルリン大学で行われた「オエラ・リンダの書」シンポジウムで、ヴィルト、ハインリヒ・ヒムラーリヒャルト・ヴァルター・ダレが参加し、1935年7月に、ヒムラーは「ドイツ先祖遺産(アーネンエルベ)」研究機関を設立した。

アルフレート・ローゼンベルクトゥーレ協会ディートリヒ・エッカートクライスに属して、ドイツ労働者党、および国家社会主義ドイツ労働者党党員となり、1922年に『フェルキッシャー・ベオバハター(民族の観察者)』主筆となった[510]。1933年にはナチ党外務局長、1934年にナチス全精神的・世界観的教育と育成の監視のための総統受任者となった[510]。ローゼンベルクは中世ドイツの神秘主義者マイスター・エックハルトを信奉して真の宗教をドイツ神秘主義とし、1934年には『マイスター・エックハルトの宗教』を上梓[511][510]1938年に『二十世紀の神話』を出版した[512]1939年にはユダヤ人問題研究所(Institut zur Erforschung der Judenfrage)を設立した[510]。ローゼンベルクは反ユダヤだけでなく、反キリスト教会の立場にもあり、イエスが神であることや、イエスの復活などは信じていなかった[510]。ローゼンベルクはキリスト教のアガペー(愛)謙遜ヘセド(憐憫)ヘーン(恩寵)よりも、の美、自由で高貴な魂を重視し、ユダヤ教には不死の信仰や形而上学的な宗教がないとして、ユダヤ的=ローマ的世界観に代わって、北方種族のゲルマン的人間の内的側面を称揚した[510]

第一次世界大戦下のドイツ (1914-1918年)編集

第一次世界大戦下のドイツでは、ドイツ人からもユダヤ人からも、ドイツ人とユダヤ人の類縁性について言及された。ユダヤ系哲学者ヘルマン・コーヘンは、ユダヤ人はドイツ語使用者であるから、精神の祖国であるドイツを重んじることが必要だとして、ユダヤ精神とドイツ精神は兄弟愛でむすびついているとした[513]。ユダヤ系ドイツ人でハーバード大学心理学教授フーゴー・ミュンスターベルクは祖国ドイツへの愛を説いた[513]。反ユダヤ主義者のオイゲン・ツィンマーマンは、当時のドイツはユダヤ人と同様に世界の憎悪を一身に集めているとした[513]。ドイツ人とユダヤ人の類縁性については、ユダヤ系作家ヤーコプ・ヴァッサーマントーマス・マンアルフレート・ヴェーバー、シオニストのナーフム・ゴルトマンも述べている[513]。他方で、ユダヤ系社会学者フランツ・オッペンハイマーは「反ユダヤ主義を「自国礼賛と攻撃性を特徴とするナショナリズムが自国に向けて見せる顔貌」とした[514]

1915年末、レーヴェントロー伯爵やアードルフ・バルテルスらが参加した講演会では、冊子『ドイツ軍内部のユダヤ人』を作成し、将校と学生に無料で配布することが決議された[515]。この会に参加していたハンス・フォン・リービヒはホルヴェーク宰相の和平政策を「ユダヤ人宰相による腐りきった妥協」と酷評したが、ユダヤ人年鑑『ゼミ=ゴータ家系図』によってリービヒは改宗ユダヤ人の曾孫であったことが暴露され、1919年に全ドイツ連盟から除名された[515]

1916年3月、テオドール・フリッチュとアードルフ・ロートは、国籍不明の拝金政治はドイツ民族に反旗を翻し、国際金融の利益を追求していると皇帝などに意見書を出した[515]。1916年夏には、ドイツ陸軍では、戦時動員を逃れているユダヤ人を告発する意見書が溢れた[515]。作家トーマス・マン1916年、ドイツ人は超ナショナルな民族であり、ドイツ人にはナショナルな枠を超えた責任があり、ヨーロッパの良心を体現する使命が課されているとして、フランスでは憎悪に満ちたドイツ人蔑視があるが、ドイツ側にはそのような照応物はないとした[516]

