反ユダヤ主義
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反ユダヤ主義(はんユダヤしゅぎ)とは、ユダヤ人およびユダヤ教に対する敵意、憎悪、迫害、偏見のこと[4]。また、宗教的・経済的・人種的理由からユダヤ人を差別・排斥しようとする思想のこと[5]。
19世紀以降の人種説に基づく立場を反セム主義(はんセムしゅぎ)またはアンティセミティズム(英: antisemitism)と呼び[4][6]、近代人種差別主義以前のユダヤ人憎悪(英: judeophobia,独: Judenhass)[7]とは区別して人種論的反セム主義ともいう[8]。セムとはセム語を話すセム族を指し、アラブ人やユダヤ人を含む。19世紀にエルネスト・ルナンやヴィルヘルム・マルなどによってセム族とアーリア族が対比され、反ユダヤ主義を「反セム主義」とする用語も定着した[注 1]。
歴史的概観編集
反ユダヤ主義の歴史的発展については、ジェローム・チェーンズによる次のような整理がある[11]。
- キリスト教以前の古代ギリシャや古代ローマにおける反ユダヤ教。これは民族意識的な性格であった。
- 古代・中世におけるキリスト教的なもの。これは宗教的・神学的な性格を持ち、近代まで拡大していった。
- イスラームにおけるもの。ただし、イスラム教ではユダヤ教徒はキリスト教文化圏よりも厚遇された。
- 啓蒙時代の政治的経済的なもの。これは後の人種的なもの(反セム主義)の基盤をなした。
- 19世紀以降の人種的反セム主義。これはナチズムにおいて最高潮に達した。
- 現代のもの(新しい反セム主義ともいう)。
チェーンズは、さらに反ユダヤ主義を大きく以下の3つのカテゴリに分けることができるとする[11]。
- 民族的な性格の強かった古代のもの
- 宗教的な理由によるキリスト教的なもの
- 19世紀以降の人種的なもの
実際には、古代ローマ以前で民族間の一般的な虐待や酷使と後世の意味での反ユダヤ主義を識別することは難しい。ヨーロッパ諸国家がキリスト教を受け入れてからは、明確に反ユダヤ主義と呼ぶべき事態が生じていった。イスラム教世界ではユダヤ人はアウトサイダーと見なされてきた。科学革命と産業革命以後の近代社会では人種に基づく反ユダヤ主義(反セム主義)が唱えられ、第二次世界大戦中のナチス・ドイツによるユダヤ人大量虐殺をもたらした。1948年のイスラエル建国以後は中東においても反ユダヤ主義がはびこるようになった。
以下では、反ユダヤ主義の歴史だけでなく、反ユダヤ主義が生まれた背景として、ユダヤ人をとりまく時代ごとの状況、各国各社会におけるユダヤ人の取り扱いのほか、ユダヤ側の反応などの歴史を述べる。
古代編集
紀元前586年、新バビロニア王国のネブカドネザル2世がユダ王国を征服した。エルサレム神殿は破壊され、ゼデキヤ王を含めたユダヤ人は捕虜となり、バビロニアに強制移住させられた(バビロン捕囚)。紀元前538年にペルシャ王キュロス2世が新バビロニアを征服し、ユダヤ人に神殿の再建を許可し、解放した。この時、一部のユダヤ商人はパレスチナへ帰還せず、バビロンや各地に留まり、こうしてペルシャ支配の時代(紀元前537年 - 紀元前332年)にユダヤ人は離散(ディアスポラ)した[12]。
紀元前4世紀のギリシアの哲学者アブダラのヘカタイオス[注 2]はモーセは人間らしさと歓待の精神に反する生活様式を打ち立てたと記した[13]。
紀元前2世紀、セレウコス朝シリアの王アンティオコス4世はエジプトのプトレマイオス朝を打倒して当地のユダヤ人を支配した。紀元前167年にユダヤ人の反乱マカバイ戦争が起きると、アンティオコス4世は弾圧政策を開始したが、そこにはユダヤ種は他の民と友好関係を結ぼうとせずにすべてを敵とみなしているため、完全に絶やす意図があったと記録されている[注 3]。
ローマ帝国と初期キリスト教において編集
1世紀、ユダヤ教の堕落に対して洗礼運動を開始したユダヤ人の洗礼者ヨハネは[14]、生粋のユダヤ人ではないイドマヤ系のガリラヤ領主ヘロデ・アンティパスが[15]異母兄弟の妻ヘロデヤと結婚したことを姦淫罪として非難し、処刑された[16]。洗礼者ヨハネから洗礼を受けたユダヤ人のナザレのイエス(イエス・キリスト)は[17]ユダヤ教を改革し、これを民族宗教から普遍宗教へ変化させた[18]。
35年(36年)頃、ユダヤ人キリスト教徒ステファノはユダヤ教を批判したためファリサイ派に石打ちで処刑され、キリスト教で初の殉教者となった[19]。ファリサイ派のユダヤ人サウロは当初キリスト教徒を弾圧していたが、回心してキリスト教徒となりパウロに改名し、後に聖人となった。ユダヤ教を批判したパウロは「ユダヤ人の敵」で反ユダヤ主義の源泉ともいわれる[20]。
哲学者セネカは、ユダヤ・キリスト両教徒について「極悪な民族の習慣はますます強固となって、全世界に根を下ろすようになった。被征服者が征服者に法律を定めた」と述べた[21]。
66年、ローマ帝国のユダヤ属州総督の迫害に対してユダヤ教過激派が反乱を起こしてユダヤ戦争が始まった[22]。70年のエルサレム攻囲戦に際し、ローマ軍司令官(後皇帝)ティトゥスはユダヤ・キリスト両教徒を絶やすためにエルサレム神殿を破壊し、反乱を鎮圧した[22][23]。ヨセフスもローマ軍に投降し、熱心党とサドカイ派とエッセネ派のクムラン教団はこの戦争で消滅し、パリサイ派だけが残った[1][24]。
ユダヤ戦争後、ユダヤ教は存在を許されたが、エルサレムの神殿体制は崩壊し、ファリサイ派はヤブネの土地を拠点とした[24]。10万近いユダヤ人捕虜は、全ローマ帝国に銀貨一枚で奴隷として売られた[12]。ユダヤ戦争の際にキリスト教徒は反乱に加わらなかったため、ユダヤ教徒はキリスト教徒を敵視するようになった[22]。
70年代にパレスチナと小アジアで成立したキリスト教の福音書[注 4]では、エルサレム攻囲戦で生き残った唯一のユダヤ教集団のパリサイ派が偽善者として批判された[1][26]。ヨハネ福音書ではユダヤ人は「悪魔から出てきた者」であって「彼は初めから、人殺しであって、真理に立つ者ではない」[27]と、ユダヤ人をキリスト殺し、悪魔の子と非難し、キリスト教の反ユダヤ主義に神学的表現を与えた[20]。福音書で記されたイスカリオテのユダについて、ポリアコフはユダの名前は偶然というよりも意図が働いていたのではないかと疑っている[28]。
当時の記録では、フラウィウス・ヨセフスがリュシマコスを引用して「モーセはユダヤ人に対して、何人にも愛想よくしてはならぬ」と説教したと書き[注 5]、またタキトゥスはユダヤ人は彼ら以外の人間には敵意と憎悪をいだき、自分たちの間ではすべてを許すと書いた[13][29]。
132年-135年、ユダヤ属州でバル・コクバの乱が発生した。ハドリアヌス皇帝は鎮圧後、ユダヤ教徒による割礼を禁止した[13]。この乱以後、ユダヤ人のエルサレム居住は禁止され、ユダヤ教祭儀の実践は死刑となった[12]。138年にアントニヌス・ピウス皇帝が割礼を許可したが、ユダヤ教の宗教活動を制限するために非ユダヤ人の割礼を禁止した[13]。
3世紀のローマ帝国ではユダヤ教よりも新興宗教のキリスト教が迫害された[13]。当時キリスト教は制度化が未熟で、キリスト教聖典学者はラビに教えを請うていた[13]。しかし、キリスト教神学者からの反ユダヤ主義もみられ、オリゲネスは『ケルソス駁論』でユダヤ人は救い主に対して陰謀を企て、その罪のためにエルサレムは滅亡し、ユダヤ民は破滅し、神による至福の招きはキリスト教徒に移行したと論じた[28]。
313年、ローマ帝国皇帝リキニウスとコンスタンティヌス1世は「キリスト者およびすべての者らに、何であれその望む宗教に従う自由な権限を与える」とのミラノ勅令を出した[30]。
この頃、ユダヤ人はライン川流域に奴隷、ローマ軍兵士、商人、職工、農民としてやってきており、321年の勅令ではケルンのユダヤ人住民が記されている[12]。
330年、コンスタンティヌス1世がローマからコンスタンティノープルへ遷都し、やがて西ローマ帝国と東ローマ帝国に分かれていった。
380年にローマ帝国がキリスト教を国教とすると、392年にはキリスト教以外の宗教、ローマ伝統の多神教が禁止された[31]。ユダヤ教は多神教でなく一神教なのでこの時に迫害は受けていない。
4世紀から5世紀になると、ゲルマン諸民族がヨーロッパに勢力を拡大し、西ゴート族のアラリック1世がローマ帝国への侵入を繰り返し、457年には東西ローマ帝国が分離し、オレステスとオドアケルのクーデターによって476年に西ローマ帝国が滅亡した。以後、東ローマ帝国にローマ帝国は継承された。
カッパドキア教父ニュッサのグレゴリオスはユダヤ教徒を悪魔の一味、呪われた者と罵倒した[28]。
コンスタンティノープル総主教ヨアンネス・クリュソストモスは、ユダヤ人は盗賊、野獣で「自分の腹のためだけに生きている」と罵倒し[28]「もしユダヤ教の祭式が神聖で尊いものであるならば、われわれの救いの道が間違っているに違いない。だが、われわれの救いの道が正しいとすれば、ーもちろんわれわれは正しいのだがー、彼らの救いの道が間違っている」とし、ユダヤ教徒による不信心は狂気であり[32]「神の御子を十字架に懸け、聖霊の助けを撥ねつけたのなら、シナゴーグは悪魔の住まい」だと述べた[20]。
以来、ビザンティン帝国で反ユダヤ主義の伝統が形成され、千年後のモスクワ大公国でのユダヤ人恐怖をもたらした[28]。ゴールドハーゲンはヨアンネスの事例は西洋近代へもつながり、キリスト教徒にとってのユダヤ教徒は有害で害虫であり、キリスト教徒であることそれ自体がユダヤ人への敵意を生み出し、ユダヤ人を悪の権化、悪魔とみなしていったとする[32]。ヨアンネスの『ユダヤ人に対する説教(Adversus Judaeos)』はナチス・ドイツにおいて頻繁に引用された[33]。
東ローマ帝国皇帝テオドシウス2世(在位408-50)はユダヤ人を公職追放し、この布告はヨーロッパで受け継がれ18世紀まで効力を持った[20]。
5世紀初頭にアウグスティヌスはユダヤ人はキリスト教信仰を受け入れるだろうとし[34]、ユダヤ人はイエス殺害により死に値するが、カイン同様地上を彷徨わせるべきで、再臨の時にユダヤ人は過ちを認めてキリスト教に帰依する、さもなければ悪魔の国に落ちるとし、ユダヤ人を悲惨な状態のままで生き永らえさせよと主張した[20][35]。
キリスト教徒にとってのユダヤ人は、イエスの啓示を否定するとともにイエスを殺害した特別な民族であり、ユダヤ人は神の冒涜者で世界の道徳秩序の破壊者であり、これはキリスト教文化の原理となった[32]。4世紀にキリスト教教会が勝利を収めてから中世を通じて反ユダヤ主義は断絶しなかった[32][36]。
ゲルマン諸王国編集
ヨーロッパのゲルマン諸王国ではカトリックへの改宗が進んだ。496年にはメロヴィング朝フランク王国のクローヴィス1世が、またイタリアのランゴバルド王国、587年にはイスパニアの西ゴート王国がカトリックへ改宗し、キリスト教国家となった。
- 西ゴート王国
- 589年の第3回トレド公会議に西ゴート王国はアリウス派からカトリックに改宗したほか、ユダヤ人がキリスト教徒の奴隷や妻を持つことが禁止された[37]。612年、シセブート王がユダヤ人にキリスト教の洗礼を強制したうえ、第4回トレド公会議では改宗したユダヤ人に訴訟を禁止した[37]。第6回トレド公会議(639年)でユダヤ教儀礼を禁止する誓約書を提出されるキンティラ王の政策を追認し[37]、第8回会議(653年)で西ゴート法典でユダヤ教の宗教儀礼を禁止した[37]。680年の第12回トレド公会議でエルウィック王の反ユダヤ法が承認されてユダヤ人の強制改宗が法的に定められ、違反者は追放、奴隷や財産の没収が課せられた[37]。
- 693年、エギカ王が前王の勢力の陰謀に対して第16回トレド公会議で陰謀に加担した大司教や貴族の財産没収を命じるとともに、キリスト教に改宗しないユダヤ人の財産没収を命じ、西ゴート法典にも記された[37]。第17回トレド公会議(694年)でエギカ王はユダヤ人による王国転覆計画が発覚したと告発し、司教たちは「ヒスパニアのユダヤ人を全員奴隷とする」と議決した[37]。
- フランク王国
- フランク王国では6世紀に、王の御用商人ユダヤ教徒プリスクスなどのユダヤ商人が地中海交易で活躍した[38][39]。
- 636年、東ローマ皇帝ヘラクレイオスがイスラム勢力のアラブ人に敗北すると、占星術で「キリスト教王国は割礼をほどこされた民(イスラム教徒アラブ人、ユダヤ教徒)に滅ぼされる」との予言が出された。ヘラクレイオスから予言を伝えられたメロヴィング朝フランク王ダゴベルト1世は、王国内のユダヤ教徒に即時改宗か国外退去を命じた[39][40]。
- カロリング朝でもユダヤ人大商人が活躍し[40]、カロリング時代には「ユダヤ人」と「商人」は同義語だった[12]。王室の庇護を受けたユダヤ人はキリスト教共同体に対して改宗活動を展開したが、これにキリスト教聖職者は反発した[40]。
- 8世紀初め、ウマイヤ朝が西ゴート王国を滅ぼしてフランク王国を征服しようとした時、ユダヤ教徒がイスラムに手を貸したとキリスト教側の記録に記されている[39]。
- 732年にメロヴィング朝フランク王国の宮宰カール・マルテルによってウマイヤ朝の進撃が食い止められた後、ポワチエでの定住がユダヤ人に許可され、東方交易に従事した[39]。
- 759年にサラセン人に占領されていた南フランスのナルボンヌを奪回したピピン3世は、武器を援助したユダヤ人にナルボンヌの3分の1に当たる領地へ居住することや、ユダヤ共同体の代表が「ユダヤの王」を名乗ることを許可した[12][39]。
- 『サリカ法典』の8世紀写本の序文では、ゲルマン系のフランク族について「神自らつくりたもうた高名な人種、軍事に強く、結束にゆるぎなく、思慮深く、たぐいまれな美しさと白さを持ち、高貴で健康的な身体をもち、勇敢で俊敏な、恐るべき人種」と書かれた[41]。
- カール大帝(在位:768年 - 814年)はキリスト教への改宗を国民に強制したが、ユダヤ人は「聖書の民」であるために信仰が許可された[12]。また、ユダヤ人は自由通商貿易を許可され、ユダヤ共同体内での裁判権も許可された[12]。カール大帝は797年にアッバース朝へユダヤ人イツハクを派遣した[注 6]。カールはイタリアからユダヤ人商人を招いてライン川・モーゼル川流域に住まわせ、シュバイヤー、ヴォルムス、マインツに三大ユダヤ共同体が成立し、ボンやケルンにもユダヤ植民地が築かれた[39]。また、カールはバビロニアのマヒールをナルボンヌに招き「ユダヤの王」称号を名乗ることやイェシーバーを開設することを許可した[39]。
- イスラム教とキリスト教の境界が確定して以降、キリスト教世界にとって東方との交易が難しくなったため、ユダヤ人商人が東方交易に乗り出し、ペルシャ、インド、中国まで進出した[12]。
- 9世紀前半のリヨンではユダヤ人が宮殿に出入りしたり、徴税官になったり、奴隷を所有することもあった[39]。皇帝ルートヴィヒ1世(ルイ1世)はユダヤ教徒に改宗運動を許可し、839年に宮廷助祭ボード (Bodo) がユダヤ教に改宗した。リヨン大司教アゴバール(778-840年)はルイ1世にユダヤ人による改宗運動の禁止を訴えたが、王はユダヤ行政官エヴラ−ルを派遣してユダヤ人の特権維持を宣言し、追放されたアゴバールはユダヤ人の勢力拡大を嘆いた[40]。
- ユダヤ人がフランク王国の宮廷や貿易で活躍する一方、反ユダヤ主義も展開していった。843年のヴェルダン条約で王国が三分割された後、848年にヴァイキングのデーン人が西フランク王国のボルドーを襲撃した時には、ユダヤ人が裏切ったとされた[39]。860年頃、リヨン大司教アモロンはユダヤ教の「感染」からキリスト教教徒を守るため、ユダヤ人の食べ物や飲み物を口にすることを禁じ[40]、876年にはサンスのユダヤ教徒が修道女と関係を持ったとして追放された[39]。
- 古代・中世ヨーロッパのキリスト教国家以外では、コーカサス・黒海地域に成立したトルコ系のハザール王国で8世紀に国王と高官がユダヤ教に改宗した。960年にはコルドバのラビ・ハスダイ・イブン・シャープルートがユダヤ教復興に期待し、ハザール王国に書簡を送った。
イスラーム編集
マディーナでムハンマドはユダヤ教徒による神の教えの曲解を正すために神がアラビア語でムハンマドに啓示したと宣言した[42]。また、メッカとの戦争中、ムハンマドはユダヤ教徒のカイヌカーウ族(カイヌカー族)やナディール族を追放し、メッカ側についたユダヤ教徒のクライザ族の男は全て殺害され、女子は奴隷として売却された(クライザ族虐殺事件)[42][43]。
628年にハイバルのナディール族が降伏すると、他のオアシスのユダヤ教徒も降伏した[42]。以降、ユダヤ教徒はジンマの民(ズィンミー)とされ、反イスラム的行動をとらず、ジズヤ税(人頭税)を支払い、イスラムの公権力に従うことや戦費負担を条件に信仰や財産は認められた[43][44][45]。
クルアーンではユダヤ教徒とキリスト教徒を「啓典の民」と呼び、多神教徒や異教徒たちから区別して認めたが[45]、多くの箇所でユダヤ教徒が啓示を改ざんしたと批判される[45][46]。また「禁じられている利息をとり、人々の財産をむなしいことに濫費した」ユダヤ教徒は不信心者であり「われらは痛烈な懲罰を用意しておいた」と非難される[47]。一方で、イスラム教では宗教の強制的放棄や改宗は強要できないともされる[45][48]。
イスラム王朝のファーティマ朝では、第6代カリフアル・ハーキム(在位996年 - 1021年)がキリスト教とユダヤ教を弾圧し[40]、1009年には聖墳墓教会を破壊した[49]。
1066年、イスラム支配下のアンダルスでベルベル・ユダヤ人が殺害される グラナダ虐殺が起こった。
北アフリカのイスラム王朝ムワッヒド朝(1130年 - 1269年)でもキリスト教徒とユダヤ教徒が迫害された。
中世編集
カペー朝フランス王国では、992年、リモージュ乃至ル・マンで、キリスト教に改宗したセホクがユダヤ共同体から追放された腹癒せに、蝋人形をシナゴーグの聖櫃に隠してユダヤ人はキリスト教徒への呪いの儀式を行っていると告発した[39]。996年、ユーグ・カペーが死んだ場所が「ジュイ」であったため、ユダヤ人が死の原因とされた[39]。1007年頃、ロベール2世敬虔王がユダヤ教徒へ改宗を強制し、従わない者は処刑すると命じた。ユダヤ教徒イェクティエルの直訴を受けた教皇は、フランス王に撤回させた[39]。
フランスをはじめ西ヨーロッパ諸国で、1009年のファーティマ朝による聖墳墓教会破壊について、ユダヤ人が教会の破壊をそそのかしたという噂が流布し、局地的に強制改宗や追放がなされた[40][49]。修道士ラウル・グラベールは「全てのキリスト教徒が、自分たちの土地と町から全ユダヤ教徒を追放するという点で意見の一致を見た」と記している[39]。
これ以降、イスラム教徒とユダヤ教徒がキリスト教世界の覆滅を共謀しているという見方が一般的なものとなり、復活祭にはユダヤ共同体の長が平手打ちを受けるという慣習がはじまった[49]。トゥールーズでは聖金曜日に大聖堂の前でユダヤ教徒への平手打ちがはじまり、12世紀まで続いた[39]。ベジエでは枝の主日にユダヤ居住区への襲撃が司教によって赦された(1161年に禁止)[39]。
1010年にルーアン、オルレアン、リモージュで、1012年にはマインツやライン川流域の都市、そしてローマなどでユダヤ人が強制改宗や虐殺、追放の対象となった[40]。
1066年には - フランスのオルレアンで異端審問が行われ、イスラム支配下のアンダルスでグラナダ虐殺が起こった。この年、ノルマンディー公ギヨーム2世によるイングランド征服(ノルマン征服)によって、ルーアンのユダヤ人が経済金融政策を担当した[20]。当時すでにユダヤ人は高利貸付や信用貸付に長けており、ドゥームズデイ・ブックにはユダヤ人による土地買収が記録されている[20]。
1084年、ドイツのシュパイアー司教リューディガーは、ユダヤ人にキリスト教徒の下僕や農奴、畑や武器を持つことを許可しており、この時は反ユダヤ主義はまだ激しくはなかった[40]。
十字軍編集
1096年、中世ヨーロッパで聖地エルサレムをイスラム教諸国から奪還するための十字軍の派遣が始まると、キリスト教の敵としてイスラム教とユダヤ教が看做され、反ユダヤ主義が強まり、各地でユダヤ人への襲撃が発生していった[49]。
民衆十字軍を組織したと伝えられる隠者ピエールは、無駄な暴力を慎み、ユダヤ人には物資と資金を調達させたにとどめた[50]。民衆十字軍からの攻撃に対してユダヤ教徒は買収によってまぬがれた場合もあった[49]。ルーアンの十字軍参加者は東にいる神の敵を打ち負かしに行きたいが、身近にも神の敵であるユダヤ人がいるがこれは本末転倒であると述べ、実際、ルーアンをはじめフランス全土およびヨーロッパ各地でユダヤ人が放逐された[20][50]。
ラインラント地方では、ライニンゲンのエーミヒョ伯爵の軍団が、ライン峡谷を下りながら、ユダヤ人集落に対して「洗礼か死か」と二者択一を迫って、襲撃した[50]。1096年5月3日、エーミヒョ侯軍はシュパイアーではユダヤ人11人を殺害し、5月18日から25日にかけてヴォルムスでユダヤ人800人を殺害または集団自決に追い込み[51]、5月27日(28日[12])にはマインツで同じくユダヤ人700人から1014人[52]を殺害または自決に追い込んだ[50]。
このほか、7月8日にケルン、7月14日にノイス、ほかにトリーア、バイエルンのレーゲンスブルクとバンベルク、メッツ、プラハなどで襲撃が起こった[12][50]。各地の領主や司教は時には自らの命をかけてユダヤ人を守ろうとしたが、最下層民は十字軍兵士による虐殺に合流した[50]。ザクセンの年代記作家はこうした十字軍兵士に対して「人類の敵」「偽の兄弟」と叱責している[53]。エックスのアルベールは民衆十字軍がルーム・セルジューク朝に大敗北したのは、神の懲罰であり、ユダヤ人虐殺に対する正当な報いとした[53]。
神聖ローマ皇帝ハインリヒ4世は、改宗を強制されたユダヤ人にもとの信仰に戻ることを許可した[50]。これが神聖ローマ皇帝とその臣民ユダヤ人という特殊な関係が生まれたきっかけとなった[50]。他方、教皇クレメンス3世は強制改宗の取り消しに強く憤った[50]。
1146年、エデッサ伯領の喪失を受けてローマ教皇エウゲニウス3世が第2回十字軍を呼びかけた。クリュニー修道院長ピエールは「マホメット教徒の千倍も罪深い」ユダヤ人が身近にいるのに、なぜ遠征するのかと唱え、ドイツの修道僧ルドルフも「今ここ、われわれに交じって暮らしている敵を討つ」べきであると説いた[50]。この時、ケルン、シュパイヤー、マインツ、ヴュルツブルク、フランスのカランタン、ラムリュプト、シュリーでユダヤ人が襲撃された[50]。ヴォルムスでも襲撃があった[51]。
儀式殺人(血の中傷)編集
十字軍の時代には、ドイツとイギリス、フランスをはじめ、ヨーロッパ各地でユダヤ人による儀式殺人(meurtre rituel)が告発された[50]。これは血の中傷といわれる。
- 1144年、イングランドのノリッジで、ユダヤ人が儀式のために少年ウィリアムを拷問した後で体から血を抜き、その血を過越祭のパンに混ぜたという儀式殺人が告発されたが、これが最初の告発であった[20][53]。告発者のケンブリッジの修道僧シーアボルドはキリスト教の洗礼を受けたばかりの改宗ユダヤ人だった[53]。ユダヤ人名士が一文無しの騎士に殺害される事件も起こった[53]。イギリスでは、1168年にグロースター、1181年にはベリー=セイントエドモンズで儀式殺人告発がなされ、ユダヤ人が犠牲となった[20]。
- 1147年、ドイツのヴュルツブルクでユダヤ人数名が儀式殺人で告発され、何名かが殺害された[53]。
- 1150年、ケルンで、改宗ユダヤ人の男の子が教会で聖餅(ホスチア)を拝領すると、大急ぎで家に帰って、聖餅を土に埋めた[53]。僧侶が穴を掘り返すと、子供の遺体があり、光が下り、子供は天に上ったという話があった[53]。
- 1171年、ブロワでユダヤ人50人がキリスト教徒の子供を誘拐して儀式殺人を行ったと告発され、焚刑に処された[53][54][注 7]。
儀式殺人を行ったとしてユダヤ人を告発する事件はこれ以降も中世ヨーロッパの各地で多発し、18世紀以降も東欧やロシアなどで発生が続いた[注 8]。
ユダヤ金融業とユダヤ人の法的規制編集
ユダヤ人が金貸し業をはじめる前は、キリスト教修道院や教会管区(シュティフト)が営んでおり、はじめは困った人々の支援から始まった金貸しは、やがて修道院金融業としてが大々的に発展していった[56]。フランシスコ修道院では年利4〜10%を受けるほどであった[57]。これに対して、13世紀の修道院改革で、キリスト教徒間の利息をともなう金の貸し借りが厳格に禁止された[56]。
12世紀に、教会はユダヤ人の土地取得にともなう十分の一税の補填を要求したため、ユダヤ人は土地を手放すようになり、また都市同業組織はキリスト教兄弟団の性格もあり、手工業はユダヤ共同体内部にとどまった[49]。
こうしたことを背景に、ユダヤ人は金融に特化していった[49]。利子つきの金融をカトリックでは禁止しており、またユダヤ教でも「あなたが、共におるわたしの民の貧しい者に金を貸す時は、これに対して金貸しのようになってはならない。これから利子を取ってはならない。」(出エジプト記22-25)や戒律で禁止されていたが、ユダヤ教の場合は異教徒への金融は許されていた[49]。
ユダヤ金融の利子は3割から4割にも及んだので、多くの債務者は担保物件を失った[49]。こうしてユダヤ人金融業への敵意が増大していった[49]。第2回十字軍を勧進して回ったクレルヴォーのベルナルドゥスは、金貸し業はユダヤ人の本業(ユダイツァーレ)であるとした[56]。
フランス王フィリップ2世(在位:1180年 - 1223年)は1180年にフランス王国内のユダヤ人を逮捕し、身代金と引き換えに釈放し、さらにキリスト教徒の借金を帳消しにし、負債額の2割を国庫に収めさせた[54]。翌1181年にはユダヤ人の債権の5分の1を王のものとし、残りを破棄させ[58]、1182年税を支払えないユダヤ人を王領から追放し、ヨーロッパで行われた最初の組織的なユダヤ人追放となった[54]。しかし、1196年にはユダヤ人を王領へ呼び戻した[49][58][注 9]。
ルイ9世(在位:1226年 - 1270年)は証文作成や賃借記録提示を義務化などユダヤ金融業を規制し、1254年に十字軍から帰還するとユダヤ人を金融業から追放する勅令を出した[54]。1235年、ノルマンディーでユダヤ人金融業が禁止され、ヨーロッパ初の行政権によるユダヤ人金融業禁止令となった[54]。フィリップ4世(在位:1285年 - 1314年)もユダヤ金融を規制した[49]。12世紀末から13世紀初めには、フランス領主が、ユダヤ人を相互に返還する取り決めをしていた[49]。
ヘンリー2世(在位:1154年 - 1189年)のイングランドには、1096年の十字軍によるヨーロッパでの放逐から逃れてきたユダヤ人移民が多く住み着き、高利貸、医者、金細工師、兵士、商人などの職業に就いた[20]。ユダヤ人商人は、財務代理人、国王代理人としてイングランド王にたえず貸付を行ったが、ユダヤ人商人の死後、その財産はイギリス王室帰属となった[20]。このようにイギリスではユダヤ人商人は「王の動産」であり、またユダヤ人は自治上の特権と引き換えに特別税を上納した[20]。ユダヤ人の貸付利子は年44.33%という高率であったため、債務者からは怨嗟の的となった[20]。
12世紀末のイングランド財務裁判所にユダヤ財務局(Exchequer of the Jews)が作られ、ユダヤ人金融業が法規制の下におかれ、取引書類は王室官吏立会で行われるようになった[58]。イングランドのユダヤ人は金融業を営み、王侯の付き人として特殊な封臣となっていた[58]。
しかし1210年、ジョン欠地王在位:1199年 - 1216年)はユダヤ人に法外な納税額を請求し、支払えなかったブリストルのユダヤ商人を幽閉し、歯を抜いて処刑した[58]。ジョン欠地王はユダヤ人を庇護したが財政が悪化すると、ユダヤ人に1万マークの罰金を課し、完済するまで抜歯されたり、目をえぐられたりした[20]。マグナ・カルタの10・11条ではユダヤ人に債務を負う者の死後の弁済に配慮され、ユダヤ人高利貸しには不利なものであった[20]。
年 | 場所 | 年利 |
---|---|---|
1244年 | ウィーン | 174% |
1255年 | ライン都市同盟 | 最高金利年33.3%、週単位の短期貸付の最高年利43.3% |
1270年 | ミンデン | 86.7% |
1273年 | ケルン | 78.3% |
1276年 | アウグスブルク | 86.7% |
1338年 | フランクフルト | 32.5〜43.3% |
1342年 | シュヴェービシュハール | 43.3% |
1346年 | トリエル | 43.3% |
1350年 | ブレスラウ | 25% |
1391年 | ニュルンベルク | 10-13.5%〜21.7% |
1392年 | レーゲンスブルク | 43.3%〜86.7% |
このように高い利息によってユダヤ人金貸し業は営まれていたが、やがて世間ではユダヤ人の家には暴利をむさぼる搾取によって不正な財産があり、それは取り返してもよいとするユダヤ人財産略奪の思想が形成されていった[56]。1247年には、ユダヤ人から、諸侯や聖職者が財産や金品を不当に奪い取るという訴えがあった[56]。中世から19世紀までのドイツでのユダヤ地区への略奪は、このような高利貸し業像を源としている[56]。
異端審問の時代編集
12世紀後半以降、ヨーロッパの教会において異端審問が広がった[59]。1179年、ローマで開かれた第3ラテラン公会議で南フランスのカタリ派は異端の宣告を受けて破門された。1184年のヴェローナ宗教会議で教皇ルキウス3世は、リヨンのヴァルド派やアルノルド派に破門を宣告した。
- 1188年、第3回十字軍に際してイングランドのロンドン、ヨーク、ノリッジ、リンでユダヤ人大虐殺が発生した[50]。1189年、リチャード1世(在位:1189年 - 1199年)が十字軍出陣式場にユダヤ人の入場を禁止したことをユダヤ人迫害の勅許とみなした群衆が、ユダヤ人の家に放火したり、30人のユダヤ人が殺害される暴動が起こった[20]。三人が処刑されたが、ユダヤ人と誤ってキリスト教徒の家に放火したり強奪した廉によるものだった[20]。ダンスタブルではユダヤ人全員がキリスト教に強制改宗させられた[20]。1190年、ヨークでは、ユダヤ人高利貸しへの負債を帳消しにするためにバロン(貴族)たちが、ユダヤ人に搾取された財産を取り戻すとして、ユダヤ人を襲撃した[20]。城の塔に閉じ込められたユダヤ人は集団自決した[20]。何人かいた生存者も改宗を誓ったが殺害され、債務証書は焼却処分された。ユダヤ人犠牲者は150人となり、住民側は罰金を課せられただけにとどまった[20]。
- 1191年、ブレ=シュール=セーヌで儀式殺人で告発されたユダヤ人約100人が焚刑に処された[53]。
- 1196年、ヴォルムスでユダヤ人襲撃があった[51]。
1201年、教皇インノケンティウス3世は、暴力や拷問によってキリスト教の教えに導かれたものでも、キリスト教の刻印を受けたことには変わりはなく、西ゴート王シセブートの治下でのように、神の秘跡とのつながりが確立してしまった以上、強制によって受け入れた信仰にその後も忠実であるよう求められてしかるべきであると教書で述べて、一度改宗したユダヤ人は棄教できないとした[50]。
1208年、アルルのローヌ河畔で教皇特使ピエール・ド・カステルノーが、カタリ派のレイモン6世の家臣によって暗殺されると、ローマ教皇インノケンティウス3世は北フランス諸侯に十字軍を要請して、1209年、第5代レスター伯シモン4世モンフォールに率いられたアルビジョア十字軍が南フランス諸都市の異端カタリ派勢力圏の攻略に向かった[60][注 10]。このアルビジョア十字軍で南フランスは荒廃したが、そのなかでユダヤ人も迫害された[50]。
ユダヤ人の識別・規制強化編集
それまでカトリック教会はユダヤ人への暴力による改宗を禁じていたが、1215年の第4ラテラノ会議でユダヤ人がキリスト教徒と性的関係を持てないように衣服に識別徽章をつけさせ、また法外な利息の取り立てなどユダヤ金融業を規制した[49][62]。第4ラテラノ会議ではキリスト教徒に高利貸し業を禁止し、ユダヤ人を公職から追放し[63]、ユダヤ人はギルドからも締め出された[56]。
ユダヤ人をバッジ(徽章)によって識別する政策はフランスではじまり、ユダヤ章は黄色とされた[62]。以降、違反者には罰金が課せられ、フィリップ4世はユダヤ章を有料として、財源とした[62]。ユダヤ人の服装は1179年の第3ラテラン公会議でも規定されていたが守られていなかったため、ローマ教皇の使節は、ドイツ各地の教会に対して、キリスト教徒はユダヤ人との同席飲食の禁止、ユダヤ人の結婚式や祭儀への参加の禁止、ユダヤ人がキリスト教徒の公衆浴場や酒場への入店禁止、ユダヤ人商店で肉や食料を買うことを禁止すると厳しく命じた[56]。
イギリスではヘンリー3世(在位:1216年 - 1272年)治世下においてユダヤ人とキリスト教徒の商取引と交際が禁止され、ユダヤ人はイエローバッジの着用を命じられた[20]。20世紀のナチスドイツもイエローバッジを強制したが、これらはその先駆けであった[20]。また、イングランドでは二枚の布を胸に縫い付けることが義務化された[62]。
税を滞納して完済しないユダヤ人の財産は王室に没収され、ユダヤ嫌いだった修道僧やカオール人高利貸しさえもユダヤ人の過酷な扱いを憐れんだ[64]。ヘンリー3世は、1232年にドムス・コンウェルソーム(改宗者の家)を建設し、ユダヤ人に改宗を促した[65]。
ドイツでは、識別は頭巾や円錐形の黄色や赤色の帽子でなされ、ポーランドでも緑の帽子で識別された[62]。1225年の『ザクセン法鑑』ではユダヤ人はまだ自由人であり、武器の携帯も許可されていたが、1275年の『シュヴァーベン法鑑』ではユダヤ人は厳しく制限された[58]。
スペインとイタリアではユダヤ人に円形の章(ルエル)が義務づけられた[62]。
フランスの獅子王ルイ8世は1223年、ユダヤ人は王に帰属するとの勅令を王領地以外のフランス全土に拡大した[58]。ルイ8世は1226年にアルビジョア十字軍を引き継ぎ、1229年にトゥールーズ伯レーモン7世を破り、パリ条約によりレーモン領東部が王領化された[60][注 11]。南フランスには異端審問裁判所が設置された[注 12]。第6・7回アルビジョア十字軍はフランス西部で推定2500人のユダヤ人を殺害した[54]。
続く聖王ルイ9世(在位:1226年 - 1270年)はユダヤ人の改宗政策を行った[49]。1230年のムランの勅令ではユダヤ人の借用証書は法的価値を有しないとされ、ユダヤ人の金貸し業者は農民や職人などの庶民に限られるようになった[58]。大口の取引はロンバルディア人やカオール人が行うようになった[58][67]。
1232年、教皇グレゴリウス9世はフランス王にユダヤ人虐殺の首謀者の処刑と略奪した財産の返還を求めた[54]。一方、勅書で教皇直属の異端審問法廷を設置して、地方の司教や世俗権力はドミニコ会とフランチェスコ会士の審問官に協力することが命じられた[59]。自白、または2名の証言のみで有罪判決が可能で、拷問が公認され、密告が奨励された[59]。この勅書と、アルビジョア十字軍でルイ8世が南フランスを制圧した1229年のトゥールーズ教会会議によって、異端審問制度が確立した[59]。
その後フランスでは1361年にはジャン2世がユダヤ章を赤と白の2色に変更し、また旅行中はバッジを着用しなくてもよいと若干緩和された[62]。
ユダヤ書籍の焚書と「皇帝奴隷」編集
1234年、フランスのモンペリエとパリで、マイモニデスを異端とするユダヤ教ラビのシュロモ・ベン・アブラハムの要請によってマイモニデスの著作が焚書された[62]。
1236年、第6回十字軍でフランス、イギリス、スペインでユダヤ人虐殺が起こった[50]。この年、ドイツで儀式殺人事件が数件発生した[53]。神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世(在位:1220年 - 1250年)は、改宗ユダヤ人による諮問委員会に儀式殺人の究明を命じると、ユダヤ教で人間の血を儀式で使用する根拠はどこにもなく、それどころか、ユダヤ教では人間の血をなにかに使用することは禁止されているとの報告がなされた[53]。
1236年7月、フリードリヒ2世は金印勅書でユダヤ人を「皇帝奴隷」として血の中傷から守った[53][58]。神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世は、ドイツのユダヤ人が皇帝の国庫(カイザリッへ・カンマー)に属すると宣言した最初の皇帝となった[12]。
1240年、フランス全土でタルムードが押収され焚書された[49][62]。改宗ユダヤ人のニコラ・ドナンがタルムードを背徳的であると告発し、教皇の要請でフランスの聖ルイ王(ルイ9世)がタルムードについての公開論争が繰り広げらた結果であった[62]。
1246年、ベジエ公会議でユダヤ人医師にかかることが禁止された[注 13]。一説では、シャルル禿頭王、ユーグ・カペー、シャルルマーニュ皇帝もユダヤ人医師によって殺害されたといわれた[68]。一方で、ユダヤ人医師は人気を博しており、教皇のアレクサンドル3世や16世紀の教皇パウルス3世まで、伝統的にキリスト教指導者の主治医でもあった[68]。また、ポワティエ伯アルフォンスもベジエ公会議を支持する一方で、ユダヤ人医師にかかった[68]。
