「總持寺」の版間の差分

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rev(一部戻します。ノート:總持寺#項目再移動の提案の議論にありますが、『岩波仏教辞典』第二版、『広辞苑』第五版、『大辞林』第二版の語釈に「横浜市鶴見区にある」とあります)
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|公式HP名 = 曹洞宗大本山總持寺
}}
'''總持寺'''(そうじじ)は、1321年に現在の[[神奈川県]][[輪島横浜市]][[鶴見区 (横浜市)|鶴見区]][[鶴見 (横浜市)|鶴見]]二丁目開創されたある[[曹洞宗]][[本山|大本山]]の寺院である<ref>『広辞苑』第六版「総持寺」</ref><ref>[https://kotobank.jp/word/%E7%B7%8F%E6%8C%81%E5%AF%BA-89397 『大辞林』第三版「総持寺」 - コトバンク]</ref>。1911年に[[神奈川県]][[横浜市鳳至郡]][[鶴見区 (横浜市)|鶴見区門前町]]から現在地に移転した。[[山号]]は諸嶽山(しょがくさん<ref>『岩波仏教辞典』第二版、p.634「総持寺」。</ref>。[[本尊]]は[[釈迦如来]]。寺紋は五七桐紋。曹洞宗[[曹洞宗#宗政#總持寺派|總持寺派]]の中心寺である
 
== 歴史 ==
[[能登国]]櫛比庄(現在の[[石川県]][[輪島市]])の[[真言律宗]]の教院「諸嶽観音堂」が、「總持寺」の前身である<ref name="sojiji">{{Cite web|author=|coauthors=|date=|url=http://sojiji.jp/honzan/gaiyou.html|title=総持寺の概要「大本山總持寺の開創」|publisher=曹洞宗大本山總持寺|language=|accessdate=2011-01-17}}</ref>。1321年(元亨元年)曹洞宗4世の[[瑩山紹瑾]]は、「諸嶽観音堂」への入院を[[住職]]の[[定賢]]から請われる。また同年に定賢より「諸嶽観音堂」を寄進され、寺号を「總持寺」、山号は「諸嶽観音堂」にちなみ「諸嶽山」と改名し[[禅林|禅院]]とする<ref name="sojiji"/>。1322年(元亨2年)[[後醍醐天皇]]より「曹洞賜紫出世第一の道場」の綸旨を受けて官寺、大本山となり、曹洞宗を公称する。住職を5つの[[塔頭]]([[普蔵院]]、[[妙高庵]]、[[洞川庵]]、[[伝法庵]]、[[如意庵]])からの輪番制となる。1615年(元和元年)[[徳川幕府]]より法度が出され、[[永平寺]]と並んで大本山となる。[[栴崖奕堂]]以降独住制となる。1898年(明治31年)火災で焼失する。1911年(明治44年)、[[神奈川県]][[横浜市]][[鶴見区 (横浜市)|鶴見区]][[鶴見 (横浜市)|鶴見]]二丁目の現在地に移転。石川県[[輪島市]]門前町の旧地は[[總持寺祖院]]と改称された。永平寺派の「有道会」と並び曹洞宗を二分する「總和会」(總持寺派)の中心寺である
 
==境内==
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* [[東日本旅客鉄道|JR]][[京浜東北線]][[鶴見駅]]から徒歩10分
* [[京急本線]][[京急鶴見駅]]から徒歩15分
 
== 曹洞宗總和会 ==
總持寺を護持する總持寺派の「總和会」がある。永平寺派の「有道会」と並び曹洞宗を二分する。總和会の本部は、東京都港区愛宕2-3-4大本山總持寺出張所内に置かれる<ref>[http://souwakai.info/%e7%b8%bd%e5%92%8c%e4%bc%9a%e3%81%ab%e3%81%a4%e3%81%84%e3%81%a6/%e4%bc%9a%e5%89%87/ 曹洞宗總和会 > 總和会について > 会則]</ref>。
 
== 後援 ==