当時、フランスの知識人はドイツを野蛮人として非難していた。フランスのユダヤ系哲学者アンリ・ベルクソンは、ドイツとの戦争は「野蛮性に対する文明の闘争」であるとして、「わがアカデミーは、ドイツの凶暴性と破廉恥のなかに、一切の正義と真理を侮蔑する態度のなかに、野蛮状態への復帰をみとめることによって、ひとつの科学的義務をはたす」と演説した[517]。作家モーリス・バレスは、ドイツという野獣に、棍棒になれて、文明の法則に服従するまで足枷を強いると述べ、作家モーリス・メーテルリンクも「ドイツだけは、国の端から端まで肉食獣」と述べた[517]

1916年8月に、ヴェルダンの戦いでの失敗の責任をとって参謀総長ファルケンハインは辞任し、後任の参謀総長にヒンデンブルクが、ルーデンドルフが参謀次長に就任した。10月に参謀本部は40万人のベルギーの労働者を強制移住させ、またマックス・バウアー大佐の発案で、動員されたユダヤ人の調査を開始した[515]。また、バウアーはドイツ語版『シオン賢人の議定書』の出版者ミュラー・フォン・ハウゼンにルーデンドルフを紹介した[515]。同じく1916年10月にカトリック中央党はユダヤ人官吏の調査を政府に求めた[515]

1916年末、「ユダヤの傲岸不遜に抗する会」のミュラー・フォン・ハウゼンが雑誌『前哨』を再刊した。1917年1月にはハンブルクの『ドイツ民族新聞』は表紙に鉤十字を掲げ、4月にはハインリヒ・クラスとチェンバレンが『ドイツの刷新』を創刊した[515]1917年初頭、哲学者マックス・ヒルデベルト・ベームが『プロイセン年鑑』で同化ユダヤ人を告発する一方でシオニズムには賛同すると表明すると、シオニストの作家アルノルト・ツヴァイクはベームのユダヤ人による世界支配というのは反ユダヤ主義の常套句であると批判した[518]。ツヴァイクに対してベームは、ドストエフスキーはヨーロッパの一大変事が起こる時にユダヤ人の権力がいや増しに増すと述べたが、同化ユダヤ人の国際ネットワークは事実である、しかし我々の敵はユダヤ世界なのではなく、「ヨーロッパの、そしてゲルマン世界の目に見えないユダヤ化現象」であるとした[518]

大戦当初からドイツ政府は、ロシア革命勢力を支援してロシアの弱体化を狙ってきた。ドイツ政府は、ユダヤ系革命家アレクサンドル・パルヴスやエストニア人ケスキュラ(Alexander Eduard Kesktüla)の工作を支援し、レーニンは封印列車によって1917年4月にロシアに帰国して、ロシア革命を主導した[515][519]。3月27日、ペトログラード労兵ソヴィエトは「無併合・無償金・ 民族自決による講和」を掲げ、ドイツ社会民主党は無併合講和を支持、さらにドイツ各地でストライキが組織され、ロシア革命を模範としたキール水兵の軍務ストライキが起きると、ドイツ体制派も無併合講和を支持するようにようなり、7月19日に無併合和平決議を採択した[515]。これ以降、ドイツでは無併合講和に反対する激しい反動が表面化した[515]。1917年夏、ドイツでは軍務忌避のユダヤ人は革命派ユダヤ人を意味するようになった[515]。ロシア革命にユダヤ人が参加したのも、またドイツのユダヤ人の一部に革命派がいたのは事実であったが、ユダヤ人であるとうだけで攻撃対象になることが激しくなると、ユダヤ人のなかから革命派に合流するものが増えていった[515]

マックス・ヴェーバーのパーリア論編集

マックス・ヴェーバーは『古代ユダヤ教』(1917)で、ユダヤ人をパーリア(Paria)民族(賎民)すなわち、インドにおけるような「儀礼的に、形式上あるいは事実上、社会的環境世界から遮断されているような客人民族」であったとし、ユダヤ民族の経済倫理は「パーリア資本主義」を生み出したと論じた[520][521]。パーリアという用語には、ゲットー状況という貶下の意味だけでなく、預言者が苦難に耐えるというイスラエルの苦難の神義論が含意されている[522][523]。パーリアという用語に反ユダヤ主義的な軽侮の意味をかぎつける一部のユダヤ系学者については、神経過敏の誇張とする批判もある[524][525]

ヴェーバーはヴェルハウゼンの影響で、捕囚後の『エズラ記』『ネヘミヤ記』以降のパリサイ派ラビ・ユダヤ教体制を「後期ユダヤ教」ととらえ、第二イザヤ書エレミヤ書預言者の精神のような古代イスラエル宗教とを区別した[526]