1247年、教皇インノケンティウス4世がユダヤ人に過越祭で子供の心臓を分け合っているという誤った告発がなされているという教書を公布し[53]、1252年に教皇は取り調べに拷問を取り入れた。
1248年、ドミニコ会士アルベルトゥス・マグヌスはタルムード異端裁判での判決は正当とし、翌年ケルンの説教で普遍博士マグヌスはタルムードを弾劾した[62]。
1255年、イングランドのリンカンにて儀式殺人。北フランスで異端審問。
1261年、神学者トマス・アクィナスは、ユダヤ人はイエス・キリストがメシアであることを拒否するために災難にあうのであるとし、ユダヤ人を永遠なる隷属に置くことは法に照らして正しいとした[69][70]。。また、国王はユダヤ人を所有物(財産)として保有でき、また諸侯はユダヤ人の財産を国家に帰属するものとみなすことができる、ただしユダヤ人の生活に必要な物資を奪ってはならない、また、ユダヤの習慣になかったような奉仕を強要してはならないと論じた[58]
1267年、教皇クレメンス4世は勅書で、キリスト教へ改宗した者をユダヤ教徒へ回帰させようとするユダヤ人、タルムード所持者にも異端審問官の手が及ぶようになった。それまでは異端審問所の対象はキリスト教徒に限定されていた[54]。同年、ウィーン公会議やブレスラウ公会議で、ユダヤ人が密かに毒を盛リかねないという恐れから、ユダヤ人の店で食料を買うことがキリスト教徒に禁止された[71]。
1268年、ヴュルツブルクの吟遊詩人コンラート(コンラート=フォン=ビュルツブルク)は「卑怯にして、聞く耳を持たないユダヤ人に災いあれ。彼らは邪な人々」で、タルムードによって愚かになったと歌い、またジークフリート・ヘルプリングはタルムードは「偽りにしておぞましき書」で焚書にできれば申し分ないと歌った[62]。
イングランドのローマ法学者ヘンリー・デ・ブラクトンは『イングランドの法と慣習法』で「ユダヤ人はみずから何も所有することはできない。ユダヤ人が手に入れるものすべてが王の所有物となる」とした[72][73]。
1273年にローマ教皇は儀式殺人による告発を戒める教書を公布した[53]。
1274年-1276年のシュヴァーベン法書では、キリスト教徒とユダヤ人との性交は火あぶりの刑によって処罰するとされ[56]、ユダヤ人は「永遠なる隷属」にあると書かれた[58][注 14]。
ヨーロッパ各地でのユダヤ人追放編集
エドワード1世(在位1272年 - 1307年)の時代のイギリスでは、イギリス化(ノルマンとサクソンの融合)が進むとユダヤ人はさらに孤立し、ユダヤ人の子供も課税され、教会はユダヤ人への食品販売を禁止したため餓死者もでた[64]。ユダヤ人医師による医療行為も禁止され、ユダヤ人による高利貸し独占を妨害するために教皇はカオール人など南フランス人、北イタリアの金融業者をロンドンへ進出させた。
また1275年、ユダヤ法(Statute of the Jewry)によって高利貸付は禁止された[64]。ユダヤ人が生活苦によって貨幣変造をしたことが発覚すると、ユダヤ人全員が投獄され、そのうち263人が絞首刑のうえ四つ裂きの刑に処せされた。また、改宗施設に行くことを拒否したユダヤ人は財産没収の上、国外へ追放された[64]。1290年、イングランドでロンバルディア商人が勢力を伸ばすと、ユダヤ人の特権は失われ、ユダヤ人商人は放逐された[58]。
フィリップ4世端麗王(在位:1285年 - 1314年)の時代のフランスでは、1288年トロワでの異端審問裁判で13名のユダヤ人が儀式殺人で火刑に処せられた。トロワで犠牲になったイツハク・シャトランを称えた詩では「復讐の神よ、妬み深き神よ、これら不実の輩に復讐せよ」と書かれた[58]。
1290年、ビエット街事件が発生した。パリでヨナタスというユダヤ人債権者が、債務者のキリスト教徒にサン・メリー教会(4区)から聖餅(ホスチア)を盗めば借金のかたを返すといって、聖餅を手に入れた[74]。帰宅して聖餅をナイフで刺すと、血が流れ、熱湯に入れても血が流れ続けた。ヨナタスは隣のキリスト教徒の家に逃げて罪を告白し、聖餅はサン・ジャン・アン・グレーヴ教会司祭の手に渡り、ヨナタスは火刑となった[注 15]。
1306年、財政窮乏に苦しんだフィリップ4世は、ユダヤ人とロンバルド人(イタリア)商人の財産を没収した上で国外追放し、その一部は南フランスへ移住した[49][54][75]。これ以前にもフィリップ2世、聖ルイ王などもユダヤ人追放を計画したことはあったが、これがフランス史上初のユダヤ人追放となった[76]。
追放令について年代記では、神聖ローマ皇帝アルブレヒト1世が「皇帝奴隷」であるユダヤ人の返還を求めたためフランス王はこれに応じたとされている[58][注 16]。フランスの庶民はキリスト教徒の金貸し業者よりも親切なユダヤ人金貸し業者を懐かしんだという記録もある[58]。
1294年、スイスのベルンで儀式殺人事件が告発され、ユダヤ人が追放された[53]。
1298年4月、レッティンゲンで聖餅(ホスチア)事件。聖餅を冒涜したとして、名士リントフライシュが復讐を叫び、ユダヤ人集落を襲撃して、殺害した[71]。リントフライシュ率いる暴徒集団は、フランケン地方、バイエルン地方で「ユダヤの殺戮者」を名乗って、ユダヤ人の町を襲撃して、洗礼を受け入れた者以外を9月までの数ヶ月間に虐殺を続けて、ユダヤ人の犠牲者は数千人から10万人に及んだ[71]。同1298年、ヴュルツブルクでも迫害が起きた[12]。
1309年 - 十字軍計画が計画倒れになった際、ドイツのケルン、オランダ、バラバンでユダヤ人虐殺事件が起こった[50]。
1311年、ウィーン公会議で金利貸しを裁判にかける権限が異端審問裁判所に認められた[77]。
中世のユダヤ人学者の著作編集
中世のユダヤ人学者の著作では、十字軍時代での迫害の記憶から「キリスト」を「救いようのない男」「追放者の息子」「教会」を「不浄の家」「忌み」「十字架」を「悪しき印」などと言い換えた[58]。シュロモ・ベン・シメオンは「罪深きローマ教皇」と呼んだり、迫害者エーミヒョの骨を呪ったりしたあとで「復讐の神よ、姿を現したまえ」、隣人に罵りを7倍にして返せと書き、エリエゼル・ベン・ナタンはキリスト教徒に対して「彼らに悲しみと苦しみをもたらしたまえ。彼らに汝の呪いを差し向けたまえ。彼らを滅ぼしたまえ」と書いた[58]。
ナフマニデス(Nahmanides 1194–1270)は、イザヤ書:2-4の「彼はもろもろの国のあいだにさばきを行い、多くの民のために仲裁に立たれる。こうして彼らはそのつるぎを打ちかえて、すきとし、そのやりを打ちかえて、かまとし、国は国にむかって、つるぎをあげず、彼らはもはや戦いのことを学ばない」を論拠にして、ユダヤ教は平和の宗教であるのに対して、キリスト教は夥しい血を流させてきて、戦争が主人として君臨していると論じた[78]。
13世紀末、敬虔者イェフダ−(イェフダ−・へ・ハシッド)の『敬虔なる者の書』では、ユダヤ教徒は非ユダヤ教徒と二人きりになってはいけない、キリスト教の音楽で子供を寝かせてはならない、また盗みをすると、ユダヤ人が盗人であり詐欺師であるといわれるから、してはならない、などと教訓が説かれた[58]。
中世のユダヤ人ラビは、イエスを詐欺師とみたり、また敬虔なユダヤ教徒であったが、弟子たちがイエスを聖人として新しい宗教を作ったとみた[79]。このようにユダヤ教においても、キリスト教への憎悪がむき出しになっていた[80]。
中世後期:14〜15世紀編集
14世紀から15世紀(1300年-1500年)にかけての中世後期のヨーロッパは戦争、飢饉、ペストの流行など危機と災厄に襲われた時代であった[注 17]。フランスとイングランドは百年戦争(1337年 - 1453年)を戦った。フランスが勝利したが内乱が発生し、イギリスでは薔薇戦争へ続いた。ドイツは恒常的な無政府状態が続いた[71]。百年戦争の長期化による略奪や課税強化などを理由として、フランスでジャクリーの乱(1358年)、イングランドではワット・タイラーの乱(1381年)が起こった。1315年から1317年の大飢饉や、ペストの流行(1348年 - 1349年)、そして世紀後半には魔女狩りがはじまった[71]。他方でイタリアではルネサンスがはじまった。この時代には、聖体冒涜事件(血の中傷)がヨーロッパ各地で頻発し、フランス、ドイツ、スペインなどヨーロッパの各地でユダヤ人追放令が出され、またユダヤ人はペストの原因であるとして迫害された。
大飢饉と羊飼い十字軍編集
1315年から1317年にかけてのヨーロッパ大飢饉では、パリやアントワープでは何百人もの死体が街路に散乱した[71]。飢えのために、各地で人食(カニバリズム)が行われた[71]。ルイ10世は、フィリップ4世のユダヤ追放令(1306)は王国の経済にとって打撃となっていたため、1315年に高額賦課と引き換えにユダヤ人に2年の帰還を許可した[49][54]。しかし、大飢饉の発生によって、1317年にはシノンでユダヤ居住区が襲撃され、1319年にはリュネルでユダヤ人が儀式殺人で告発された[54]。
1320年、貧窮に耐えかねたフランス北部の農民や修道僧は行き先のない行進をはじめた[71]。一人の若い羊飼いが、奇跡の鳥が生娘に姿を変えて、不信心者を打ち据えに行けと促した[71]。これによって、羊飼い十字軍(パストゥロー十字軍、牧童十字軍)がはじまり、フランス南西部、ボルドー、トゥールーズ、アルビ、さらにスペインで、ユダヤ人が襲撃される大規模なポグロムが発生した[50]。ユダヤ人は襲撃に抵抗したが、やがて集団自決を選び、ヴェルダン=シュール=ガロンヌでは500人が自決し、羊飼い十字軍によって、140のユダヤ居住地が絶滅した[71]。襲撃するユダヤ人がいなくなると、羊飼い十字軍は聖職者に矛先を向けていったため、教皇ヨハネ22世は羊飼い十字軍をたしなめ、年末にはフィリップ5世がフランス軍を出動して制圧した[71]。
同じ1320年、フランス南部オート=ロワール県のル・ピュイで起こった儀式殺人事件では、ユダヤ人が聖歌隊員を殺害して、民衆が取調を待たずに殺したために、1325年、シャルル4世は聖歌隊にユダヤ人に関する司法権を委ねた[81]。
翌1321年、アキテーヌでユダヤ人がキリスト教徒を殺すために井戸に毒を入れたという噂が流れ、実際に井戸に毒が流された[71]。パルトゥネーの癩病患者がユダヤ人から謝礼をもらって井戸にキリストの聖体(聖餅)と混ぜて毒を入れたと告白したという事件が起きた[71]。フィリップ5世は調査を命じて、フランス全土でユダヤ人が逮捕、告発され、シャンパーニュ地方のヴィトリ−=ル=フランソワでは40人のユダヤ人が獄中で自殺し、トゥレーヌ地方シノンでは160人のユダヤ人が焚刑に処された[71]。1322年、フランス王国で再びユダヤ追放令が出された[49]。ポリアコフは、ユダヤ人が綿密な陰謀でキリスト教徒の滅亡を図るという、罪のなすりつけが行われたのはこれが初めてであり、また王権がユダヤ人の財産を没収するために行ったと説明することもできるが、ナチスが「潜在的な復讐屋」としてユダヤ人殺害を正当化するメカニズムと同一のものとする[71]。これ以降、1361年までの40年間、フランスの資料、年代記で、フランス王国のユダヤ人の存在について言及するものはないため、フランスのユダヤ人はほとんどいなくなったとみられる[76]。
- 1336年、アルザス、シュヴァーベンでユダヤ人虐殺[71]。その直後、バイエルンのデッケンドルフ、オーストリアのブルカで聖体冒涜事件が発生[71]。
- 1343年、神聖ローマ皇帝バイエルン公ルートヴィヒ4世は、12歳以上のユダヤ人に人頭税を課した[76]。ルートヴィヒ4世は、ニュルンベルクのユダヤ人に対して、ユダヤ人はその身体や財産は皇帝が保有すると宣言した[76]。
- 1345年、ボヘミア王ヨハン・フォン・ルクセンブルクは、レグニツァ、ヴロツワフで、ユダヤ人の墓地を壊して、その墓石で町の城壁を補修するよう命じた[82]。
ペスト編集
1347年(1348年)から1350年(1349年)にかけての黒死病(ペスト)大流行ではヨーロッパの人口の3分の1以上が被害となったが、そのスケープゴートとしてユダヤ人迫害が各地で発生した[49][83][84]。フランス王国ではユダヤ人による毒散布の噂が広まり、最大規模のポグロムが起きて、フランス王国内のユダヤ人共同体はほぼ消滅した[49]。改宗しなかったユダヤ人家族は火刑台の火が見えてくると皆で歌いだして、歌いながら火に飛び込んでいったといわれ、こうしたことの背景には、集団自殺の契約、また殉教者としての固い決意があったとされる[85][注 18]。
1348年、ジュネーヴにてペストの原因としてユダヤ人が迫害される[83]。9月、教皇はユダヤ人もペストの被害にあっていると発布したが、ユダヤ人への襲撃はやまなかった[87]。1349年、ベルンでペストの原因としてユダヤ人が迫害され[83]、ストラスブールでは暴徒による内乱状態が三ヶ月間続き、市当局がユダヤ人にペストの罪咎はないと発表すると、市政府は転覆され、新しい市政府が2000人のユダヤ人を逮捕し、1349年2月14に全員を火刑に処して、ユダヤ人の財産をキリスト教徒住民に分配した[87]。おなじような事件がヴォルムス、オッペンハイムでも発生して、ユダヤ人が集団自決をし、フランクフルト、エアフルト、ケルン、ハノーファーでユダヤ人が虐殺されたり、追放された[87]。イギリスやフランスでのペストにともなう迫害によって、ユダヤ人は東欧へ逃れた[88]。
また、ドイツやフランスでは苦行と改悔のために公衆の面前で自分を鞭打つ「鞭打苦行者」が現れた[87][89]。1261年に鞭打苦行は異端として禁止されていたが、ペストの時代に大規模に展開した[89]。鞭打苦行者は自分たちの儀礼と歌の方が、教会の聖職者よりも美しく、威厳があると主張した[87]。この鞭打苦行者の通過後に病死や病気が止まなかったことから、人々は疫病はユダヤ人がキリスト教世界に毒を行き渡らせるために流行させたと信じられて、ユダヤ人虐殺事件が発生した[87]。ユダヤ人がまったくいなかったチュートン騎士修道会の地方では、ユダヤ起源を疑われたキリスト教徒が虐殺された[87]。
ユダヤ人への課税と保護政策編集
神聖ローマ皇帝はユダヤ人への徴税権を担保にして種々の取引を行った。1308年、ルクセンブルク家の皇帝ハインリヒ7世は、マインツ大司教に皇帝選挙で当選したらユダヤ人税を贈与すると約束した[12]。ルードヴィヒ4世は「汝らは身も持ち物も全て我らのものなり。我らは望むまま、思いのままに汝らを処遇する」とユダヤ人を皇帝の財産であると述べた。封建制下で授封や贈与によって皇帝の収入が減るほど、ユダヤ人からの税収入は重視されたが、皇帝権が動揺するとユダヤ人への徴税権は次第に諸侯や司教、都市の手に移っていった[12]。ユダヤ人は共同体として支払う税、個人で支払う税、滞在許可、結婚許可税など30種類の納税義務を負っていた[12]。
14世紀半ばには各地でユダヤ人保護政策がとられた。1352年にドイツのシュパイヤーではユダヤ人を呼び戻すことが叫ばれ、『マイセン法書』ではユダヤ人のシナゴーグと墓地が保護された[87]。1369年から1394年の間にはマインツ、フランクフルトなどでユダヤ人医師が厚遇されていた[68]。
百年戦争中の1356年のポワティエの戦いでイングランドに敗戦したフランスはジャン2世善良王をロンドンへ捕囚され、身代金を要求された。また1358年にはフランスの農村でジャクリーの乱が起きた。1361年には王の身代金も払えないほどフランスの財政が破綻したため、王太子シャルルは、人頭税と引き換えにユダヤ人の家屋と地所の所有や高利貸しでの87%という高利も許可し、王の遠戚ルイ・デタンプをユダヤ人護衛官に就任させるなど厚待遇の条件でユダヤ人を呼び戻した[76][注 19]。以降20年間、フランスのユダヤ人は平穏な生活を取り戻すが、かつての親しみのある金貸し業者から、忌み嫌われる金融ブローカーと見なされるようになっていった[76]。
1370年にはブリュッセルの聖体冒涜事件でユダヤ人20人が火刑に処された[53]。
カルトジオ会修道士ザクセンのルードルフの『キリスト伝』(1374年)では、ユダヤ人共同体から追放された者に唾を吐きかけるのがユダヤの習慣であるが、イエスも唾を吐きかけられ、また髭や髪を引っ張られ「悪魔の子」であるユダヤの民は磔刑を求めたと解説し、ユダヤ人は神の報いとして世界各地に散らばり隷属状態に置かれていると説教した[91]。
1378年にキリスト教に改宗したユダヤ人によって、非改宗ユダヤ人が糾弾されるようになると、1380年代にフランスで再び大規模なユダヤ襲撃が起こり[76]、1380年、1382年、パリとイル=ド=フランスで暴動が多発、ユダヤ人は証書や質草を略奪された[54]。シャルル6世はユダヤ人保護に成功するが、ユダヤ人への課税が重くなる一方で、ユダヤ人の特権も拡大していった[76]。
ドイツでもユダヤ人保護政策が続いていたが、1384年にはアウクスブルクとニュルンベルクでユダヤ人が収監され、莫大な身代金で釈放された[76]。1385年にはドイツ38の都市代表がウルム会議で、ユダヤ人の債権を全面的に破棄して、キリスト教徒の債務者を解放した[76]。1388年にはシュトラスブルクでユダヤ人が追放された[76]。
フランス王国のユダヤ追放令編集
1389年2月のフランス王国勅令で、キリスト教徒とユダヤ人との間の紛争は「ユダヤ護衛官」が担当し、またユダヤ人には債務者を収監する権利が認められた[76]。しかし、王国では反ユダヤ勢力が強くなっていったため、シャルル6世はユダヤ教の「贖罪の日(ヨム・キプール)」と同日の1394年9月17日にフランス王国で最終的なユダヤ追放令を発令した[49][76]。このユダヤ追放令は1615年にも更新された[92]。
ただし、フランス王国以外の教皇領やプロヴァンス伯領ではユダヤ共同体が存続した[49]。しかし、プロヴァンス伯領でも1420年代からポグロムが発生した[49]。ルネ・ダンジュ−プロヴァンス伯はユダヤ財力を利用するためにユダヤ人を保護したが、1473年以降教会と民衆のユダヤへの反感ははげしくなった[49]。ダンジュ−死後1481年にプロヴァンス伯領はフランス王国へ合併されたため、ユダヤ人は離散した[49]。
1394年のフランスでのユダヤ追放令以降は、ユダヤ人は領土が細分化していた神聖ローマ帝国に移っていったが、そこでもまた追放が続いた[76]。
宗教劇、彫刻、絵画、文学におけるユダヤ人編集
中世宗教劇の神秘劇、聖史劇、奇跡劇などでは、ユダヤ人は悪人として描かれ、『聖餅の聖史劇』ではユダヤ人高利貸しがキリスト教徒の女をたぶらかし、聖餅を盗み出させた後、聖餅を石で踏みつけたりしても聖餅は血を流すのみで、この奇跡によって、ユダヤ人は改宗するが、有罪判決となって、焚刑に処されるという筋書きであった[93]。ドイツ聖史劇の『アルスフェルトの受難劇』では、悪魔がイエスの謀殺を14人のユダヤ人にゆだねて、ユダヤ人集団は拍手喝采しながら、イエスを罵倒しながらイエス磔刑を行うが、釘打ちや縄縛りなどが原文で700行以上費やされ、また舞台上では赤い液体が用いられて迫真な演技が行われた[94]。フランスのジュアン・ミシュレの受難劇では、ユダヤ人がイエスを拷問し、イエスの髪や髭が肉ごと引き抜かれ、イエスの体に担当ごとに投打が加えられた[95]。イギリスの聖史劇、聖体祝日に行われたコーパス・クリスティ祝祭劇では「ノアの方舟」を船大工ギルド「最後の晩餐」をパン職人ギルド、など各ギルド(ミステリー)が分担した[64]。キリスト受難は釘師ギルドによって担当され、残酷なシーンで演者の釘師が失神したり、観客には発狂するものもいた[64]こうした聖史劇ではユダヤ人は黒布をまとった血に飢えたサディストとしてグロテスクに描かれた[64]。
奇跡劇では、ユダヤ人が自分の財宝を守るためにキリスト教聖人聖ニコラに助けを求めて改宗する筋が描かれた[53]。ゴーティエ・ド・コワンシ−(1177-1236)の奇跡劇では「獣よりも獣に近いユダヤ人」について「神もまた彼らを憎みたもう。よって誰しもが彼らを憎まなければならない」と書いた[53]。
ストラスブール大聖堂などの教会ではシナゴーガ像とエククレーシア像が対比され、ユダヤ教会を表すシナゴーガ像は折れた槍を持ち、目隠しをされ、キリスト教会を表すエククレーシア像は十字架と聖杯を持つ[96][注 20]。
14世紀末にはイタリア絵画で、ユダヤ人が蠍になぞらえられた[96]。ドイツやオランダでは雌豚に育てられたユダヤ人という図案が教会石碑に刻まれ、レーゲンスブルク教会やヴィッテンベルク教会では豚の乳を飲むユダヤ人の壁面彫刻が飾られた[96][97]。ヴィッテンベルク教会の豚の乳を飲むユダヤ人の壁面彫刻については、ルターがユダヤを攻撃した時に描写した[96]。また、14世紀以降には、頭に角を生やしたユダヤ人が、オーシュ大聖堂のステンドグラス、ヴェロネーゼのキリスト受難などで登場した[96]。
1378年、フィレンツェの作家ジョヴァンニ・フィオレンティーノは『粗忽者(イル・ペコローネ』は「人肉一ポンド」を抵当にするユダヤ人高利貸しを登場させ、シェイクスピアが『ヴェニスの商人』の底本とした[98]。
1386年、ジェフリー・チョーサーの『カンタベリー物語』尼寺長の話で「リンカーンのヒュー」という少年がユダヤ人によって殺され肥溜めへ放り込まれたとある[64][99]。これは1255年の儀式殺人についての『ヒュー殿、あるいはユダヤ人の娘』という14世紀に流布したバラッドからの影響とされる[98]。チョーサーはまた、小アジアのユダヤ人ゲットーを「忌むべき金貸し業や道ならぬ金儲けのための区画」と描写した[64]。
- 1399年、プラハでユダヤ人迫害[98]。
ゲットーの形成編集
15世紀初頭の1412年頃、バレンシアのドミニコ会士ビセンテ・フェレールが鞭打苦行者の先頭にたって、トレド、サラゴサ、バレンシア、トルトサなどスペインやフランス各地で反ユダヤ説教を繰り返し、シナゴーグに入ってトーラーを捨て、十字架を受け入れよとユダヤ人に改宗を迫った[100]。しかし、フェレールは「刃でなく、言葉でユダヤ人を殺すべきである」として暴力は批判し、またユダヤ人であるという理由だけで毛嫌いする理由はないとして、キリストもユダヤ人であったとして「ユダヤ人を卑しめる者は、ユダヤ人として死ぬ者と同様の罰を受ける」とした[100]。しかし、フェレールは改宗できないユダヤ人は隔離状態に置くべきであるとして、1412年にはスペインで初めてのゲットーが築かれた[100]。
スペインをはじめとして、中世末期には従来のユダヤ人居住地が、ゲットーへと変化していった[101]。1432年にドイツのフランクフルトにおいて、教会や市民の要望で繁華街に住んでいたユダヤ人を都市城壁の外に隔離する計画が始まり、1462年、皇帝フリードリヒ3世命で市が建設したフランクフルト・ゲットーが完成し、ユダヤ人が強制移住させられた[56]。ゲットーには門が設けられ、ユダヤ人は昼間の間だけキリスト教徒の街区に出入りすることが許され、夕刻になるとゲットーの門は夜警によって施錠された[56][101]。また、日曜日やキリスト教祭日もゲットーからキリスト教徒の街区への外出は禁止され、外出が可能な日でもユダヤ人であると識別するユダヤ服を着衣しなければならず、また二人以上徒党を組んで歩くことは禁止された[56]。
各地のゲットーのユダヤ人住民は厳密に規定された質素で敬虔な生活を送った[101]。ゲットーの生活は、キリスト教修道院の生活に似ており、周囲から隔絶され、神への奉仕をもっぱらとし、敬虔と自己犠牲、知的作業に染め抜かれた[101]。
修道士と各地でのユダヤ人追放編集
- 1413年-1414年 - 対立教皇ベネディクトクス13世がカタルーニャのトゥルトーザで69回に亘る会議を開催、ナザレのイエスがメシアであることをユダヤ教徒に説得しようとしたが、失敗。のち公開勅書により、キリスト教徒がタルムードを研究することを禁止した。
1420年、オーストリア、マインツではマインツ大司教によって、ユダヤ人追放令が出された[76]。同年、アルザスのリクヴィルでは、領主の許可なしに住民たちが、自発的にユダヤ人を拉致して、殺害したり、追放した[76]。1424年にはフライブルクとチューリヒ、ケルンから高利貸しの取り立てを理由に、ユダヤ人が追放された[76]。フライブルクでは1401年からユダヤ人はキリスト教徒の血に飢えているため追放請願運動が行われてきた[76]。以降、1432年のザクセン、1439年のアウクスブルク、1453年のヴュルツブルク、1454年のブレスラウとドイツ各地でユダヤ人が追放されていった[76]。1434年のバーゼル公会議では、大学での研究にユダヤ人が従事することを禁止し、またユダヤ人を改宗させるために強制説教(predica coattiva)の必要が定められた[98]。
シエナのベルナルディーノは1427年のオルヴィエートでの説教などで、ユダヤ人が金貸しと医学によってキリスト教への陰謀を企んでいると断じた[68]。これは、アヴィニョンのユダヤ人医者が生涯を通じて毒薬を薬として渡して数千人のキリスト教徒を殺害してきたのは喜びであったという自白に基づいたものであった[68]。
イタリアとドイツで伝道活動したフランシスコ会修道士カピストラーノのジョヴァンニ[102]は、ユダヤ人を保護している領主に神の怒りが降り注がれると脅して、1453年から1454年にかけてシュレージエンの儀式殺人裁判を演出し、ポーランドのユダヤ人の特権を停止することに成功した[68]。
ドミニコ会修道士でフィレンツェ共和国の政治顧問サヴォナローラ[注 21]は、ユダヤ人を追放して、公営の質屋を開設した[68]。しかし、教皇を批判したため1497年に破門され、1498年に処刑された。
1470年、ドイツのバイエルンのエンディンゲンで儀式殺人事件がおこった[53]。翌1471年、マインツ大司教が再びユダヤ人追放令が出された[76]。マインツでは追放令が出されたあと、撤回されたり、再度追放令が出されるなどした[76]。1476年にはレーゲンスブルクでも儀式殺人を理由にユダヤ人が追放されたが、神聖ローマ皇帝から信頼されていたレーゲンスブルクのユダヤ人共同体の密使が宮廷に嘆願して一度取り消しに成功したが、1519年にはレーゲンスブルクからユダヤ人が追放された[76]。1477年にはアルザス諸都市でスイス同盟兵士がユダヤ人を襲撃するので、あらかじめユダヤ人を追放するよう請願した[76]。
- 1476年のマドリガル、1480年のトレドの議会で、ユダヤ人の居住制限、公職追放、ユダヤ人標識の表示、キリスト教召使の雇用禁止、農地購入などが制限されたが、これは伝統的政策の踏襲であって、あくまでも国王隷属民としてのユダヤ人を保護するためのものだった[103]。
フェルトレの福者ベルナルディーノ[104]は「ユダヤ人高利貸しは貧者の喉を掻き切り、貧者の蓄えによって肥え太る」 と説教したり、1475年、チロルのトレント(イタリアのトレント自治県)ではユダヤ禍が来れば分かるだろうと説教した[68]。その数日後にシモン少年儀式殺人事件が起きた[68]。この事件では、9人のユダヤ人が拷問を受け、少年の殺害を自白したユダヤ人たちは処刑された[53][105]。このユダヤ人の自白によって、ユダヤ人への中傷は広がり、オーストリア、イタリアでも儀式殺人と血の中傷事件が起こり、トレントには殉教者少年シモン(Simon of Trent)を記念する礼拝堂が建設され、1582年には教皇シクストゥス5世 によって列福された[53][注 22]。フェルトレの福者ベルナルディーノは、儀式殺人事件について広める一方で、高利貸しへの反対運動も行い、15世紀末にはフランシスコ会がイタリアの主要都市で公営質屋モンテ・ディ・ピエタ(哀れみの山)を開設し、フランス、ドイツにも開設された[68]。
スペイン・イベリアからの追放編集
スペインでは、718年からのレコンキスタ(イスラム勢力からの再征服)の過程で、十字軍のようにキリスト教国家の意識が高まっており、イスラム教への敵視から、ユダヤ教への敵視も強まっていった。
1366年以降、トラスタマラ朝のカスティーリャ王国のエンリケ2世が武装蜂起すると、エンリケ2世は、ユダヤ人を登用した前王ペドロ1世に対して、前王はユダヤ人と王妃との不義の子である、キリスト教徒の犠牲の上にユダヤ人を保護する残忍王であるとの反ユダヤのプロパガンダを行った[107][注 23]。1370年以降、スペインのエシハ聖堂助祭フェラント・マルティネスが激しい反ユダヤ演説を繰り返した[108]。
1391年6月9日、カスティーリャ王国のセビーリャで反ユダヤ運動が起こった[108]。ペストの原因はユダヤ人とする反ユダヤ運動はカスティーリャ王国のブルゴス、コルドバ、トレド、バレンシア王国、カタルーニャ君主国のバルセロナ、アラゴン王国のバレアレス諸島に飛び火し、各地で虐殺(ポグロム)を引き起こして、ユダヤ人共同体は潰滅的な打撃をうけて、キリスト教への改宗を強制され、また国外へ追放された[108]。改宗者はコンベルソと呼ばれた。
1480年以降、スペイン異端審問裁判所がスペイン各地で作られ、2000人のユダヤ人の改宗者コンベルソ[注 24]が処刑され、1万5000人が悔罪した[103]。1491年、スペインのラ・グアルディアでユダヤ人が儀式殺人で処刑された。
1492年、スペインでユダヤ人追放令[103][109]。これによって8万から15万のユダヤ人がスペインを退去し[103]、他のヨーロッパ国家やオスマン帝国に逃れた[88][109]。オスマン帝国は1453年にコンスタンティノポリスを占領し、東ローマ帝国を滅ぼした。多くのユダヤ人は新都市イスタンブールに移住した。ここでは、ムスリムが絶対的な優位を占め、キリスト教徒、ユダヤ教徒は差別を受けたものの、概ね共存が維持された。1497年には、ポルトガルでもユダヤ追放令が出された[109]。
1499年、トレドで、ユダヤ人の改宗者コンベルソの商人が課税をフアン2世に献策すると、キリスト教民衆が激昂して、コンベルソ商人の自宅を焼き討ちした[108]。
近世編集
ドイツ編集
人文主義編集
1490年から1510年にかけてアルザスで成立した[注 25]匿名(高地ラインの革命家)の『百章からなる本』ではアダムはドイツ人であったとし、自由人であり貴族であるドイツ人は世界を支配し、ドイツ人以外の民を奴隷化し、ローマ・カトリックの聖職者を虐殺することを提唱した[110][111]。背景には、ブルターニュ公国を巡るハプスブルク家マクシミリアンとフランス王シャルル8世の対立があり[注 26]、ヴィムフェリングやセバスティアン・ブラントなどのユマニストもフランスを攻撃した[112]。
15世紀末、ドイツは経済的に繁栄し、バイエルン公国のアウクスブルクでは鉱山・金融業の富豪フッガー家、金融業の富豪ヴェルザー家、イムホーフ家(Imhoff)、ホーホシュテッター家(Hochstetter)などが巨万の富を築いた[113]。そうした経済の大物に対して庶民は「クリスト=ユーデ(ユダヤ人のようなキリスト教徒)」と呼んだ[113]。セバスティアン・ブラントは『阿呆船』(1494年)で「ユダヤの高利貸しはまだよいが、それでも町には留まれぬ。自分の暴利を棚に上げ、ユダヤの高利貸しを追い出すクリスト=ユーデども」と皮肉った[113][114]。
1508年の『ユダヤ人の鑑』で改宗ユダヤ人のドミニコ会修道士ヨハンネス・プフェファーコルンがユダヤ人の偏屈さの原因はタルムードにあると告発した[113]。プフェファーコルンによる提案で神聖ローマ皇帝マクシミリアン1世は1509年の勅令でタルムード廃棄を命じた[113]。ユダヤ人から請願されたマインツ大司教ゲンミンゲンの提案で、プフェファーコルンらによる書籍没収を調査するタルムード調査委員会が設立され、委員にはドイツ唯一のヘブライ学者だったヨハネス・ロイヒリンなどが就任した[113][115]。ロイヒリンがタルムードやカバラーを擁護すると、1511年に両者は論争を開始し、エラスムスたち人文主義者はロイヒリンを支持し、パリ大学神学部はプフェファーコルンを支持するなど論争は国際的なものとなった[113]。
ただし、ロイヒリン側も反ユダヤ的な思想を持っていた。ロイヒリンは論争の直前に書いた1505年の『回状』でユダヤ人は日々、イエスの御身において神を侮辱し冒涜し、イエスを罪人、魔術師、首吊り人と呼び、キリスト教徒を愚かな異教徒と見下していると説教していたし[113][116]、論争においてもプフェファーコルンに対して「彼は先祖たるユダヤ人の精神のあり方をそのままに、嬉々として不敬の復讐に打ってでた」と述べている[113]。また、ロイヒリン支持者でカトリック教会を批判した人文主義者のフッテンもプフェファーコルンがドイツ人でなかったことは不幸中の幸いで「彼の両親はユダヤ人だった。彼自身、どんなにその恥辱の肉体をキリストの洗礼水に浸そうと、依然としてユダヤ人であることに変わりはない」と批判し、同じくエラスムスも「プフェファーコルンは真のユダヤ人であり、まさにその種にふさわしい姿を公然とさらしている。彼の先祖たちは、たった一人のキリストを相手に猛り狂った。プフェファーコルンがその同宗者のために行うことのできる最良の貢献は、みずからキリスト教徒になったと偽善的に言い張ることによって、キリストの神性を裏切ってみせることなのだ」と批判した[113]。
アルザスの人文学者ベアートゥス・レナーヌス[117]は「ユダヤ人ほど他者を憎み、また他者に嫌悪を催させる民はほかに存在しない」と述べた[113]。ドイツの人文学者コンラート・ツェルテス[118]はユダヤ人は「人類の社会を侵し、混乱に招き入れる」と述べた[113]。
ドイツの修道院長ヤーコプ・トリテミウスは高利貸しのユダヤ人には激しい怒りを覚える、その不法な搾取から守るための法的措置が必要で「異国の民が、われわれの土地で権勢を振るうなどということが許されてよいものだろうか」と述べ、またガイラー・フォン・カイザーベルク[119]は「ユダヤ人は、みずから手を汚しての労働を欲しない」「金貸しを生業とすることは労働の名に値しない」と批判した[113]。
一方、プファルツ領邦宮中伯フリードリヒ1世のハイデルベルク宮廷にいた人文主義者ヤーコプ・ヴィムフェリング[120]は「唾棄すべきなのは、ユダヤ人と、ユダヤ人よりもさらに質の悪い一部のキリスト教徒が手を染めている高利貸しなのである」と、キリスト教徒の高利貸しのことも非難した[113][121]。
ユダヤ人の唱道者ロースハイムのヨーゼル[122]は1520年以降、神聖ローマ皇帝・スペイン国王のカール5世(在位:1519年 - 1556年)に寵遇され「帝国ユダヤ人指揮官ならびに統治者」の称号を与えられ、ドイツユダヤ人全共同体の代表となった[3]。ヨーゼルはユダヤ人が法外に高い金利を要求しないこと、利子に粉飾をほどこさないこと、キリスト教徒への支払いを逃れようとするユダヤ人債務者を破門にして追放することなど、ユダヤ人商人が商業モラルを遵守するよう要求した[3]。
ヨーゼルの論敵は、改宗ユダヤ人のアントニウス・マルガリータだった。ラビの息子だったマルガリータはレーゲンスブルクのユダヤ共同体を公権力に告発し、1522年にカトリックに改宗し、プフェファーコルンを模範としたユダヤ教批判を行った[3]。アウクスブルク国会でヨーゼルが「ユダヤ教の背教者によるユダヤ教の主張は根拠を持たない」と主張すると、マルガリータは有罪としてアウクスブルクから追放された[3]。またこの影響でハンガリーとボヘミアのユダヤ追放令は廃案となっている[3]。マルガリータの著書はルターが最大の典拠の一つとするなどその後も影響力を持った[3]。
ルター編集
1517年に宗教改革をはじめたマルティン・ルターは、反ユダヤ主義的な意識を持っていたことでも知られる[123][124]。初期のルターは、ユダヤ教徒を反教皇運動の援軍とみなしていた。ヴォルムス国会の期間中にユダヤ人と討論したルターは、1523年に『イエスはユダヤ人として生まれた』などの小冊子を著して、愚者とうすのろのロバの教皇党たちが、ユダヤ人にひどい振る舞いをしてきたため、心正しきキリスト者はいっそユダヤ人になりたいほどだ、と述べたり、ユダヤ人は主と同族血統であるから、ユダヤ人はメシアであるイエスに敬意を表明し、キリストを神の子として認めるよう改宗を勧めた[123][125]。他方で、教皇がドイツ人を利用して第二のローマ帝国を築いたが、その名を持っているのはドイツ人であり、神はこの帝国がドイツのキリスト教徒の王によって統治されることを望んでいると述べたり[126]、1521年に「私はドイツ人のために生まれた」と述べるなどドイツ人の国民意識に立った発言を繰り返した[127][128]。さらに騎士戦争や、ルター派のミュンツァーによる農民戦争が起きると、ルターは反乱勢力を批判し、それ以来ルターは人間世界のいたらなさや、政治的責任を強く感じるようになり、人間の内的自由に、神によってもたらせた地上の事物の秩序が対置され、服従の義務を唱え、キリスト教徒は従順で忠実な臣下でなければならないと説くようになった[123]。そのうちにルターは、不首尾の原因をユダヤ人のなせる業とみなすようになっていく[123]。ユダヤ人の改宗者はごくわずかで、改宗した者もほとんどが間をおかずしてユダヤ教に回帰したためか、1532年には「あのあくどい連中は、改宗するなどと称して、われわれとわれわれの宗教をちょっとからかってやろうというぐらいにしか思っていない」と述べている[123]。同年「ドイツほど軽蔑されている民族はない」としてイタリア、フランス、イギリスはドイツをあざけっていると述べている[127]。1538年、ロースハイムのヨーゼルに対してルターは、私の心はいまもユダヤ人への善意に満ちあふれているが、それはユダヤ人が改宗するために発揮されると述べた[123]。その後まもなく、ボヘミアの改革派がユダヤ人の教唆のもとユダヤ教に改宗し、割礼を受けて、シャバトを祝ったという知らせが入ると、ルターは1539年12月31日には「私はユダヤ人を改宗させることができない。われらが主、イエス・キリストさえ、それには成功しなかったのだから。しかし、私にも、彼らが今後地面を這い回ることしかできないように、その嘴を閉じさせるぐらいのことはできるだろう」と述べた[123]。
