「反ユダヤ主義」の版間の差分

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以下では、反ユダヤ主義の歴史だけでなく、反ユダヤ主義が生まれた背景として、ユダヤ人をとりまく時代ごとの状況、各国各社会のなかでのユダヤ人の取扱いや、またユダヤ側の反応などの歴史を述べる。
 
=== セレウコス朝離散の始まり ===
[[紀元前586年]]、 [[新バビロニア|新バビロニア王国]]の[[ネブカドネザル2世]]が[[ユダ王国]]を滅ぼす。[[エルサレム神殿]]は破壊され、[[ゼデキヤ (ユダ王)|ゼデキヤ]]王を捕虜として連行され、[[ヘブライ人]]の[[バビロン捕囚]]が行われた。
 
[[紀元前538年]]、ペルシャ王[[キュロス2世]]がエルサレム神殿再建を許可し、ユダヤ人は、バビロニア捕囚から解放された。この時、一部はパレスチナへ帰還せず、バビロンに留まり散在を始めた{{Sfn|大澤武男|1991|p=11}}。[[紀元前537年]]から[[紀元前332年]]までのペルシャ支配の時代、ユダヤ人の離散([[ディアスポラ]])は発展した{{Sfn|大澤武男|1991|p=11}}。
 
[[紀元前2世紀]]、[[セレウコス朝]][[シリア]]の王[[アンティオコス4世エピファネス]]は[[エジプト]]の[[プトレマイオス朝]]を打倒したことで、当地のユダヤ人を支配したが、アンティオコス4世はユダヤの種だけは他の民と友好関係を結ぼうとせずにすべてを敵とみなしているため、ユダヤの種を完全に絶やす意図があったと、[[ポセイドニオス|アパメイアのポセイドニオス]]は記録している<ref>[[#ポリアコフ 1|ポリアコフ 1巻]],p.15</ref>。
 
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=== 古代ローマ帝国 ===
[[File:Saint Paul Ananias Sight Restored.jpg|thumb|250px|『パウロの回心』([[ピエトロ・ダ・コルトーナ]]作、1631年)。ユダヤ人[[パウロ]](ユダヤ名[[サウロ]]{{lang-he|שָׁאוּל}}) は、回心してキリスト教徒となり、[[聖人]]となった。]]
 
{{See|初期キリスト教#ローマ帝国におけるキリスト教|古代末期のキリスト教}}
 
[[1世紀]]、[[ユダヤ教]]の堕落に対して[[洗礼者ヨハネ]]が洗礼運動を開始した。洗礼者ヨハネは、[[古代イスラエル]][[ガリラヤ]]のユダヤ王[[ヘロデ・アンティパス]]が異母兄の妻[[ヘロデヤ]]と結婚したことを[[姦淫]]の[[罪]]として非難したので、処刑された<ref>[[マタイ福音書]]14:1-13</ref>。[[ナザレのイエス]]([[イエス・キリスト]])は洗礼者ヨハネから[[バプテスマ]](洗礼)を受けた。イエスは、[[ユダヤ教]]を改革し、これを[[民族宗教]]から[[普遍宗教]]へ変化させた{{Sfn|福田歓一|1985|p=86}}。
 
ユダヤ人キリスト教徒の[[ステファノ]]はユダヤ教を批判したため、[[35年]]または36年頃に処刑され、キリスト教で初めての殉教者となった。<ref name="松本2009pp23_25">[[#松本 2009]],p.23-25.</ref>。[[ファリサイ派]]のユダヤ人[[パウロ]]は当初キリスト教徒を弾圧していたが、回心してキリスト教へ改宗した
 
*[[66年]]、[[ローマ帝国]]の[[ユダヤ属州]]総督のユダヤ迫害に対して、ユダヤ教過激派が反乱を起こして[[ユダヤ戦争]]が始まった<ref name="松本初期教会1章2節">[[#松本 2009]],pp.31-52.</ref>。[[70年]]にローマ軍はユダヤ軍を鎮圧し、[[フラウィウス・ヨセフス|ヨセフス]]もローマ軍に投降し、[[サドカイ派]]と[[エッセネ派]]のクムラン教団はこの戦争で消滅した<ref name="松本初期教会1章2節"/><ref name=qumran>今野國雄「クムラン教団」日本大百科全書(ニッポニカ)。「クムラン教団」ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典</ref>。戦後、ユダヤ教は存在を許されたが、エルサレムの神殿体制は崩壊し、ファリサイ派はヤブネの土地を拠点とした<ref name=qumran/>。10万近いユダヤ人捕虜は、全ローマ帝国に銀貨一枚で奴隷として売られた{{Sfn|大澤武男|1991|p=14}}。ユダヤ戦争の際にキリスト教徒はユダヤの反乱に加わることはなかったため、これ以降、ユダヤ教徒はキリスト教徒を敵視した<ref name="松本初期教会1章2節"/>。
[[ファリサイ派]]のユダヤ人[[パウロ]]は当初キリスト教徒を弾圧していたが、回心してキリスト教へ改宗した。
 