ヴァイマル共和政のドイツ(1919年 - 1933年)編集

第一次世界大戦末期の1918年11月、ドイツ革命が発生し、1918年1月にヴァイマル共和国が成立し、11月にドイツ皇帝ヴィルヘルム2世が退位し、ドイツ帝国が打倒された。ドイツが共和政になった直後、帝政時代の政党ドイツ保守党が改組され、ドイツ国家人民党が結成された。1922年にはドイツ国家人民党の右翼が分離してドイツ民族自由党を結成した。

1918–19年、ロシア革命でウクライナから逃亡してきたシャベルスキー・ボルク(Piotr Shabelsky-Bor)は『シオン賢者の議定書』をミュラー・フォン・ハウゼン(Ludwig Muller Von Hausen)に手渡し、1920年、ハウゼンは仮名ビーク(Gottfried Zur Beek)でドイツ語訳を出版した[527][528][529]タイムズ紙が1920年5月に好意的にこの本を紹介すると、ベストセラーとなった。ホーエンツォレルン家とドイツ皇帝ヴィルヘルム2世は出版費用を助成し、皇帝は夕食会で本の一部を朗読した[530]。『シオン賢者の議定書』には多数の類書があるが、フリーメイソンとユダヤ人が結託して陰謀をめぐらしているという俗説が広まった。ドイツのフリーメイソンリーはもとよりユダヤ人の扱いには賛否両論であったが、『議定書』の独語版が出版されるとユダヤ人の加入を断るようになった[531]

1923年にはアルフレート・ローゼンベルクが『シオン賢者の議定書』を翻訳した[532][530]。同年ローゼンベルクは『国家社会主義ドイツ労働者党の本質、原則および目的』も出版した。ドストエフスキー全集のドイツ語訳を監修したメラー・ファン・デン・ブルックは同1923年に『第三帝国』を書いた[533][534]

1930年、ドイツ系ユダヤ人哲学者テオドール・レッシングは『ユダヤ人の自己嫌悪』で、ユダヤ人のなかにユダヤ人であることを憎悪したり嫌悪する者がいて、その例として、ウィーン世紀末文化の代表的な作家カール・クラウス(1874-1936)、オットー・ヴァイニンガー(1880-1903)、アルトゥール・トレビッチュ(Arthur Trebitsch, 1880-1927)、ヴァルター・カレ(Walter Calé, 1881-1904)、マクス・シュタイナー(Max Steiner, 1884-1910)、フリードリッヒ・ニーチェの知己パウル・レー、カトリックの伝統を信奉してユダヤのテーマを除外した作家フーゴ・フォン・ホーフマンスタール、同化政策を支持したルードルフ・ボルヒャルト(1877-1945)、同化ユダヤ人ヤーコプ・ヴァッサーマンなどを挙げている[535]

文学者アードルフ・バルテルスは、ドイツ文学史のなかでドイツ人とユダヤ人を区別したことにより、第三帝国期にドイツ的著作物の「浄化」のための指導者とみなされた[534]。バルテルスは『ユダヤ人とドイツ文学』(1912) 『なぜわたしはユダヤ人と闘うのか』 (1919) 『ユダヤの素性と文芸学』(1925)を著し、主著『ドイツ文学史』(1924-28年,3巻)はドイツの教養書となった[534][536]1926年ヒトラーはバルテルスを訪問し、1937年5月にはドイツ帝国の最高勲章であった「鷲の紋章」が授与され、80才の誕生日には最前衛の闘士のみに贈られる黄金の紋章が授与され、 ナチ党名誉会員になるが、ナチ党員にはならなかった。[534]