1543年にルターはユダヤ人を批判する『ユダヤ人と彼らの嘘について』を発表し、7つの提案を行った[124][125]。
- シナゴーグや学校(イェシーバー)の永久破壊
- ユダヤ人家を打ち壊し、ジプシーのようにバラックか馬小屋のようなところへの集団移住
- ユダヤ教の書物の没収
- ラビの伝道の禁止
- ユダヤ人護送の保護の取消
- 高利貸し業の禁止。金銀の没収。
- 若いユダヤ人男女に斧、つるはし、押し車を与え、額に汗して働かせること。
ルターは「ユダヤ人はわれわれの金銭と財を手中にしている。われらの国にあって、彼らの離散の地にあって、彼らはわれわれの主になったのだ」として、ユダヤ人は労働に従事していないし、ドイツ人もユダヤ人に贈与していなのだから、ユダヤ人による物の所有を禁じて、彼らの財産はドイツに返還されるべきであると主張した[123]。ユダヤ人はドイツにとっての災厄、悪疫、凶事であり、誰もユダヤ人にいて欲しいなどとは思っていない、その証拠にフランスでも、スペインでも、ボヘミアでも、レーゲンスブルクでもマグデブルクでも追放されたとして、ドイツ人はユダヤ人に宿を提供し、飲食も許しているが、ユダヤ人の子供をさらったり殺したりはしないし、彼らの泉に毒を撒いたり、彼らの血で喉の渇きを癒やそうともしていない、ドイツ人はユダヤ人の激しい怒り、妬み、憎しみに値することは何かしただろうか、と論じた[123]。ルターは、大悪魔を別にすればキリスト(キリスト教徒)が「恐れなければならない敵はただ一人、真にユダヤ的であろうとする意志を備えた真のユダヤ人である」とし、ユダヤ人を家に迎え入れ、悪魔の末裔に手を貸す者は「最後の審判の日、その行いに対し、キリストは地獄の業火をもって応えてくださるであろう。その者は、業火のなかでユダヤ人とともに焼かれるであろう」述べた[123]。数ヶ月後の冊子『シェム・ハメフォラス』[129]でユダヤ人の改宗は、悪魔に改宗させるのと同じぐらい困難な業であり、ユダヤ人の福音書外典は四福音書が正統であるのに対して偽書であり、悪魔の使いのユダヤ人は「悪魔の群れよりもさらに悪辣」で「神よ、私は、あなたの呪われた敵、悪魔とユダヤ人に抗しながら、必死の思いで、これほどまでの恥じらいとともにあなたの神々しき永遠の威厳を語らねばならないのです」と論じて、最後に「私はこれ以上、ユダヤ人と関わりを持ちたくないし、彼らについて、彼らに抗して、何かを書くつもりもまったくない」と閉じた[123]。ルターは死の四日前の2月18日の最後の説教では、ドイツ全土からユダヤ人を追放することが必要であると訴えた[123]。また晩年のルターは無敵の常備軍を持った統一ドイツ帝国を夢見ていた[127]。
ルター晩年のユダヤ攻撃に対しては、ルターの協力者メランヒトン、スイスのツヴィングリの後継者のブリンガー、ユダヤ人のロースハイムのヨ−ゼルらが批判した[123]。なお、ルターは神を「最大級の愚か者[130]」「キリストは淫乱であったかもしれない」と述べたり、教皇に対してはユダヤ人攻撃の時よりももっと汚い言葉を使って罵詈雑言を浴びせた[123]。ルターの反ユダヤ主義は、タルススのパウロス(聖パウロ)やムハンマドと同様の転機を経て、ユダヤに対する深い憎悪となった[123]。ルターの反ユダヤ文書はルター死後あまり重視されなかったが、ヒトラー政権になって一般向けの再販が出てよく読まれた[123]。
- 1555年 - 教皇国家アンコーナで隠れユダヤ教徒の弾圧[131]。
- 1562年 - 1598年、フランスのカトリックとプロテスタントのユグノーがユグノー戦争。
- 1572年8月24日、サン・バルテルミの虐殺でフランスのカトリックがプロテスタントのユグノーを虐殺。
フランクフルト・ゲットーとフェットミルヒの暴動編集
1614年8月22日、フランクフルトの豚肉商フェットミルヒたち職人層がユダヤ人のゲットーを襲撃し、暴徒は金品を強奪し、借用証書とトーラーを焼き払うために火を放った[3]。ユダヤ人住民は命の犠牲は免れたが、財産を奪われ、また、他の土地へ移っていった[3]。数ヶ月後、ヴォルムスでもユダヤ人ゲットーが同様の襲撃事件が起きた[3]。地方政府も帝国政府も和解につとめたが、暴動の首謀者は熱烈な歓呼に包まれた[3]。ドイツの大学法学部は「今回の襲撃は昼間の襲撃であったが松明をもって行われており、法範疇に属さないため、罪科の対象とはならない」と判断した[3]。その後、神聖ローマ皇帝マティーアスによってユダヤ人は神聖ローマ帝国軍の厳重な護衛のもと、フランクフルトに戻った[3]。このフランクフルト騒動後、国家権力によってユダヤ人は保護され、ドイツにおける反ユダヤの実力行使は途絶えた[3]。その後数世紀、反ユダヤ主義を主張する多くの作家、思想家が登場したが、ドイツのユダヤ人には一定の平和が訪れた[3]。
17世紀、ユダヤ人虐殺事件は少ないものの、フランクフルト市では、ユダヤ人識別章の着用が義務化され、キリスト教徒の下僕の雇用禁止、明確な目的になしに街路を通行することの禁止、キリスト教祭日や君主の滞在期間中の外出禁止、市場ではキリスト教徒が買い物を済ませた後でなければ買い物はできなかったなど、制限されていた[3]。ユダヤ人はフランクフルトの「市民」ではなく「被保護者」または「臣民」と規定され、これはナチスドイツ時代も採用した区分であった[3]。
マラーノ編集
16世紀、スペインやポルトガル出身の改宗ユダヤ人(マラーノ)が、オランダ、イタリアの金融市場、大西洋貿易、東方貿易の開拓者となっていった[3]。スペイン支配下のアムステルダムは大西洋貿易の中心地となった[65]。
マラーノが権勢を誇る一方で、ドイツのユダヤ人は生活の基盤を失われ苦しんでいたため、マラーノを「純粋ユダヤ人ではない」とする状況になった[3]。1531年、アルザスのユダヤ人ロースハイムのヨーゼルは、富裕なマラーノの入植地が根を張っていたアントワープに対して、ここにはユダヤ人がいないと書いた[3]。
フランス王国編集
1614年、フランシスコ会修道士ジャン・ブーシェはユダヤ人を「かつて祝福の対象とされながら、今では呪いの対象とされている種」「世界の四方を惨めにさまよい歩いている種」として、トルコ人はユダヤへの憎悪の結果、ゴルゴダの教会広場でユダヤ人を見かけたキリスト教徒はユダヤ人を殺しても罪に問われなかったし、またユダヤ人が1291年にイングランドで、フランスで1182年にフィリップ2世尊厳王、1306年にフィリップ4世美麗王、1322年にフィリップ5世長躯王によって、スペインで1492年にフェルディナンド2世によって追放されたのは、ユダヤ人がキリスト教徒に対して不敬の態度を示し讒言を差し向けたからであると述べた[132][133]。
1615年5月12日、14歳のフランス王ルイ13世とその母で摂政のマリー・ド・メディシスが数年来、ユダヤ人が身分を偽って王国に入り込んだとして、1394年のユダヤ人追放令(シャルル6世による)を更新した[134]。ただし、ボルドーとバイヨンヌのマラーノには適用されなかった[134]。1615年について年代記作家は「不信心と良俗紊乱」の一年であり「魔法使い、ユダヤ人、呪術師が堂々とシャバト(安息日)を祝い、シナゴーグでの儀式を行った」と記録している[134]。魔女はシナゴーグとも呼ばれ、また安息日を意味するヘブライ語のシェバトからサバトとも呼ばれるようになった。
三十年戦争と絶対王政フランスの覇権編集
1618年から1648年にかけて、宗教改革による新教派(プロテスタント)とカトリックとの対立のなか展開された最後で最大の宗教戦争といわれる三十年戦争が起こった[135][136]。この戦争で、オーストリア・スペインの東西ハプスブルク家は打撃を受けた一方で、ブルボン家のフランスはヨーロッパ最強国家となった[136]。また、神聖ローマ皇帝とローマ教皇を政治的・宗教的首長とする「キリスト教共同体」は崩壊し、ヨーロッパ世界では一つの国家の主権と独立とが原則となった[135]。
戦後、フランスが中央集権的絶対王政を確立したのに反して、神聖ローマ帝国が名目的な存在となったドイツでは地方分権的な領邦国家体制が確立したことによって国民主義的統一が遅れた[137][注 27]。神聖ローマ帝国内では諸侯たちが自分たちを領邦を代表する「国民」 と意識していたが、諸侯の共通言語はフランス語であり、民族よりも身分が重視されるなど、国民国家の形成は妨げられており、こうした領邦国家体制に対する反発が、近代の啓蒙と合理主義の影響で18世紀以降のドイツにおける国民主義(ナショナリズム)を形成していくことになる[138]。
1627年、詩人マレルブは最晩年にユダヤ教はヨルダン川の岸辺におしとどめられるのが望ましいが、ユダヤ教徒はセーヌ川流域まで勢力を広げているとして「私はどこにいても神を頼みとして戦う」と書いた[133][141]。
三十年戦争末期の1648年、フランス王国では10歳の国王ルイ14世(在位:1643年 - 1715年)の摂政ジュール・マザランが集権体制を強化させていたが、マザランに反発した高等法院官僚や法服貴族が反乱を起こした(フロンドの乱)[142]。フランスは一時は無政府状態となり、王家は国外へ脱出する。1648年10月24日にヴェストファーレン条約が締結され三十年戦争が終結すると、フランス軍コンデ公ルイ2世がフロンド派を制圧し、さらにルイ2世もマザランに対抗したが、1653年にマザランが勝利してフロンドの乱は終結した。これ以降、王権による中央集権体制が確立されていった[142]。
フロンドの乱の最中の1652年8月15日、ジャン・ブルジョワ殺人事件が発生した。トネルリーの古着商集団に対して、ジャン・ブルジョワ青年が「シナゴーグの殿方連のお通りだよ」とからかったところ、古着商集団は青年を矛槍とマスケット銃で滅多打ちにしたうえ、賠償金も払わせた[143]。青年は代官に告発したが、古着商集団は青年をおびき出し、拷問の果てに殺害した。このような小規模な局地戦は当時いくつか発生していた[143]。この事件後、ユダヤ人によって腐敗が撒き散らしてきたと非難する文書や古着商集団を弁護する文書が現れ、ユダヤ問題が世論で争われた。『ユダヤ人に対する憤怒』という文書では、ユダヤ人に識別するための印をつけるべきだと主張され、『シナゴーグに対する判決文』という文書ではユダヤ人全員を去勢すべきだと主張された[143]。こうした文書の横溢によって古着商は隠れユダヤ教徒(マラーノ)かと疑われたが、事件における古着商集団は被害者も加害者もカトリック・キリスト教徒であった[143]。
マザラン没後の1661年に23歳のルイ14世太陽王が親政を開始した。宮廷説教師でオラトリオ会修道士のボシュエ[注 28]は王権神授説とフランス教会のローマからの独立(ガリカニスム)を提唱し、ローマ教皇よりもフランス国王の権力を強化して絶対君主制確立に貢献する一方で、ユダヤ人を「誰からも哀れまれることなく、その悲惨のなかにあって、一種の呪いによりもっとも卑しき人々からも嘲笑の的とされるにいたった民」とし、ユダヤ人の最大の罪はイエスの処刑ではなく、処刑後に悔い改めない姿勢であると非難した[144]。ルイ14世は「唯一の王、唯一の法、唯一の宗教」を方針として「最大のキリスト教徒の王」を自負し、異端のジャンセニスト[注 29]やユグノーを抑圧した[146]。一方、ジャンセニスト哲学者ブレーズ・パスカルは遺稿『パンセ』で「栄誉に抗して純一であり、それがゆえに死んでゆく、ユダヤ人」とユダヤ人を称賛した[147]。
1657年、東方への野心を持ったルイ14世は、軍馬調達、駐屯地への補給のためにアルザス=ロレーヌ地域のユダヤ人を利用しようとしてメッスのシナゴーグを訪れ、アンリ4世とルイ13世がユダヤ人に与えた勅許状を更新し、古物だけでなく新物を商う権利を付与した[148]。
1670年にメッスで儀式殺人事件と裁判が繰り広げられ、ユダヤ人が処刑された[注 30]。また、パリで行方不明になった若者についてユダヤ人が連行したという噂が流れた[143]。 これに対して聖書学者リシャール・シモン[149]がメッス儀式殺人裁判について匿名でユダヤ人を擁護し[148]、1674年にはヴィネチアのラビ、レオン・ダ・モデナの著作を翻訳して、その序文で「新約聖書を書いたのはユダヤ人であった」と主張し、またユダヤ教徒の信仰心の篤さを賞賛した[147][150]。しかし1684年になると、シモンは手紙でモデナ訳書の序文について好意的なことを書きすぎたと反省して「ユダヤ人が救いようのない民であるということを、私はその後、彼らのうちの幾人かと付き合ってみてはじめて理解した。彼らはいまだにわれわれのことを深く憎悪している」と述べた[147]。シモンは1678年、近代聖書文献学のさきがけとされる『旧約聖書の批判的歴史』を著作したが、宮廷説教師ボシュエの激しい怒りを買い、1687年に発禁処分に至り、死ぬまで周囲から激しい攻撃を受けた[147][147][151]。
ルイ14世は、1680年代にユグノー弾圧を開始。1682年新築のベルサイユ宮殿に移り、1685年、フォンテーヌブローの勅令で信教の自由を約したナントの勅令を廃止した[146]。1688年から1697年にかけて領土拡大を図ったフランスは、フランドル戦争、仏蘭戦争後、1681年にストラスブールを占領して併合した。これに反発したドイツ、スペイン諸国によるアウクスブルク同盟とフランス王国との間で大同盟戦争となった。1689年に名誉革命でウィレム3世がイングランド王になると、イングランドとオランダもアウクスブルク同盟に参加した。講和条約レイスウェイク条約でフランスはストラスブールをのぞく1678年からの占領地の殆どを返還した。
- 1693年–1694年 - フランスで飢饉。
スペイン継承戦争(1701年 - 1714年)中の1702年から1709年にかけて、南フランスのユグノーによるカミザールの乱が発生した。
- 1709年、大厳冬の飢饉[146]。
カトリック編集
1671年、アドリアン・ガンバールはカテキズムで、聖体を拝領することは全ての罪のなかで最も重い罪であり、それによって「ユダやユダヤ人たちと同じように、イエス・キリストの肉と血に対する罪を犯すことになる」とした[133][153]。
イエズス会士・オラトリオ会修道院説教師ブルダルー[154]は、ステファノを石で撲殺したユダヤ人は「神秘の石」であるステファノを殴打して、神の慈悲と神の愛の火花を散らしたといい「罪のうちに死ぬこと」をユダヤ人は天からくだされていると説教した[144]。
ニーム司教フレシエ[155]は、不信心者のユダヤ人は神の正しき裁きによって、この世が終わり、神がイスラエルの残骸を集める時まで、あらゆる民から眉をひそめられる存在であり続けると説教した[144]。
クロード・フルーリー神父(1640-1723)はカテキズム『歴史公教要理』で、イエスの敵は肉的なユダヤ人、ユダヤ人はイエスを死に至らしめたために隷属状態となり、離散させられた、と解説した[133][156]。
クレルモン司教でベルサイユ宮廷説教者マシヨンは「血の罪の刻印」を受けて「見境を失った民」のユダヤ人は「盲目的な敵愾心」で怒り狂い「イエスの血がみずからとみずからの末裔の頭上に降り注ぐことを望んでいる」、ユダヤ人は「世界の恥辱とみなされたまま、さまよい、逃げまどい、軽侮され続けている」と説教した[144]。
しかし、16世紀においては、反ユダヤ的な暴動はみられない[144]。それは、宗教改革とそれに続く宗教戦争において、プロテスタント側がユダヤ人に近い立場に立たされ、憎悪が向けられたからであった[144]。カトリック派は、改革派の秘密集会を蔑み、悪意に満ちた話に尾ひれをつけて触れ回った[157]。
宮廷ユダヤ人とユダヤ人強盗団編集
1670年、神聖ローマ皇帝レオポルト1世(在位1658年 - 1705年)はウィーンからユダヤ人を追放したが、1673年、同じ神聖ローマ皇帝レオポルト1世が、ハイデルベルクのユダヤ人ザームエル・オッペンハイマーを帝国軍の補給係に任命して、1683年のトルコ軍のウィーン包囲やフランスとの戦争などを通じて食料、武器、輸送用の牛馬を提供して、首尾上々に任務を遂行した[3]。当時は、外交取引に宮廷ユダヤ人が活躍し、ハノーファーのレフマン・ベーレンツはルイ14世とハノーファー公の間を取り持った[3][注 31]。ハルバーシュタットの宮廷ユダヤ人ベーレント・レーマン[158]は、ザクセン選帝侯アウグストをポーランド王位につかせたが、息子はザクセンから追放された[3]。ヨーゼフ・ズュース・オッペンハイマーはヴュルテンベルク公カール・アレクサンダーの宮廷ユダヤ人として財政と行政を立て直し、権勢を誇ったが、最後は絞首刑に処された[3]。宮廷ユダヤ人は豪勢な家屋敷を構え、ミュンヘンの銀行家ヴォルフ・ヴェルトハンマーが開いた狩猟競技会ではイングランド大使や貴族が参加した[3][注 32]。宮廷ユダヤ人の大部分はユダヤ教を遵守していたが、シュタドラン(世話役)として、滞在禁止命令を追放令を解除させたり、ユダヤ人共同体を統轄して、ユダヤ人の敵対分子を牢獄につながせた[3]。
この頃、オーストリアの説教者アーブラハム・ア・ザンクタ・クラーラは1683年のトルコ軍によるウィーン包囲に際して、トルコ人は「貪欲な虎、呪われた世界破壊者」、ユダヤ人は「恥知らずで、罪深く、良心を持たず、悪辣で、軽率で、卑劣でいまいましい輩、悪党」として、ペストはユダヤ人、墓掘り人、魔女によって引き起こされたと説教し[160][161]、また「イエスを司直に売り渡したあのユダヤ人の子孫は、その後永劫の罰を受けねばならない」と説教した[162][163]。
ブランデンブルク王家は17世紀半ばには武器・貨幣鋳造商人イスラエル・アロンに貴族位を授けたり、オーストリアから追放された富裕ユダヤ人を保護した[164]。プロイセン王国では身柄保証金を条件にユダヤ人の自由な経済活動が認められた[164]。プロイセン王フリードリヒ・ヴィルヘルム1世(在位1713 - 1740)はユダヤ人代表団の謁見に際して「主を十字架にかけた悪党」とは面会しないと断ったが、侍従がユダヤ人からの高価な贈り物があると聞くと、王は「主が十字架にかけられた時は、彼らはその場にいなかった」のだから、謁見を許可した[3]。
一方で、ユダヤ人強盗団もおり、1499年の『放浪者たちの書』の盗賊仲間隠語集にはヘブライ語起源が多くを占めており、17世紀以降には、組織的ユダヤ人強盗団の記録がある[3]。18世紀ドイツには強盗団首領ドーミアン・ヘッセルが死刑になった[3]。しかし、宮廷ユダヤ人もユダヤ人強盗団も例外の部類であり、大多数のユダヤ人は、中世的な風習にこだわり、しきたりを忠実に守りながら暮らした[3]。
イングランド編集
イングランドでは1290年にユダヤ人は追放されたため、イギリスに来るユダヤ人商人は王立の改宗者収容施設「ドムス・コンウェルソーム(Domus Conversorum)」(1234年創建)に滞在した[165]。14世紀、15世紀には未改宗のユダヤ人も改宗ユダヤ人を偽って宿泊した[165]。
1492年のスペインからの追放で、ユダヤ人が「スペイン人」としてイギリスにも来た[65]。しかし、ヘンリー7世が、息子とアラゴン王女カザリンとの結婚に際して、ユダヤ人の立入りを禁じた[165]。しかし、この禁止令は部分的にしか守られなかった[165]。
ヘンリー8世(在位:1509年 - 1547年)治世下の1540年、ロンドンに37家族のマラーノによる植民地が形成されたが、1542年に解散させられた[165]。なお、ヘンリー8世は亡兄ウェールズ公に嫁いだアラゴン王女カザリンと結婚していたが、カザリンとの離婚の根拠を探すために、イタリアのラビに問い合わせている[注 33]。
エリザベス1世時代(1558年 - 1603年)には、ユダヤ人集会も公然と行われるようになり、ユダヤ人貿易商人エクトル・ヌネスはヨーロッパ大陸の機密情報をイギリス政府に伝えた[65]。一方で、反ユダヤ主義も高まり、劇作家クリストファー・マーロウの『マルタ島のユダヤ人』(1590)では財産を没収されたユダヤ人が復讐する[65]。ただしこれには無神論者だったマーロウがユダヤ人の悪魔が吐く台詞によってキリスト教体制の偽善を批判したという見方もある[65]。1594年にはユダヤ人医師ロデリーゴ・ロペスがエリザベス女王毒殺の廉で裁判にかけられ処刑される事件が起きた[65]。同じ頃、シェイクスピアの「ヴェニスの商人」(1596)では、高利貸しユダヤ人シャイロックが返金しないアントーニオに対して肉片を要求するが、裁判で逆に財産を没収されキリスト教に改宗されてしまう。
ジェイムズ1世時代(1603- 1625年)には、ユダヤ人同志の内紛で「ユダヤ教徒」という嫌疑をかけられたポルトガル系ユダヤ商人が国外追放された[65]。
1649年の清教徒革命では、市民階級の清教徒が「イスラエルよ、汝らの幕屋に戻れ!」を合言葉とした[165]。清教徒革命は王室と癒着した教会への攻撃でもあり、クロムウェルはユダヤ教徒と非国教派を保護した[166]。また、至福千年説が流行し、ユダヤ人を解放してキリスト教に改宗させることがメシア降臨の条件とみなされるようになった[166]。清教徒の至福千年派は、ユダヤ人の改宗のためにユダヤ人をパレスチナに呼び戻すべきだと主張した[165]。こうしたことから、クロムウェルの出自はユダヤ人ではないかと囁かれ、またクロムウェルはセントポール大聖堂を80万ポンドでユダヤ人に売却しようとしているという噂が流れた[165]。
一方、非国教会の分離派は、イギリスの内乱は過去のユダヤ人迫害への天罰であるとみなした[166]。分離派に励まされたアムステルダムのラビマナセ・ベン・イスラエルはユダヤ人のイギリス入国を請願した[166]。マナセは『イスラエルの希望』(1650年)において、終末の到来を確かならしめるためには、ユダヤ人の拡散を完全のものとして、世界の末端であるイングランド(アングル・ド・ラ・テール 地の角)をユダヤ人の植民地と化するべきだと主張した[165][167]。背景には1648年のポーランドでのコサック反乱によるユダヤ人難民の存在があった[166]。マナセは著書をイギリス議会に献呈し、ユダヤ人を迎え入れれば貿易が盛んになり繁栄すると力説した[166]。クロムウェルは、キリスト教を否定する者に寛容を貫くのは本末転倒であるが、イギリス商業の保護と発展のためにユダヤ人国際ネットワークを利用することのメリットに理解を示し[166]、またスペインの植民地を奪取するための協力をユダヤ人マラーノから期待していた[165]。メナセは「卑見(Humble Address)」でシナゴーグの建設許可や、反ユダヤ法の改正を請求し、ユダヤ人の商才と高潔な血統を強調、キリスト教徒幼児の殺害は中傷だと否定した[166]。11月、クロムウェルはこの請願を議会にかけたが、王党派は「王を殺した者が、救世主を殺した者と手を握った」と非難した[166]。貴族マンモス伯はシナゴーグ建設案に不快感を示し、またロンドンでは傷痍軍人が「わしらも全員ユダヤ人になるしかあるまい」と噂し、商人は恐るべき競争相手と警戒し、聖職者は社会転覆の危険を見た[165]。パンフレット作家で王党派の政治家ウィリアム・プリンは、1634年に演劇の観客は「悪魔、不敬の怪物、無神論的ユダの化身である。彼らはみずからの宗教に対しては喉を掻き切る殺人鬼」と述べ、仮面劇を支援した王妃ヘンリエッタ・マリア・オブ・フランスへの誹謗中傷と名誉毀損の罪によって、両耳を切断され、左右の頬に煽動的誹毀者(seditious libeller)を意味する「S.L.」の烙印が押されたが、民衆の絶大な人気を博していた[165]。1655年にプリンは、マナセとイングランド政府によるユダヤ人の召喚計画に反対して『ユダヤ人のイングランド移入に関する簡潔な異議申し立て』を書き、一週間で完売した[165]。このほか、クレメント・ウォーカー『イングランドの無政府状態』やアレクサンダー・ロス『ユダヤ人の宗教』などでもユダヤ人召喚への反対が主張された[165]。
1655年12月18日の一般公開議場ではユダヤ人受け入れに反対する者が多数詰めかけ、クロムウェルは諮問委員会の解散を宣言し、さらに、演説では、ユダヤ人の改宗は聖書に予告されており、そのためにはユダヤ人が聖地に住むことが唯一の手段であると述べ、閉会した[165][166]。
マナセは1656年に『ユダヤ人からの要求(Vindiciae Judaeorum)』を書き、これに影響されたユニテリアン派のトマス・コリアーは、ユダヤ人によるイエス殺害は神の意志を実現するためであり、それによってキリスト教を誕生させるためであったと論じた[165][168]。
英西戦争の悪化によって1655年秋に在英スペイン人の財産は没収された[166]。在英ユダヤ人のほとんどはスペイン出身であり、法的にはスペイン人であったため、ユダヤ人の財産も没収された。裕福な商人ロブレスは自分はポルトガル人であるとして財産返却を請願し、異端審問の過酷さを主張してイギリスの反スペイン・反カトリック感情に訴え、財産没収の取り消しに成功、これによりイギリスでのマラーノの身分が保証される結果となった[166]。
以後、イングランドでは公的な入国許可はなかったが、非公式の寛容政策によってロンドンのマラーノ入植地では、シナゴーグも建設され、イギリス国内の事実上の小国家となっていった[165]。1657年イギリス最初のシナゴーグがクリーチャーチレインに建立された[169]。
1659年の王政復古で復位したチャールズ2世は親ユダヤ的で、ユダヤ人の権益を保護した[166]。王室の庇護を受けたためにユダヤ人は安定した地位を保ち、セファルディー系ユダヤ人が18世紀初頭にベヴィスマークにシナゴーグを建設、アシュケナージ系ユダヤ人も再入国が認められ、1690年には自派のシナゴーグを建設した[169]。
なお、1661に成立した騎兵議会では、王党派によって、清教徒の一掃を企図するクラレンドン法典、市町村の役員に国教徒であることを義務づけた地方自治体令(Corporation Act)、非国教徒4人以上の会合を禁止したコンヴェンティクル条例(Conventicle Act)などが可決した[166]。
日記で知られる海軍秘書サミュエル・ピープスは1663年にシナゴーグを訪問し、そこで見たシムハット・トーラの礼拝での騒ぎに対して嫌悪感を書いている[169]。
1718年にはイギリス産まれのユダヤ人であれば土地所有が可能となった[169]。
1753年、ヘンリー・ペラム政権は、ユダヤ人帰化の条件を緩和する法案を提出したが、世論の反発を受けて撤廃した[170]。ユダヤ人帰化法が失敗すると、ディズレーリ家、リカルドー家、バーセーヴィ家などの上流ユダヤ人はイギリス国教に改宗した[169]。
理神論・合理主義とスピノザ編集
宗教改革と宗教戦争を経て、16世紀のソッツィーニ派は聖書の権威を批判し、三位一体説や予定説、キリストの神性を否定し、教会と国家の分離(政教分離)を主張し、神だけの神性を主張し,イエスの神性を否定するユニテリアンに影響を与えた[174]。やがて、この潮流はチャーベリーのハーバート卿やトーランドなどイギリスの自由思想家によって理神論(自然宗教)という理性に基づく合理主義的な有神論となった。ハーバート卿の『真理について』(1624年)は哲学者デカルトに影響を与えた[175][176]。
オランダのユダヤ・セファルディム系哲学者スピノザにとってユダヤ教は確かな論拠と証明に基いていないのでそれがユダヤ共同体から離れる原因となり、さらにユダヤ人の男に短剣で襲撃されたことでスピノザはユダヤ共同体と絶縁し、さらに破門され追放された[177]。その後、スピノザは匿名で1670年に『神学・政治論』を書き、ヘブライ人の宗教は他の民族とは絶対に相反的なものであり、ユダヤ教において他の民族への憎しみは敬神と敬虔から生じた神聖なものと信じられていると、ユダヤ教について激しく攻撃的に論じ[171][178]。スピノザはコレジアント派(ソッツィーニ派、メンノ派)の解釈に倣って、ユダヤ教における隣人をユダヤ民族に限定した[179]。スピノザの聖書批判はキリスト教神学者の間でも反発を呼んだ[180]。ピエール・ベールは『歴史批評辞典』 (1696年)でスピノザの聖書批判を紹介しフランスやイギリスでも知られるようになり[172]、スピノザによってユダヤの神は憎しみの神であるという考え方、そしてユダヤ教は迷信にすぎないといった見方が啓蒙思想やイギリス理神論、ドイツの哲学者カントやヘーゲルまで広がっていった[171][179]。ゴルディンやポリアコフは、スピノザは近代の反ユダヤ主義の形成において重要な役割を果たしたと論じている[171][注 34]。
自由思想家で理神論(合理主義)の哲学者ジョン・トーランドは『キリスト教は秘蹟的ならず』(1696年)で教父たちは真のキリスト教を堕落させてきたとして「理に適った」(合理的な)教説を説き、キリスト教はもとはユダヤ教徒であったと論じた[172]。トーランドは1714年の『ユダヤ人帰化論』でユダヤ人を擁護し、ヨーロッパ大陸からユダヤ人を受け入れるよう主張した[172]。また『ナザレ人』(1718年)でトーランドは「ユダヤ教徒が奉じる真のキリスト教」はローマ帝国の異教徒たちによって圧殺され、また教皇制度はキリスト教を歪める一方で、ユダヤ教の儀式を非難してきたが、こうしたことの根拠は聖書には書かれていないと論じた[172]。トーランドは、これまでのキリスト教世界を批判する一方で、ユダヤ人を擁護した[172]。
聖公会の非正統的神学者トマス・ウールストンは1705年の著作『ユダヤ人と復活した異邦人に対するキリスト教の真実のための古い弁明』以来の著作やパンフレットで、ユダヤ人は「騒音と悪臭の根本」であり「世界はユダヤ人の毒に満ちている」と論じた[172]。ヴォルテールはウールストンの著作を典拠にした[172]。
ニュートンの推薦でルーカス教授職に就いたウィリアム・ホイストンは1722年の『旧約聖書再現試論』でユダヤ人は旧約聖書の写本を歪め、故意に改悪したと論じた[172]。ドルバック伯爵に影響を与えたアンソニー・コリンズは『キリスト教基礎論』(1724)でユダヤ教は民族宗教にすぎないと主張した[172][181]。マシュー・ティンダルの『天地創造と同じ古さを持つキリスト教、あるいは自然宗教の福音』(1730年)は理神論のバイブルといわれたが、ユダヤ人の悪しき影響力を論じたものでもあった[172][182][183]。トマス・モーガンは『キリスト教徒の理神論者フィレラテスとキリスト教徒ユダヤ人テオファネスとの対話のなかの道徳哲学者』(1737年)で、スピノザに基づきイスラエルの神は戦の神であり、その土地の民族の神にすぎないとして、理神論者がキリスト教徒ユダヤ人に打ち勝つと描いた[172][184]。ウィリアム・ウォーバートンの『モーセの聖使節』(1737年-1741年)では、神が最も粗野で卑しい民族を選んだということが啓示の根拠であると論じた[172][185]。ボーリングブルックはユダヤ人とキリスト教教父たちはキリスト教を悪質なものへと変えたと非難した[172]。
こうしたイギリス理神論は、ユダヤ人に取り憑かれたように非難していたわけではなかった[173]。しかし、ジョン・トーランドを唯一の例外としてほとんどのイギリス理神論者が伝統的なキリスト教的な反ユダヤ主義を保持し続け、ユダヤ教とキリスト教の窮屈さや旧約聖書の排他主義を批判し、文明や人類の起源をエジプトやインドに求めていくようになり、これが後年の「アーリア神話」に行き着くことになった[173]。イギリス理神論は、フランスのヴォルテールやルソーなどヨーロッパの思想に大きな影響を与えた[172][186]。
人種学編集
すでに述べたように自民族を高貴な民族とみなす考え方は8世紀の『サリカ法典』にもみられるが、1434年のバーゼル公会議でスウェーデンのラーグヴァルトッソン司教が述べた「スウェーデン王国は最も古く高貴な王国であり、スカンディナビアは人類発祥の土地である」という発言には近代的な人種主義的ナショナリズムの萌芽がみられる[187]。
16世紀後半、ドミニコ会の哲学者ブルーノは、インディアン、エチオピア人、ネプチューンの洞窟の住民、ピグミー、巨人は、人間と同じ出自ではなく、神の創造したものではないとした[188]。
マラーノのアイザック・ラ・ペイレールは1655年の『前アダム人』で、聖書はユダヤ史のみを取り扱っているにすぎず、アダム以前に数百万の前アダム人がおり、またユダヤ史は「アダムからイエスまでの選びの時代」と「イエスから17世紀までの排除の時代」であったとし、その後にユダヤ人の復活の時代が訪れ、ユダヤ人(アダム人)以外の民も含めた万人が救済されるとした[189]。
1689年、哲学者ジョン・ロックは『人間知性論』において、子供が人間の観念を形成する際に周囲の白人の肌色から白色が人間という複雑な観念の内の単純観念の一つとなるので黒色のニグロは人間ではないと判断する、と論じた[190][191]。
ライプニッツは『人間知性新論』で「動物の習性とも見なしうるほどの残忍さにみちたアメリカの蛮人の習慣を認めるには、彼らと同じほど愚鈍でなければならない」と述べた[191][192]
博物学者ジョン・レイは、色の違う花が異なる種に属すように、ニグロとヨーロッパ人は異なる種に属すと論じた[193]
スウェーデンの博物学者リンネは1735年の『自然の体系』で人間を4つに分類し、白いヨーロッパ人は発明の才に富み、法によって統治され、赤いアメリカ人は自由で短気で習慣によって統治され、黄色いアジア人は高慢で貪欲で世論によって統治され、黒いアフリカ人は無気力で主人の恣意的な意志によって統治されているとし[194][注 35]。
ヒュームは1742年、黒人などの白人以外の文明化されていない人種は、白人種のような独創的な製品、芸術、科学を作り出せないとし[196]、非白人による文明民族は存在したことはないとした[197]。
科学者モーペルテュイは、黒人から白い子供が突然生まれるのに対して、その逆はないことから、人間の最初の色は白であると論じた[198]。
ドイツの哲学者G.F.マイアー[199]は、最初の人間アダムは脇腹にすべての人間をたずさえ、その中のアブラハムの精子にはすべてのユダヤ人が含まれていたとした[195]
解剖学者メッケルは1757年にニグロを解剖した結果、彼らの脳も血液も黒いため、白人とは別の人種であるとした[195]。解剖学者カンペル[200]は、ユダヤ人には色の黒いポルトガル系や、白いチュートン系もいて、皮膚の色が違っても始祖は同じアダムであり、ニグロも人間であるとメッケルを批判した[195]。カンペルはヨーロッパ人、カルムイク人(蒙古人)、ニグロ、猿の順に「顔面角」が減少していくとした[195]。
博物学者ビュフォンは『博物誌(1749-1788)』において、ロバが退化した馬であり馬に属するようにニグロは人間に属する、あるいは、白人が人間であるとすれば、ニグロは人間でなく猿のような別の動物であるとした[201]。
ヴォルテールは、ニグロが猿より優れているように、白人はニグロより優れているとし、ニグロは猿との性交から生まれた怪物の種であるとした[202]
カントは1764年の『美と崇高との感情性に関する観察』で「アフリカの黒人は、本性上、子供っぽさを超えるいかなる感情も持っていない」し、また東洋の住民は誤った趣味を持っているのに対して、ヨーロッパ人は美と崇高の正しい趣味を作り上げ、世界市民 (コスモポリタン)の人倫的感情を高めたと論じた[203]。カントは1777年の「様々な人種について」では人間は共通の祖先を持つとしたが[204]、『自然地理学』(1756-96年)で白色人種によって人類は最大の完全性に到達するとした[205]。
1799年、医者チャールズ・ホワイトは白いヨーロッパ人は人類の最も見事な産物であり、ヨーロッパ人以外にこれほど美しい頭の形、これほど大きな頭脳をどこに見出すことができるだろうかと書いた[195][206]。
エドワード・ロングは、ヒト種を、ヨーロッパ人、ニグロ、オランウータンの3つに分けて、白人とニグロの混血児もニグロとオランウータンの混血児も生殖能力を持たないとした[202]。
クリストフ・マイナース[207]は「美しい白人種」と「醜い黒人種」の二つに分け、白人、特にケルト民族だけが真の勇気などの美徳を持っており、黒人は無情で無感覚な恐ろしい悪徳を持っているとした[208]。
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ポーランド・ウクライナ編集
ポーランドのユダヤ人は、ユダヤ教国ハザール帝国や、ビザンティウムから来たと考えられている[209]。伝承では、一日だけユダヤ人がポーランドの王位に即位したといわれ、中世11世紀、12世紀の貨幣にヘブライ語で「ミエシュコ大王」「アブラハム・ドゥハス」などの銘が刻まれている[209]。
ポーランドではユダヤ人への優遇政策は進んでいた。1264年、ポーランドのカリシュのボレスワフ王(1221-79)は、ドイツ諸侯のようなユダヤ勅許状を出した[209]。しかし、1267年、ブラスラウ公会議は12条でポーランドはキリスト教徒の新しい入植地であるため、ユダヤ人の迷信や悪習からの影響を懸念した[209]。1279年、ユダヤ人識別章が計画されたが実現しなかった[209]。1364年、カジミェシュ王(1310-70)はユダヤ人を貴族と同等の扱いとして、ユダヤ人に危害を加えた者を罰した[209]。しかし、14世紀末、ポーランドで聖体冒涜事件と儀式殺人事件が起こった。1454年、カピストラーノのジョバンニの影響で、ヤギェウォ朝のカジミェシュ4世がユダヤ人の特権を一部撤回した[209]。1565年、ポーランドのユダヤ人は卑しい職業に従事しているわけでもなく、土地を所有し、医学、占星術を研究し、大きな富を蓄えて、武器の携帯も認められている、と教皇使節が報告しており、他国の境遇との隔たりがあった[209]。当時、ポーランドのユダヤ人は商業、行政、森林開拓、岩塩採掘、農業、銀行、ポーランド貴族の御用商人、宮廷ユダヤ人など、多岐にわたって浸透しており、ユダヤ人から利益を得ていたポーランド貴族はユダヤ人を庇護した[209]。他方で、ポーランドの聖職者はユダヤ人を攻撃し、イエズス会のスカルガ[210]は、トレントのシモン少年儀式殺人事件や、聖餅冒涜裁判の原告にもなった[209]。イエズス会の神学生はユダヤ人へのポグロムを繰り返し、またポーランドの農民は農民が稼いだ金でユダヤ人は腹を満たすとして「ユダヤ人、ドイツ人、悪魔」の三人兄弟のうち、悪魔が一番ましという諺もあった[209]。