*[[97年]]頃、[[フラウィウス・ヨセフス]]は『アピオーンへの反駁』で[[リュシマコス]]を引用して、「[[モーセ]]はユダヤ人に対して、何人にも愛想よくしてはならぬ」と説教したと記録されている<ref>[[#ポリアコフ 1|ポリアコフ 1巻]],p.22</ref>{{refnest|group=*|『アピオーンへの反駁』は94年以降に書かれた。}}。
*[[66年]]、[[ローマ帝国]]の[[ユダヤ属州]]総督のユダヤ迫害に対して、ユダヤ教過激派が反乱を起こして[[ユダヤ戦争]]が始まった<ref name="松本初期教会1章2節">[[#松本 2009]],pp.31-52.</ref>。[[70年]]にローマ軍はユダヤ軍を鎮圧し、[[フラウィウス・ヨセフス|ヨセフス]]もローマ軍に投降し、[[サドカイ派]]と[[エッセネ派]]のクムラン教団はこの戦争で消滅した<ref name="松本初期教会1章2節"/><ref name=qumran>今野國雄「クムラン教団」日本大百科全書(ニッポニカ)。「クムラン教団」ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典</ref>。戦後、ユダヤ教は存在を許されたが、エルサレムの神殿体制は崩壊し、ファリサイ派はヤブネの土地を拠点とした<ref name=qumran/>。ユダヤ戦争の際にキリスト教徒はユダヤの反乱に加わることはなかったため、これ以降、ユダヤ教徒はキリスト教徒を敵視した<ref name="松本初期教会1章2節"/>。
*[[97年]]頃、[[フラウィウス・ヨセフス]]は『アピオーンへの反駁』で[[リュシマコス]]を引用して、「[[モーセ]]はユダヤ人に対して、何人にも愛想よくしてはならぬ」と説教したと記録されている<ref>[[#ポリアコフ 1|ポリアコフ 1巻]],p.22</ref>{{refnest|group=*|『アピオーンへの反駁』は94年以降に書かれた。}}。
*アブダラのヘカタイオスはモーセは人間らしさと歓待の精神に反する生活様式を打ち立てたと記した<ref>[[#ポリアコフ 1|ポリアコフ 1巻]],p.22</ref>。
 
*[[90年]]代に成立したとみられる『[[ヨハネによる福音書]]』で記された[[イスカリオテのユダ]]について、ポリアコフはユダヤの名前は偶然というよりも意図が働いていたのではないかと疑っている<ref name="po-1-41-46"/>。
*[[105年]]、[[タキトゥス]]は『同時代史』でユダヤ人は彼ら以外の人間には敵意と憎悪をいだき、自分たちの間ではすべてを許すと書かれた<ref>Historiae 5-5,5-4. 『同時代史』國原吉之助訳、筑摩書房、1996年、p269-270.</ref><ref>[[#ポリアコフ 1|ポリアコフ 1巻]],p.23.</ref>。
 
*132年-135年、[[ユダヤ属州]]で[[バル・コクバの乱]]。135年、[[ハドリアヌス]]皇帝は[[バル・コクバの乱]]後、ユダヤ教徒による[[割礼]]を禁止した政策をとったが、[[138年]]に[[アントニヌス・ピウス]]皇帝が撤回した<ref>[[#ポリアコフ 1|ポリアコフ 1巻]],p.25.p.38-40.</ref>。しかし、アントニヌス・ピウス皇帝もユダヤ教の改宗活動に歯止めをかけるために非ユダヤ人の割礼を禁止した<ref name="po-1-39-40">[[#ポリアコフ 1|ポリアコフ 1巻]],p.39-40.</ref>。
*[[105年]]、[[タキトゥス]]は『同時代史』でユダヤ人は彼ら以外の人間には敵意と憎悪をいだき、自分たちの間ではすべてを許すと書かれた<ref>Historiae 5-5,5-4. 『同時代史』國原吉之助訳、筑摩書房、1996年、p269-270.</ref><ref>[[#ポリアコフ 1|ポリアコフ 1巻]],p.23.</ref>。
 
*[[132年]]-[[135年]]、[[ユダヤ属州]]で[[バル・コクバの乱]]。135年、[[ハドリアヌス]]皇帝は[[バル・コクバの乱]]後、ユダヤ教徒による[[割礼]]を禁止した政策をとったが、[[138年]]に[[アントニヌス・ピウス]]皇帝が撤回した<ref>[[#ポリアコフ 1|ポリアコフ 1巻]],p.25.p.38-40.</ref>。しかし、アントニヌス・ピウス皇帝もユダヤ教の改宗活動に歯止めをかけるために非ユダヤ人の割礼を禁止した<ref name="po-1-39-40">[[#ポリアコフ 1|ポリアコフ 1巻]],p.39-40.</ref>。バル・コクバの乱以後、ユダヤ人がエルサレムに居住することは禁止され、ユダヤ教祭儀の実践は死刑となった{{Sfn|大澤武男|1991|p=12}}
 
[[3世紀]]には、ユダヤ教よりも新興宗教のキリスト教が迫害された<ref name="po-1-39-40"/>。この当時、キリスト教はまだ制度化されておらず、キリスト教の聖典学者はみな[[ラビ]]に教えを請うていた<ref name="po-1-39-40"/>。
 
[[313年]]、ローマ帝国皇帝[[リキニウス]]と[[コンスタンティヌス1世]]は「キリスト者およびすべての者らに、何であれその望む宗教に従う自由な権限を与える」との[[ミラノ勅令]]を出した<ref name="松本85-87">[[#松本 2009]],p85-87</ref>。
 
ユダヤ人は[[ライン川]]流域に奴隷、ローマ軍兵士、商人、職工、農民としてやってきた{{Sfn|大澤武男|1991|p=16}}。[[321年]]の勅令には、ユダヤ人がケルンの住民であると明記されている{{Sfn|大澤武男|1991|p=16}}。
 
[[330年]]、コンスタンティヌス1世が[[ローマ]]から[[コンスタンティノープル]]へ[[遷都]]した。やがて、[[西ローマ帝国]]と[[東ローマ帝国]]に分かれていった。