ナチス・ドイツ(1933年 - 1945年)編集

フロイトのユダヤ論編集

ジークムント・フロイトの『モーセと一神教』(1939年)は反ユダヤ主義の解明を執筆動機とした[537]。第一にフロイトは、キリスト教徒は不完全な洗礼を受けたのであり、キリスト教の内側には多神教を信じた先祖と変わらないものがあるし、キリスト教への憎悪がユダヤ教への憎悪へと移し向けたとした[537]。第二には、キリスト教徒は神殺しを告白したためその罪が清められているが、ユダヤ教はモーセ殺しを認めないためにその償いをさせられた、と論じた[537]。パウロはユダヤ民族の罪意識を原罪と呼んだが、キリスト教での原罪とは後に神格化される原父の殺害であり、ユダヤ教においてもモーセ殺害という罪意識があるとフロイトはいう[537]。フロイトのモーセ殺害説は、モーセ一行がシティムでバール神崇拝に堕して、それに反対したモーセが殺害され、その後儀礼に対する道徳の優位を主張するモーセ一神教が誕生したというE・ゼリンの『モーセとイスラエル』での説を取り入れたものであった[537]。ゼリンは第二イザヤ書第53章の僕(しもべ)がモーセであり、モーセの殉教がメシア思想を生んだとした[537][* 13]。ゼリンの説は論駁され、ゼリンは自説を撤回したが、フロイトはこの説を支持し続けた[537]。フロイトによれば、キリスト教には「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者には、永遠の命があり、わたしはその人を終りの日によみがえらせるであろう」という、神の肉と血を拝受する聖餐式の儀礼があるが[538]、ここには父=神を殺害して食べるというトーテム饗宴、カニバリズムの記憶があるとする[537]。他方、ユダヤ教は中世からキリスト教徒によって儀式殺人やモロッホ崇拝、モレク崇拝などの嫌疑で攻撃されてきた[* 14]。フロイトはこうしたキリスト教徒による反ユダヤ主義の嫌疑は、聖餐式を教義によって昇華させたキリスト教がユダヤ教から犠牲の観念を引き継ぎながら、ユダヤ教の儀礼の起源に対して嫌悪を憤激をもよおしていることが深層にあるとした[537]。つまり、キリスト教は罪を告白して浄化されたのに対して、ユダヤ教は昇華されていない律法を墨守しているという論理が、反ユダヤ主義の内側にひそんでいるとした[537]

フロイトは『幻想の未来』(1927)や『文化への不満』(1930)で、宗教は人類の集団的強迫神経症であるとしていたが、『モーゼと一神教』では宗教は単なる幻想というよりも、文化を推進する力とみなし、さらにキリスト教以後のユダヤ教は化石であるが、またパウロ以後のキリスト教も退行であり、いまやユダヤ人だけが一神教の活気を保持しており、キリスト教よりもユダヤ教が優位にあると論じた[537]。フロイトは、カント以来のリベラル・プロテスタントにおけるイエスのモーセ教に対する優位を転倒させ、モーセのイエスに対する優位を宣明したのであった[537]。しかし、『モーゼと一神教』に対しては世界中のユダヤ人から、エジプト人のモーセという捉え方、ユダヤ民族によるモーセ殺害について抗議が殺到し、ユダヤ系宗教哲学者マルティン・ブーバーは非科学的で根拠のない推定であり嘆かわしいと否定した[539]。なお、ムッソリーニはフロイトを丁重に扱うようにヒトラーに依頼していたという[540]

ナチス・ドイツにおけるユダヤ人迫害編集

反ユダヤ主義的政策を実行に移したのがドイツにおける国家社会主義ドイツ労働者党(ナチ党)であった。ナチ党はその創設当初から強い反ユダヤ主義を掲げ、ナチ党の権力掌握後はドイツの国策の一つとなった。1933年にはユダヤ人などを公職から排除する「職業官吏再建法ドイツ語版)」が制定された[541]。ナチ党は文化創造力を持つアーリア人種も混血によって「劣等な血」が混じれば退化するので アーリアの「血」を守らねばならないとした[542]。しかし、このような人種主義はナチスドイツに特有のものではなく、優生学など19世紀以降の欧米諸国の多様な潮流が流れ込んで形成されていたものであった[542]

1935年にはいわゆる「ニュルンベルク法」によってユダヤ人は公民権を奪い去られた。第二次世界大戦が勃発すると、ヒトラーらはヨーロッパのユダヤ人をマダガスカル島に移送するマダガスカル計画を立てたが、中止された。代わって「ユダヤ人問題の最終的解決」の手段とされたのが絶滅収容所であった。移送された者の多くは大量虐殺の被害にあった。これは「ホロコースト」と呼ばれている。

1946年ニュルンベルク裁判ユリウス・シュトライヒャーは「もしルターが生きていたなら、必ずや本日、私の代わりにこの被告席に座っていた」と述べた[543]。戦後はホロコースト否認も登場したが、反ユダヤ主義として批判されている。