ポーランド・リトアニア共和国の支配下にあったウクライナ[注 36]において、ギリシア正教を奉じるウクライナ農民にとってカトリックの領主とその家令ユダヤ人は憎悪の対象であった[209]。1648年、ギリシア正教徒ボフダン・フメリニツキーは「ギリシア人」を名乗り「ポーランド人とそのお抱えの家令、仲買人たるユダヤ人から受けた屈辱を忘れまい」と叫び、ユダヤ人、ポーランド人の別なく改宗を迫ったり殺害し、イエズス会士も追放された[209][211]。このフメリニツキーの乱(1648年 - 1657年)はやがてロシアとポーランドの戦争(1654年-1667年)となり、ロシア軍もユダヤ人を殺害した[209]。この戦乱でユダヤ人は奴隷としてトルコに売られていった[209]。この大洪水時代によって、ポーランドは荒廃し、ポーランドのユダヤ人も致命的な打撃を受けて、17世紀後半にはポーランドのユダヤ人は銀行家の地位を追われ、1765年、ポーランド政府は、従来の集団単位の課税から人頭税に切り替え、ユダヤ人の組織「四邦議会」を廃止した[209]。多くのユダヤ人が国外のハンガリーやルーマニアへ逃亡し、またポーランドのユダヤ難民を救済するための募金活動が各地のユダヤ社会で行われた[209]。1768年、ポーランド領ウクライナでハイダマク(ハイダマキ運動)によるポグロムが発生した[211]。
1648年、偽メシアのシャブタイ・ツヴィがトルコのスミルナに現れると、ヨーロッパ各地のラビは歓迎して、ユダヤ人は財産を売って、コンスタンティノープルへの船に乗ろうとしたほどであった[3][209]。しかし、1666年、ツヴィはオスマン帝国において逮捕されイスラム教への改宗を選択した。なお、カバラー学者は1666年をメシア到来の時と解釈していた[209]。
ウクライナのガリツィアのイスラエル・ベン・エリエゼル(バアル・シェム・トーブ)は、奇跡の治癒と悪魔祓いを行いながら、自然に聖なる花火として偏在する神の存在を説いて、ハシディズム運動を起こし、ポーランド、東ヨーロッパ各地に広まった[209]。しかし伝統的なユダヤ教ラビはハシディズムを異端として排斥した[209]。
ウクライナ・ロシア戦争 (1658年-1659年)の時、バシリ・ヴォシュトシロは、不実のユダヤ人が暴行、殺人、略奪を平気で犯し、キリスト教徒の女性を侵している、かくして「余は、キリスト教の聖なる信仰にたいする熱意に駆られ、数名の清廉の士を同士として、ユダヤの呪われた民を根絶やしにする決意を固めた」と宣告した[209]。
1772年、第一次ポーランド分割前夜には、ポーランドの暴徒たちが、エカチュリナ大帝の皇帝勅書をふりかざし、全スラヴ的信仰を旗印として、ユダヤ人とポーランド領主に対する組織的な絶滅作戦を展開した[209]。しかし、この皇帝勅書は、ロシア正教のメルヒセデブ神父が作成したとみられる偽の皇帝勅書であり、そこには、ポーランド人とユダヤ人が全スラヴ的信仰に対して軽侮しており、冒涜者たるポーランド人とユダヤ人を根絶やしにすることが目的であると書かれていた[209]。
18世紀には、儀式殺人事件が多発した[209]。リトアニアのラビであった改宗ユダヤ人のミハイル・ネオフィートはユダヤ教では儀式殺人が掟であり、自分はかつてキリスト教徒の子供を殺したと自白したが、このネオフィートの証言記録はポーランドやロシアで反ユダヤ主義の典拠となった[209]。
ロシア編集
モンゴルのくびきから解放されたモスクワ大公国では、イヴァン3世(在位1462年 - 1505年)領土を四倍に拡大した時代にユダヤ人が移入した[212]。
1470年頃、スハリヤという男がノヴゴロド公国でユダヤ教の優位を説教し、キリスト教聖職者もユダヤ教へ改宗したが、布教活動が公然と行われるようになると記録が途絶えた[212]。スハリヤユダヤ教団はイエスはモーセと同じ位格であり、父なる神と同格ではないと主張したが、これは4世紀の東ローマ帝国アンキラのマルケロス派(Markellos of Ankyra)、フォティノス派(Photinus)の教えと同じであった[212]。イヴァン4世治世下の1540年、教団の指導者は処刑された[212]。この事件以降、モスクワ大公国では異邦人は特別居住区に住まわせられ、ユダヤ人隔離政策も行われた[212]。
1550年、イワン雷帝は、ポーランド王からユダヤ商人のモスクワ入りの許可を求められると、毒薬を持ち込むユダヤ人を入国させることはできないと拒否した[212]。
1698年、ロシア帝国のピョートル大帝は自由思想の持ち主であったが、アムステルダム市長からユダヤ商人のモスクワ滞在の許可を求められると時期尚早と断った[212]。
エリザヴェータ皇帝は、ウクライナ、ロシアの全ユダヤ人を追放し、以後入国も禁止した[212]。1743年に元老院がユダヤ商人の市場参加で国庫がいかに潤うかを報告しても、女帝はキリストの敵からの利益は不要であると認めなかった[212]。
パーヴェル1世からポーランドのユダヤ人調査を命じられたガヴリ−ナ・デルジャーヴィンは、シナゴーグは迷信と反キリスト教的憎悪の巣、ユダヤ人自治機構カハルは危険な国家内国家、ユダヤ人は隣人の財産奪取を目的としていると報告した[213]。
オーストリア・ハプスブルク帝国編集
神聖ローマ皇帝カール6世(在位:1711年 - 1740年)のウィーンではユダヤ人の人口増加を防ぐために、1726年の法で、正式に結婚できるのは長男だけとされた[3]。この結婚制限法は、ボヘミア、モラビア、プロイセン、パラティナ、アルザスでも適用された[3]。この結果、多くのユダヤ人若者がポーランドやハンガリーに流出した[3]。
印刷術の発達によって、18世紀初頭には反ユダヤ的著作は毎年のように夥しい量が出版されるようになった[注 37]。
ハイデルベルク大学の東洋学・ヘブライ学者アイゼンメンガーは1700年に『暴かれたユダヤ教』を著したが[214]、オーストリア宮廷ユダヤ人のザームエル・オッペンハイマーによって発禁処分となり、アイゼンメンガーは無念のうちに4年後に死んだ[3]。しかし、アイゼンメンガー死後まもなくして、プロイセン王フリードリヒ1世の後ろ盾を得て、遺族が再刊し、以後、ドイツの反ユダヤ主義の枕頭の書となった[3]。
オーストリア継承戦争でユダヤ人がプロイセンのスパイとして活動したということから、1744年、オーストリア大公マリア・テレジアがボヘミアでユダヤ追放令を出した[3]。しかし、ヴォルフ・ヴェルトハイマーがユダヤ人の国際連帯活動を行い、フランクフルト、アムステルダム、ロンドン、ヴェネツィアのユダヤ人居住地は警戒態勢を敷き、ローマのゲットーには教皇に働きかけるよう指示があり、宮廷ユダヤ人の国際ネットワークの力によって、イギリスとオランダがマリアテレジアへ抗議して、マリアテレジアは追放令を解除した[3]。このウィーンでのユダヤ追放令が国家による大規模な追放政策としては最後のものとなった[3]。
近代編集
啓蒙思想編集
ヴォルテール、カント、フィヒテなど啓蒙思想家のなかでも反ユダヤ主義は多くみられた[215]。また、それはドイツの啓蒙思想、ドイツ観念論でも同様であった。
フランス啓蒙思想編集
1762年、ルソーは『エミール』で、ユダヤ人を「もっとも卑屈な民」と称し、ユダヤの神は怒り、嫉妬、復讐、不公平、憎悪、戦争、闘争、破壊、威嚇の神であり「はじめにただ一つの国民だけを選んで、そのほかの人類を追放するような神は、人間共通の父ではない」とした[217]。
同じ1762年、ヴォルテールはユダヤ人のイザーク・ピントへの批判に対して「シボレットを発音できなかったからといって4万2千人の人間を殺したり、ミディアン人の女と寝たからといって2万4千人の人間を殺したり、といったことだけはなさらないでください」と「キリスト者ヴォルテール」と署名して答えた[218][注 38]。1764年の『哲学辞典』ではヴォルテールは、ユダヤ人は「地上で最も憎むべき民」「もっとも忌まわしい迷信にもっとも悪辣な吝嗇を混ぜ合せた民」等と非難した[220]。しかし、ヴォルテールは啓蒙主義の進展に寄与したため、当時のユダヤ人側から厳しい評価が寄せられなかった[221]。
モンテスキューはオランダ人の一部の人以上にユダヤ的なユダヤ人はいないと旅行記で述べた[222]。
無神論者ドルバックはユダヤ人は脆弱でみじめな存在であり、その熱狂的、非社交的な宗教と常軌を逸した法の犠牲者で、迷信的な無分別の結果であるとし、卑しく常軌を逸した迷信は愚鈍なヘブライ人や堕落したアジア人にまかせておけばいいと論じた[201]。
ドイツ啓蒙思想とユダヤ人解放論編集
1776年、自由主義神学者のゼムラーは「無能にして不信心なユダヤ人」は「誠実なるギリシア人やローマ人とは比較の対象にすらならない」として、旧約聖書、とりわけエズラ書とネヘミヤ書にはキリスト教的精神が欠如しており、聖書として永遠に必要不可欠なものであるのかと問いかけた[223][224]。
1779年、フランソワ・エルがアルザスのユダヤ人を「国家内国家」として非難した[225]。「国家内国家」という表現はユグノーに対して使われたもので、1685年にはナントの勅令が廃止された[225]。
啓蒙専制君主フリードリヒ2世は1740年の『反マキャベッリ論』で、モーセが「神感を受けていなければ、大極悪人、偽善者、ないし作者が困っているときに劇に大団円をもたらしてくれる機械仕掛けの神を用いる詩人のように、神を利用していた詐欺師としか」みなしえない「モーセはたいへん稚拙だったので、ユダヤ人を導くのに、六週間で非常に通れたはずの道に四十年もかかった。彼は、エジプト人たちの知識をほとんど利用しなかった。」「ユダヤ人の先導者は、ローマ帝国の建国者(ロムルス)、ペルシア帝国の大王、ギリシアの英雄たち(テセウス)よりも、はるかに劣っていた」と述べた[164]。フリードリヒ2世はモーセ、キリスト、ムハンマドを詐欺師とする『三詐欺師論』などの無神論の影響を受けていた[227]。ただし、フリードリヒ父王はユダヤ人が一般職業に就くことを禁止したが、フリードリヒ2世はユダヤ人取扱を改善しており、ロスバッハの戦勝記念(1757年)に際しモーゼス・メンデルスゾーンはユダヤ人保護法のもと建設されたベルリンのシナゴーグで、ユダヤ人解放を実現した国王として祝福した[164]。
フリードリヒ2世は、1780年に『ドイツ文学論』 をフランス語で著述し[注 39]、ドイツ文学の惨状の原因として戦争の影響があり、またドイツが政治的な統一国家を作れないこと、さらにドイツ語が多種の異なる方言をもつ未発達な言語であり統一言語がないことなどにあるとした[228]。クラインは、フリードリヒ大王のプロイセンでは、言論の自由が保障されているが、服従が国家の核心にあったと述べ、またカントは日常の職務では自由を制約されると論じて、ハーマンはこれを批判した[228]。
プロイセン王国枢密顧問官クリスティアン・コンラート・ヴィルヘルム・ドーム[229]は、エルのユダヤ人非難文書に刺激されて、メンデルスゾーンとともにユダヤ人の解放と信教の自由を訴え、1781年9月に『ユダヤ人の市民的改善について』を発表し、ユダヤ人が特別な許可がなくては結婚もできず、課税は重く、仕事や活動が制限されていることを批判した[125][225][230]。ただし、ドームはユダヤ教の棄教を解放の条件とした[231]。
ゲッティンゲンのルター派神学者・ヘブライ学者ヨハン・ダーフィト・ミヒャエーリスは、悪徳で不誠実な人間であるユダヤ人は背が低く、兵士としても役立たずで、国家公民になる能力を欠いており、さらにその信仰は誤った宗教であるのに、ドームは職業選択の自由だけでなくユダヤ人が固有の掟に従うことまでを許しているとして、ドームを批判して、ユダヤ人解放を拒否した[225][232][233][234]。ミヒャエーリスは聖書と普遍史を批判したことでも高名だが、すべての言語が一つの言語、特にヘブライ語であったとは証明されていないとした[235]。
1782年、オーストリアの神聖ローマ皇帝ヨーゼフ2世がボヘミアとオーストリアのユダヤ人の市民権を改善する寛容令を公布した[225]。
ユダヤ人の工場経営者で哲学者であったモーゼス・メンデルスゾーンはユダヤ啓蒙運動を展開して、詩篇とモーセ五書をドイツ語に翻訳し、ユダヤ人子弟の教育では従来の律法重視を改めて世俗的な科目や職業訓練を訴えて、ユダヤ人のキリスト教社会への同化を進めた[225]。1770年にはメンデルスゾーンは街路を歩くと罵声を浴びせかけられるのが日常であったため、外出しないようにしていた[236]。1782年、メンデルスゾーンはメナセ・ベン・イスラエルの『イスラエルの希望』のドイツ語訳前書きで、国家が宗教への介入をやめるという政教分離原則を主張しながら、ユダヤ人社会の宗教的権威から独自の裁判権を放棄するよう求めた[225]。
フランス革命と革命戦争の時代編集
1789年、フランス革命が勃発し、人権宣言が出された。フランス革命戦争(1792年-1802年)とそれに続くナポレオン戦争(1803年–1815年)で、オーストリア帝国、プロイセン王国がフランスに敗れ、神聖ローマ帝国が崩壊した。
フランス革命と反革命、ナポレオンの時代編集
フランスのアルザスでは、1784年、地方領主が徴収していたユダヤ人通行税が廃止され、同年7月にはユダヤ人への農地所有が認められた[225]。これは外国人のユダヤ教徒の排除が目的であり、ユダヤ人の当地の人口を抑制するための政策であった[225]。
1787年、メッスの王立学芸協会は「ユダヤ人をフランスでよりいっそう有益かつ幸福にする手段は存在するか」で論文を公募し、アンリ・グレゴワール神父とザルキント・ウルウィッツのユダヤ人擁護論が表彰された[225][237][238]。グレゴワール神父は1789年ジャコバン派の三部会議員となり、ユダヤ人解放に尽力し、ウルウィッツは著書『ユダヤ人擁護論』を書いて、ミラボーに注目された[225][239]。
ミラボー伯爵はドームとベルリンのサロンで親交して影響を受けて、フランス革命でユダヤ人解放を実現した[125]。1791年1月28日、フランス革命中のフランスでは、イベリアから移住したポルトガル系ユダヤ人と、アヴィニョン教皇領のセファラディームの職業と居住地が保障された[240]。反対者によって国民議会は分裂寸前となったが、1791年9月27日にユダヤ人解放令は議決し、11月に発効した[125]。しかし、革命の動乱でユダヤ人が解放されることはなく、ユダヤ人の解放政策が進展したのはナポレオン時代以後のことであった[241]。
フランスの覇権が拡大するなか、ドイツではドイツ至上主義・ゲルマン主義が台頭すると同時に、反フランス主義と反ユダヤ主義が高まっていった。ドイツの教養市民はゲーテを例外として、フランス革命を「理性の革命」として熱狂的に当初は歓迎したが、革命後の恐怖政治が現出すると革命を憎悪するようになった[242]。詩人クロプシュトックはフランス革命を称えた数年後に「愚民の血の支配」「人類の大逆犯」としてフランスを糾弾した[242]。当初革命を称賛したフリードリヒ・ゲンツは1790年にバークの『フランス革命の省察』をドイツ語に翻訳した[242]。プロイセンではヴェルナー宗教令への反対者は「ジャコバン派(革命派)」として糾弾され、シュレージエンでは革命について語っただけで逮捕され。オーストリアでは外国人の入国が制限された[242]。フランス以外の国が反革命国家となった要因としては、アルトワ伯などのフランスの亡命貴族たちの活躍があった[242]。アルトワ伯はコーブレンツに亡命宮廷をひらき、ラインラントを拠点として反革命運動を策動した[242]。
1791年6月、ルイ16世とマリー・アントワネット国王一家がフランスを逃亡しようとしたが、国境付近で逮捕されたヴァレンヌ事件が起きた。啓蒙君主であった神聖ローマ皇帝レオポルト2世は妹のマリー・アントワネットを危惧し、プロイセン王フリードリヒ・ヴィルヘルム2世と共にピルニッツ宣言を行い、フランスに王権復旧を要求した[242]。神聖ローマ帝国とプロイセンの反革命宣言はフランスへの挑発となって、1792年3月1日、フランスの好戦派はオーストリアに宣戦布告し、プロイセンもオーストリアの同盟国として参加して、革命戦争がはじまった[242]。フランスの革命勢力は、外国の反革命勢力を倒し、また「自由の十字軍」として好戦的であり、ジロンド党のブリソは「戦争は自由をかためるために必要である」と演説した[242][243]。革命側は短期決戦による勝利を期したが、軍の貴族将校の半数が亡命しており、フランス軍は敗退すると、革命派は国王一家がオーストリア・プロイセン軍と内通しているとみなして宮殿を襲撃して国王一家を幽閉する8月10日事件が起こった[243]。また、反革命派1200人が虐殺される九月虐殺が起こった[243][244][245]。9月、フランス国民軍はヴァルミーの戦いで傭兵を中心としたプロイセン軍に勝利して、フランスでナショナリズムが高揚した[243]。この勝利によって、革命戦争が革命対反革命の戦争から、フランスの大陸制覇戦争へと性格を変えていった[242]。
1793年1月にルイ16世が処刑されると、ドイツ側にイギリス、スペイン、イタリアなどの反革命諸国家が参加し、第一次対仏大同盟が形成された[243]。フランスは1793年8月23日に国家総動員法を発令して徴兵制度を施行し、史上初の国民総動員体制をもって恐怖政治のもとに戦時下の非常処置がとられた[243]。戦争はフランス軍に有利な情勢となり、1794年9月、フランス軍はオランダへ侵攻し、ネーデルラント連邦共和国は崩壊、1795年1月にはフランスの傀儡国(姉妹共和国)としてバタヴィア共和国が宣言された。バタヴィア共和国ではユダヤ人にも公民権を授与した[241]。1794年から1795年にかけてウィーンでは「ドイツ・ジャコバン派」が処刑された[242]。ゲオルク・フォルスターたちはマインツ共和国をつくったが、マインツがプロイセンとオーストリアの連合軍に占領され崩壊した[242]。
1795年4月、フランスはプロイセンを破り、バーゼルの和約でプロイセンはフランス革命政府によるラインラント併合を承認して対仏連合から退き、ポーランド分割に関心を向けた[242]。これによりオーストリアは単独でフランスと対峙した[242]。1796年以来、ナポレオン・ボナパルト率いるフランス軍はオーストリア軍を連破し、1797年10月のカンポ・フォルミオ条約によって、フランスはイオニア諸島とネーデルラント、ライン川左岸地区を保有し、オーストリアはヴェネツィア共和国を領有した[246]。これによって、対仏大同盟は崩れ、各地にフランスの衛星国がつくられた[243]。
ナポレオンは征服した土地でナポレオン法典を施行してユダヤ人を「解放」していった[247]。イタリア、ローマ教皇領、ライン地方のユダヤ人は市民権を授与された[241]。他方、以前の身分制度に満足していたアムステルダムのセファルディは市民権を不必要としたがユダヤ共同体も分裂状態となっている[241]。各地のユダヤ人はナポレオンを解放者として歓迎し[247]、フランスはユダヤ人解放者としての名声を確立した[241]。しかし、ナポレオンはユダヤ人はイナゴの大群のような臆病で卑屈な民族であるとして「ユダヤ人の解放はこれ以上他人に害悪を広めることができない状態に置いてやりたいだけだ」と述べ、ユダヤ人の非ユダヤ教化を望み、さらにユダヤ人とフランス人との婚姻を進めればユダヤ人の血も特殊な性質を失うはずだとユダヤ人種の抹消を目標としていた[241]。なお、ナポレオンのユダヤ政策の作成過程では、好ましくない偏見があるので公文書から「ユダヤ人」名称を一掃することが提案されたこともあり、ドイツ諸邦では行政で「モーゼ人(Mosaiste)」が奨励されたが定着しなかった[222]。
1798年、ロシア、トルコが参戦し、オーストリアも戦列に復帰して第二次対仏大同盟が結ばれ、1799年11月、ナポレオンがクーデターによって政権を握った[243]。
ドイツ観念論編集
ドイツ観念論の哲学者イマヌエル・カントは、モーゼス・メンデルスゾーンなどユダヤ人哲学者と交流していたが著作では反ユダヤ主義的な見解を繰り返し述べており、『単なる理性の限界内での宗教』(1793年)で「ユダヤ教は全人類をその共同体から締め出し、自分たちだけがイェホヴァ−に選ばれた民だとして、他のすべての民を敵視したし、その見返りに他のいかなる民からも敵視されたのである」[249][250]と述べ、また晩年の『実用的見地における人間学』(1798年)でも「パレスティナ人(ユダヤ人)は、追放以来身につけた高利貸し精神のせいで、彼らのほとんど大部分がそうなのだが、欺瞞的だという、根拠がなくもない世評を被ってきた」と書き[249][251]、『諸学部の争い』ではユダヤ人がキリスト教を公に受け入れればユダヤ教とキリスト教の区別が消滅し、ユダヤ教は安楽死できると述べている[248]。カントは、啓蒙思想によるユダヤ人解放を唱えながら、儀礼に拘束されたモーセ教(ユダヤ教)を拒否した[252]。他方のモーゼス・メンデルスゾーンはラファータ−論争でキリスト教への改宗を断じて拒否した[253]。また、カントは、フランス革命を賛美しつつも、教会や圧政などの「外界からの自由」というフランス革命の自由観を批判して、自律的な自己決定という概念によって、外界の影響に左右されない「完全な自由」観を生み出した[254]。カントは、人間は外なる世界ではなく、自己の内なる世界、自律的な精神の中の道徳律に従うときに自由であると論じたが、このようなカントの哲学が政治に適用されると、自律性と自己決定をもって道徳に従う政治がよい政治とされ、自決権の獲得が政治目標となる[254]。こうしたカントの思想はフィヒテによって継承された。
当初、フランス革命の熱心な支持者であったドイツの哲学者ヨハン・ゴットリープ・フィヒテは「フランス革命についての大衆の判断を正すための寄与」(1793年)で革命を理論的に根拠づけるとともに、ユダヤ人がドイツにもたらす害について述べた[249][255]。フィヒテは「ユダヤ人から身を守るには、彼等のために約束の地を手に入れてやり、全員をそこに送り込むしかない」[256]「ユダヤ人がこんなに恐ろしいのは、一つの孤立し固く結束した国家を形作っているからではなくて、この国家が人類全体への憎しみを担って作られているからだ」とし、ユダヤ人に市民権を与えるにしても彼らの頭を切り取り、ユダヤ的観念の入ってない別の頭を付け替えることを唯一絶対の条件とした[249]。フィヒテは、世界は有機的な全体であり、その部分はその他の全ての存在がなければ存在できないとされ、個人の自由は全体の中の部分であり、個人より高いレベルの存在である国家は個人に優先すると論じて、個人は国家と一体になっ たときに初めてその自由を実現すると、主張した[254]。このようなフィヒテの国家観はシェリング、ミューラー、シュライエルマッハーによって支持され[254]、他方20世紀初期のシオニストもフィヒテを国民としての強い自覚によって道徳性を高める思想の先駆者とみなし、反シオニストのユダヤ系哲学者ヘルマン・コーエンもフィヒテは国民が全体の自由に奉仕するという旧約聖書の理想を認めたと称賛した[257]。
フィヒテと同じく当時はまだフランス革命の熱心な支持者であったフリードリヒ・シュレーゲルは「共和主義の概念にかんする試論」(1793年)で民主的な「世界共和国」を論じて、革命的民主主義に疑念を呈したカントの『永遠平和のために』(1795年)を乗り越えようとしたが、シュレーゲルもナポレオン時代にはドイツ国民意識を鼓舞する役割を果たした[255]。
1799年、自由主義神学者ゼムラーの弟子シュライアマハーは宗教論第5講話で、ユダヤ教は聖典が簡潔し、エホバとその民との対話が終わったときに死んだと述べた[258][259]。また1804年、国家は道徳的権威であり祖国は生きることに最高の意味を与えてくれると論じた[260]。
ヘーゲルはユダヤ人解放を支持した[261]。しかし、『宗教哲学講義』でユダヤ人の奴隷的意識と排他性について論じ[262]、『精神現象学』(1807年)でユダヤ人は「見さげられつくした民族であり、またそういう民族であった」[263]、1821年の『法の哲学』ではイスラエル民族は自己内へ押し込められ無限の苦痛にあるのに対して、ゲルマン民族は客観的真理と自由を宥和させるとした[249][264]。『キリスト教の精神とその運命』ではユダヤ人は「自分の神々によって遂には見捨てられ、自分の信仰において粉々に砕かれなければならなかった」「無限な精神は牢獄に等しいユダヤ人の心の中には住めない」と批判した[249][265]。さらにヘーゲルは、ニグロはあらゆる野蛮性を持った自然人であり、その性格の中に人間を思い起こさせるものは何もないとした[261]。ヘーゲルによれば、世界史はアジアに始まり、ヨーロッパに終わるが、アフリカは世界史の外にとどまる。東洋ではひとりだけが自由であり、ギリシア・ローマ世界は幾人かが自由であるのに対して、ゲルマン世界ではすべての者が自由であるとした[261]。ゲルマン民族は純粋な内在性を持ったため精神が解放された。しかし、ラテン民族は分裂を保持していたため魂という精神の全体性がないため、自己の最も深いところで自己にとって外的存在なのであるとした[261]。またヘーゲルは若い頃の未刊論文で「キリスト教はヴァルハラをさびれさせてしまい、神聖は小森を伐採し、民衆の空想を恥ずべき迷信、悪魔的な毒として窒息させた」と書いた[261]。
哲学者シェリングは白人種は最も高貴な人種であり「ヤペテの、プロメテウスの、コーカサスの人種の祖先のみが、その行為によって観念(イデー)の世界の中に入り込むことできる唯一の人間である」とし、他の人種は奴隷になるか絶滅する運命にあると論じた[261]。また、ユダヤ人は民族をなさず、純粋な人類の代表であり、他の者よりも観念の世界に近づくことができるとした[261]。
哲学者ショーペンハウアーは白人種と新約聖書の起源はインドであるとし「インドの知恵から出たキリスト教の教義は、粗雑なユダヤ教というまったく異質な古い幹をおおった」「人類は、アダムにおいて誤りを犯し、その時以来罪、堕落、苦悩、死の絆の中に捕らえられていたが、救世主によって罪をあがなわれた。これがキリスト教や仏教の見方である。世界はもはや『すべては良い』としていたユダヤの楽観主義の光の中に現れることはない」と述べた[261][266][267][注 40]。ショーペンハウアーにとって、シナゴーグも哲学の講堂も本質的に大差はないが、ユダヤ人はヘーゲル派よりも質が悪いと考えていた[267][268]。ショーペンハウアーは「ユダヤ人は彼らの神の選ばれた民であり、神はその民の神である。そしてそれは、別にほかのだれにも関係のないことである」と述べている[267][269]。またショーペンハウアーは、西欧はユダヤの悪臭によって窒息させられており、ユダヤ思想の影響を呪い「いつかヨーロッパがあらゆるユダヤ神話から純化される。おそらくアジア起源のヤペテ系の人びとが彼らの生地の聖なる宗教を再び見出す世紀が近づいている」と述べた[261]。ショーペンハウアーはアーリア主義とセム主義の二元的な対照をドイツで普及させた[261]。
ナポレオン戦争と神聖ローマ帝国の崩壊編集
1800年、ナポレオンがマレンゴの戦いやホーエンリンデンの戦いでオーストリア軍を撃破し、1801年のリュネヴィルの和約で神聖ローマ帝国はライン川西岸のラインラントを喪失した[242][注 41]。講和後に作家シラーはドイツ帝国とドイツ国民は別であり「ドイツ帝国が滅びようと、ドイツの尊厳がおかされることはない」と述べた[270]。
1803年2月25日の帝国代表者会議主要決議により、帝国騎士領は全て取り潰され、聖界諸侯ではマインツ選帝侯のみレーゲンスブルクに所領を得たが、ケルン、トリーアの聖界諸侯は消滅した[242]。アウクスブルク、ニュルンベルク、フランクフルト・アム・マイン、ブレーメン、ハンブルクおよびリューベックの6都市と、ライン左岸4都市をのぞく41の帝国自由都市が陪臣化された[242]。ナポレオンは西南ドイツを自立させて、プロイセンとオーストリアに対する政策をとった[242]。バーデン、ヴュルテンベルク、バイエルンなど西南ドイツ諸国は、失ったライン左岸の補償として領地を拡大することとなった[242]。
1803年、イギリスとフランスは再び開戦し、ナポレオン戦争(1803年–1815年)がはじまる。イギリスは、オーストリア帝国、ロシアなどと第三次対仏大同盟を結成した。
1804年、ナポレオンがフランス皇帝を称したのに対してフランツ2世はオーストリア皇帝を称した(オーストリア帝国)[242]。この1804年、オーストリア帝国外相メッテルニヒの秘書官を務めたフリードリヒ・フォン・ゲンツ(Friedrich von Gentz,1764-1832)は、ユダヤ人サロンの常連であったが「近代世界のすべての害悪が最終的にすべてユダヤ人に起因している」と書簡で本音を述べた[271]。ゲンツは、フランス革命が起きた時には「理性の革命」であり「哲学の最初の勝利」として熱狂的に歓迎したが、やがて反革命の騎手となっていた[242]。
1805年からの第三次対仏大同盟戦争で、フランス軍は1805年10月のウルム戦役でオーストリアを降伏させ、12月アウステルリッツの戦い(三帝会戦)でオーストリア・ロシア連合軍に勝利した[242]。プレスブルクの和約でドイツは「帝国」ではなく「連盟」と呼ばれ、皇帝は「ローマ=ドイツ皇帝」でなく「「ローマ=オーストリア皇帝」を名乗り、また、フランスの同盟国であったバイエルンとヴュルテンベルクとバーデンは選帝侯国から王国・大公国に昇格し、バイエルン王国にはオーストリア領チロル、バーデン大公国にブライスガウが割譲された[242]。
1806年7月12日、バイエルン、ヴュルテンベルク、バーデンなど西南ドイツの16領邦諸国家はナポレオンを保護者とするライン同盟(ラインブント)を結成し、帝国脱退を宣言した[242]。1806年10月、フランツ2世はオーストリア皇帝の称号は保持したまま、神聖ローマ皇帝としての退位を宣言し、こうして1512年以来の「ドイツ国民の神聖ローマ帝国」は終焉を迎えた[242][272]。この頃のドイツは大半がフランスの支配下にあり、マインツ、ケルン、トリーアなどのライン左岸地域は1794年以来フランス軍政下にあり、1801年にフランスに割譲された[273]。ナポレオンはライン同盟をプロイセンやオーストリアに対する緩衝地帯として、またフランスはライン同盟と軍事援助協定を結んで、ライン同盟からの軍事協力を確保した[273]。ライン同盟はその後、ナポレオンの傀儡国家であるヴェストファーレン王国、ザクセン王国など39のドイツ連邦が加盟した[273][注 42]。
フランス占領下のドイツとその解放編集
1806年にプロイセンが、そして1807年にプロイセンの同盟国ロシアがフランスに敗北した[注 43]。ティルジットの和約によってプロイセンは、エルベ川以西の領土とポーランドを失い、国の面積は半分以下となり[注 44]、巨額の賠償金を課せられたうえに、15万のフランス軍が進駐した[273]。プロイセン旧領の北西諸邦にはナポレオンの弟ジェロームを王とするヴェストファーレン王国が置かれた[273]。
1807年にプロイセンがフランスに敗北するとオーストリアは独力で模索することとなり、1808年には一般兵役義務制度が導入され、正規軍とならんで民兵制が施行された[273][注 45]。オーストリア外相シュターディオン伯爵は国内で愛国主義キャンペーンを実施して、バークの『フランス革命についての省察』を翻訳していた政論家ゲンツや、フリードリヒ・シュレーゲルもこのキャンペーンに協力した[273]。しかし1809年、オーストリアはフランスに敗れ、シェーンブルンの和約でオーストリアはザルツブルク、ガリツィア、チロルを放棄し、巨額の賠償金を課せられた[273][注 46]。
ナポレオン占領地域では、反フランス的報道は厳しく弾圧され、バーデンでは1810年に新聞発行が停止され、プロイセンでは検閲局が作られ、ラインラント新聞はフランス語との2言語表記が義務づけられた[138]。ニュルンベルクの書店主パルムは『奈落の底にあるドイツ』 というビラを配ったために1806年に銃殺された[138][274]。ナポレオンにライン左岸を奪われ、神聖ローマ帝国が解体し、40のドイツ領邦が支配され、新聞や出版の統制が進むと、ドイツ人は自分たちの弱さを自覚し、失望が広がるとともに、反ナポレオン運動はドイツ国家とドイツ民族を復古させるドイツ国民運動となっていった[138]。
他方、戦勝国のフランスでは、1807年にユダヤ陰謀説が取沙汰されるようになり、その後、フリーメイソン陰謀説と交代して取沙汰されていき、これが19世紀以降の反ユダヤ主義の潮流と合流していった[275]。
プロイセンでは1810年から宰相ハルデンベルク指導のもと、改革が進められた[276]。ハルデンベルクは「リガ覚書」で「不死鳥よ、灰の中からよみがえれ」と書き、君主政治における民主的原則の実現が目指された[276]。プロイセン改革では、フランス革命の刺激を積極的に受け止められ、自由と平等が主張されたが「フランス革命の血まみれの怪物どもがその犯罪の隠れみのした『自由と平等』」ではなく、君主国の賢明な方法によると説かれた[276]。
ユダヤ教徒の「解放」と改宗編集
1812年にプロイセン王国がユダヤ教徒解放勅令を出す[277]。前年の1811年にハルデンベルクの改革でユダヤ人の土地所有権が認められると、プロイセン王国の貴族は、国家の敵であるユダヤ人はやがて国の土地を買い占め、プロイセンはユダヤ人国家になってしまうと抗議した[278]。法学者サヴィニーは1815年にユダヤ人解放令を批判して、従来のユダヤ人例外措置を復活して、ユダヤ人をゲットーに再送するべきだと主張した[279]。
ゲーテもユダヤ人解放はドイツ人の家庭の倫理を台無しにすると批判し、ユダヤ人解放の背後にロスチャイルド家を見ていた[280]。またゲーテは1811年に刊行した『詩と真実』において、フランクフルトのユダヤ人ゲットーに対して「少年時代だけでなく青年になっても、私の心を重くした無気味なもの」として「狭くて、不潔で、騒がしく、いやらしい言葉のアクセント、 それらが一つになって、市門のそばを通りすがりにのぞいて見るだけで、 なんともいえず不快な印象をあたえられた」と書いたが、ユダヤなまりのドイツ語を学習してもいる[281]。1829年に刊行した『ヴィルヘルム・マイスターの遍歴時代』でゲーテは「人間は避くべからざるものに順応するがよい」として、キリスト教はそれを助勢して忍耐「つまり、たとい願わしい享楽のかわりに最も厭わしい苦悩が負わされるにしても、存在がなおどんなに貴い賜ものであるかを感じる甘美な感情」を生み出し、教育によって幼い時からキリスト教の長所を教え、最後に知識を与えて、始祖イエスに関する報道は神聖なものとなるが「この意味で、われわれはいかなるユダヤ人をもわれわれの仲間に許容しない。」「なぜなら、ユダヤ人がこの至高の文化の起源と由来を否認しているのに、どうしてわれわれはユダヤ人がこの至高の文化に関与することを許せるだろうか」と書いている[282]。
ドイツでのユダヤ人解放は、ユダヤ人のドイツ人への同化とキリスト教への改宗を前提にしており、1822年に創立された「ユダヤ人・キリスト教普及協会」などが改宗を後押しした[283]。
ユダヤ人解放の時代のドイツのユダヤ人は、理性を使えば誰でも人間性を高めることができるとする啓蒙思想と、ドイツ社会に融和しようとドイツのビルドゥング(教養による人間形成)を新しい信仰心として受けいれた[260]。進取的ユダヤ人のうち3万人はキリスト教社会に同化するために率先してキリスト教へ改宗した[247]。ベルネやハイネはドイツ人名に改名して改宗し、ユダヤ人法学者エドゥアルト・ガンスや作曲家フェリックス・メンデルスゾーンも改宗した[247]。しかし、多くのユダヤ人はドイツの神話や感情の世界を退けがちであったためユダヤ人はドイツの民衆から孤立していった[260]。
ロマン派とゲルマン主義編集
ドイツ・ロマン主義ではフランスの啓蒙主義に対抗して、ドイツ固有の国民文学の創造が主張された[284]。1799年の『キリスト教世界あるいはヨーロッパ』でフランス革命は神聖なるものを根こそぎにしたと考えたノヴァーリス[285]、ヘルダーリンにも「選民としてのドイツ人」という概念が見られた[286]。
フィヒテの思想的影響を受けた作家エルンスト・モーリツ・アルントは農奴制廃絶運動を行った後、1806年の著書『時代の精神』や1813年の歌「ドイツの祖国とは何か」などで、ナポレオンのドイツ支配を批判した。アルントはナポレオン批判のなかで、ゲルマン人種が選民であると論じ、自由で誠実なゲルマン人の血の純粋さの根拠として、タキトゥスや創世記を引き合いに出して、主の怒りである大洪水は雑種化に対するものであったとする[286]。ただし、アルントはドイツ人種への脅威としては主に「フランス人種」を見ており、ユダヤ人に対しては、ユダヤ系ポーランド人のドイツ受け入れには反対したものの、ユダヤ人は改宗すれば消滅すると考えていた[286]。アルントの「ゲルマン人の血」の思想は、ハインリヒ・フォン・クライスト、ケルナー、愛国詩人のマックス・フォン・シェンケンドルフ(Max von Schenkendorf)と並んでドイツ国民に武器を取るよう促したが、他方のフランスでも革命後の国歌「ラ・マルセイエーズ」の歌詞では「汚れた血」についてあるなど、民族の血を優劣でみることに両国で違いはなかった[286]。ナポレオン戦争での敗北がドイツ人にとって屈辱的であったことから、ゲルマン性への狂信が教科書でも載せられるようになっていった[286]。教育家コールラウシュ[287]の教科書「ドイツ史」(1816年)ではドイツ人の純潔性が、ユダヤ人、ギリシア人、ラテン人とは好対照をなすとされた[286]。
政治経済学者のアダム・ミュラーはエドマンド・バークをタキトゥスと並べて賞賛し、またノヴァーリスはゲルマン詩の精神によって世界を征服しようとしたと称賛して、宗教改革とフランス革命によって崩壊していく中世的ゲルマン的な世界と中世の普遍的な団体「ゲマインデ」を賛美した[288]。ミュラーは「いつの日か、ヨーロッパ諸民族からなる一大連邦が築かれるであろうが、その色調はなおドイツ的なものとなるであろう」と予言して、ヨーロッパの政体の偉大なものはすべてドイツに由来すると主張した[286]。アダム・ミュラーはナポレオン支配に対してドイツ民衆の抵抗運動(ヘルマンの戦い)を呼びかけ、またハルデンベルクの改革を批判した[288]。ミュラーは1811年にウィーンに亡命して、メッテルニヒに仕えた。
1806年から1815年にかけて、作家のブレンターノ、アルニム、『ドイツ民衆本』を刊行したヨハン・フォン・ゲレス、グリム兄弟たちが寄り集まったハイデルベルクでドイツ民族主義の「ドイツの火」が点火された[270]。アルニムとブレンターノはドイツの民謡をあつめて『少年の魔法の角笛』(1806-8)を出版した[289]。ゲレスは『ドイツの没落とその再生の条件』(1810年)で、かつてのユダヤ王国のようにドイツは現在の聖なる土地であるとした[286][290]。グリム兄弟は民話を蒐集し、『子供と家庭のための童話』(1812-1822)、『ドイツの伝説』(1816 -18)を出版し、『ドイツ語辞典』(1852)ではユダヤ人を「利得ずくで、暴利を貪り、不潔である」と解説した[3][289]。ヤーコプ・グリムは1835年に『ドイツ神話学』を刊行し、ワーグナーにも影響を与え[291]、また1848年革命でのドイツ憲法動議では、ドイツ憲法はドイツフォルクの信条でなくてはならないと述べた[292]。
1807年12月から翌1808年にかけてフランス軍占領下のベルリン学士院講堂において、哲学者フィヒテは『ドイツ国民に告ぐ』を連続講演し、フランス文化に対するドイツ国民文化の優秀さを説き、また、ドイツ国民の統一、ドイツ人の内的自由、商業上の独立を主張し、ドイツ国民精神を発揚しドイツ解放戦争を準備する力となった[270]。フィヒテはすでに、個人は、個人より高い存在である国家と一体化することによって自由を実現すると論じていたが、『ドイツ国民に告ぐ』では、民族・国民(ネーション)に個人が没入することによって自由を達成すると論じられ、唯一正統な統治形態は国民による自治であると主張した[254]。ドイツでは出版の自由が著しく制限されていたが、フィヒテの講演やシュライエルマッハーの説教は口コミで反響が広がった[138]。
1808年、ベルリンでクライストが『ヘルマンの戦い』を書き、ナポレオンへの憎悪とドイツ民族の蜂起を託し、ドイツの解放戦争が期待された[270]。
進歩主義的な教育者フリードリヒ・ルートヴィヒ・ヤーンはアルント、フィヒテ、シュライアーマッハーとならんでドイツ国民運動の有名な組織者であった[293]。ヤーンは1810年に秘密結社ドイツ同盟(Deutscher Bund)を結成しドイツ全域にわたる愛国組織の模範となり、またトゥルネンというドイツ国民体育を始めた[293]。ヤーンは、1810年に著わした『ドイツの国民性』で、ドイツの国民性に基づいた全人教育をめざして体育を提唱するなかで「混血の民は国民再生産の力を失う」として、フランスの影響力を排除する国民革命を目指して、ドイツ語からの外国起源の人名の抹消、民族衣装の着用などの民族浄化を訴え、原始ゲルマン人の末裔であるドイツ人と古代ギリシア人だけが聖なる民であると論じた[294][295][296][297]。ヤーンに先立って教育学者ヨハン・クリストフ・グーツ・ムーツが1793年にルソーの影響下に執筆した『青少年のための体育』において原始ゲルマン人の身体を理想的な目標として称賛した[297]。ヤーンは「ドイツを救うことができるのはドイツ人のみである。異邦の救い主はドイツ人を破滅に導くことしかできない」とした[298]。
1813年、言語学者でプロイセン政府大使であったフンボルトは「ドイツはひとつの国民、ひとつの民族、ひとつの国家である」と断言し、ドイツは自由で強力でなければならない「ただ外にむかって強力な国民のみが、すべての内的聖化がそこから流れ出る精神を内に蔵することができる」と宣明した[270]。
解放戦争編集
フランスの支配下にあったプロイセンでは反ナポレオン感情が保持され、ドイツ解放戦争(ナポレオン戦争)となった。1812年、ナポレオンは60万の大陸軍を率いてロシア遠征を開始した[270]。ナポレオン軍の3分の1は、ライン同盟諸邦、プロイセン、オーストリアなどのドイツ人であった[270]。ドイツ軍のなかではナポレオン側に立つことを潔しとせずに寝返る者もおり、『戦争論』で知られるプロイセン将校クラウゼヴィッツはロシア軍へ身を投じた[270]。1812年12月30日、プロイセン将校ヨルク・フォン・ヴァルテンブルク(ヨルク)将軍は、国王フリードリヒ・ウィルヘルム3世の同意を待たずに専断して、ロシア軍とタウロッゲン協定を結んで部隊を中立化し、ナポレオン軍から離脱した[270]。
プロイセンとロシアが停戦すると、ヨルク軍が入った東プロイセンから北ドイツ諸邦でフランスの支配への蜂起に繋がっていき、プロイセン王国の元首相でロシア帝国の皇帝顧問カール・シュタインがロシアを説得して1813年2月27日にプロイセンとロシアが同盟した[270]。プロイセンでは一般兵役義務が布告され、国軍と義勇軍が組織された[270]。3月16日に、フランスへ宣戦が布告され、翌日プロイセンでは国王フリードリヒ・ウィルヘルム3世が「わが国民へ」で祖国解放のための国民の決起が訴えられた[270]。3月25日のカーリッシュ宣言では、ライン同盟の解散が宣言され「ドイツ国民の本源的精神からうまれる、若返った、強力な、統一されたドイツ帝国」の再興が約束された[270]。ドイツ解放戦争の中心にいたのはシュタインであり「祖国はただひとつドイツ」とするシュタインはライン同盟諸君主を軽蔑し憎悪し、ライン同盟諸国家の主権剥奪を計画した[270]。愛国記者アルントはシュタインとともにして、フランスの殲滅を鼓吹し、戦死した詩人ケルナーはドイツの聖戦を歌った[270]。そして、学生、手工業者、農民の若者たちが、身銭を切って武装し、志願兵団や義勇兵団に身を投じ、反ナポレオン感情がこれまでになく高まった[270]。ドイツ解放戦争で教育者フリードリヒ・ルートヴィヒ・ヤーンは1813年、リュッツォウ少佐と抗仏組織リュツォー義勇団を創設し、体操など体育教育を普及させ「体操の父」としてドイツの国民的英雄となった[295]。ヤーンの傘下には学生結社ブルシェンシャフトもあった[295]。ただし、リュツォー義勇団にはユダヤ人の参加者もおり、ユダヤ人を排斥していたわけではない[295]。
1813年6月にイギリスが、7月にスウェーデンのベルナドットがプロイセンとロシアの同盟に参加し、8月11日、オーストリアもフランスへ宣戦して、第六次対仏大同盟が成立した[270]。10月の最大規模の戦闘ライプツィヒの戦い(諸国民の戦い)で、36万の対仏連合軍はグナイゼナウの指揮下、19万のフランス軍を破った[270]。メッテルニヒはライン川で講和しようとしたが、アルントはライン川はドイツの川で、国境ではないと論じ、ゲレスも反ナポレオンの論陣を張った[270]。1814年にメットラーカンプと共同してハンブルク市民軍を創設したフリードリヒ・クリストフ・ペルテス(Friedrich Christoph Perthes) はゲレスへの手紙で「ドイツ人は選ばれた民、人類を代表する民である」と述べた[286]。対仏連合軍は1814年3月30日にパリへ入城し、ナポレオンはエルバ島に流され、こうしてナポレオンのドイツ支配は打倒された[270]。
ウィーン体制(1815-1848)の時代編集
ナポレオンの敗北以降のウィーン会議(1814-1815年)では1792年以前への復帰と勢力均衡が原則とされた[299]。また各地のナポレオン法典は無効とされ、ユダヤ人政策は各国家の自由裁量となった[247]。
ウィーン会議以降の国際秩序をウィーン体制と呼び、1848年革命に崩壊するまでの時代を指す[300]。ナポレオン戦争に勝利したオーストリア、ロシア、プロイセンの復古勢力は革命の再発を防ぐために、1815年にキリスト教的友愛による平和を提唱する神聖同盟を締結、オーストリアの宰相メッテルニヒが主導して1818年にイギリスと敗戦国フランスを加えた五国同盟を締結してウィーン体制を確立した[300]。五国はドイツの自由主義運動を弾圧した[300]。
スペインではナポレオン軍の敗北によりジョゼフ・ボナパルトは追放され、スペイン・ブルボン復古王政のフェルナンド7世が復位した。これに対して自由主義者リエゴがスペイン立憲革命を起こし、イタリアでもカルボナリ党がスペインを模倣してナポリ・ピエモンテで蜂起したが、革命の波及を恐れた五国同盟によって両者は鎮圧された[300]。
他方で、イスパノアメリカ独立戦争(1808-33)などを通じてラテンアメリカ諸国が相次いでスペイン帝国からの独立を果たし、スペインは中南米植民地を失っていった(ラテンアメリカの独立)。さらに1821年からオスマン帝国よりの独立を目指したギリシャ独立戦争が始まり、これをめぐる諸国の利害衝突によりウィーン体制は揺らいだ。当初ウィーン体制は正統主義を主張してギリシャの独立を否定していたが、ロシアが正教会弾圧を理由に介入を開始し、さらにイギリスとフランスが介入、ナヴァリノの海戦や露土戦争で連合軍に敗北したオスマン帝国は1832年ギリシャ独立を認めた。列強はバイエルン王子オットーをギリシャ王オソン1世とするギリシャ王国を樹立した。
一方、1830年のフランス7月革命に対抗してロシア、オーストリア、プロイセンが1832年10月に旧秩序維持を再確認したが、革命干渉を忌避したイギリスとフランスが真摯協商を結んだことでウィーン体制は分裂し、各国の1848年革命によって崩壊した[300]。
ドイツ編集
愛国学生運動(ブルシェンシャフト)と自由主義編集
ウィーン会議で承認されたウィーン議定書によって出現したウィーン体制により、オーストリア帝国主導でかつての神聖ローマ帝国の領域にほぼ合致したドイツ連邦(Deutscher Bund)が成立した[138]。しかし、ドイツ連邦はかつての神聖ローマ帝国の再興とはいいがたく、ナポレオン統治下の陪臣化で消滅した群小諸邦の君侯は復位できなかった[301]。また、ドイツ国民にとっての新体制ドイツ連邦は、従来の領邦国家体制と変わらず、対ナポレオン戦争=ドイツ解放戦争で一体となって戦い、国民的な国家を期待していたドイツ国民は失望した[138]。ライン川西岸一帯のラインラントはプロイセン王国に割譲され、また、プロイセンはオーストリア主導に反発を強めた。ウィーン体制は1848年革命で崩壊した。
エルンスト・アルントの発案で1814年10月に諸国民戦争(ライプツィヒの戦い)1周年記念式典が催され、最初のドイツ国民祝祭となった[138]。式ではユダヤ人も参加した[260]。
ドイツ解放戦争に志願兵として参加した学生たちはドイツ国民の統一国家を期待していたが、ウィーン体制ではドイツの君主国諸国家への分裂を固定化されたため、祖国の現状に不満を抱いて、学生結社ブルシェンシャフト運動を展開した[302]。1815年に結成されたブルシェンシャフト主流派のイエナ大学の結社は愛国心の涵養と心身練磨をはかり、ギーセン大学のカール・フォレンはドイツに自由で平等な共和国を目指した[302]。
1816年、新カント派で自由主義の哲学者ヤーコプ・フリースは『ユダヤ人を通じてもたらされるドイツ人の富ならびに国民性の危機について』において「ユダヤ人のカーストを根こそぎ絶滅に追いやること」を訴えた[303]。
1817年10月18日、ルターが新約聖書をドイツ語に翻訳したアイゼナハのヴァルトブルク城で、宗教改革300周年のヴァルトブルク祭が学生結社ブルシェンシャフトによって開催された[138][302][304]。ヴァルトブルク祭には全ドイツから460人以上のブルシェンシャフトの学生運動家が結集し、祖国ドイツへの愛と、ドイツ統一とドイツの自由と正義とが高唱された[138][302]。教育者でドイツ国民運動家のヤーンは、哲学者ヤーコプ・フリースとともにこのヴァルトブルク祭の立役者であった[295]。祭典にはフリース、医学者キーザー、科学者オーケン、法学者シュバイツァーが来賓として参列した[304]。フリースの門下生レーディガーは「祖国のために血を流すことのできる者は,どうすれば最もよく平和のときに祖国に尽くすかについても語ることができるのだ。こうして我々は自由な空のもとに立ち,真理と正義を声高に口にする。何となればもはやドイツ人が狡猜な密偵や暴君の首切り斧をおそれることなく,またドイツ人が聖なるものと真理を語るときに誰も気兼ねする必要のない、そんな時代が有難いことにやって来たのだ。......我々はすべての学問が祖国に仕えるべきであり,同時にまた人類の生活に仕えるべきであるということを決して忘れまい」と演説し、この演説は国務大臣で文豪のゲーテも称賛した[304]。この祭典では、反ドイツ的とされた書物が焚書され、ユダヤ系作家ザウル・アシャーの『ゲルマン狂』も焼かれ、後年のナチス・ドイツの焚書の先駆けともなった[295][304]。こうしてドイツの大学を温床として、人種差別的な汎ゲルマン主義が生まれていった[295]。メッテルニヒはこうした過激化した学生運動に警戒を強めた[302]。
メッテルニヒによる学生運動の弾圧編集
1819年3月には、ブルシェンシャフトの自由主義と愛国思想を雑誌で揶揄していた作家アウグスト・フォン・コツェブー(August von Kotzebue)が、ロシアのスパイとして過激派の学生に暗殺された[138][295][305]。この事件以後、メッテルニヒは1819年9月20日のカールスバート決議で学生運動と自由主義運動の弾圧を決定し、出版法による検閲制度、大学法、捜査法などによる革命運動の取締りをドイツ連邦全土で強化した[138][302]。マインツには革命的陰謀や煽動的結社運動を監視する委員会が置かれた[302]。フリースやアルントやヴェルガ−兄弟など著名な教授は大学から追放され、ヤーンは大逆罪で幽囚され、シュタインやグナイゼナウら改革派も政界から追放された[295][302]。1848年の3月革命まで出版は制限され、新聞や雑誌の発行部数は激減したが、出版に代わって祝典や集会が盛んに行われるようになった[138]。また急進派は地下に潜り、1833年4月にはフランクフルトで衛生兵襲撃事件が起こった[302]。
飢饉と食料危機を契機として[247]1819年8月から10月にかけて、プロイセン以外のヴュルツブルクなど全ドイツの各州、ボヘミア、アルザス、オランダ、デンマークで反ユダヤ暴動が発生し、ユダヤ人が暴行を受け、シナゴーグや住宅は略奪された[306]。暴動では1096年に十字軍兵士が叫んでいたとされる「ヒエロソリマ・エスト・ペルディータ(Hierosolyma Est Perdita)」(エルサレムは滅んだ)という言葉に因んで「Hep! Hep!」という合言葉が使われたため「ヘップヘップ暴動」もいう[306]。この暴動で、アメリカ合衆国へのユダヤ人移住が活発になった[306]。ユダヤ教徒でサロン主催者のラーエル・ファルンハーゲン=レーヴィネは暴動の責任は作家アルニムやブレンターノ一派にあると見た[306]。
1819年11月からの連邦議会でメッテルニヒはドイツ連邦は自由都市をのぞいて君主国であり、各邦はドイツ連邦国元首のもとに統轄されるというウィーン最終規約を定めた(1820年5月15日発効)[302]。ドイツ各邦を連邦政府の監視下におく君主制原理が貫徹された[302]。
1819年、フント・ラドヴスキは、16世紀の改宗ユダヤ人プフェファーコルンと同題の『ユーデンシュピーゲル(ユダヤの鑑)』を刊行し、ユダヤ男は去勢し、ユダヤ女は売春婦になれと主張した[307][308]。『ユダヤの鑑』という同題の著作は、1862年にヴィルヘルム・マル、1883年にルーマニア出身の改宗ユダヤ人ブリマン[309]、1884年にプラハ大学教授アウグスト・ローリング神父、1921年にドイツ民族防衛同盟員の詩人フィッシャー=フリーゼンハウゼンが出版した[310]。
1820年、作家アヒム・フォン・アルニムは小説「世襲領主」で、世襲領主が零落するなか、路地から這い出てきた強欲なユダヤ人を描いた[311]。アルニムは義兄のクレメンス・ブレンターノとともに、ベルリンで「ドイツキリスト教晩餐会」を開催し、ユダヤ人は改宗者であっても入会禁止とした[311]。
1820年、オスマン帝国からの独立を目指してギリシアが独立戦争をはじめた。ギリシアでは、フランス革命やドイツロマン主義の影響でナショナリズムが台頭していた。当初ウィーン体制下のヨーロッパ諸国は正統主義によってオスマン帝国を支持したが、ロシアがロシア正教を攻撃したオスマン帝国へ国交断絶を通告し、1828年にロシアは露土戦争を始めた。ロシアの影響拡大を恐れたイギリスやフランスも介入して、1830年にロンドン議定書でギリシアの独立が承認された。
1823年にはベルリンのユダヤ人の半数がキリスト教に改宗した[312]。
1824年、バイエルン王国皇太子ルートヴィヒ1世はドイツの偉人を祀ったヴァルハラ神殿を建設した[313]。ヴァルハラ神殿にはドイツ2000年の歴史を示す偉人、例えばローマ帝国によるゲルマニア征服を阻止したアルミニウスから、西ゴート族の王アラリック1世、フランク王国の王クローヴィス1世、ベートーヴェンなどの銘板や胸像が収められている。
1820年代後半以降には、出版に代わって祝典や集会が盛んに行われるようになり、デューラー300年記念祭(1829)、ハンバッハ祭(1832)、グーテンベルク祭(1837、1840)、シラー記念祭(1839 )、ドイツ合唱祭(1845)などが開催され、政府による取締を逃れてドイツ民族の英雄が称賛され、ドイツ統一と国民連帯を要求することができた[138]。また1841年からは記念碑が作られる運動が高まり、ジャン・パウル、モーツァルト、ボニファティウス、バッハ、ゲーテなどの記念碑が作られていった[138]。
1830年と1834年にもドイツで反ユダヤ暴動が発生した[306]。
民族の祭典:ハンバッハ祭とドイツ国民運動編集
1818年に公布されたバイエルン憲法では出版の自由も明記されるなど、ナポレオン法典で認められていた権利が保証されていたが、1830年のフランス7月革命以降、バイエルン王国政府は検閲を強化した[314]。ジャーナリストのヤコブ・ジーベンプファイファーとゲオルク・ヴィルトはドイツの再統一のために自由な言論は唯一の手段であるとする「ドイツ自由出版祖国協会」を結成したが、バイエルンほかプロイセンやハンブルクでも禁止された[314]。ジーベンプファイファーは憲法記念祭に代わる「民族祭典(Volksfest)」を計画して、5月27日に「ドイツ5月祭」をハンバッハ城で開催することを宣伝した[314]。このハンバッハ祭は「内的 ・外的な暴力廃止のための祝祭」であり「法律に保証された自由とドイツの国家としての尊厳の獲得」を目的とした[314]。ライン・バイエルン政府では、フランス占領時代から集会は禁止されていたが、祝典(Festmahl)や民族祭典(Volksfest)は許可されていた[314]。しかし、祭典を禁止しようとしたライン・バイエルン政府に対して参事会が反対し、政府は禁止命令を撤回したが、撤回は前代未聞であり、政府の敗北とみなされた[314]。
こうして1832年5月27日から6月1日までバイエルンのプファルツに3万余が集まった「ドイツ5月祭=ハンバッハ祭」が開催され、ドイツ統一と諸民族の解放、人民主権や共和制の樹立などが叫ばれた[314]。参加者は「ドイツ祖国とは何か」「輝きの渦のなかの祖国」といった歌を歌いながら行進し、医師ヘップはドイツ統一とドイツの自由によってドイツは再生すると演説した[314]。ハンバッハ祭にはドイツの自由の守護神として学生たちから歓迎されていたユダヤ系のルートヴィヒ・ベルネがパリから参加した[314]。ベルネは、ポーランド・ロシア戦争でユダヤ人3万人がポーランド支援のためにかけつけ、ポーランドという祖国を戦い取ろうとしているのに対して「ユダヤ人をひどく軽蔑している誇り高く、傲慢なドイツ人には祖国が未だない」と述べている[314][315]。また、フリッツ・ロイターも参加した。
ジーベンプファイファーは演説で「国民と呼ばれるうじ虫は地べたをうごめきまわっている」と述べ、祖国の統一を望むことさえ犯罪になるのだと主張し、34人のドイツ諸国家の君主を「国民の虐殺者」と罵り、君主が王位を去り市民になることを求めた[314]。ヴィルトは祖国の自由のための戦いには、外国の介入なしで独力でなされなければならないと愛国主義を演説した[314]。しかし、その後の演説では、革命を望まないという商人の演説がなされる一方で、弁護士ハルアウァーは臆病な奴隷でいるよりも名誉の戦死をすべきだと訴えたり、ブラシ職人ベッカーは武装市民だけが祖国を守ると演説するなど意見が分かれた[314]。祝祭後、指導者は臨時政府国民会議の結成を模索したが、結局、祖国出版協会名が「ドイツ改革協会」に変わるにとどまった[314]。
パリにいたハイネはドイツの本質は王党主義であり、ドイツは共和国ではありえず、ドイツ革命もドイツ共和国の誕生もそんなに早くはこない、と同情しながら批判した[314]。ハイネは革命を説くベルネに対して「テロリスト的な心情告白」として批判し、ベルネが「最下層の人々のデマゴーグ」になったのは「人生において何もなしえなかった男の自暴自棄な行動」と非難した[314][316]。ベルネもハイネも改宗者であり、ドイツ人名に改名していた[247]。
ハンバッハ祭後、ドイツ各地で倉庫や市場が過激派によって襲撃されるなど、混乱が広まり、1832年6月24日、バイエルン政府軍は戒厳令を発令した[314]。メッテルニヒは革命運動の拡大を恐れて弾圧を強化し、ヴィルトやジーベンプファイファーなど多くの活動家が逮捕拘禁されて有罪判決を受けた[314][317]。1833年4月には「出版祖国協会」過激派50人がフランクフルトで警察を襲撃し、1800人が逮捕された[317]。しかし、その後もドイツ国民運動は非政治的な協会の姿をとって持続し、10万人以上のメンバーを持った男性合唱協会はドイツ語の民謡を普及させ、またヤーンの体操協会なども、ドイツ国民意識の形成に大きな役割を持った[317]。
青年ドイツ派編集
1834年にハイネは「キリスト教は、あの残忍なゲルマン的好戦心を幾分和らげたが、しかしけっして打ち砕くことはできなかった」として、カント主義者、フィヒテ主義者などの哲学者に気をつけるように警告して、ゲルマン主義者から大きな憤慨を買った[319]。他方でハイネは同年、われわれドイツ人は最も強く知的な民であり、ヨーロッパの王位を占めており、わがロスチャイルドは世界のあらゆる財源を支配していると書いた[261][320]。
1835年、フランクフルト議会はグツコー、ハインリヒ・ラウベ、ムント[321]、ヴィーンバルク[322]や、ユダヤ系作家のハイネとベルネなども参加していた青年ドイツ派の作品を禁書処分にした[323]。青年ドイツ派はユダヤ系サロンの主催者ラーエル・ファルンハーゲン=レーヴィネの影響を受けていた[323]。青年ドイツ派であったがゲルマン主義者でもあった文芸批評家メンツェル[324]はドイツ人は地球史上最も好戦的な民族であり、ローマ帝国を解体し、全ヨーロッパを支配したと述べ[261]、青年ドイツ派を「青年パレスティナ派」と告発した[323]。青年ドイツのH・ラウベは親ユダヤ的だったが、1847年にユダヤ系作曲家マイアーベーアから盗作の嫌疑で告訴されてからユダヤ人を嫌うようになった[325]。
1835年、作家ティークはユダヤ人は国家内異分子であり、ドイツ文芸を独占してしまったと述べた[326]。作家インマーマンの『エピゴーネン』(1836年)では、ヤーンが指定した服装を着ていた登場人物が迫害されるが、ドイツ人に化けたユダヤ人の追い剥ぎであった[326]。この作中でユダヤ人は「何かを手に入れようとしてうちは恭しく、きわめて低姿勢だが、いったんそれを手に入れると居丈高になる」と描かれた[326]。
1842年、若い頃にドイツ解放戦争を経験したプロイセン国王フリードリヒ・ヴィルヘルム4世(在位:1840 - 1861)はキリスト教ゲルマン主義を信奉し、忌まわしいユダヤ人はドイツを混沌とした無秩序状態におとしめようとしていると述べ[327]、ヤーンに鉄十字章を授与し、アルントの名誉回復を行った[279]。王の養育係はユダヤ人をゲットーに再送すべきであると考えていた法学者サヴィニーだった[279]。プロイセン政府は、ユダヤ人の兵役義務を免除すると同時に公職から退け、王の庇護下にある「隔離民族」とするユダヤ人囲い込み法案を提出した[328]。1842年2月、ラビのフィリップゾーンの批判に対してカール・ヘルメス[329]は、キリスト教国家プロイセンにおいてキリスト教徒とユダヤ教徒との法的平等は自己矛盾になると反論した[328]。ヘルメスは無神論哲学者ブルーノ・バウアーに対してもキリスト教の敵として批判した[328]。ユダヤ人共同体からのドイツへの愛国心をアピールした抗議が相次ぎ、この政策は実現しなかった[279]
1844年、ドイツで反ユダヤ暴動が発生した[306]。1845年、小説家シェジーはユダヤ人がドイツ国民を隷属状態に置くために解放運動に精を出していると描いた[330][331]。
1847年、プロイセン連合州議会代議士ビスマルクはフランクフルト市議会で、ユダヤ人が国王になると考えただけで深い当惑と屈辱の感情が沸き上がってくるし、フランクフルトのアムシェル・マイアー・フォン・ロートシルトは「正真正銘の悪徳ユダヤ商人[332]」であるが、気に入ったと好意を寄せることも述べた[333]。
フランス編集
フランス7月革命とドゥーズ事件編集
1830年のフランス7月革命でオルレアン家のルイ・フィリップが国王になり、ブルボン家はイギリスへ逃れた。
1832年、ブルボン家の元国王シャルル10世の息子の妻ベリー公爵夫人マリー・カロリーヌ・ド・ブルボンが、改宗ユダヤ人シモン・ドゥーズの密告によって、ルイ・フィリップ政府に引き渡された[334]。これに対して作家フランソワ=ルネ・ド・シャトーブリアンは「大いなる裏切り者と、サタンに取り憑かれたイスカリオテのユダの末裔」と非難した[334]。また作家ヴィクトル・ユゴーも「卑しき異教徒、変節漢、世界の恥辱、屑ともいえるような輩」である「さまよえるユダヤ人」と述べて非難した[334]。ユゴーはまた「クロムウェル」(1827)「マリー・チュードル」(1833)では大量のキリスト教徒の血が流れるのを望むユダヤ人を描き「嘘と盗み」がユダヤ人のすべてであるというセリフがあった[335]。ユゴーは1882年の「トルケマダ」でイスラエルに謝罪した[335]。
「さまよえるユダヤ人」編集
「さまよえるユダヤ人」の伝説は近世にさかのぼる。1602年、ドイツのクリストフ・クロイツァーが『アハスウェルスという名のユダヤ人をめぐる短い物語』で、ユダヤ人はイエス磔刑の証人としてイエス再臨(最後の審判の)までさまよい歩くという劫罰を言い渡されたという「さまよえるユダヤ人」の伝説を出版した[3]。この伝説の背景には、1208年のインノケンティウス3世の勅書での「イエスの血の叫びを身に受けてやまないユダヤ人たちはキリスト教徒の民が神の掟を忘れないようにするため、決して殺されてはならない」が、ユダヤ人はキリスト教徒が主の名を探し求める時代が来るまで地上のさすらい人であり続けなければならないという記述がある[3]。
「さまよえるユダヤ人」という主題は16世紀以来の伝説で、ゲーテ、シューバルト、シュレーゲル、ブレンターノ、シャミッソー、グツコー、バイロン、シェリー、ワーズワースたちが扱い、1833年には共和党左派の歴史家エドガール・キネが『さまよえるユダヤ人―アースヴェリュス』で労苦にあえぐプロメテウスやファウストの象徴を援用した[336]。1844年、シューは「さまよえるユダヤ人」を連載した[336]。こうしてユダヤ人への神話的なイメージは、裏切り者であった「イスカリオテのユダ」から「さまよえるユダヤ人」に変わっていった[336]。
世紀末には精神科医シャルコーがユダヤ人は放浪生活という神経疾患にかかりやすいと考え、助手のアンリ・メージュ[337]に「さまよえるユダヤ人」の研究を委託し、メージュはユダヤ人の放浪癖、旅行病は人種的な神経疾患であると結論した[338]。
ダマスクス事件編集
1840年2月、シリアのダマスクスでカプチン会修道士トマ神父が失踪した[339]。フランス領事は地元のユダヤ教徒たちが事件の黒幕と断定し、ユダヤ教徒たちを儀式殺人の容疑で告訴した[339]。ユダヤ教徒たち2名がオーストリア国籍であったため、オーストリア領事はユダヤ人を救援しようとした[339]。当時エジプト・トルコ戦争(1831年〜1840年)でオスマン帝国とエジプトが対立しており、東方問題としてヨーロッパ各国の外交問題ともなっていた。エジプト・トルコ戦争の講和条約ロンドン条約でイギリス、ロシア帝国、オーストリア帝国、プロイセン王国各国はオスマン帝国を支持し、エジプトのムハンマド・アリーのシリア領有放棄とエジプト総督就任を認める一方で、フランスのティエール政府はエジプト総督ムハンマド・アリーを支持しており、ダマスクス事件の対処でも対立した[339]。ダマスクス事件によって、フランス国内では、東方ユダヤではいまなお儀式殺人という迷信をユダヤ教徒の義務として定めており、カプチン神父はユダヤ人に食べられたなど、反ユダヤ主義と愛国主義が流布した[339]。イギリスではフランスへの反発もあって、ロンドン市長がユダヤ人モンテフィオーレ卿(Moïse Montefiore)、フランスのアドルフ・クレミューとムンクの特使団を派遣した[339][340]。ティエールの解任で国際紛争は幕切れとなった[339]。この解任にはロスチャイルド家のジャムが働きかけたという見方もある[339]。
この事件後、クレミューは国際組織「世界イスラリエット同盟(AIU, L'Alliance israélite universelle)」を創立し、1842年にはクレミュー、セルフベール、フールドの3人のユダヤ人がフランス下院議員となった[339]。ユダヤ新聞「イスラリエット古文書」は、もはや分裂の種も、宗教の差異も、永年の憎悪もなくなった「ユダヤ民族なるものはもはやフランスの土地には存在しない」と報道した[341]。
1848年革命とユダヤ人解放編集
1848年、イタリア、フランス、オーストリア、ハンガリー、ボヘミア、ドイツ、デンマーク、スイスなどのヨーロッパ各地で1848年革命が起こった。
ドイツ三月革命では、ドイツ連邦の国家統一と憲法制定を目指して、民族的自由を獲得することが目指された[342]。ドイツ革命の目標は、フランスが革命で実現した、階級や宗教にかかわりなく人民の権利が保障される共同体としての「国民」の実現であった[343]。
選挙規則のないままであったが、選出された議員によるフランクフルト国民議会では四人のユダヤ教徒の議員がいた[277]。フランクフルト国民議会副議長になったユダヤ人ガブリエル・リーサーはユダヤ人の平等権が実現していないのは「法に対する侮辱」と批判[247]しながら「イスラエル民族」は虚構にすぎないと指摘して「ユダヤ教徒は公正な法律の下で、ますます熱烈な、そしてますます愛国的なドイツの信奉者となるでしょう」と演説し、満場の拍手で迎えられた[277]。
他方で、ユダヤ教からルター派へと改宗した政治家フリードリヒ・ユリウス・スタール[344]は、ユダヤ人は一般ドイツ人から隔離すべきだと主張してユダヤ人解放に反対し、ゲルラッハ兄弟とプロシア保守党を創設するなどした[345]。またオットー・フォン・ビスマルク議員(のち宰相)は「私はユダヤ教徒の敵ではない」「私は彼らに対してどんな権利も惜しまない。ただ彼らがキリスト教国家における行政上の官職に就く権利だけは認めるわけにはいかない」とユダヤ人の公職就職を否定した[277]。1848年9月28日にはバーデン大公国ヴァルデルン市から「ユダヤ教徒の解放は断じて民族の声ではなく、ドイツ民族はドイツカトリック教徒との同権を要求していない」と請願が出された[277]。また、同年にドイツで反ユダヤ暴動が発生した[306]。
一方、ドイツとデンマークのシュレースヴィヒ=ホルシュタイン問題において、デンマークがシュレースヴィヒ公国を併合すると、1848年にドイツ民族主義者が叛乱してキール臨時政府を樹立した[346]。ドイツがキール臨時政府に援軍を派遣すると、バルト海に利害を持つロシアとイギリスが介入し、第一次シュレースヴィヒ=ホルシュタイン戦争となった。1848年8月26日にドイツとデンマークは休戦協定を締結し、ドイツ連邦軍は撤退し、キール臨時政府は解散した[346]。しかし、急進派は休戦に反発して1848年9月18日フランクフルトで暴動を起こし、自由主義穏健派であったカジノ派のリヒノフスキー侯爵とアウアスヴァルト将軍を暗殺した[346]。
翌年の1849年3月28日、フランクフルト国民議会が統一ドイツ憲法を採択した。「ドイツ国民の基本権」では「何人も宗教の如何により市民権、ドイツ国民の権利の享有につき条件が付されてはならない」として、ユダヤ人(ユダヤ教徒)へも市民権を付与するものとなった[247]。また、プロイセン外交官ラドヴィツ指導の超党派組織カトリック・クラブは、憲法に「教会の自由」を保障するよう訴え、実現した[347]。
同時に新憲法では、プロイセン王フリードリヒ・ヴィルヘルム4世を統一ドイツ皇帝に選出したが、王は人民主権の原則を持つ憲法を「犬の首輪」として嫌い、帝冠も新憲法も拒否した[348]。
その後、ドイツ各邦国で帝国憲法の承認を求める帝国憲法闘争が展開した[348]。4月末、ザクセンでは祖国協会などの革命派が憲法を求めたが、ザクセン王フリードリヒ・アウグスト2世は拒否して議会を解散させた[349]。5月にバクーニンが指揮したドレスデン蜂起が起きたが、ザクセン王はプロイセン軍を派遣して鎮圧した[349]。オーストリアの圧力で1849年5月から6月にかけてフランクフルト国民議会は解体した。
1848年革命の失敗によって「ユダヤ教徒解放」は撤回されたが、ザクセン、ワイマール、アイゼナハなどではユダヤ教徒が大学教授や裁判官に就任するなど、ユダヤ教徒の解放は進展した[277]。
ドイツのユダヤ人が全きドイツ国民となり市民権が認められたのは、ビスマルクによるドイツ統一によって誕生したドイツ帝国においてであった[247]。
革命を通じて1850年代には、ヨーロッパのナショナリズムはコスモポリタン的で寛容なユートピア的なものであった愛国主義から、排外的で自己中心的なものとなっていった[350]。
イギリス編集
1828年、非国教徒を制限していた審査律と地方自治体令が撤廃され、カトリック教徒が解放された。1830年、ユダヤ教徒もカトリック教徒と同等の地位を持つことが請願されたが、失敗に終わった[169]。
1830年頃、ユダヤ人はロンドンで店舗を開けなかったし、法曹界にも議員にも大学にも入ることはできなかった[351]。ロンドンのユダヤ人の半数は中東欧のアシュケナージで、産業界から締め出されていたために犯罪に走りやすく、詐欺や盗品売買が横行した[351]。
また、ユダヤ人は投票権もあり、議員に立候補もできたが、キリスト教徒宣誓を述べなければならなかった。このため1847年にライオネル・ド・ロスチャイルド男爵は当選したが着席できなかった[169]。1866年の公共宣誓令によって、ユダヤ教徒の議員就任が完全に認可された[169]。
作家ウォルター・スコットの『アイヴァンホー』(1820)ではユダヤ人アイザックが卑屈な吝嗇家として喜劇的に描写されるが、その娘はレベッカは美人とされ、ユダヤ人の家族愛も描写された[351]。スコットはユダヤ人は金儲けを本職とするので彼らは心が狭くなると考えていた[351]。また『医者の娘』ではユダヤ人ミドルマスが愛人のメニーをインドで売却しようとするが象に踏み殺されると描いた[351]。
作家チャールズ・ディケンズは『オリバー・ツイスト』(1838)でユダヤ人強盗団の頭目フェイギンを、餌にする腐肉を探す「いやらしい爬虫類」と喩えた[351]。この小説に抗議したユダヤ人に対してディケンズは「フェイギンがユダヤ人であるのは、物語の背景となった時代に、残念ながらあの類の犯罪者のほとんどが実際ユダヤ人であったからです」とし、ユダヤ人がこの小説を不当な仕打ちと受け止めたとしたら、そうしたユダヤ人は分別にかけ、公正ではないと申さねばならない、と返答した[351]。ただし、ディケンズは改訂版で「ユダヤ人」を「フェイギン」と書き換えた[注 47]。また1854年にディケンズはユダヤ系の学校での講演で「ユダヤ人がなぜ私のことを『反ユダヤ的』とみなし得るのか、わたしには見当もつかない」と述べた[351]。しかし、晩年の『共通の友』(1865)で、ユダヤ人ライアーは、キリスト教徒高利貸しのフロント役として利用されるが、キリスト教徒の娘を救うユダヤ人を描写した[351]。