イタリア編集

ナチスと連携を深めたイタリアは1938年、イタリア人科学者グループはアーリア人であり、ユダヤ人はアーリア人種に属さないと声明[544]。当時、ファシスト党の属したユダヤ人は約7000人いたが、この声明以降、入党も禁止され、公職追放、財産没収、外国籍ユダヤ人の国外退去などの政策がとられた[545]

日本編集

シベリア出兵と『シオン賢者の議定書』編集

1918年日本シベリア出兵を行うが、白軍兵士に配布されていた『シオン賢者の議定書』を日本軍は知った。シベリアから帰った久保田栄吉1919年に日本にこの本を紹介した。ロシア語通訳として白軍将校と接触した樋口艶之助はペンネーム北上梅石で『猶太禍』(1923年)を書き、この本を紹介した。樋口の翻訳を読み酒井勝軍1924年に『猶太人の世界征略運動』など3冊を相次いで出版した。陸軍の将軍であった四王天延孝も『シオン賢者の議定書』を翻訳し、また反ユダヤ協会の会長を務めた。後の大連特務機関長になる安江仙弘はシベリア出兵で武勲を上げたが、日本に帰ってくると1924年に包荒子のペンネームで『世界革命之裏面』という本を著し、その中で初めて全文を日本に紹介した。また、独自に訳本を出版した海軍の犬塚惟重とも接触し、陸海軍のみならず外務省をも巻き込んだ「ユダヤの陰謀」の研究が行われた。しかし、陰謀の発見等の具体的成果を挙げられなかった[546]

『シオン賢者の議定書』が日本に持ち込まれる際に、シベリアから『マッソン結社の陰謀』というわら半紙に謄写版刷りの50枚ばかりの小冊子が持ち込まれた。これが日本では、フリーメイソン陰謀論がユダヤ陰謀論と同時に語られるきっかけになった。『マッソン結社の陰謀』は1923年に「中学教育の資料として適当なものと認む」という推薦文とともに全国の中学校校長会の会員に配布された[547]吉野作造1921年に『所謂世界的秘密結社の正体』という文章を書き、フリーメイソンの弁護を行った[548]。吉野はユダヤ陰謀論者が用いている「マッソン結社」という呼称をまず批判したが、これは逆に酒井勝軍らに再批判されている。また、吉野は『シオン賢者の議定書』に種本があることを指摘した。厨川白村は『改造』誌1923年5月号の『猶太人研究』に「何故の侮蔑ぞや」という文書を著し、ここで「個人主義傾向のユダヤ人に大きな団体的な破壊活動などが出来る筈がない」と主張した。新見吉次1927年5月の『猶太人問題』で、ユダヤ人の陰謀説が日本に相当根を張っている状況を憂い、歴史的事実を通してその批判を行っている。八太徳三は『想と国と人』誌に『猶太本国の建設』という文書を著し、ここで『シオン賢者の議定書』の捏造状況を記述した。

1924年には「日本民族会」、1936年には「国際政経学会」という組織が結成され、『国際秘密力の研究』や『月刊猶太(ゆだや)研究』という雑誌が発行された。これらの組織の主要メンバーであった赤池濃は貴族院議員であった。1928年9月に、誕生したばかりの思想検事の講習会が司法省主催で開催された。その中で四王天により『ユダヤ人の世界赤化運動』が正科目として講座が開かれた[549]

最も積極的にユダヤ陰謀論を批判したのが、満川亀太郎であった。1919年の『雄叫び』誌に載せた文章をはじめ、継続的にユダヤ陰謀論を批判している。1929年に満川は『ユダヤ禍の迷妄』を、1932年に『猶太禍問題の検討』を著しユダヤ陰謀論を批判している。その他、ユダヤ人陰謀説を批判している人もいるが、妄説を相手にしているのは大人げなく黙殺するという態度を取る人が多く、結果的に陰謀説の方が優勢を示すこととなった[550]オトポール事件河豚計画にも関わった樋口季一郎は、第1回極東ユダヤ人大会に招かれてナチスの反ユダヤ主義政策を批判する演説を行っているが、日本の新聞では大会の存在すら報道されなかった[551]

1934年頃から、安江仙弘犬塚惟重は、満州国経営の困難さを訴えていた人らと接触するうちに、ナチス・ドイツによって迫害されているユダヤ人を助けることによってユダヤ資本を導入し、ユダヤ人を移住させることで、満州国経営の困難さを打開しようと考えるようになった。これが河豚計画である。安江仙弘や犬塚惟重は反ユダヤ主義とは全く正反対の日ユ同祖論を展開、書籍を出版することなどによって一般大衆や軍にユダヤ人受け入れの素地を作ろうとした。結局河豚計画は失敗するが、数千人のユダヤ人が命を救われたりと成果も残すこととなった[552][* 15]