作家ジョージ・エリオットはディズレーリの『タンクレッド』に反発する1848年の手紙で、ヴォルテールの反ユダヤ罵倒に呼応したい、ヘブライの詩にはすばらしいものもあるがユダヤの神話と歴史は不快極まりないとした[352]。しかし1866年にユダヤ人学者ドイッチュとめぐりあってからは、ユダヤ人に可能な限りでの同情を持つべきだと述べたり、『ダニエル・デロンダ』(1876)ではユダヤ民族の復興を描写し、ロシアではヘブライ語訳でユダヤ人に読まれ、シオニストに影響を与えた[352]。
イギリスではドイツ思想に詳しい評論家カーライルや教育家トマス・アーノルドによってゲルマン至上主義が広まっていた[353]。アーノルドは、ギリシャ人、ローマ人のあと、ゲルマン人によってキリスト教ヨーロッパ文化は飛躍したし、サクソン人とチュートン人の祖先の国であるドイツは史上最も道徳的で、非暴力的で、最も美しい国であるとした[354]。
ブルワー・リットンの小説『ザノニ』 (1842)では、キリスト教世界のギリシア人が世界の主人となるために生まれたとされた[355]。
医師ロバート・ノックスは、最も才能に恵まれたのはゴート人とスラヴ人で、次がサクソン人とケルト人で、対極に黒人が置かれた[354]。ヘブライ人は寄生的であり、文化的に不毛であるとした[354]。
アングロ・サクソン人(ブリテン諸島人)がイスラエルの失われた10支族とするアングロ・イスラエリズムという思想潮流もある[356][357]。ニューファンドランド島出身の作家リチャード・ブラザーズは著作『暴かれた預言の知』(1794年)や『新エルサレム』で、自らを全能者の子孫、ダビデ王の子孫であるとし、ヘブライ王子としてパレスチナに新エルサレム王国を建設すると述べ[358]、1822年には『イスラエルの失われた10支族の末裔としてのイギリス人から見たイングランド征服』を発表した[356]。続いてウィルソン『イスラエル起源のイギリス』(1840年)、グローバー『ユダの末裔としてのイングランド』(1861年)、エドワード・ハイン『失われたイスラエル族としてのイギリス国民』(1871年)が刊行され、アメリカやカナダでも一定の勢力を持った[356]。ドイツではバックハウスが『セム族としてのゲルマン人』を出版したが反響はなかった[356][359]。日本でもイスラエルの失われた10支族による日ユ同祖論がある。
ディズレーリのユダヤ主義編集
イタリア系セファルディムのユダヤ系イギリス人の政治家・小説家のベンジャミン・ディズレーリは1844年のロバート・ピールを批判した小説『カニングスビー』(1844)や『シビル(女預言者)』(1845)などで、ヨーロッパの修道院や大学にはマラーノなどのユダヤ人がひしめき、ヨーロッパではユダヤ的精神が多大な影響力を行使していることを描いて、ゲルマン至上主義の逆を突いた[353]。『カニングスビー』でディズレーリは「ユダヤ人が大きく加わっていないようなヨーロッパにおける知的な大運動はない。最初のイエズス会修道士たちはユダヤ人だった。西ヨーロッパを大いに混乱させているロシアの謎めいた外交は主にユダヤ人によって導かれている。現在ドイツにおいて準備され、イギリスではあまり知られていない強力な革命は第二のより広大な宗教改革運動になるであろうが、これは全体としてユダヤ人の賛助のもとで発展しているのである」と書いた[354][361]。『タンクレッド』(1847)では「思い上がりではりきれんばかり、叩いてみて響きだけはよい革袋のような鼻のひしゃげたフランク人(ゲルマン人)」を揶揄し、セム的精神(ユダヤ精神)を称揚し、セム的精神が光明をもたらすことがなかったらゲルマン民族は共食いで滅亡していたと、いった[353]。同時に、ディズレーリはみずからの人種を恥とみなしたユダヤ人を批判し[353]、ユダヤ人はコーカサス人種であると考えた[354]。
1847年下院での国会演説でディズレーリは、初期のキリスト教徒はユダヤ人であったし、キリスト教を普及させたのはまぎれもなくユダヤ人であったし、カントやナポレオンもユダヤ人であり、そのことを忘れて迷信に左右されているのが現在のヨーロッパとイギリスであると演説し、議会では憤怒のさざ波が行き渡った[360]。カーライルはディズレーリの演説に憤慨し、ロバート・ノックスは、ディズレーリが挙げたユダヤ人一覧には一人もユダヤ的特徴を示している者はいないと批判した[360][362]。
1848年革命についてディズレーリは、この全ヨーロッパ的暴動の指導者はユダヤ人だと述べ、その狙いは選民たるユダヤ人種がヨーロッパのあらゆる人種もどき、あらゆる下賤の民に手を差し伸べ、恩知らずのキリスト教を破壊し尽くすことであると主張した[353][363]。ディズレーリは歴史の原動力について「すべては人種であり、他の真理はない」と述べるなど、ユダヤ主義に基づく人種主義者でもあった[354]。
ディズレーリのユダヤ主義的な歴史観は、フランスの反ユダヤ主義者ムソーやドリュモンによってユダヤ人の秘密外交の証拠として好意的に引用された[360]。また、ナポレオンを嫌っていた歴史学者のミシュレも、ディズレーリのナポレオンユダヤ人説に梃入れした[360]。
イタリア統一と教皇領の消滅編集
1848年初頭、ローマの司祭アンブロゾーリがユダヤ人の解放を訴え、教皇ピウス9世が1848年4月にゲットーの壁を取り壊した[364]。しかし、11月にローマ革命が起ると、教皇はガエータに避難した[364]。1849年7月にナポレオン3世のフランスがローマ共和国革命政府を制圧すると、教皇は1850年にローマに戻るが以後はユダヤ人対策を差し控えるようになった[364]。
1858年、イタリアのボローニャでユダヤ人の6歳の少年エドガルド・モルターラが異端審問所警察によって連れ去られ、カトリック教徒として育てられ司祭となった[364]。カトリック教徒の家政婦が極秘に洗礼を受けさせていたためであった[364]。ヨーロッパ全土のユダヤ人が事件に抗議して、ローマのゲットー代表と教皇が交渉した[364]。教皇は、ユダヤ人を憐れむためにこうした抗議を赦すと述べ、ユダヤ人代表は感動して、1848年革命の時にはローマのユダヤ人は教皇に忠実であったことを確認し、モルターラ事件で騒ぐのは政治的情念を充足させる下心でしかないと述べて和解した[364]。1864年にはこれに似たフォルトゥナート・コーヘン少年洗礼事件も起きた[364]。
1859年、オーストリア帝国からのイタリア独立戦争で、サルデーニャ王国はナポレオン3世と同盟し、ソルフェリーノの戦いでオーストリア軍に勝利した[365]。しかし、ロマーニャ・トスカーナなどイタリア各地で教皇支配からサルデーニャ王国への合併運動が展開すると、フランス国内のカトリック派も戦争に冷淡となり、またプロイセンも干渉の気配を見せたことなどから、ナポレオン3世はサルデーニャ王国に黙ってオーストリアとヴィッラフランカで単独で講和して、オーストリアのヴェネト州保持、トスカーナなど亡命君主の復位も約束した[365]。サルデーニャ王国は戦争継続を希望したが、やむなく容認した[365]。1860年、ナポレオン3世はサヴォイとニースのフランスへの割譲を条件に、サルデーニャ王国による中部イタリア併合を承認した[365]。1860年4月、共和主義者ガリバルディ率いる義勇軍赤シャツ隊が両シチリア王国を滅ぼしてローマに進軍したが、サルデーニャ王国は赤シャツ隊に先んじて教皇領とナポリ王国軍を撃破した[365]。やむなくガリバルディは征服した南イタリアをサルデーニャ王ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世に献上し、両者は並んでローマに入城した[365]。1861年、ローマとヴェネト州をのぞくイタリア王国がヴィットーリオ・エマヌエーレ2世イタリア王の下に成立した[365]。1866年、プロイセン・オーストリア戦争でプロイセンと同盟を結んだイタリア王国はヴェネト州を回収できた[365]。
1870年、プロイセン=フランス戦争で在ローマフランス軍が呼び戻され、さらにセダンの戦いでフランスが降伏すると、イタリア王国は簡単な砲撃戦の後、ローマを占領した[366]。教皇は教皇権の廃棄に関与するすべてのものを破門にすると宣告したが住民投票でローマ併合が可決し、翌1871年5月にイタリア王国は教皇保障法を制定しイタリア統一を完成させ、これにより教皇領は消滅した[366]。
ロスチャイルド家と反ロスチャイルド、反ユダヤ的感情編集
フランクフルト・ゲットー出身の銀行家マイアー・アムシェル・ロートシルトが宮廷ユダヤ人となり、ロートシルト家(ロスチャイルド家))の基礎を築くと、ロスチャイルド家は19世紀ヨーロッパの政界と金融界を支配し、栄華を誇り「ユダヤ人の王にして諸王のなかのユダヤ人」と呼ばれた[334]。1807年のベルリンの銀行52のうち30がユダヤ人が経営するようになっていた[279]。その他、ドイツの百貨店、シュレージエン地方の鉱床などもユダヤ系事業が大部分を占めた[279]。フランスではマイアーの五男でオーストリア領事でもあったジャム・ド・ロチルドがロスチャイルド家の筆頭格となった[334]。ジャムはフランスに帰化することはなかった[334]。ロチルド家(ロスチャイルド家)は、フランス中央銀行の大株主の200家族の1族であり、金融貴族(Haut Banque オート・バンク)と呼ばれた[367]。
ロチルド家以外のユダヤ人銀行家としては、サン・シモン主義のペレール兄弟がおり、ナポレオン3世の金融改革と殖産興業政策を援助して、1852年にペレール兄弟はアシーユ・フール(Achille Fould)とともに投資銀行クレディ・モビリエを創設した[368]。1860年代にはクレディ・リヨネとソシエテ・ジェネラルが創設された[368]。
しかし、ロスチャイルド家の栄華は、その後数世代にわたって反ユダヤ主義宣伝活動の餌食となっていった[334]。
1848年、フランソワ=ルネ・ド・シャトーブリアンは『墓の彼方からの回想』(没後出版)で「人類はユダヤ人種を癩病院に隔離した」と述べたり「今日のキリスト教世界を牛耳っているユダヤ人よ」と述べたり、ロスチャイルド家が原因で自らが政治家として不首尾に終わったとみなしていた[335]。
アルフレッド・ド・ヴィニーは、ユダヤ人を金にがめつい唯物的な人種として嫌悪し、1822年の『ヘレナ』では「ユダの息子たちにはすべてが許され、彼らの財宝箱にはすべてが受け入れられる」と書き、1847年にユダヤ人アルフェンがパリ2区区長に任命されると驚くなど、世界が「ユダヤ化」ことを諦念をもって眺めた[369]。1837年には7月革命をユダヤ人は金で購ったと書いている[369]。1837年に書かれた小説『ダフネ』(生前未発表)ではユダヤ人銀行家について「現在、一人のユダヤ人が、教皇の上、キリスト教の上に君臨している。彼は君主に金を渡し、諸国民を買収する」と、ロスチャイルド家について記した[369]。しかし、ヴィニーは改宗ユダヤ人ルイ・ラティスボンヌと友人になると、1856年にはユダヤ人は原初の光、原初の調和に満ちており、芸術の分野で頂点を極め、学業も優秀と述べるにいたった[369]。
歴史家ジュール・ミシュレは『フランス史』(1833-1873)において、自分はユダヤ人が好きだが「汚らわしきユダヤ人」は「いつのまにか世界の王座に就いてしまった」、ユダヤ人は地球上で「最良の奴隷」だったと述べた[334][370]。
1900年にはドイツの人口の1%にすぎないユダヤ人が、大企業、金融会社の取締役会の25%を占めており、こうしたユダヤ人の経済界での活躍が、ユダヤ人による侵略や支配という印象を深めることになった[279]。こうした状況は、ロシアでも同様であった[279]。ロスチャイルド家や政界に進出するユダヤ人などが活躍していくにつれて「ユダヤ人に支配された世界」という見方が広まり、フランスやドイツなどでは「ユダヤ人からの解放」を訴える主張が多数出されていくようになった。
インドと「アーリア人」の発見編集
啓蒙思想の進展によって、ユダヤ教とキリスト教的な世界観から徐々に抜け出していくとともに、人類と文明の発祥の土地としてインドが浮上していった[371]。
フランスの東洋学者アンクティル=デュペロン(1731-1805)は「アーリア人」をヘロドトスから取ってペルシア人とメディア人を指すために用いていた[235]。
文化的多元主義のヘルダーは民族の形成には地理的条件や歴史的条件があるため、どのような民族も神に選ばれたということはできないとユダヤ民族の選民思想を否定し、また「自称神の唯一の民」もドイツ人も選民ではないとした[372]。しかしヘルダーはルター派であり、歴史は神によって統制され、文明は東から西へ向かって進展しているので必然的に文明はヨーロッパに集中しているのであり、ヨーロッパは優位にあるとした[372]。またシナ人はユダヤ人のように他民族との混合を免れたために幼いまま停止しているとみた[372]。また『人類史哲学考』(1791)で「人種」という語を批判し、ヨーロッパ人がニグロを悪として扱うのと同じように、ニグロはヨーロッパ人を白い悪魔と侮蔑する権利を有すとしながら、ニグロはヨーロッパ人のために何一つ発明しなかったとも述べている[201]。また、人種的にドイツ人とペルシア人は近く、またインド人は自然の徳、穏やかさ、礼儀正しさ、優美さを持っているが、地上の民族すべてをヘブライ人の末裔にするような話はもう沢山であり、人類が最初に居を定めたのはアジアの原初の山であるとした[373]。一方で同書第四部では、古代ユダヤが崩壊して、キリスト教世界を優位に立たせようと決めたのは神の摂理であるとした[372]。ヘルダーはショーペンハウアーに影響を与えた[235]。
ブルーメンバッハ(1752-1840)は白人を最も美しい人種であり、最も美しい人種のグルジア人のいるコーカサス山に因みコーカソイドという名を白人に与え、白い色はもともとの人類の肌の色であるが、容易に黒っぽく退化するとした[201]
アウグスト・ルートヴィッヒ・フォン・シュレーツァー[374]はセム系言語とヤペテ系言語(アルメニア語やペルシア語)との区別を提案し、ヤペテはヨーロッパの白人の先祖とした[235]。
1788年、イギリスの言語学者ウィリアム・ジョーンズはインドのサンスクリットとギリシャ語、ラテン語、ゴート語、ケルト語の強い近親性を発見して、インド・ヨーロッパ語族が発見された[235]。
社会主義者サン=シモンは1803年、ニグロは体質ゆえに平等に教育してもヨーロッパ人の高い知性に達しないとした[375]。ヨーロッパ人はアベルの子孫で、有色人種はカインの末裔であるとし、アフリカ人は残忍で、アジア人は怠惰であるとした[375]。
ドイツにおけるインド趣味はシュレーゲル兄弟の影響が大きかった。アウグスト・ヴィルヘルム・シュレーゲルは1804年「東洋が人類の再生が起こった地域だとすれば、ドイツはヨーロッパの東洋とみなされなければならない」と書いた[235]。アウグストの弟フリードリヒはモーゼス・メンデルスゾーンの娘ドロテーアと結婚し、ユダヤ人解放のために闘った進歩派であったが「すべてがインドに端を発している」と述べ、エジプト文明はインドの使節によって形成されたし、エジプトはユダヤの地に文明的な植民地を築いたが、ユダヤ人はインドの真理を不完全に吸収したとした[235]。フリードリヒは1808年の著書『インド人の言語と英知』で、偉大なインド人がいかにスカンジナビアに達したのかと述べ、ゲルマン人との関連を示唆し、1819年には「アーリア人」を種族の意味で用い、語根の「アリ」をゲルマン語の「エール(名誉)」と結びつけた[235]。なお、ヤーコプ・グリムもヨーロッパ人のすべては太古にアジアから移住してきたとしたが「アーリア人」という用語は使っていない[376]。
生物学者ラマルクは1809年の著作『動物哲学』で、改良された人種が他の人種を支配し、この人種に適したすべての地を占拠すると述べた[375]。ここでは白人種を名指したわけではなかったが、当時のフランスの膨張と関連した発言であった[375]。博物学者キュヴィエは『動物界』(1817年)[377]で、ニグロ人種は猿に近く野蛮であるとし、文明の進歩はコーカサス人種の特性であるとした[375]。
1810年、考古学者クロイツァーはユダヤ教以前の原始バラモン教が真の自然宗教であり、アブラハムはブラフマー、サラはサラスワディで、両者ともバラモンであったとした[235][378]。
1811年、自然哲学者ローレンツ・オーケンは黒人種は猿、白人種は輝く人間、モンゴル人は空気、アメリカインディアンは水に対応するとした[379][380]。自然哲学者カール・グスタフ・カルスは1849年から1861年にかけての著作で、黄色人種は夜明けの人種で胃の人種、白人種は昼の人種で脳の人種、赤色人種は夕暮れの人種で肺の人種、黒人種は夜の人種で生殖の人種とした[381]。
J.C.プリチャード[382]は『人類の自然史』(1813-47)で人類単一起源説を唱え、アダムとイヴは黒人であったとした[355]。また、ハム人種(エジプト)、セム人種(シリア、アラブ)、ヤペテ=アーリア人種という三分類を行った[355]。ただし、プリチャードはヤペテ=アーリア人種に卓越性を付与したわけではなく、セム人種を第一とした[355]。1816年、トーマス・ヤングが「インド-ヨーロッパ人」という用語を作った[235]。
人種決定論や人種主義がフランスなどで盛んになったのに対してイギリスではJ.S.ミルやバックルのように人種や文化を気候や生活様式の多様性に帰着させる環境主義が説かれていた[375]。19世紀前半イギリスでは聖書崇拝や生気論が強く、フランス流の唯物論や遺伝説には反感が持たれ、無神論であると批判された[375]。解剖学者ウィリアム・ローレンス準男爵[383]が1816年に精神を脳の機能とした講義を出版すると、生気論のジョン・アバーネシーは唯物論と批判した。ローレンスの『人類の自然史』(1819)は人間と動物における知的性質を決定する法則が同一であるとしたことや遺伝についての記述も無神論と批判された[375][384]。
1823年、東洋学者クラプロートが「インドーゲルマン人」という用語を作り、たちまち普及した[235]。19世紀後半までのドイツでは「アーリア人」よりも「ゲルマン」「インド=ゲルマン」という用語がよく使われた[385]。
1824年,シュレーゲルに影響を受けた改宗ユダヤ人エクシュタイン男爵[386]が王党派雑誌『Le Catholique』を創刊し、ヨーロッパは血と文化をゲルマン人に負っており、インドと東洋の神秘について宣伝し、ユゴー、ラマルティーヌ、ラムネー、歴史家ミシュレ、ティエリ、アンリ・マルタン[387]などに影響を与え、ハイネはエクシュタインを「ブッダ男爵」と呼んだ[376]。ユゴーはドイツをひとつのインドと呼んだ[376]。
博物学者ボリ・ド・サン=ヴァンサンは1827年『人類の動物学的研究』で最高の人種はヤペテ人種(白人種)、第二はアダム人種(アラブ)、最低はオーストラリア人種であるとした[375]。
社会学者オーギュスト・コントは白人種は人類の選良であり、特権を与えられており、西欧白人の歴史の研究だけが利益になるため、オリエント研究は無駄であるとした[375]。
博物学者カトルファージュ[388]は奴隷制反対論者だったが1842年にアメリカ合衆国へ旅行直後、ニグロは、知性の形成が途中で止まった白人であり、知的な畸型であるとし、黒人にあっては精神の高貴な産物が動物的な機能にとって替わられているとした[375]。
「セム人」とアーリア主義編集
19世紀にはアーリア人とセム人という二分法が研究者によって受け入れられた[385]。
歴史家ジュール・ミシュレは『ローマ史[389]』(1831)でセム人とインド-ゲルマン人との長い戦いについて語り、またインドを人種と宗教の発祥地であるとし[376]、『人類の聖書』(1864)[390]では、われわれの祖先であるアーリア人・インド人・ペルシア人・ギリシア人は太陽の下で生まれた光の息子であるとし、他方のメンフィス (エジプト)人・カルタゴ・ティールとユダヤ人は南部の暗い性格であり、ユダヤの聖書は偉大ではあるが陰気でやっかいな曖昧さに満ちていると書いた[355]。また、ミシュレはユダヤ人は純粋な人種であり、ユダヤの不幸はこの純粋さにあるとみなした[354]。それに対しドイツはスイス、スウェーデンにズエーヴェン人を、スペインにゴート人を、ロンバルディアにランゴバルド人を、イギリスにアングロサクソン人を、フランスにフランク人を与えたようにドイツ人はすすんで自国から出て、また自分の国に快く外国人を受け入れ歓待する[391][392]。ドイツ人のエゴイズムを捨て去る自己犠牲の精神を「南部の人たち」は嘲笑するが、これがゲルマン人種を偉大にしたとミシュレは論じた[391]。
バルザックの『ルイ・ランベール』(1832)では「モーゼの書は恐怖の刻印が押されている」とし、破局のもとで生きのびるた人が避難したのはアジアの高原であり、聖書の民はヒマラヤとコーカサスにぶらさがっていた人間の巣箱からの一群にすぎない、と書いた[376]。
1843年、人類学者グスタフ・クレム[393]は、人類を能動的人種と受動的人種に分けて、人類が完全になるのはこの二つの人種の混合によるとした[394]。受動的人種にはスラブ人、ロシア人があり、能動的人種にはラテン人が入るが、ゲルマン人はそのラテン人をつねに打ち負かし、ヨーロッパの王位を占めているとした[394]。
1845年、インド学者クリスチャン・ラッセンは、エゴイストで排他的なセム人はインド-ゲルマン人を特徴づけている魂の調和のとれた均衡を持っていないし、哲学はセム人のものでなく、インド-ゲルマン人から借り受けただけだとした[376]。同1845年、スウェーデンの頭蓋学者アンドレーアス・レツィウスは、すぐれた魂の能力を持っているのはスカンジナビア人、ドイツ人、イギリス人、フランス人の長頭の人種で、ラプランド人、フィン人、スラブ-フィン人、ブルトン人のような短頭人種は遅れた民であるとした[385]。
フランスは人種決定論の発祥の地であり、キリスト教から解放された科学法則によって、人種の研究が進展した[354]。フランス系イギリス人の博物学者W.F.エドワーズはユダヤ人を人種とみなした[354]。バルテルミ・デュノワイエは人種の不平等を嘆きながら、チュートン人・ゲルマン人は優秀人種であるとした[354]。ジョゼフ・ド・メーストルは、野蛮人を改良不可能の生まれながらの犯罪者であるとし、その祖先はなんらかの前代未聞の罪を犯したとして、人間は神の前で平等でなはいとした[354]。東洋学者エミール・ビュルヌフ[395]はセム人や中国人はキリスト教や形而上学の美しさを理解できないとした[338]。
1850年代には遺伝学者プロスパー・ルーカスや『変質論』(1857)を刊行したベネディクト・モレルらの遺伝学やモロー・ド・トゥールの『病理心理学』(1859)などが流行したが、その背景には革命を起こしたブルジョワジーが労働者を抑圧し、自らの普遍性を標榜できなくなっていたため、遺伝学によってブルジョワジーの権力と財産の相続権を正当化することがあった[396]。
サン=シモン主義者ピエール・ルルーはヨーロッパ人の祖先の地はアジアの高原であるのだから「われわれは今どうしてユダヤの万神殿にとどまっている必要があるだろうか」「キリスト教、モーゼの啓示、イエスの啓示と呼ばれている切り離された分枝のみを人類の中にみるのだろうか」として「われわれはイエスの息子でもモーゼの息子でもない。人類の息子なのだ」と述べた[376]。同じくサン=シモン主義者クルテ・ド・リル[397]はゲルマン人を至高の人種とみるブロンドの賛美者であり、人種の質は支配能力によって決定されるのでヨーロッパ人は混血しても地球規模で優秀であることが証明されるの対して、黒人は異人種を支配したことがなく、彼ら自身の間で隷属しあっているため絶対的な劣等性が証明されているとした[354]。また、血の混合は産業と進歩の観点から見てよいものとした[354]。
クルテ・ド・リルの弟子だった[355]アルテュール・ド・ゴビノー伯爵は『人種不平等論』(1853-56)で、黒人は全人種の最下位にあり、黄色人種は体力は弱く無気力の傾向にあり自分たちで社会を創造できないとして、この二つの人種は「歴史における残骸」であるが、これに対して白人種だけが文明化の能力と思慮を備えたエネルギーを持つ歴史的な人種であるとし、インド・エジプト・アッシリア・中国・ギリシアなど歴史上の文明はすべて白人種のアーリア民族によるイニシアチブによってのみ可能であったとした[398]。アーリア人の血は、ローマ人、ギリシャ人、セム人と混合して溶けていき、白人種は混交によって世界の表面から消えたとした[354][注 48]。ゴビノーによれば、白人種にはセム人、ハム人、ヤペテ(アーリア人)がいるが、このなかでアーリア民族はセムやハムとは違って純血を保ち、金髪、碧眼、白い肌を持っており、卓越している[398]。しかし、古代ギリシャはセム化によって単一化し、ローマ帝国もセムの血が流入したため、中背で褐色の肌をした「凡庸で取り柄のない人間」「横柄で、卑屈で、無知で、手癖が悪く、堕落しており、いつでも妹、娘、妻、国、主人を売り飛ばす用意ができていて、貧困、苦痛、疲労、死をむやみに怖がる」退廃的な人間を産出した[398]。ただし、この「セム化」はこれまで反ユダヤ主義として嫌疑がかけられてきたが、これは白人の血に黒人の血が混入することを指しており、ユダヤ人による世界支配を批判したわけではなかった[398]。ゴビノーは有色人種を軽蔑していたわけではなく、黒人は力強い普遍的な想像力を持っているとしたし、ユダヤ人は自由で強く知的な民であるとした[354]。これは歴史家ミシュレが「黒人であることは人種というより、病いである」といったのに比べれば抑制がきいたものであった[398]。ワーグナーはゴビノーと固い友情で結ばれていた[401]。ゴビノーは同時代では影響力はなかったが[355]、1894年にルートヴィヒ・シェーマンがドイツとフランスでゴビノー協会を設立し、ワーグナー派に支援された[402]。シェーマンの友人ルートヴィヒ・ヴィルザーは「ゲルマン人」(1914)などで北方ゲルマン人は太陽の子どもであるとした[403]
影響力の少なかったゴビノーに対して、宗教史家エルネスト・ルナンは第三共和制の公式のイデオローグとなり、アーリア主義の宣伝者として大きな影響力を誇った[355]。1855年『セム系言語の一般史および比較体系』でルナンはアーリア人種が数千年の努力の末に自分の住む惑星の主人となるとき、偉大な人種を創始した聖なるイマユス山を探検するだろうと書き[355]、また『近代社会の宗教の未来』(1860)で「セム人には、もはやおこなうべき基本的なものは何もない。ゲルマン人でありケルト人でありつづけよう」「セム人種は使命(一神教)を達成すると急速におとろえ、アーリア人種のみが人類の運命の先頭を歩む」と書いた[355]。ルナンによれば、セム人とアーリア人の間には深い溝があり「世界で最も陰気な土地」であるユダヤの地は極端な一神教を生み、他方のキリスト教を作った北のガリラヤは快活で寛容でさほど厳格でない[404]。キリスト教の人類愛(アガペー)は、自分の兵の妻バテシバと姦淫しその夫を戦場で討死させたダビデの利己主義や、前王ヨラムを殺し、異教神バアルを廃した虐殺者イスラエル王エヒウ(Jehu)からではなく、異教徒であったアーリア人の祖先が産んだとした[404]。イエスの思想はユダヤ教から得たものでなく、完全にイエスの偉大な魂が単独で創造したのであり、イエスにはユダヤ的なものは何もなく、キリスト教とはアーリア人の宗教であり「文明化された民族の宗教」であるキリスト教だけがヨーロッパ共通の倫理と美学を提供できるとした[404]。ルナンは、有害なイスラム教がユダヤ教を継承したと論じた[404]。1863年、化学者マルスラン・ベルトゥロはルナンへの手紙で「われわれの祖先のアーリア人」と述べ、イポリット・テーヌは「血と精神の共同体」であるアーリアの民を賛美した[385]。他方、R・F・グラウ[405]はルナンを批判して、学芸・政治の男性的な能力を持つインド・ゲルマン人に対して、セム人は宗教を独占する女性的存在であり、神はセム的精神とインドゲルマン的性質の結婚を決定しており、この夫婦は世界を支配すると論じた[406]。また、イグナツ・イサーク・イェフダ・ゴルトツィーハーは「セム人は神話を持たない」とするルナンを批判し、ヘブライ神話もあるし、ヘブライ人もアーリア人と同様に人類史の建設者であったとし、ユダヤ人をヨーロッパ文化に同化させることを要求した[407]。
東洋学者で急進的保守主義者のパウル・ド・ラガルドは1850年代から合理主義や近代主義の侵入によってドイツ精神が腐食しているなどとして、プロイセンのユンカー支配、官僚制、資本主義化を批判しドイツ人によるドイツ信仰を主張した[408]。『ドイツ書』(1878)では「ドイツ性は血の中にではなく、気質の中にある」として、内面的・霊的態度によるドイツ国民の霊的再生と、ドイツ民族の活性化によるドイツ統一を目指した[409]。ラガルドは、パウロによってキリスト教はヘブライの律法のなかに閉じ込められ、ルター派は「腐った遺物」であり、カトリックは「あらゆる国家とあらゆる民族の敵」であると伝統的キリスト教を批判した[408][409]。ラガルドは「神の王国とは民族にある」として、原始キリストの霊性にもとづくゲルマン的キリスト教を主張した[409]。ラガルドは初期ヘブライ人を称賛したが、ユダヤ人は律法と教義によって化石化され、近代のユダヤ人は真の宗教を欠落させ、物質主義的な欲望によって陰謀をめぐらすような悪に転落したと批判し[409]、ユダヤ教の破壊を主張した[408]。また、ユダヤ人がドイツ人になりたいのなら、なぜ霊的価値のないユダヤ教を棄てないのかと述べ[409]、人間はバチルス菌や旋毛虫と談判するのではなく根絶するのだとし、ユダヤ人をマダガスカル島への追放を主張した[408]。このラガルドの提案は、ナチスのマダガスカル計画に影響を与えた[408]。ただし、ラガルドは宗教的な見地からの反ユダヤであり、人種的な見地からではなかったとモッセはいう[409]。ラガルドはユダヤ人以外にも、スラブ人は滅ぶべきだし、トゥラン人種であるハンガリー人は滅ぶだろうとした[408]。ラガルドは世紀末ドイツの青年運動、ヒトラー、ローゼンベルグに影響を与え[410]、トーマス・マンはラガルドを「ゲルマニアの教師」と称賛し、カーライル、ショー、ナトルプ、マサリクもラガルドを称賛した[408]。
アーリア主義が高まる一方で、ユダヤ人の人種的な強さについても論じられていった。ジャン・クリスチャン・ブダンは『医学地理学・医学統計学』(1857)でユダヤ人は長寿で死亡率が低く、あらゆる気候に適応できる「唯一のコスモポリタン民族」であるとした[338][411]。自然科学者カール・フォークトは『人間学講義』(1863)でブダンを参照してユダヤ人は土着の人種の助けなしに暮らしていける唯一の人種であるとした[338][412]。人類起源多系統説のフォークトは、人間の形態の系列はニグロから始まってゲルマン人によって絶頂に達したとした[338]。一方、フィルヒョウはゲルマン人種は熱帯に適応できないと確証していた[338]。ドリュモンも『ユダヤのフランス』で、ユダヤ人だけがあらゆる気候のもとで生きる先天的能力を持っているが「同時に他人に害を与えずに自らを維持することができない」とした[338]。地理学者リヒャルト・アンドレーは、ユダヤ人は遺伝的に伝えられる古いユダヤ精神を保持するために外部の血の注入や輸血に打ち勝つことができたとした[338][413]。
スイスの言語学者アドルフ・ピクテ[414]は、1859年『言語古生物学』で原始アーリア人の故地をイランとし、アーリア人は「血統から来る美しさと知性によって他のすべての人種に優越して」おり、神の企図を担うとした[385]。ピクテによれば、アーリア人は文明化の能力を賦与されており、発展させる自由を持ち、展開し適応する受容性を持つのに対して、ヘブライ人は文明化の能力に欠けており、保守と不寛容を特徴とする[406]。
アーリア主義の宣伝者としてルナンよりも影響力があったのが、フリードリヒ・マックス・ミュラーである[415]。ミュラーは1860年、自分はアーリアという用語をインド=ヨーロッパという意味で用いた責任者であると述べ[376]、ミュラーはインド人、ペルシア人、ギリシア人、ローマ人、スラヴ人、ケルト人、ゲルマン人は同一の祖先であり、そのなかでアーリア人はセム人やトゥラン人種との戦いを続けて歴史の主人となったとした[355]。しかし、1872年、ミュラーはストラスブール大学講演でドイツへの愛国心を明らかにし、貨幣の支配と民族主義の肥大化に警戒しながら、ドイツは昔の素朴な美徳を失いつつあるとしたうえで、アーリア人種説は非化科学的であるとした[355]。
1862年,解剖学者ポール・ブロカはアーリア理論は確実性のあるものではないが「アーリア人種」という用語は完全に科学的であるとした[385]。セム人種という用語は大きな誤りであるとし、ヘブライの民について「ヘブロイド」という新語を提案した[385]。またブロカは頭蓋測定器具を数多く作った[385]。当時の頭蓋学ではヨーロッパ人の頭蓋は複雑な凹凸を持ち、劣等人種よりも優秀であるとされた[385]。ブローカの弟子のトピナール[416]は、フランス人は純血アーリア人ではないとしながら、有色人種は数えることに遺伝的生理学的な不適性があり、アーリア人は数学への適性を持つとした[385]。1893年にトピナールは、ガリア人は金髪で長頭の征服者と、褐色の髪で背の低い短頭の被征服者から成り立っているとして、金髪の戦死は商人や実業家になったが、短頭人は多産で将来フランスは彼らのものになるのではないかと述べた[385]。
1867年、聖職者ダンバー・ヒース卿はセム人種はキリストを悪魔とみたが、アーリア人種はキリストに神をみたと述べた[385]。アーリア人種はキリスト教の教義を作ったが、三位一体はセム人の本能に無縁であったとして、キリスト教はあらゆる点でアーリア的な宗教であるとした[385]。
ルイ・ジャコリオの『インドにおけるバイブル[417]』(1868)でモーゼはインド神話のマヌであり、イエスはゼウスで、旧約は迷信の寄せ集めにすぎず、ユダヤ人は堕落した民であり、モーゼはファラオの慈悲で育てられた狂信的な奴隷であるとした[355]。イギリスの政治家(首相)グラッドストーンはジャコリオの信奉者であった[355]。ニーチェは『悲劇の誕生』(1871)でアーリア的本質とセム的本質を区別した[385]。
アメリカの奴隷制支持者のノットとグリッドン[418]は『人類の類型』(1854)でユダヤ人種や黒人種は別個に作られたとした[338]。文化人類学エドワード・タイラーは、言語と人種は正確に一致しないと警戒しながら「わがアーリアの祖先」について語った[385]。オーストリアの文化史学者ユリウス・リッペルト[419]はアーリア人を農耕民族とし、セム人は遊牧民族で農業の能力がなく、白人種の「枯れた小枝」とした[338]。
フランスの博物学者カトルファージュは普仏戦争(1870-71)でパリが包囲された時、プロイセンによる野蛮はアーリア人に先行する原始住民のものでしかありえない、プロシア人は真のゲルマン人ではなく、フィン人またはスラブ-フィン人であり、高い文明に対するフィン人の暗い恨みによってパリの美術館は砲撃されたとした[420]。カトルファージュの説に対してドイツ、イタリア、イギリスの学者は非難した[385]。ドイツの民族学者アドルフ・バスティアンは、プロイセンにはフィン人もスラブ人もいないし、ゲルマン人はこれらを完全に吸収して解体してしまったとし、東へ進むドイツ人は強者の法則、生存闘争の法則に従って弱い人種を仮借なく放逐したし、ゲルマン人はケルト-ラテンのおしゃべりによって心をくもらされる必要はなかったとした[385]。
解剖学者ルドルフ・フィルヒョウは1871年、統一ドイツの全域で兵士の頭蓋測定を試みたが軍が拒否したため、髪、眼、顔色などの特徴の生徒の調査へと変更し、オーストリア、ベルギー、スイスの協力も得られた[385]。調査ではユダヤ人は除かれた[385]。10年間の調査では生徒1500万が対象となり、またフィルヒョウは1885年にフィンランドも調査した[385]。フィンランドが一般の意見と逆に圧倒的な比重で金髪であったため、フランスのカトルファージュの説は無に帰した[385]。フィルヒョウの調査で、西へ向かったゴート人、フランク人、ブルグンド人などのゲルマン人は土着の住民のなかに埋まってしまったが、東へ向かったゲルマン人は「純粋にドイツ的な新しい民族性」を形成し、またスラヴ人の侵入も確認されなかった[385]。なお、フィルヒョウはゲルマン民族主義者ではなく、汎ゲルマン主義や反ユダヤ主義を批判して警告していた[385]。
エルンスト・フォン・ブンゼン[421]は1889年、アダムはアーリア人であり、セム人は蛇であるとした[408]。哲学者フイエは1895年、フランス人はアーリア的要素が減少してケルト-スラヴ人またはトゥラン人種になりつつあり、ヨーロッパはゆっくりとロシア化していると警告した[385]。
19世紀までのドイツの学者、ペシェ、ペンカ、ヘーン、リンデンシュミットらは原始アーリア人を金髪で青い目をした長頭人種とした[385]。他方、フランスのシャヴェ、ド・モルティユ、ウィヴァルフィらは原始アーリア人をガリア人のような短頭人種であるとした[385]。これらの大陸の理論に対してイギリスの言語学者アイザック・テイラーは1890年に、原始アーリア人はウラル・アルタイの短頭人種であるとした[385]。
19世紀末になるとアーリア説について懐疑的な見解が出されるようになり、1892年、考古学者サロモン・ライナハは原始アーリア人についての説は根拠のない仮説で、それが今も存在しているかのように語ることはばかげたことだと述べた[385]。
フリードリヒ・フォン・ヘルヴァルトは『文化史』(1896-98)[422]において、ユダヤ教とキリスト教の矛盾はセム人とアーリア人の矛盾に帰着されるとした[338]。
進化論から優生学・人種衛生学へ編集
ネアンデルタール人をフールロットと共同で1856年に発見した解剖学者シャーフハウゼン[423]は、宗教の高度な思想を受け入れることのできない土着民は動物に近く、またアジアとアフリカの猿は土着の人種に類似していることから、人類多重起源説を主張した[338]。
1864年の『自然選択理論から導かれる人種の起源』でウォレスは自然選択説から導かれることとして、精神組織が発達した知性の高いゲルマン人種のような優等人種は増加する一方で、劣等人種は逐次消滅してきたとし、人間の進化は有色人種の消滅まで続くとした[424]。
チャールズ・ダーウィンは、異人種交配による退化の原因は交配によって決められる隔世遺伝のせいであると論じ[338][425]、また『人間の由来』(1871)では人種の優劣を前提していた[424]。イギリスではアーリア主義が進化論によって普及していったが、フランスやドイツのような反ユダヤキャンペーンとはならなかった[355]。ダーウィンを弁護したハクスリーはアーリア人は芸術と科学を作り、セム人はヨーロッパの宗教の基本を作ったとした[355]。ハクスリーは女性とニグロの解放に好意を示しながらも双方の遺伝的劣等を確信していた[338]。
ドイツの生物学者エルンスト・ヘッケルは『自然創世史』(1868)で病弱の幼児を殺害した古代スパルタ人に見られるような人為淘汰を肯定した[426]。
ダーウィンの従兄弟の遺伝学者フランシス・ゴルトンは『遺伝的天才』(1869)で知性は血統による遺伝的なもので、白人種はニグロやオーストラリア人種よりも優秀で、また人為選択による改良で高度な人種を作り出せるとした[424]。ゴルトンは、聖職者に独身を強要したり異端裁判で大胆な種子を弾圧してきたカトリック教会や新教徒を弾圧したルイ14世を非難する一方で、イギリスは移民によって利益を得てきたとしてロシアからのユダヤ人移民を好意的に扱うなど反ユダヤ主義者ではなかった[424]。しかし、ゴルトンは共同体の良い血統を残すために、わが人種の能力を弱体化させる習慣や偏見に対する聖戦を宣言する時が来るだろうとした[424]。ゴルトンは1883年に優生学(Eugenics)を造語した[426]。フランスの解剖学者ブローカも雑種現象は生物学的に有害としていた[338]。
進化論は、適者生存の法則によって人類は白人種の下に進化していくとした社会学者スペンサー[注 49]やサムナー、ヘッケルによって社会進化論へと発展した。スペンサー、ウォレス、サムナーも優良人種の保持は自然淘汰によって実現すると楽観していた[424]。一方、社会主義者の優生学者・統計学者ピアソンは、アーリア人種とキリスト教徒は奴隷として見下してきた人々によって押し返されて目を覚ますだろうと悲観的に見た[424]。イギリスではピアソンやロナルド・フィッシャーなどのネオダーウィニズムへと発展していった。
1873年、スイスの植物学者カンドルは遺伝の絶大な力を説明するなか、ヨーロッパにユダヤ人のみが住んでいれば戦争も道徳感覚が傷つけられることも失業もなくなり、文芸や科学は前進していくが、自然史の法則によって、ユダヤ人の理想都市はギリシア人、ラテン人、カンタブル人(古代スペイン)、ケルト人、ゲルマン人、スラブ人の末裔によって略奪されるだろうと論じた[338][427]。カンドルは他の箇所では、厳しい旧約聖書に対して新約聖書には優しさ、思いやり、謙虚さがあり、宗教教育だけで育成したイスラエル人は暴力的であるとした[338]。哲学者リボーは『遺伝-心理学的研究』(1873) でユダヤ人種は文明への憎悪に満ちており、悪徳を宗教のように愛しており、彼らの最大の野心はキリスト教徒から盗むことであると論じた[338][428]。ニーチェは、プラトンやアリストテレスが「理想国家」にとって無用な者の遺棄を肯定し、古代ギリシアでは不具の新生児遺棄は普通であったことから「不具の子供を生かしておく方がもっと残忍なことだ」と書いた[426][429]。
進化論や社会ダーウィニズムは、ドイツ帝国やアングロサクソン諸国で力の福音が説かれる際に権威となった[424]。トライチュケは諸民族は生存競争によってしか繁栄できないとし、また戦争が永久になくなってしまえば、人間の魂の至高の力が減退し、エゴイズムが支配すると論じた[424]。ドイツのジャーナリストのベータは『ダーウィン、ドイツおよびユダヤ人、またはユダヤ-イエズス会』(1876)で寄生的なセム人と生産的なゲルマン=アーリア人との間での生存競争に対して、反ユダヤ法の公布を要求し[424][430]、ゲルマンの民族精神を退化させる「寄生生物の根絶」を主張した[431]。農業家アレクサンダー・ティレは社会進化のために醜い人間の結婚を禁止すべきだと説いた[426]。アメリカ大統領セオドア・ルーズベルト(任期1901-9)は絶えず生存闘争を語った[424]。
1899年、遺伝学者・人類学者ヴァシェ・ド・ラプージュ[432]は、フランス革命の破産は権力者が金髪の長頭人から短頭人に代わったためであり、民主主義の進展によって短頭人種の下層階級に権力が集中していき、フランスの偉大さを作った長頭人種のアーリア人は消滅し、生まれながらの奴隷である短頭人種は犬のように自分の主人を探すためアーリア人がいないところでは中国人やユダヤ人の支配下で生きるとした[385]。そして、20世紀には頭指数が高いか低いかのために数百万の人々が殺し合い、大量虐殺を目の当たりにするだろうと予言した[385]。ラプージュは「悪貨は良貨を駆逐する」のグレシャムの法則を援用して「悪い血は良い血を駆逐する」とも述べた[338]。ラプージュは反ユダヤ主義者というよりもアーリア主義者であり、劣等の短頭人種を「アルプス人」とし、長頭人種アーリア人を「ヨーロッパ人」と定義し、短頭人種と長頭人種の混血を避けるために優生学による断種政策を提唱した[396]。法学者でもあったラプージュは遺産の相続と遺伝について考察し、父権を否定しながら、近親交配が遺伝の力をひきあげるし、優れた人種が死ねば国家は死滅するとし、子に去勢を強いる父である神とキリスト教を否定して、太陽と男根を崇拝する宗教を提唱した[396][注 50]。ヴィルヘルム2世はラプージュを「フランスの唯一の偉人」と称賛した[385]。
人種衛生学を人類学者オット・アモン[433]、優生学者アルフレート・プレーツ、シャルマイヤー[434]らが展開した[426]。1892年にはスイスの精神科医オーギュスト・フォレルが民族衛生学の観点から精神障害者の女性に対して断種手術を施し、1897年にはドイツで婦人科医エルヴィン・ケーラーが遺伝病の女性の断種手術(卵管切除)を行った[426]。法律家アドルフ・ヨストは『死への権利』(1895)で、不治の病人は安楽死への権利をもつし、不治の精神病患者の殺害は本人の意思表示がなくとも医師の判断によって可能とした[426]。
優生学者アルフレート・プレーツはカウツキーの社会主義やフェリクス・ダーンの人種主義を融合した『我々の人種の能力と弱者の保護:人種衛生学と社会主義的理想の研究』(1895)において、遺伝子次元での不適切な要素を除去することによって適者生存と社会主義の調和を図り、アーリア人種を保護するための人種衛生学を提唱した[435]。ただし、ユダヤ人もアーリア起源とした[424]。彼は人種の感覚を鈍らせた原因としてキリスト教と民主主義を批判した[424]。1904年、プレーツは社会学者A・ ノルデンホルツや動物学者L・ プラーテらと世界初の優生学専門誌『人種社会生物学』を創刊し[426]、第二次世界大戦前後には攻撃的な生物学思想の主要機関誌となった[424]。1905年、プレーツは人種衛生学会を作り、ヘッケル、ヴァイスマン、ゴルトンが加わった[424][注 51]。1907年には北方協会(Ring der Norda)を創設した[424][436]。社会学者マックス・ヴェーバーによって1910年の第一回社会学者大会へ招待されたプレーツは講演「人種概念と社会概念」で、社会発展の鈍化の原因は社会的弱者の保護政策や生存闘争に基づく自然淘汰の低減にあるとし、民族衛生学的な解決策として性的淘汰によって劣悪な遺伝子の継承を防ぐこと、そして究極的な解決策として生殖細胞の淘汰による劣等生殖細胞の消滅(後の遺伝子操作)を提唱した[426]。ヴェーバーはプレーツの人種概念が曖昧であり[437]、民族生物学固有の問題の実質的な限界を踏みはずしてはならないと批判した[426]。ただし、ヴェーバーも黒人やインディアンにも知的な上層部がいるが白人種と混血が多く、また知的に未熟な黒人を「半猿ども」と表すように白人種の優越を認める一方で、外見が白人なのに黒人との混血を重視するアメリカ人を批判した[437]。またヴェーバーは「職業としての学問」(1917)では重態の患者や精神障害者の家族が安楽死を嘆願した場合でも医師は患者の命を保持しようとするが「生命が保持に値するかどうか」は医学の問うところではないとした[426]。
1908年にはイギリスで優生教育委員会、1910年にはアメリカで優生記録局が作られた[424]。アメリカでは優生学者ダベンポートが1911年には『人種改良学』を発表した[438]。ゴルトンの優生学では常習犯の隔離や精神障害者の生殖の制限も主張され、アメリカでは1907年以降各州で断種法が制定され、移民排斥法や禁酒法などにも影響が見られた[426]。
ワーグナー編集
作曲家リヒャルト・ワーグナーは若い頃には青年ドイツ派の影響を受けて、新しい音楽はイタリア的でもフランス的でもドイツ的でもないところから生まれると論じていた[439]。
1839年からパリに移ったワーグナーは、ユダヤ人作曲家マイアベーアから庇護を受けた[440]。ワーグナーもマイアベーアはドイツ人としての感情や良心を保持しており、フランスとドイツのオペラを美しく統一したと称賛した[440][441]。なお、マイアベーアは多くのユダヤ人がキリスト教に改宗する時代において、改宗を拒否した唯一の例であった[442]。一方でマイアベーアは聴衆のほとんどは反ユダヤ主義であるとハイネへの手紙で述べている[440]。1840年にワーグナーは、ドイツは諸王国・選帝侯国・自由都市に分断されており、国民が存在しないために音楽家も地域的なものにとどまっていると嘆いたうえで、しかしドイツはモーツァルトのように、外国のものを普遍化する才能があると論じた[441]。同年フランスがライン川を国境とすべきだと要求したことに反発したドイツ愛国運動(ライン危機)が広がり愛国歌謡が作られたが、ワーグナーはこれを嫌悪した[443]。
しかし、成功しないワーグナーはパリに反感を持つようになり1841年にドイツ人は社交界から排除されているのに、ユダヤ系ドイツ人はドイツ人の国民性を捨て去っており、銀行家はパリでは何でもできる、と書いた[441]。ユダヤ人銀行家の息子だったマイアベーアは偽客(サクラ)の動員やジャーナリスト買収などもしており、ハイネも批判していた[441]。1842年にワーグナーはシューマンへの手紙でマイアベーアを「計算ずくのペテン師」と呼んだ[440]。一方でワーグナーはこの頃、ハイネと親しくし、ハイネを素材に『さまよえるオランダ人』(1842年)を作成し、またハイネがユダヤ系のルートヴィヒ・ベルネをで批判すると、ワーグナーは擁護した[289]。
1842年、ワーグナーはザクセン王国に戻り、ドレスデンのザクセン宮廷歌劇場管弦楽団指揮者となり、成功した[440]。またワーグナーは歌劇場監督で社会主義者のアウグスト・レッケルの影響で、プルードン、フォイエルバッハ、バクーニンなどアナーキズムや社会主義に感化され、国家を廃棄して自由協同社会(アソシエーション)を目指し、1846年には楽団の労働条件の改善や団員の増強を要求し、翌年に宮廷演劇顧問のカール・グツコーの無理解な専制を上訴したがいずれも却下されたため辞任した[343]。1847年夏には、ヤーコプ・グリムの『ドイツ神話学』に触発され、古代ゲルマン神話を研究した[444]。
1848年のドイツ三月革命ではフランスのような「国民」を実現することが目指され、レッケルが「祖国協会」を組織し公職を追放された[343]。ワーグナーは5月に宮廷劇場に代わる「国民劇場」を大臣に提案したが却下された[343]。6月にワーグナーは祖国協会での演説において、共和主義の目標とは、貴族政治の消去、階級の撤廃とすべての成人と女性への参政権付与、金権とユダヤ人からの解放[289]だとし、プロイセンやオーストリアの君主制が崩壊した後に美しく自由な新ドイツ国を建設して人類を解放すべきであると述べたが、共和主義者と王党主義者からも批判された[349]。ワーグナーは、レッケルを通じてバクーニンと知り合い、1849年4月8日の「革命」論文では、革命は崇高な女神であり、人間は平等であるため、一人の人間が持つ支配権を粉砕すると主張した[349][注 52]。
1849年5月のドレスデン蜂起でワーグナーも主導的な役割を果たし、指名手配を受けてスイスのチューリッヒに亡命した[349]。そこでワーグナーは『芸術と革命』(1849)を著し、古代ギリシャ悲劇を理想としたが、アテネも利己的な方向に共同体精神が分裂したため衰退し、残忍な世界征服者のローマ人は実際的な現実にだけ快感を覚え、キリスト教は生命ある芸術を生み出せなかったし、ゲルマン諸民族もローマ教会への抵抗に終始し、ルネサンスも近代芸術も金儲けのための産業となって堕落したと批判し、未来の芸術はあらゆる国民性を超越した自由な人類の精神を包含する、と論じた[446]。また、同年の『未来の芸術作品』では、共通の苦境を知っている民衆(Volk)と、真の苦境を感じずに利己主義的な「民衆の敵」とを対比させて「人間を機械として使うために人間を殺している現代の産業」や国家を批判して、未来の芸術家は音楽家でなく民衆である、と論じた[446]。また、ヘーゲルの歴史哲学に影響を受けた『ヴィーベルンゲン 伝説から導き出された世界史』(1849年)で伝説は歴史よりも真実に近いとし、ドイツ民族の開祖は神の子であり、ジークフリートは他民族からはキリストと呼ばれ、ジークフリートの力を受け継いだニーベルンゲンは全民族を代表して世界支配を要求する義務がある、とするゲルマン神話について論じた[349][440][447]。1848年革命の失敗によって、各地のコスモポリタン的な愛国主義は1850年代には排外的なものへと変容したが、ワーグナーもドイツ性を追求していった[447]。
1850年、ワーグナーは変名で冊子『音楽におけるユダヤ性』を発表し、ユダヤ人は模倣しているだけで芸術を作り出せないし、芸術はユダヤ人によって商品・嗜好品へと堕落したと主張した[289][448]。冊子ではユダヤ人の支配は、金が権力である限りいつまでも続くと述べ[289]、1847年に死去したユダヤ系作曲家メンデルスゾーン・バルトルディを攻撃し(マイアベーアを名指しはしなかった)、またユダヤ解放運動は抽象的な思想に動かされてのもので、それは自由主義が民衆の自由を唱えながら民衆と接することを嫌うようなものであり、ユダヤ化された現代芸術の「ユダヤ主義の重圧からの解放」が急務であると論じた[440]。ただし、ワーグナーはメンデルスゾーンの『ヘブリデス』序曲を称賛し、完全な芸術家であるとも評価しており[440]、メンデルスゾーン本人よりも、メンデルスゾーン一派を台頭させた価値を創造せずにただ商品を流通させているだけの「音楽銀行家」を批判している[449]。1851年、ワーグナーはリストに向けて、以前からユダヤ経済を憎んでいたと述べた[289]。
1851年の『オペラとドラマ』でワーグナーは、古代ギリシャ人の芸術を再生できるのはドイツ人であり、ドイツ語だけが完璧な劇作品を成就できる、と論じた[450]。
ワーグナーの知り合いでもあった自由主義者の作家フライタークの小説「借方と貸方」(1855)ではドイツ人商人が浪費癖の強いドイツ人貴族を助ける一方で、ドイツを憎むユダヤ商人は没落し川で溺死する話が書かれ、当時ベストセラーとなった[451]。
1865年、ワーグナーはバイエルン国王ルートヴィヒ2世のために『パルジファル』を書き「ゲルマン=キリスト教世界の神聖なる舞台作品」と呼んだ[401]。ワーグナーは『パルジファル』創作にあたって、大ドイツ主義者の聖書学者グフレーラーの『原始キリスト教』に影響を受けており[452]「私はもっともドイツ的な人間であり、ドイツ精神である」と日記に書いた[453]。
1867年にワーグナーは、フランス文明は退廃的な物質主義であり、すべてを均一化させ死に至らしめるものだが、これから逃れることができるのが、ローマ帝国を滅ぼしてヨーロッパを作ったゲルマン民族のドイツであると論じた[454]。『ニュルンベルクのマイスタージンガー』(1868年)では「たとえ神聖ローマ帝国は雲散霧消しても、最後にこの手に神聖なドイツの芸術が残る」(3幕5場)と述べられた[455]。しかし、この作中でユダヤ人は出てこない[448]。
1869年に北ドイツ連邦で宗教同権法(宗教の違いに関係ないドイツ市民同権法)が承認され、1871年にドイツ帝国全域で施行されると、反ユダヤ主義運動が高まりを見せたが、ワーグナーは同時代の反ユダヤ主義には同調しなかった[456]。他方でユダヤ人資本家、宮廷ユダヤ人によって操られているプロイセン政府を軽率として批判した[457]。またワーグナーはマルやデューリングの反ユダヤ主義は評価しなかったが、ユダヤ人の儀式殺人をとりあげたプラハ大学教授のアウグスト・ローリング神父の『タルムードのユダヤ人』(1871年)[458]を愛読した[459]。
普仏戦争の始まった1870年にワーグナーは、独創性のないフランス近代芸術は芸術を売りさばくことで計り知れない利潤をあげているが、ベートーヴェンがフランス的な流行(モード)の支配から音楽を解放したように、ドイツ音楽の精神は人類を解放する、と論じた[460]。
1873年にはビスマルクの反カトリック政策である文化闘争を支持し、さらにカトリックだけではなく、横暴なフランス精神との闘争を主張した[461]。しかし、ビスマルクがワーグナーの計画や要請を拒否すると、ワーグナーはプロイセンに失望し「アメリカ合衆国とロシアこそが未来である」と妻に述べ、アメリカへの移住を計画した[461]。
ワーグナーは1880年の論文「宗教と芸術」で、音楽は世界を救済する宗教であり、キリスト教からユダヤ教的な混雑物を取り除き、崇高な宗教であるインドのバラモン教や仏教などを参照して純粋なキリスト教を復元しなくてはならないと論じ、失われた楽園を菜食主義と動物愛護と節酒によって再発見し、南米大陸への民族移動すべきだと提案した[456]。ワーグナーに影響を与えたショーペンハウアーは、キリスト教の誤謬は自然に逆らって動物と人間を分離したことにあるが、これは動物を人間が利用するための被造物とみなしたユダヤ教的見解に依拠する、と論じた[456]。ワーグナーの菜食主義は、ヒトラーの菜食主義にも影響を与えた[462]。また、1880年には哲学者ニーチェの妹エリーザベトの夫フェルスターによって、ユダヤ人の公職追放や入国禁止を訴えるベルリン運動(Berliner Bewegung)の署名を求められたが、ワーグナーは拒否している[289][456]。
晩年の1881年2月の論文「汝自身を知れ」でワーグナーは現在の反ユダヤ運動は俗受けのする粗雑なものと批判し、古代ギリシアの格言「汝自身を知れ」を貫徹すればユダヤ人問題は解決できると論じた[456]。ワーグナーはユダヤ人の現実の排斥を主張したのではなく、フランスの流行や文化産業と一体化した現代文明におけるユダヤ性(Judenthum)全般を批判した[456]。ワーグナーにとって、ユダヤ人は「人類の退廃の化身であるデーモン」であり「われわれの時代の不毛性」であり、ユダヤへの批判はキリスト教徒に課せられた自己反省を意味し、またユダヤ教は現世の生活にのみ関わる信仰であり、現世と時間を超越した宗教ではないとした[456]。
同年9月の論文「英雄精神とキリスト教」では、人類の救済者は純血を保った人種から現れるし、ドイツ人は純血種族であったが、東欧からのユダヤ人の侵入によって衰退させられ、宮廷ユダヤ人によってドイツ人の誇りが慢心や貪欲と交換されてしまったと嘆いた[463]。ユダヤ人は祖国も母語も持たず、混血してもその絶対的特異性が損なわれない人種で「世界史に現れた最も驚くべき種族保存の実例」であるに対して、純血人種のドイツ人は不利だとされた[463]。なお、ワーグナーはユダヤ系の義父ガイアーが実父かもしれないとの疑惑を持っていた[463]。同年、ワーグナーはルートヴィヒ2世への手紙でユダヤ人種は「人類ならびになべて高貴なるものに対する生来の敵」であり、ドイツ人がユダヤ人によって滅ぼされるのは確実であると述べている[401]。しかし、この頃、反ユダヤ主義者に攻撃を受けたユダヤ人歌手アンゲロ・ノイマンを擁護しローエングリンとジークフリート役に好んで起用してもいる[401]。この他、後年のワーグナーはユダヤ人奏者ルービンシュタインやタウジヒらを庇護して起用した[401]。
1882年、ウィーンのリング劇場で800人が犠牲となった火災事故に対してワーグナーは「人間が集団で滅びるとは、その人間たちが嘆くに値しないほどの悪人だったということだ。あんな劇場に人間の屑ばかり集めて一体何の意味があるというのか」と述べ、鉱山で労働者が犠牲になった時こそ胸を痛めると述べた[401][464]。また、ワーグナーは「人類が滅びること自体はそれほど惜しむべきことではない。ただ、人類がユダヤ人によって滅ぶことだけはどうしても受け入れがたい恥辱である」と述べている[401]。
1882年夏、ワーグナーの崇拝者であったユダヤ人指揮者ヘルマン・レーヴィはルートヴィヒ2世の命によって『パルジファル』のバイロイト祝祭劇場初演を指揮した[401][463]。『パルジファル』でワーグナーはインドの仏教やラーマーヤナをモチーフにしたが「キリスト教世界の外部」の中世スペインとして設定された[456]。宗教と芸術の一致を目標としたワーグナーはレーヴィにキリスト教への改宗を要求したがレーヴィは拒否した[463]。レーヴィは、ワーグナーのユダヤとの戦いは崇高な動機からのものであり、低俗なユダヤ人憎悪とは無縁であると考えた[463]。前年に匿名で、コジマと不義の関係にあるユダヤ人に指揮させるなという手紙が届いたため、レーヴィは辞退を申し出たが、ワーグナーは気にせず指揮をするよう言った[401]。ワーグナーの娘婿で反ユダヤ主義者チェンバレンはレーヴィを例外的ユダヤ人として称賛した[401]。ワーグナーは1883年に死ぬ直前に「われわれはすべてをユダヤ人から借り出し、荷鞍を乗せて歩くロバのような存在である」と述べた[401]。
ワーグナーの影響力は強く、フランスではサン=サーンスとグノー、ドビュッシーら[465]、ドイツではブルックナーらが影響を受け、ユダヤ人マーラーはワーグナー派で度々ワーグナーを指揮しており、1898年には「ニーベルングの指環」作中のミームはユダヤ人への風刺だが、ミーメとは私であると述べた[466]。ユダヤ系オーストリア人の作曲家シェーンベルクは1933年にワーグナーの『音楽におけるユダヤ性』に反論しながらも「私にとってワーグナーは永遠の現象である」と称賛している[467]。
フランスではワーグナーから招待されたボードレール[465]、マラルメ、モーリス・バレスがワーグナーに熱狂し、カチェル・マンデスはパルジファルに巨大で輝かしいアーリアの神々が浮かび上がるのを見た[408]。1886年、ヴォルツォーゲン男爵[468]は、ドイツ人とフランス人はアーリア人種であり、アーリア芸術を称賛した[408]。雑誌『ルヴュ・ヴァグネリアン』の発行者で作家のエドゥアール・デュジャルダン[469]はワーグナーは宗教を創始し、パルジファルは第三のアダムで、イエスが世界の終わりに現れるときにとる姿であるとした[408]。ワーグナーは新異教主義(パガニズム)に大きな影響力を持ち、ヒトラーもワーグナーの崇拝者であった。
社会主義・無神論編集
フーリエ、トゥスネル編集
フランスの反ユダヤ主義は、フランス革命の後遺症とみなすこともできるとポリアコフはいう[275]。なかでも、フランスの社会主義者はサン=シモン主義者を唯一の例外として反ユダヤ主義に染まっていった[275][注 53]。
1808年、社会思想家シャルル・フーリエは人々を破産に追い込み稼いだユダヤ人についての教訓話を書き、ユダヤ人がフランスに拡散すると、フランスは巨大なシナゴーグになると論じた[470]。1829年、フーリエはユダヤ人解放政策は金儲け精神の助長であり悪政であるとして「高利貸しの民族」であるユダヤ人は文明化を遂げていないと論じた[470]。しかし、フーリエは1838年には『偽りの産業』でロスチャイルド家を旧約聖書のエズラ、セルバベルになぞらえ、ダビデ、ソロモンの王を復活させ、ロトシルト(ロスチャイルド)王朝を創始できると称賛しており、ポリアコフはフーリエはロスチャイルド家の共感をとりつけようとしたのではないかと指摘している[470]。しかし、フーリエの思想に共鳴したフーリエ主義者は第二共和政時にユダヤ人議員クレミューが司法省にいることは脅威であるといったり、ドレフュス事件では反ユダヤ主義を標榜し、またフーリエから影響を受けたロシアの小説家ドストエフスキーもユダヤ嫌いであった[470]。
1845年、フランスでシャルル・フーリエの弟子アルフォンス・トゥースネルが『ユダヤ人、時代の王 - 金融封建制度の研究』を刊行した[471]。トゥスネルは産業革命のもとで生じた7月王政期の議会の腐敗や社会不安について、フランスが道徳的に無気力に陥り堕落したのはユダヤの金融資本家を中心とした「金融的封建支配」のせいだと主張し、大臣たちはフランスをユダヤ人に売ったと非難し「貨幣の貴族支配」を除去するため王と人民との結合を主張した[472]。トゥスネルは「ユダヤ人」を「他人の資材と労働を食い物にしている通貨の取引人すべて、みずから生産に従事しない寄生者のすべて」といい、ここにプロテスタント、神の意思を読み取るのにユダヤ人と同じ書物を読むイギリス人、オランダ人、ジュネーヴ人も指し示しているという[473]。トゥスネルのこの本は、ドリュモンの『ユダヤ人のフランス』(1886)が登場するまでは反ユダヤ主義の古典となった[473]。
1846年、キリスト教社会主義のピエール・ルルーはトゥースネルと同じ題の『ユダヤ人、時代の王』をものし「ユダヤ人」とは高利貸し、貪欲に金を稼ぐことに熱意を示す人間すべてを意味するが、ユダヤ人の病は人類の病であり、投機売買と資本によってイエスは磔刑に処されていると論じ、敵は「ユダヤ的精神」であり、個々のユダヤ人ではないといった[473]。
プロイセンのフェルディナント・ラッサールはユダヤ人の社会主義者・労働運動指導者だったが、奴隷として生まれついたユダヤ人に対して正しい復讐がわかっていない、と自己指弾し「私はユダヤ人のことをまったく好きになれない」と述べた[474]。
ヘーゲル左派編集
ヘーゲル左派(ヘーゲル青年派)のユダヤ系社会主義者モーゼス・ヘスはユダヤ人は魂のないミイラ、さまよい歩く幽霊のような存在であり「ユダヤ教とキリスト教の神秘が、ユダヤ=キリスト教徒の商店主の世界に開示された」と述べるなどしていたが、後年、人種主義者となり、1862年の『ローマとイェルサレム』などでヨーロッパ社会にユダヤ人は同化できないとして、シオニズムのテオドール・ヘルツルに影響を与えた[475]
1847年、理神論者のゲオルク・フリードリヒ・ダウマーは『キリスト教古代の秘密』で聖書批判を行い、過去数世紀にわたってキリスト教徒による儀式殺人を列挙した[476][477]。儀式殺人はユダヤ教徒によってなされたとみなされてきたもので、血の中傷ともよばれるが、ダウマーはハーメルンの笛吹き男などの中世の幼児誘拐事件、異端審問、魔女裁判、サン・バルテルミの虐殺、ユダヤ人の大量虐殺などもキリスト教徒による儀式殺人であったと論じた[477]。これは厳密な証拠ではなく、漠然とした疑いで書かれたものであったが、共産主義秘密結社「義人同盟」のパリ代表ヘルマン・エーヴァ−ベック(August Hermann Ewerbec)はダウマーの『キリスト教古代の秘密』をフランス語に訳し、1848年にロンドンにいたカール・マルクスはダウマーによってキリスト教儀式で人間の肉や血を食べたことが実証され、これは「キリスト教に加えられた最後の一撃」であると評価した[477][478]。ダウマーはキリスト教側から攻撃を受けて、ユダヤ教に近づき、1855年には『ユダヤ人の知恵』を書いて、ユダヤ人共同体への加入を表明したが、ユダヤ共同体側は断っている[477]。ダウマーの弟子フリードリヒ・ウィルヘルム・ギラニ−はダマスクス事件以後、ユダヤ人の食人風習を告発した[477]。
無神論哲学者フォイエルバッハはダウマーの親友であり、ダウマーから影響を受けていた[477]。フォイエルバッハは『キリスト教の本質』でユダヤ人の原理は利己主義と述べている[477]。
レオン・ポリアコフは、ヴォルテールの反宗教キャンペーンから、ソ連の反宗教政策まで、反キリスト教を掲げる無神論の十字軍は、ダウマーと同種の思考様式が共通して見いだせると指摘している[479]。ハイネは「無神論の狂信的な修道士たち」と述べている[480]。
アルノルト・ルーゲはゲルマン主義の学生運動の活動家であったが、青年ヘーゲル派となり、1838年に機関誌『ハレ年報』を創刊した[481]。ルーゲは1839年、『ハレ年報』で「キリスト教世界というチーズのなかに巣くったウジ虫ともいうべきユダヤ人」は無神論的であると論じた[481][482]。ルーゲはマルクスと悶着した際に「恥知らずのユダヤ人」と言い、社会主義運動を「忌まわしきユダヤ魂の寄り合い」と非難している[481]。ルーゲは後年、ビスマルク支持者となった[481]。
マックス・シュティルナーは、人類の歴史の第一の時期にニグロ的な性質が棄てられ、第二のモンゴル(中国)の時期は暴力によって終わらせねばならないとした。そのためにあらゆる既成の信仰を転覆し、コーカサスの血をモンゴルの禍から解放して、コーカサス人のみのものとされる天を征服することを提唱した[261]。
ブルーノ・バウアー編集
ヘーゲル左派の哲学者で無神論を根底に据えたブルーノ・バウアーは1841年、『無神論者・反キリスト教徒ヘーゲルに対する最後の審判ラッパ』で神への信仰は普遍的自己意識の獲得を阻害するとして批判し、また神聖同盟下のドイツにおける教会と国家の結合を批判した[484]。しかし、プロイセン政府の検閲によってバウアーは1842年春にボン大学講師職を剥奪された[484]。また、バウアーは福音書を「神話」としたダーウィト・シュトラウスの「イエスの生涯」(1835年)に影響を受けて福音書をマタイ・マルコ・ルカによる創作とした[485]。
1843年の『暴かれたキリスト教』でバウアーは、神への拝跪による思考喪失を批判して、キリスト教からの人間の解放を主張し、発禁処分となった[483][484][486]。同年、社会主義者で無神論者のヴィルヘルム・マルが『暴かれたキリスト教』の縮約版を刊行した[487]。後年マルは「反セム主義(Antisemitismus)」を造語した[486]。
同年の1843年の『ユダヤ人問題』でバウアーは、ユダヤ人への圧迫の原因はユダヤ教の偏狭な民族精神にあり、律法の命じる愚かしい儀礼がユダヤ人を歴史の運動の外におき、他の諸民族から切り離したとして、ユダヤ教徒が「空想上の民族性」にしがみつこうとする限り、ユダヤ教徒の解放はありえないし、それはキリスト教が自分の特権を保持しようとする限り解放されないのと同じだと批判した[483][488][489]。またユダヤ人は市民社会の隙間に巣くい、不安定要素から暴利をむさぼり、普遍的人権を受け入れないし、ユダヤ人は金融でも政治でも一大権力をほしいままにしているとした[483][486]。バウアーはすべての人間が宗教から解放されなけれならないのに、ユダヤ人だけを解放の対象とみなすことに反意を表明して、ユダヤ人解放論へ反論した[486]。バルニコルは、バウアーの『ユダヤ人問題』は19世紀の最も知的で鋭い反ユダヤ主義の著作であると評した[483]。また1843年から1844年にかけてバウアーは傍観者である「大衆」に対して、怠惰で自己満足であり「精神の敵」であると批判した[484]。
1848年革命の翌年の1849年に発表した『ドイツ市民革命論』でバウアーは、ドイツ3月革命について市民階級が国王と妥協して労働者を締め出したし、フランクフルト国民議会も旧体制の連邦議会を再生したものと批判し「ドイツ市民」を思考喪失者として批判した[484]。ローマ教会を批判してドイツ・カトリック運動を起こしたシレジアの司祭ヨハネス・ロンゲ(Johannes Ronge)を市民は理性を救う者として歓迎したが、バウアーは理性は自由な聖書解釈を行うとしてドイツ・カトリック運動を批判した[484]。またバウアーはプロテスタントの自由ゲマインデ運動についても、領邦教会制度を批判せずに「愛と真理」といった空言を繰り返すだけで、ドイツ・カトリック運動と同じく聖書の自由研究を許していないと批判した[484]。バウアーはモーゼス・ヘスたちの社会主義についても「凡庸な宗教」として、社会主義者はすでにある労働者組織に追随しているだけだと批判した[484]。
1853年の『ロシアとゲルマン』でバウアーは、1848年革命以後、フランスは立憲主義から帝政主義へ変化し、帝政ロシアと対立し、ドイツは統一に失敗して分立しており、ヨーロッパは分裂と対立の時代となったとし、また、イギリスのユダヤ人首相ディズレーリ、フランスのユダヤ人銀行家フルドなどヨーロッパはユダヤ人に支配されており、ヨーロッパ諸民族の精神的宇宙は奈落に沈没したと論じた[483]。
1863年、バウアーは『異郷のユダヤ』で、ユダヤ人によるドイツの支配は「人道主義的に軟化した瞬間に我々がユダヤ教徒を同等なものとして取り扱った」ことにあり、キリスト教徒にその責任があるとした[277][483]。「我々がユダヤ人に対して自らを防衛しなければならないことの責任は、我々のみに、とりわけ我々ドイツ人にある。ユダヤ人が一時的に手に入れた勝利は、彼らが闘い取ったものではなく、我々が彼らにプレゼントしたものなのだ。彼らではなく、我々こそが現代にそのユダヤ的性格を刻印したのだ」と述べ、しかし「我々の責任であるがゆえに、我々はまだ負けてはいない」と述べた[277][483]。
また、1848年ドイツ革命ではフランクフルト国民議会副議長リーサ−、治安委員会議長フェッシュホーフ、ジーモン議員、ヤコービ議員などユダヤ人政治家が活躍した[483][490]。バウアーによれば、フェッシュホーフは皇帝位に代わって立ち、キリスト教を冗談とみなし、ウィーンをタルムードの占領権によって所有し、ジーモンを革命代表者とする顕彰運動のドイツ民族は代表者を生み出せず、歴史の目印をドイツ人はユダヤ人に借りなければならないという主張は厚かましいと批判した[483]。バウアーは「革命は新しいものはなにも生み出さない。少なくとも、その怒りの爆発の瞬間には。それは、古い血の沸騰、歴史の下層の堆積物の露出、新しい時代のなかへの古代の闖入にすぎない」と革命思想を批判し、ユダヤ人が革命に期待しているのは自分の古代、自分自身だけであるとした[483]。
バウアーはユダヤ的なあり方(Judentum)は単に宗教的教会だけでなく、人種的性質でもあるとし、ユダヤ人は扁平足で下半身はニグロ同様弱いのでしっかり立てず、分厚い皮膚と炎症性の血液からユダヤ人は「白いニグロ」といえるが、黒人の頑強さにも欠けており「われわれは、ドイツの労苦とドイツの血でもって築かれているドイツ国家のなかのドイツ人にすぎない。そして、われわれはドイツ国家の名前を、世界の最も不良化した者たちの更生施設として貸すつもりは絶対にない」と主張した[483]。バウアーによれば、ユダヤ的なあり方(Judentum)とは「現代の世界威力」「キリスト教世界の均一化」「一党派の手中にある議会の決定」を指し、キリスト教徒の政治家がその代表とされた[483]。
晩年のバウアーは『キリストと皇帝たち』(1877年)で、キリスト教はローマ帝政期のストア哲学の精神からユダヤ教を骨格として誕生したものとし、現代を紀元後1-2世紀のローマ帝政期にユダヤ人の寵臣がアウグストゥス、ティベリウス、カリグラ皇帝を取り巻き、ユダヤ教が勝利を誇っていた時代と重ね合わせ、『ディズレーリのロマン主義的帝国主義とビスマルクの社会主義的帝国主義』などを著し、反ユダヤ雑誌の創刊にも関わった[483][491]。
マルクス編集
社会思想家カール・マルクスはラッサールと同じくユダヤ系であったが、ラッサールを嫌ってラッサールは黒人、ユダヤ人、ドイツ人の交配から生まれた「ユダヤ人のニグロ」とエンゲルスへの書簡で述べるなど、反ユダヤ主義的でもあった[474]。1843年、マルクスは『ユダヤ人問題によせて』において、ユダヤ教の基礎は、実際的な欲求と利己主義であるとする[492]。そして、ユダヤ教の世俗的祭祀は商売であり、その世俗的な神は貨幣であるとして、商売とあくどい貨幣からの解放が、現実的なユダヤ教からの解放であり、自己解放となり「ユダヤ人の解放は、その究極的な意味において、ユダヤ教からの人類の解放である」と論じた[492]。マルクスは「貨幣は世界の支配権力となり、実際的なユダヤ精神がキリスト教的諸国民の実際的精神になった」「貨幣はイスラエルの妬み深い神」であり、手形はユダヤ人の現実的な神である、ユダヤ人の民族性は金銭的人間の民族性であるなどと論じた[492]。マルクスは生涯を通じてみずからをユダヤ人と認識することを拒み、ユダヤ人による社会主義を快く思わなかった[492]。マルクスは「ユダヤ人」を他人を批判するときに使っており、ユダヤ教学者シュタインタール、ウィーンのジャーナリストフリートレンダー(Max Friedländer)を「呪われたユダヤ人」、銀行家ルートヴィヒ・バンベルガー (Ludwig Bamberger) を「パリの証券シナゴーグ」の一員と呼んだり、また「ニューヨーク・デイリー・トリビューン」では匿名で金の商人は大部分ユダヤ人であるなどと書いた[492]。マルクスにとってユダヤ主義は資本主義や利己主義の別名であり、ユダヤ人は高利貸しの別名であった[493][494]。またマルクスはロシア人はモンゴル起源であるというドゥヒニスキーの説によって、ロシア人はスラブ人でなく、インド=ゲルマン人種に属してはおらず侵入者であると述べた[261]。