作家山中峯太郎は少年向け雑誌『少年倶楽部』に1932年から1年半『大東の鉄人』という小説を連載する。この小説では、ヒーローが戦う相手は日本滅亡を画策するユダヤ人秘密結社シオン同盟とされた。山中は安江の陸軍士官学校における2年先輩であった。また、海野十三[553]北村小松らもユダヤ人を敵の首領とする子供向け冒険小説を書いている。太宰治もユダヤ陰謀論的に自著が扱われた事実を戦後書いており[554]、戦前ユダヤ人の否定的イメージが子供達でさえ了承することを自明視していたほど反ユダヤ主義的言説が日常的に流通していた[555]

ドイツとの同盟成立後編集

日本は1936年日独防共協定、1937年に日独伊防共協定、1940年に日独伊三国同盟を締結し、ナチス・ドイツと同盟関係になった。ナチス・ドイツの成立以前の新聞報道では、反ユダヤ主義はほとんど積極に取り扱われていなかった[556]ナチ党の権力掌握から間もない頃には、東京朝日新聞などでもナチスのユダヤ人迫害に対して批判的な論調が見られた[557]。しかし、ナチスに対する支持が増幅するについて、反ユダヤ主義的な見解が広がり、黒正巌大阪毎日新聞の紙上でナチスの経済政策を激賞し、労働精神を有しないユダヤ人はドイツ国民と断じて相容れず、「国民を利子の奴隷より解放しようとするならば、当然にユダヤ人を排斥せざるを得ないのである」と論じている[558]。1938年のアンシュルス後には大阪朝日新聞ではオーストリアのドイツへの統合問題を述べた「ユダヤ人を清掃すればよい程度」という表現が用いられ[559]、大阪毎日新聞も水晶の夜後にユダヤ人に対して課せられた賠償問題についても「ドイツ人がユダヤ人を煮て食はうが焼いて食はうが米国の口を出すべき問題ではない」と論じている[560]

1938年10月7日、外務省から在外公館長へ『猶太避難民ノ入國ニ關スル件』という極秘の訓令が近衛文麿外務大臣の名で発せられた。リトアニア在カウナス領事館に副領事として務めていた杉原千畝がビザを発給し、多くのユダヤ難民を救った。

1944年1月26日の第84回帝国議会で四王天はユダヤ人問題について質問をするが、回答した安藤紀三郎内相、岡部長景文相、天羽英二(内閣情報局総裁)いずれも四王天の意を迎え、反ユダヤ主義的回答を行った[561]大阪毎日新聞は四王天を講師として迎えた企画展「国際思想戦とユダヤ問題講演会」などの、類似の反ユダヤ主義勉強会やイベントをたびたび開催し、主筆の上原虎重も講師として加わっていた[562]。大阪毎日新聞はこのほか、連合軍によるローマ空襲でバチカンが被害を受けたことも「ユダヤ人とユダヤ思想を基礎とするフリー・メーソンリの計画」であると社説に掲載したほか、連合国の指導者を「ユダヤ民族の総帥」であるとしたり、白鳥敏夫大串兎代夫、大場彌平、長谷川泰造などの執筆陣でたびたび反ユダヤ主義・陰謀論的な論説を掲載した[563]

現代編集

シオニズム編集

1923年にドイツを離れてパレスチナに住んだゲルショム・ショーレム1962年に発表した「ドイツ人とユダヤ人との対話という神話に反対して」において、ドイツ人とユダヤ人の対話は歴史として存在しなかったし、メンデルゾーンの弟子たちがいう「共生」は空虚な叫びにすぎないと批判した[564]

ローマ教皇編集

日本編集

戦後の日本では1981年五島勉ノストラダムスの大予言III-1999年の破滅を決定する「最後の秘史」』でもユダヤ陰謀説は展開された。1986年には宇野正美によって『ユダヤが解ると世界が見えてくる』(徳間書店)が出版され、ベストセラーとなった。1987年1月17日付の読売新聞は、宇野の説を好意的に取り上げた。自民党保守派は憲法記念日の大会に宇野を招待した。ユダヤ陰謀論は一部のマニアックな言説としてだけではなく、日本のメインストリームにも受け入れられていた[565]