フリードリヒ・エンゲルスはセム人とアーリア人は最も進化した人種であるが、黒人は数学を先天的に理解できないし、下等な野蛮人は動物の状態にかなり近いとした[261]。
1848年にマルクスが編集長となった新ライン新聞の特派員エードゥアルト・テレリングは、1848年革命後、テレリングはプロイセン政府の御用記者となり、1850年に小冊子「来るべきマルクスとエンゲルスによるドイツ独裁制の前兆」でマルクスを批判した[492][495]。テレリングは反ユダヤ主義と反マルクス主義の一大勢力の前兆であった[492]。
プルードン編集
フランスの社会主義・無政府主義者プルードンはユダヤ人は「でっちあげ、模倣、ごまかしをもって事に当たる」、ユダヤ人は金利の上昇と下降、需要と供給の気まぐれに通称しており、まさに「悪しき原則、サタン、アーリマン」であると非難した[496]。1858年に出版したプルードンの主著『革命の正義と教会の正義』では近代世界の退廃はユダヤ人が原因であると論じた[496]。プルードンは、カトリシズムという有害な迷信の生みの親であるユダヤ人は頑迷で救いようがなく、進歩派の行動指針としては、ユダヤ人のフランスからの追放、シナゴーグの廃止、いかなる職業への従事も認めず、最終的にユダヤ信仰を廃棄させるとしたうえで「ユダヤ人は人類の敵である。この人種をアジアに追い返すか、さもなくば絶滅にいたらしめなければならない」と手帳に記した[496]。プルードンは、ユダヤ人だけでなく、外国人労働者に対しても憎悪と懸念を抱いており「彼らは国の住民ではないのだ。彼らは単に利益を手に入れようとして国に入ってくるだけである。こうして政府自体が外国人を優遇することで得をし、外国の人種がわれわれの人種を目に見えないかたちで追い払っているのだ」と見ていた[496]。プルードンは、ベルギー人、ドイツ人、イギリス人、スイス人、スペイン人などの外国人労働者がフランスに侵入して、フランスの労働者に取って代わることを嘆き、フランス革命、人権宣言、1848年革命の自由主義も、外国人に利益をもたらすのみであったとし「私は自分の民族に原初の自然を帰してやりたい」と述べて、フランスの民族はこれまでにギリシア人、ローマ人、バルバロイ、ユダヤ人、イギリス人によって支配されてきたことを嘆いた[496]。プルードンにとって、ユダヤ人作家ハインリヒ・ハイネ、アレクサンドル・ウェイルは密偵であり、ロトシルト、クレミュー、マルクス、フールドは妬み深く刺々しく、フランス人を憎悪している[496]。またプルードンは、女性解放運動に対して激しく攻撃する男性至上主義者でもあった[496]。ポリアコフは、こうしたプルードンには20世紀のファシストの原型として権威主義的人格の先駆けを見て間違いないとしている[496]。
パリでプルードンに感銘を受けて政治活動を展開した無政府主義者で無神論者のロシア人革命家ミハイル・バクーニンは、ドイツ人とユダヤ人を憎悪する反ドイツ・反ユダヤ主義者であった[497]。
19世紀末までに社会主義、反資本主義と反ユダヤ主義とが密接に関連していくことで反ユダヤの言説が強大になっていった[472]。社会主義と反ユダヤ主義のむすびつきは、1873年からの世界大不況の時代にさらに大きく展開していった。
キリスト教社会運動編集
19世紀の労働者の貧困問題については、1848年革命やマルクス主義よりも、キリスト教社会運動が解決に大きく貢献した[347][498]。1837年4月25日に国際法学者で議員のヨゼフ・ブス[499]が「工場演説」で労働時間の短縮、日曜労働の禁止などの動議を提出した[347][注 54]。1840年代にはケルンのアドルフ・コルピングが職人組合運動を開始、カトリック労働者同盟が組織された[347]。1862年、ヴェストハーレン農民組合が結成された。
1848年のリヒノフスキー侯爵とアウアスヴァルト将軍暗殺事件についてマインツ司教ケテラーは、犯人は気高い朴訥なドイツ国民ではなく、キリスト教をあざ笑い、口汚く罵っている者、革命を原理として家庭を破壊しようとしている者、邪神の前に国民を拝ませようとしている者こそが真犯人であると演説し、評判になった[500]。「労働者の司教」と呼ばれたマインツ司教ケテラー[501]は、1864年の『労働者問題とキリスト教』で労働者窮乏化の原因を労働に対する資本の優位に求め[502]、1869年の演説[注 55]で、フランス革命以降、国民経済が各国へ浸透した結果、労働者は自由になったが孤立し、労働者が肉体しか持たない一方で、金銭は大金持ちに集中し、資本は適性に配分されていないし、ロスチャイルド家とはこうした国民経済の産物であり、労働者は恐るべき悲惨な境遇に陥ると述べ[503]、労働時間の短縮、安息日の確保、児童労働の禁止、女性・少女の工場労働の禁止を要求した[504]。
当時は、労働者運動はキリスト教社会運動が主導していたが、マルクスが1875年にドイツ社会主義労働者党のゴータ綱領を批判、特に1891年のエルフルト綱領を革命的ではなくて改良主義的で日和見主義であると批判して以降、マルクス主義が労働者運動の主導権を握っていった[347][505]。ケテラーは未完の原稿で、ゴータ綱領について、労働者の状況を改善する実践的な要求、結社の自由などに賛成する一方で、人工的で強制的な設計による結社では、サンジュストの「立法の任務は、こうあれ、と自分たちが望むように人間を造りかえることにある」という言葉のように、自分たちを理性の化身とし、敵は無知蒙昧の反理性であり、人間改造を受け入れない者は抹殺されてしまうため、結社は自生的なものでなければならないし、また労働者の結社は政治扇動や夢想ではなく、経済的改善を目指すべきであると批判した[506]。ケテラーはゴータ綱領は、具体的で実践的な要求が後退しているし、労働者の求めていない空想的な制度転覆やユートピアの夢想、そして暴力は暴力を呼び、不当であり、憎悪と報復の上に築かれた社会は自己崩壊するとして、労使協調を訴えて批判した[506]。また、ケテラーは社会主義はすべての人が充分な餌を与えられる完全な福祉国家を提唱するが、それは奴隷国家であり、家畜小屋には精神的な自由も行動の自由もないと批判した[506]。
キリスト教社会運動は、1880年に労働者福祉会、1882年全ドイツ的農民組合、1890年ドイツ・カトリック国民協会を結成し、カトリック国民協会は1913年には会員87万人でドイツ最大規模の団体になった[347]。他方、反ユダヤ主義を掲げキリスト教社会党を結党したアドルフ・シュテッカー、またオーストリア・キリスト教社会党を率いたカール・ルエーガーもキリスト教社会運動の影響を受けた。
1891年、レオ13世が回勅『レールム・ノヴァールム(新しき事:資本主義の弊害と社会主義の幻想)』[347]。この社会回勅で、労働者の境遇について意見され[347]、また社会主義と対決するため,私的所有権を堅持し、市場による需給調整の欠陥を社会政策で補うとされた[507]。20世紀の1967年に教皇パウロ6世は私有権は無条件の権利でも絶対的な権利もないとし[508]、1981年には教皇ヨハネパウロ2世は回勅「働くことについて」で「資本と所有に対する労働の優位」を語った[509]。
「ユダヤ人からの解放」論編集
これまでに見てきたように、マルクスの『ユダヤ人問題によせて』(1843)、ワーグナーの『音楽におけるユダヤ性』(1850)やプルードンなどの反ユダヤ思想では、ユダヤ人が一大勢力となっていることを脅威に感じ、支配勢力であるユダヤ人からの解放が論じられてきた。そして、19世紀後半から20世紀にかけて「ユダヤ人からの解放」はユダヤ陰謀論などともなり、様々に現れていった。世界大不況時代の1880年代には、ドイツ語圏で「ユダヤ教徒の解放」をもじった「ユダヤ人からの解放」というスローガンが流布した[277]。
1861年 - 匿名で『ユダヤ人迫害とユダヤ人からの解放』が刊行された。そのなかで「貨幣の権力、すなわち、自らは労働せずに、いわゆる営業の自由の利益を独り占めし」ている権力が批判され、金権支配の物質主義と官僚支配の機械主義が進行しているなか、貨幣権力は大部分ユダヤ教徒の手中にあり、ユダヤ人は近代自由主義のすべてを独占することに成功したと主張された[277]。ここでは「ロートシルト家(ロスチャイルド家)を筆頭としてヨーロッパの証券取引所を支配しているユダヤ人金融家」を論じる一方で、ユダヤ教徒迫害は愚かで退けるべきであるとし「ユダヤ人からの解放」が主張された[277]。
同1861年 - ドイツで匿名(著者はH.G.ノルトマンとされる[注 56])で『ユダヤ人とドイツ国家』が発表され、ベストセラーになった[277][510]。この本は伝統的なキリスト教的なユダヤ教徒への嫌悪(Judenhaß)を復活させ、シェイクスピアの『ヴェニスの商人』からシャイロックの台詞が何度も引用され「ユダヤ人であること(das Judenthum)は、極端な分離主義と人種的思い上がりによって特徴づけられ、ユダヤ人の人間としての範囲はアブラハムの 子孫を越えることはない」「ユダヤの血とユダヤの意識は分離できないのであり、我々は、ユダヤ教(das Judenthum)を宗教や教会としてだけではなく、人種的特性の表現として把握しなければならない。だから、ユダヤ人とドイツ人の宗教的分離が廃止されれば二つの民族のあらゆる本質的区別がなくなるとか、両者の融合がさらに進めばユダヤ的性格がドイツ人に影響を及ぼすことはなくなるとか、思ってはならない」と主張し、ユダヤ人を人種(Race)、種族(Stamm)として論じ、またユダヤ人が公職に就く権利を要求しているのを批判した[277][483]。同書によれば、キリスト教は普遍的平等と人間愛の世界宗教であるのに対し、ユダヤ教はイスラエル一族だけがエホヴァと盟約しており他の人類と敵対する排他的宗教であり、ユダヤ教は神政制度を基礎とした国家教会であるため、非ユダヤ的な者を無条件に同権者として承認することは神との決裂になり、従ってユダヤ教徒は非ユダヤ教徒を同権者として承認できないとする[483]。これに対してヨーロッパのキリスト教諸国家は寛容思想によって宗教の隔壁を廃棄しようとしているが、ユダヤ教を誤解しているとヨーロッパのユダヤ政策を批判した[483]。ただし同書末尾では、著者はユダヤ人への侮辱や憎悪を説くつもりはなく、ユダヤの本質の認識を目指したと説明している[483]。
市民的リアリズムを代表する小説家ヴィルヘルム・ラーベの『飢餓牧師』(1864)は正直で貧しく慈悲深い牧師となるキリスト教徒に対して、不正直で権力欲に燃えるユダヤ教徒の野心は阻まれるという話で[231]、改宗ユダヤ人の野心家が「私には、気の向くままにドイツ人になったり、その栄誉を手放したりする権利がある」と述べる[267]。同じく市民的リアリズムの作家テオドール・フォンターネの小説では、ユダヤ人は一定の好意をもって描かれているが、ユダヤ人はユダヤ人同士でキリスト教徒と分かれて暮らした方がいい、レッシングの三つの指環という宗教的寛容を説く『賢者ナータン』の物語は不都合を引き起こしたと述べている[267]。ヘルマン・ゲドシュ(筆名サー・ジョン・レットクリフ)の小説「ビアリッツ」(1868)では、ユダヤ人陰謀家がプラハの墓地で世界支配を計画したと描かれ、人気を博した[231]。
聖書学編集
19世紀には聖書学が進展した。青年ヘーゲル派のダーフィト・シュトラウスは1835年に『イエスの生涯』を発表し、福音書での奇跡を神話として批判的に研究した。後年、ニーチェから批判された。
エルネスト・ルナンは1861年にコレージュ・ド・フランスでの開講初日にイエスを「神と呼んでもいいほどに偉大なる比類なき人間」と呼んで講義が停止され、翌1863年、『イエスの生涯』を刊行した[511]。なお、ルナンはフォイエルバッハの反キリスト教の立場やゲルマン主義には批判的であり、新約と旧約を分離する反ユダヤ主義者ではなく、1882年ハンガリーのティルツラル・エツラルでの儀式殺人事件には抗議し、ロスチャイルド家から資金を調達して反ユダヤ主義の標的にもなった[511]。しかし、ルナンは初期イエスはユダヤ教の枠の中にあったが、ユダヤ共同体での論争の激しさの犠牲となり、イエスはユダヤ教を徹底的な破壊者となり、偏狭なユダヤ性を克服していったと論じて、ユダヤ教を拒絶した[511]。ルナンやダーフィト・シュトラウスによって史的イエスの研究が展開していった。
ダーフィト・シュトラウスから大きな刺激を受けたユダヤ教改革派ラビのアーブラハム・ガイガーは『ユダヤ教とその歴史』(1865-71)で、イエスの教えはオリジナルなものではなく、パリサイ派の倫理の延長にあり、イエス教では天国崇拝が新しいだけであるとして、イエスはガリラヤ出身のパリサイ派ユダヤ人であるとした[512]。ガイガーは、リベラル・プロテスタントの視線でユダヤ教の歴史を描き、パリサイ派を進歩派、サドカイ派を保守派とみた[512]。ガイガーによるパリサイ派のサドカイ派の対立の図式は、モムゼンにも影響を与えた[512]。ガイガーは、当時1870年代の文化闘争などでカトリックに対抗するドイツのプロテスタントやリベラルな国民主義に接近し、ラビのユダヤ教を改革することで、ユダヤ社会の近代化を目指した[512]。
ユリウス・ヴェルハウゼンは『パリサイ派とサドカイ派』(1874)『イスラエル史』(1878)などで、モーセ五書の律法よりも預言者エレミヤの個人的敬虔を重視し、さらに『申命記』などの祭祀法典はバビロン捕囚後に成立したとみた[513]。ヴェルハウゼンは、6世紀頃からユダヤ教は古代イスラエル宗教を圧迫し、祭祀階層が預言者をとどめを刺して、律法が固定されたとして、このことによってパリサイ派は権力を把握した一方で、精神的イスラエルとしてのキリスト教が成長したとみた[513]。ヴェルハウゼンは、ニーチェ、ヴェーバー、フロイトにも大きな影響を与えた[514]。
普仏戦争とドイツ帝国の成立編集
1866年に7週間で終わった普墺戦争(プロイセン=オーストリア戦争)でプロイセン王国が勝利したことによってドイツ連邦は解体され、翌1867年にオーストリアと南ドイツを除いた北ドイツ連邦が成立した。
ケーニヒスベルク歴史学教授フェリクス・ダーンはイタリア統一直後に小説「ローマとの闘争」(1867)[515]をイタリア化からのチロルの防衛を目的として書いた[516]。この小説では中世のゴート人によるイタリア遠征を題材に、誠実で情潔なゲルマン人に対して、卑劣で臆病で計算ずくのユダヤ人の非業の最後が描かれる[451]。
1869年、教権派のグージュノー・デ・ムソーが著書『ユダヤ人、ユダヤ教、そしてキリスト教諸民族のユダヤ化』において、世界イスラリエット同盟、儀式殺人、フリーメイソンのユダヤ人などの害悪を論じ、反キリスト教の陰謀を企て、各地で革命の種を蒔いているとする一方で、ユダヤ人の血には価値があり、高貴な民族であり、神秘的な生命力を持っていると称賛した[275][517][518]。グージュノーは、野蛮なタルムードは憎悪と横領の教えであり、タルムードが破棄されるまではユダヤ人は非社会的な存在であり続けるが、それに先立ち、これまでにないほどの苛酷な試練が待ち受けている、そしてユダヤ人は「父の家」にふたたび加わり「永遠に選ばれた民、諸々の民のなかにあってもっとも高貴にしてもっとも威厳に満ちた民」として祝福されると論じた[275]。グージュノーは、教皇ピウス9世から称賛され、教皇庁騎士号を与えられた[519]。
1871年、普仏戦争でプロイセンと南北ドイツ諸邦がフランス帝国に勝利し、プロイセン王ヴィルヘルム1世がヴェルサイユ宮殿で皇帝に即位してドイツ帝国(正式名ドイツ国 Deutsches Reich)が成立した。ルター派市民は「ドイツ国民の神聖ローマ帝国」の比喩で「ドイツ国民の神聖福音主義帝国」として歓迎した[520]。ドイツでゲルマンの人種的優越性が主張されるようになったのはナポレオン戦争で神聖ローマ帝国が1806年に崩壊したためであったが[354]、フランスの反ユダヤ主義は普仏戦争での敗北で高まった[338]。ルネ・ラグランジュは『フィガロ』でプロシア軍のパリ凱旋について、軍人の後を広いふちの帽子をかぶり、眼鏡をした長い髪の集団が行進し、これは間違いなくドイツ軍に従軍するユダヤ人金融業者であったとした[338]。ドリュモンもこの行進を目撃していた[338]。
プラハ大学教授アウグスト・ローリング神父は『タルムードのユダヤ人』(1871年)でユダヤ人の儀式殺人について書いた[458]。これはヨハン・アンドレアス・アイゼンメンガーの『暴かれたユダヤ教』(1700年)を底本にしたものだったが、1885年、ラビのヨーゼフ・ザームエル・ブロッホから名誉毀損裁判を起こされ教職を辞した[521][522]。しかし、ローリングの著作はヨーロッパのカトリック界で支持され、フランスでは1889年に翻訳三種が出版された[521]。また、ローリング神父の著書を読んでキリスト教に改宗するユダヤ人も多くいた[523]。
ドイツ語圏では、1867年から1914年までに儀式殺人訴訟が12件繰り返された[521]。1899年、ボヘミアの儀式殺人訴訟では、レーオポルト・ヒルスナーが有罪となったが、これ以外の儀式殺人訴訟はすべて被告は無罪であった[521]。ヒルスナー事件では、プラハ大学の哲学教授マサリク[注 57]が弁護して、儀式殺人は退けられるが、ヒルスナーは19歳の娘を殺害したとして死刑判決を受けたが恩赦された[521]。
19世紀後半期ドイツのマスメディアでは、自由主義者エルンスト・カイルが1853年に啓蒙的・進歩主義的な家庭雑誌『ガルテンラウベ(Die Gartenlaube)』を創刊し、1848年革命で目指されたドイツ統一を主張する「国民自由主義」の立場を展開し、1848年の3月革命で失敗した市民が政治や社会から目を背けて家庭に心の避難場所を求めていた時代に発行部数を伸ばした[注 58]。同誌の専属作家E.マルリットは1873年の「荒野のプリンセス」でユダヤ人の祖母を排除しようとしたプロテスタントを批判して寛容をテーマとした[524]。普仏戦争期には従軍記事も多く掲載し「全ドイツ人の一体感が呼び起こされた」という記事も掲載された[524]。1873年の文化闘争でカトリックやイエズス会を批判し[524]、1874年には「ユダヤ人は自分では働かず、他人の知的、肉体労働による生産物を搾取している。この異族はドイツ国民を支配し、その骨の髄までしゃぶりつくしている」という記事を掲載した[521]。すでにカイルら3月革命の自由主義者はエリート層となり、既得権を守ろうという意識が働いていた[524]。
1870年代当時は、プロテスタントの『十字架新聞』とカトリック系の『ゲルマーニア』が二大新聞であり[521]、『ゲルマーニア』はユダヤ人迫害とは宗教上のものではなく異民族の侵入に対するゲルマン民族の抗議であると主張したが、反ユダヤ運動には加担しなかった[521]。またビスマルクの内政を批判した[521]。一方で、『十字架新聞』は反ユダヤ主義記事の掲載を続け、同紙に掲載されたヘルマン・ゲートシュの幻想小説は『シオン賢者の議定書』に影響を与えた[521][525]。
世界大不況の時代 (1873年-1896年) とユダヤ資本主義論編集
産業革命によってイギリスは世界経済の中心となったが、19世紀末になると後発資本主義国家のアメリカ合衆国とドイツが成長してイギリスを追い越した[526][527]。ドイツが統一されドイツ帝国が成立すると1871年から1872年にかけて投機ブームが起こった[注 59]。しかし、この投機ブームは1873年恐慌からの世界大不況によって終焉を迎え、多くの投資家が破産し、企業の倒産が続いた[521]。1873年恐慌の震源地は米国とドイツであった[526]。その後ドイツは1887年に好況に入ったが、1890年の恐慌はドイツから始まった[526]。1873年から1896年まで展開した世界大不況の時代にヨーロッパ各地で反ユダヤ主義が高まっていった。
ドイツのユダヤ人が全きドイツ国民となり市民権が認められたのはドイツ帝国においてだった[247]。かつて高利貸しなどの金融に限定されていたユダヤ人は法的身分を保障され解放されるともに産業経済に進取的に参入し、さらに国際規模で経済活動を展開し、産業資本主義を発達させるのに主導的な役割を果たした[528]。解放されたユダヤ人は盛んな投資活動を行いさまざまな商工業分野で成功した。進出した業種は金融、繊維、鉄鋼、化学、製油、電気、衣料、鉄道、海運、百貨店、武器弾薬などの軍需産業に及んだ[529]。また、ユダヤ人資本家はドイツ帝国主義を支持してアフリカのダイヤモンド鉱山の開発を主導し、こうしたユダヤ人の国際的な活躍は「国際ユダヤ資本」理論を生み出した[529]。1880年にはフランクフルトの銀行業85%がユダヤ人経営となり、1933年のナチ政権まで全ドイツ百貨店の80%がユダヤ人経営となった[529]。1900年頃、フランクフルトのユダヤ人市民の納税額はキリスト教市民の4倍から7倍にもなった[529]。ユダヤ人の大学入学率はプロテスタントの10倍、カトリックの15倍となった[注 60]。ユダヤ人は近代化、近代社会の象徴とされ、憎悪された[521]。躍進著しいユダヤ人に対する人々の妬みや反感は反ユダヤ主義の潮流を高めた[530]。ユダヤ人は社会主義者からみれば敵のブルジョアジーであり、反対に資本家の眼には社会主義者・革命家とうつる存在であり、ユダヤ人が国際ネットワークを使って世界支配の陰謀をめぐらすというユダヤ陰謀論(脅威論)が様々な形態をとって繁殖していった[88]。
19世紀末に人種主義的反ユダヤ主義が強かったのはオーストリア・ハンガリー帝国、フランス、ロシアであり、ドイツ帝国でも個人に対する国家の優越、秩序と権威の重視、国際主義と平等への反発などを背景にユダヤへの敵意が膨れ上がった[531]。
フランスでも社会主義者やカトリックからの反ユダヤ主義が強く、ドイツと同様のユダヤ陰謀論が跋扈した。またドレフュス事件は大きな分岐点となり、数々の反ユダヤ主義団体が結成されていった。
ドイツ編集
コンスタンティン・フランツ[532]は1874年にドイツ帝国とビスマルクの軍国主義を批判し、永久平和を保障するヨーロッパキリスト教連邦を計画した[533]。フランツは、かつてヨーロッパのキリスト教共同体を統轄した神聖ローマ帝国であったドイツがその担い手となるし、ビスマルクの偽帝国に代わる真の帝国の樹立がドイツの使命とした[533][注 61]。フランツはこのキリスト教帝国においてはユダヤの影響からの解放が条件とした[533]。フランツによれば、人種を超えて普及したキリスト教やイスラム教と違ってユダヤ教は一つの人種に基づくし、ユダヤの民はメシアを死に至らしめたあと、神の呪いによって放浪し、このことが他の民を罰するための神の道具となって、キリスト教徒間の戦争はユダヤの支配を強めることとなり、ビスマルクは「ユダヤ民族のためのドイツ帝国」の樹立に向かっているとし、真の進歩は「ユダヤ的進歩」にとって代わる必要があると論じた[533]。
社会主義編集
大不況下の帝政ドイツでは社会主義運動が高まり、ラッサールの全ドイツ労働者協会と、ベーベル・リープクネヒトのドイツ社会民主労働党が合併したドイツ社会主義労働者党が1875年に結成された[506]。しかし、社民党や共産党でもユダヤ知識人は攻撃され、ベーベルもユダヤ人社会主義者を頭はよいがめざわりとし、この見方は正統的社会主義に深く根をおろし、特に共産党では反ユダヤ主義が強かった[534]。ユダヤ人は労働運動のなかでも孤立した[534]。1878年5月11日と6月2日に元ドイツ社会主義労働者党員によってドイツ皇帝ヴィルヘルム1世暗殺未遂事件が二度起こると「社会民主主義の公安を害する恐れのある動きに対する法律(社会主義者鎮圧法)」が作られたが1890年には失効した[524]。ドイツ社会主義労働者党は1890年帝国議会選挙では第一党となり、同年9月、ドイツ社会民主党へ改称した。
1878年、帝宮礼拝堂付司祭アドルフ・シュテッカーは、社会主義を穏健なキリスト教社会主義と破壊的なユダヤ社会主義とに区別して、ユダヤ人の市民権制限、公職追放、ユダヤ人移民制限、工場法、利子制限法、累進課税と相続税、徒弟制度などを主張して、勤労者のためのキリスト教社会党(Christlich-soziale Partei)をベルリンで結成してベルリン運動を展開、1879年にはプロイセン議会議員、1881年には帝国議会議員となった[521][535]。経済学者アドルフ・ワーグナーも党の創設に関わったキリスト教社会党は反ユダヤ宣伝を行った[8]。
1879年にA・ピンカートがドレスデンでドイツ改革協会を設立し、さらに1882年に国際反ユダヤ会議を設立した。政治家E.ヘンリチやM.L.フォン・ゾンネンベルクらが参加し、シュテッカーの支持者も合流した[536]。
なお、1878年にドイツ主催で締結された露土戦争の講和条約ベルリン条約では諸宗教の平等規定が含まれた。
1879年、無神論者で社会主義者だったジャーナリストのヴィルヘルム・マルが「反セム主義(Antisemitismus)」という語を用いた[9][486]。ハンブルク出身のマルはブルーノ・バウアーらの影響を受けて無神論に傾倒して、1844年にスイスで労働運動を組織して失敗し、1848年革命ではハンブルクで革命に参加後、スイスに亡命して無政府主義グループに参加した[537]。マルは1862年に『ユダヤの鑑』を発表して、1879年に『非宗教的見地から見たゲルマン主義に対するユダヤ世界の勝利』というパンフレットを出版した[537][538]。マルはこのなかで、金融界の慣習はユダヤ的であることに疑いはなく、ユダヤ人は迫害に耐えて生き抜くことを可能にした人種的素質によって勝利したとし「ユダヤ人は、いかなる非難を受ける筋あいはない。彼らは、18世紀もの長きにわたって西洋世界を相手に戦い抜いてきたのだ。彼らはこの世界を打ち負かし、支配下に置いた。われわれは敗者であり、そして、勝者がウァエ・ウィクティス(敗者に災いあれ)」を叫ぶのは当然のことなのだ」として、ドイツ人はすでにユダヤ化しており、反ユダヤ感情が暴発しても、ユダヤ化した社会の崩壊をくい止めることはできないと論じて「われわれにとっては神々の黄昏の始まりだ。あなた方(ユダヤ人)は支配者であり、われわれ(ドイツ人)は農奴となった。ゲルマン世界は終焉を迎えた」と結論した[521]。マルはドイツの自由主義がドイツ財政および産業をユダヤ人が支配することを許していると批判した[8]。この書物は出版から数年で十数回の版を重ねた[521]。マルは、同じ1879年に反セム主義者連盟(Anti Semiten Liga)を結成して、反ユダヤ主義の最初の大衆運動となり、フリッチュに影響を与えた[537]。こうしたマルの活動は、ドイツ民族によるユダヤ的本質の絶滅を目標にしていたとされる[8]。
マルクスやラッサールを批判した社会主義経済学者オイゲン・デューリングはエンゲルスによっても批判されたが、『人種、風俗、文化問題としてのユダヤ人』(1881)[539]、『完全な宗教への代替と近代民族精神によるユダヤ性の除去』(1883)[540]などで、事実的なことや現実的なことに関して才能がないユダヤ人は形象や夢にとらわれて暮らし、比輸によって思考している空想家、神話形成者であるため「北方の人間はより厳しいより冷静な天空の下で、際限を知らないこの民族を論理で撲滅しなければならない」と述べ、ユダヤ人を抑えつけるためには社会主義以外の方法はないとし「ユダヤ人からの解放」を主張した[408][424][521][541]。
トライチュケ・グレーツ・モムゼン論争編集
ルター派の歴史学者で国民自由党議員のハインリヒ・フォン・トライチュケは、1879年に発表した論文「われらの展望」で、ユダヤ人は株式相場や出版界を支配するが、ユダヤ人とゲルマン的人間との間には深い溝があり「ユダヤ人こそわれらが不幸」であり、寛容な最良のドイツ人でも心の奥底ではこうした見解を共有していると論じた[521]。「ユダヤ人は我々の不幸だ」というフレーズはナチス時代にもよく引き合いに出された[542]。
この論文の背景にはユダヤ教徒の歴史家ハインリヒ・グレーツの存在があった。シオニズムに近いユダヤ民族主義者だったグレーツは大著『ユダヤ人の歴史』でキリスト教を「宿敵」「不倶戴天の敵」と明確に敵視し、ユダヤ人のキリスト教への改宗を「裏切り者」として厳しく批判した[283]。グレーツは新約聖書をタルムードを使って読み直し、ユダヤ教とキリスト教の亀裂を拡大した[283]。グレーツによれば、イエスは神の子だと主張したために告発されたのであり、福音書はメシアの出現を後知恵で証明しようとした物語にすぎないと批判した[283][注 62]。また、タルムードでイエスはヨセフ・パンデラと処女ミリアムとの不倫の子であり、ユダヤ共同体から追われて神の名を用いて奇跡の力を学んだがラビ団のユダに打ち負かされて死刑となったとされるが、グレーツはこれも作り話としてイエスはユダヤ教エッセネ派であるとした[80]。
トライチュケはグレーツの本はキリスト教に対する狂信的な怒り、ゲルマン人への憎悪であると批判した[283]。トライチュケはユダヤ人の同化と改宗による編入を希求したが、改宗を拒否したグレーツに対して「わが(ドイツ)民族を理解することも、また理解しようともしないオリエント人」と非難した[283]。トライチュケは人種主義者ではなかったが、ポーランドから流入する東欧ユダヤ人はいつかドイツの新聞と株式を支配するだろうと警告した[283]。実際、ポーランド(ポーゼン)からの東欧ユダヤ人には、『ベルリナー・ターゲブラット』紙社長・新聞広告業でモッセ・コンツェルンを築いたルドルフ・モッセ(弟アドルフは日本の憲法起草に携わった)[543]、国民自由党指導者エドゥアルト・ラスカー、経済学者アルトゥール・ルッピン、ゲルショム・ショーレムの曽祖父がおり、そして歴史家グレーツがいた[283]。
歴史家テオドール・モムゼンはトライチュケによって反ユダヤ主義は品行方正なものとなったが、反ユダヤ主義は国民感情の堕胎であり、狂信的愛国主義であると評した[521]。モムゼンは『ローマの歴史』などでユダヤ人は歴史を動かす酵母であり、ユダヤ人が諸部族を解体したことでローマ帝国の建設に貢献したと評価し、またテオドール・フリチュやチェンバレンらのユダヤ人を国民集団の破壊者とする反ユダヤ主義に対しては国民感情の妖怪として批判した[283]。しかし、そのモムゼンも、キリスト教は文明人同士をつなぐ唯一の絆であり、ユダヤ人にキリスト教への改宗を執拗なまでにすすめ、トライチュケと同じようにユダヤ人のドイツへの融合(同化)を願った[283][521][注 63]。モムゼンは、ユダヤ人がドイツ人に同化するには犠牲を払う必要があり、ドイツ文化に友好的に参加すべきであるし、公民の義務を果たし、ユダヤ人の特殊な作法を廃すべきであるとした[283]。モムゼンもユダヤ民族主義者のグレーツを支持したわけではなく、モムゼンはグレーツについて文芸界の隅っこにいる「タルムード学史の編纂屋」にすぎず、ローマ帝国にいたユダヤ人歴史家ヨセフスや哲学者フィロンとは比較にならないほど小さな存在であるのに、なぜそんな相手に論争を挑むのか、とトライチュケを戒めた[283]。モムゼンはトライチュケと同じく国民自由党に所属していたが、トライチュケがビスマルクを支持した一方で、モムゼンはビスマルクを国民統合の破壊者とした[283]。また、モムゼンはリベラル・プロテスタントの「反ユダヤ主義防衛連合」を創立したが、同連合はユダヤ民族主義(シオニズム)に不快感を表明し「ユダヤ信仰のドイツ国家市民中央連合」を創設してシオニズムに対抗した[283]。反ユダヤ主義防衛連合のアルプレヒト・ウェーバーは、ユダヤ人にも反ユダヤ主義についての責任があるとして、同化を拒否するユダヤ人を批判した[283]。シオニストのヘルツルは、反ユダヤ主義を批判しながらユダヤ人に同化をすすめる反ユダヤ主義防衛連合に対して、自尊感情を持って最後の避難所を見つけようとしているユダヤ人を貶めようとしていると批判した[283]。
トライチュケの論文に対するユダヤ人知識人の反応は、ユダヤ人はすでに同化しておりドイツへの愛国心を保有しているというものが多く、同化を拒否するグレーツはヘルツルのシオニズムが登場するまでは例外であった[521]。新カント派のユダヤ系哲学者ヘルマン・コーエンはユダヤ教を信奉しながらも同化を勧め[544]、ユダヤ人は皆ドイツ人の容貌を備えていたらどれほど幸せであっただろうと常常感じていると主張した[521]。ユダヤ人の平等を訴えてきた自由主義者のユダヤ人ベルトルト・アウエルバッハ[注 64]は晩年にキリスト教社会党のシュテッカーやドイツ保守党のハンマーシュテイン[545]によるユダヤ人批判に対して「私はドイツ人であり、ドイツ人以外の何ものでもなく、生涯全体を通してもっぱらドイツ人であると感じてきた」「消え失せろ、ユダヤ人、おまえはわれわれとは何の関係もない」と手紙に書いた[546]。
- 1880年代ドイツのその他の思想
ベルリンでは1880年から1881年にかけて、暴徒がユダヤ人を襲撃したり、ユダヤ人商店やシナゴーグに放火するという暴動が続いた[521]。19世紀末ドイツの反ユダヤ主義を広めたのは学校教員、学生、公務員、事務員、レーベンスレフォルム(Lebensreform 生活改革運動)、菜食主義者、生体解剖反対論者、裸体運動や自然復帰主義のナチュリストなどの都会人であり、田舎の農民や貴族の大地主や聖職者ではなかった[注 65]。裸体運動では、ゲルマン人種と、ロマンス人種・スラヴ人種・ユダヤ入種との婚姻が禁止された[547][548]。
反ユダヤ主義が高まるなか哲学者ニーチェはユダヤ人に対して繰り返し称賛と感謝を表明し、反ユダヤ主義者を「絶叫者ども」と批判した[267]。ただし、ニーチェは若い頃には反ユダヤ的な偏見を持っており、ワーグナーへの手紙ではドイツの豊かな世界観が「哲学上の狼藉や押しの強いユダヤ気質」によって消え去ったと嘆いたこともあったし[注 66]、東欧ユダヤ人のドイツ流入には後年でも反対だった[549]。
ニーチェは『反時代的考察』(1873年-1876年)で、ダーフィト・シュトラウスや雑誌『グレンツボーテン』の執筆陣を教養俗物として批判し、『グレンツボーテン』もニーチェを批判した[550]。雑誌『グレンツボーテン』の中心にいた作家グスタフ・フライタークは、皇太子フリードリヒ3世のブレーンであった[550]。ニーチェは1875年に「粗野な力と鈍感な知識人」によるキリスト教が「諸民族にあった貴族主義的天才」に対して勝利したと批判し、またキリスト教はその「ユダヤ的性格」のため、ギリシャ的なものを不可能にし、古代ギリシャの範型が消滅したと論じた[549]。1878年の『人間的な、あまりに人間的な』では「ヨーロッパをアジアに対して守護したのはユダヤの自由思想家、学者、医者だった」として、ユダヤ人によってギリシア・ローマの古代とヨーロッパの結合が破壊されずにすんだことについてヨーロッパ人は大いに恩に着なければならない、と述べた[267]。1881年『曙光:道徳的先入観についての感想』では、ユダヤ人の美徳と無作法、反乱奴隷特有の抑えがたき怨恨について論じたあと「もしイスラエルがその永遠の復讐を永遠のヨーロッパの祝福に変えてしまうならば、そのときはかの古きユダヤの神が、自己自身と、その創造と、その選ばれた民を悦ぶことができる第七日が再び来るであろう」とユダヤ人に人類再生の希望を見た[267]。
ヨーロッパ主義者であったニーチェは「反セム主義」を皇帝とビスマルクのドイツ帝国の下でのドイツ統一運動であるとし「国粋主義の妄想」「畜群」「奴隷の一揆」と批判した[549][551]。さらにヨーロッパはユダヤ人に最善で同時に最悪なもの、すなわち「道徳における巨怪な様式、無限の欲求、無限の意義を持つ恐怖と威厳、道徳的に疑わしいものの浪漫性と崇高性の全体」を負うており「ユダヤ人がその気になれば(…)、いますぐにもヨーロッパに優勢を占め、いな、まったく言葉通りにヨーロッパを支配するようになりうるであろうことは確実である」と述べ、ユダヤ古代の預言者は富と無神と悪と暴行と官能を一つに融合し、貧を聖や友の同義語とするなど価値を逆倒し、道徳上の奴隷一揆をはじめたとも論じ[267][552]、ユダヤ人を「ルサンチマンの僧侶的民族」とも評した[553]。ニーチェはユダヤ教を古代の純粋なユダヤ教と、第二神殿以降の祭祀ユダヤ教とを区別し、新約聖書は祭祀ユダヤ教を体現したものであり、キリスト教と祭祀ユダヤ教は奴隷道徳を生み出したと批判し、古代の純粋なユダヤ教を称賛した[549]。
ニーチェは、皇帝ヴィルヘルム2世が1888年にルター派教会を把握したことでリベラル・プロテスタントが国民主義の担い手となった[550]結果、反ユダヤ主義が形成されたとみており、パウロの出自であるユダヤ人を称賛したのは、こうした背景があった[549]。さらにニーチェはパウロや使徒によるイエスの神学化を嘘つきでイカサマ師であると非難した[549]。
1888年9月の『アンチキリスト』では「ユダヤ人は人類を著しくたぶらかしたために、キリスト教徒は、自身このユダヤ人の最後の帰結であることを悟らずに、今日なお反ユダヤ的な感情を抱いている」と書いた[267]。ポリアコフはこの箇所で、ニーチェは反ユダヤ的な方向へ屈折したとみている[267]。オーバーベックはニーチェの反キリスト教は反ユダヤ主義から来ているとする[549]。また、ニーチェの妹エリーザベト・フェルスター=ニーチェは夫のベルンハルト・フェルスターとともに反ユダヤ主義運動を展開し、のちにナチ党の支援者となった。