反イスラエル編集

イスラエルへの批判が反ユダヤ主義へと直結している事例をここでは述べる。パレスチナ問題をめぐり、学校なども攻撃対象にして、市民を巻き込む作戦も実行するイスラエル[566]に対し、この軍事活動を批判するデモが世界各地で発生しているが、この内の一部に反ユダヤ的言動を唱えるデモがあるとされる[567]

2014年のイスラエル軍によるガザ侵攻では欧米でイスラエルを批判するデモなどが発生した。この行動は、反ユダヤ主義を煽ることに繋がるとする主張がある。例えば、イスラエルの侵攻について、ペネロペ・クルスハビエル・バルデムなどの俳優や映画監督など数十人は、イスラエル軍パレスチナ人大量虐殺を批判、停戦を求める書簡に署名した。この時、ジョン・ヴォイトハリウッド・リポーターのコラムに「今回のような行動は、世界中で反ユダヤ主義をあおりかねません」とコメントを寄せ、中東問題に関して行動を慎むよう警告した。このヴォイトの発言に、署名したハビエル・バルデムは「私たちは悲惨で痛ましい戦争を心から憎むと同じように、反ユダヤ主義を嫌悪しています」と反論している[568]。フランスでは7月13日のデモでイスラエル支持派と反イスラエル派が衝突しており、7月20日のデモではパリのユダヤ人地区で反ユダヤ主義的な主張が起こっている[569]。ドイツでは7月後半にユダヤ人へ軽蔑やシナゴーク批判が発生し、火炎瓶の投げ込みも起こっており、7月末のオランダでも反ユダヤ主義を煽るデモが起こっている[570]

2015年1月9日にはISILに感化された男によるユダヤ食品店人質事件が起きている。犯人は犯行の際に店の客らに向かって「お前たちはユダヤ人だから全て殺す」と発言していた[571]

反ユダヤ主義の地域差編集

アラブ世界における反セム主義」「イスラームと反ユダヤ主義」「イスラーム教徒による宗教的迫害

ユダヤ人の迫害についても時代と地域によって大きな差がある。セファルディムエリアス・カネッティは、オスマン帝国領であったブルガリアからドイツ語圏に移住して初めてヨーロッパのユダヤ人差別の実態を知り、「驚いた」と述べている。イスラーム教国でもユダヤ人は二等市民として厳しく差別される存在であったが、ヨーロッパに比べれば比較的自由と権利が保障されていた[572][573]

南フランスでは歴史的にユダヤ教徒追放はあったものの、フランス革命前まで南フランス文化の一部として、数々の美しいシナゴーグが建設され、数多くのラビが誕生した。ヴィシー政権下、村ぐるみでユダヤ人を匿(かくま)った歴史も知られるところである。歴史的に見て、南フランス・ラングドックはある時期までイル・ド・フランスの中央政府の政治とは無縁で、中世にアルビ派ワルドー派が弾圧された地域でもあり、ユダヤ教徒を迫害の標的にする必要などなかった、ということが言われるが、中世には南フランスでもユダヤ人に対する迫害があった。14世紀フランスで井戸や泉に毒が入れられたという噂が流れ、多くのハンセン病者とユダヤ人が犯人とされ、火刑に処されたが、これはカルカソンヌでも発生した事件である[574]

脚注編集

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注釈編集

  1. ^ 内田樹は英語であれば "Jew" や "Jewish" の一語で表せるが、日本語ではたんに「ユダヤ」とは呼ばず、その後に「〜人」「〜民族」「〜教徒」とつけて呼び習わしているが、「教徒」では宗教的な意味合いだけで考慮されることが多く、「〜人」「〜民族」という表現から(民族と人種の概念を混同して)「ユダヤ人」がひとつの「人種」であるという誤った印象を受けてしまう人もいるが、実際にはユダヤ人と他の民族集団とを区別しうる有意な人種的特徴はないという[4]
  2. ^ 『アピオーンへの反駁』は94年以降に書かれた。
  3. ^ 『世界歴史大系フランス史』では30人とされる[38]
  4. ^ 『世界歴史大系』では1359年にフランス王国はユダヤ人呼び戻しをして、多少のユダヤ人が戻ったとする[38]
  5. ^ 1965年に教皇パウロ6世が聖シモンを殉教者から外した。
  6. ^ ルイ14世はフランドル戦争仏蘭戦争の後に領土拡大を図り、1681年にストラスブールを占領して併合した。
  7. ^ 士師記12-4-6でギレアデ族エフライム族を殺害した一節、民数記25-6-9を指すが、後者については故意の誤解によるものかと訳者は指摘している[179]
  8. ^ ただし、この文書の作者がワーグナーであることは証明されていない[334]
  9. ^ ポリアコフはカール・フリードリヒ・グラーゼナップ『リヒャルト・ワーグナーの生涯』(全6巻、1894-1911)の6巻、p.551.を典拠としている[363]
  10. ^ 社会主義の反ユダヤ主義についてMarc Crapez,L'antisémitisme de gauche au XIXème siècleでは、フーリエ(1772-1837)、Alphonse Toussenel (1803-1885)、プルードン (1809-1865)、Gustave Flourens (1838-1871)、ギュスタヴ・トリドン (1841-1871)、Eugène Gellion-Danglar (1829-1882)、Auguste Chirac (1838- ?)、Francis Laur (1844-1934)、Charles-Ange Laisant (1841-1920)、Clovis Hugues (1851-1907)、Augustin Hamon (1862-1945)、Albert Regnard (1836- ?)、Paul Renaud (1838- ?)、Georges Vacher de Lapouge (1854-1936)、Maurice Allard (1860-1942)、Urbain Gohier (1862-1951) Robert Louzon (1882-1976)、André Colomer (1886-1931)について論じている。
  11. ^ 聖母被昇天修道会(Religieuses de l'Assomption)のバイイ兄弟(P. Bailly と E. Bailly)は1880年4月に月刊で『ラ・クロワ』を発行し、1883年6月に日刊となり、カトリックの反ユ ダヤ主義の宣伝で重要な役割を担った[370]
  12. ^ Ligue antisémitique de Franceは、ポリアコフ日本語訳では「フランス反ユダヤ国民同盟」、中谷猛は「反ユダヤ主義国民同盟」と表記する[370]。ここでは直訳して「フランス反ユダヤ同盟」とする。
  13. ^ 第二イザヤ書での「主の僕(しもべ)」については第53章の他、42:1-4,49:1-6, 50:4-9,52:13-15。
  14. ^ レビ記』18:21で「子どもをモレクにささげてはならない」、20:2-5に「イスラエルの人々のうち、またイスラエルのうちに寄留する他国人のうち、だれでもその子供をモレクにささげる者は、必ず殺されなければならない。すなわち、国の民は彼を石で撃たなければならない。わたしは顔をその人に向け、彼を民のうちから断つであろう。彼がその子供をモレクにささげてわたしの聖所を汚し、またわたしの聖なる名を汚したからである。その人が子供をモレクにささげるとき、国の民がもしことさらに、この事に目をおおい、これを殺さないならば、わたし自身、顔をその人とその家族とに向け、彼および彼に見ならってモレクを慕い、これと姦淫する者を、すべて民のうちから断つであろう。」とある。
    また、『列王記』上第11章では、パロの娘、モアブ、アンモン、エドム、シドン、ヘテなどの外国の女を愛したソロモン王が妻たちによって他の神々を崇拝したとある。「ソロモンがシドンびとの女神アシタロテに従い、アンモンびとの神である憎むべき者ミルコムに従った」「ソロモンはモアブの神である憎むべき者ケモシのために、またアンモンの人々の神である憎むべき者モレクのためにエルサレムの東の山に高き所を築いた。」
    列王記下16:3では、アハズ王が「イスラエルの王たちの道に歩み、また主がイスラエルの人々の前から追い払われた異邦人の憎むべきおこないにしたがって、自分の子を火に焼いてささげ物とした」とある。
    歴代誌下28:2-4では、「イスラエルの王たちの道に歩み、またもろもろのバアルのために鋳た像を造り、ベンヒンノムの谷で香をたき、その子らを火に焼いて供え物とするなど、主がイスラエルの人々の前から追い払われた異邦人の憎むべき行いにならい、また高き所の上、丘の上、すべての青木の下で犠牲をささげ、香をたいた。」とある。『聖書 [口語]』日本聖書協会、1955年.
  15. ^ ゲーム会社のタイトー創業者であるロシア系ユダヤ人ミハエル・コーガン