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日本での宝篋印塔成立の最新説を追加。また銭弘俶の故事についても修正。
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== 起源 ==
[[中国]]の[[呉越]]王[[銭弘俶]]が延命を願って、諸国に配った8万4千塔(金塗塔・銭弘俶塔)が原型だとされている。これは、[[インド]]の[[アショーカ王]](阿育王)が[[釈迦]]の入滅後立てられた8本の舎利塔のうち7本から[[仏舎利]]を取り出して、新たに造った8万4千基の小塔(阿育王塔)に分納し世界中に分置したという故事(「阿育王伝」「阿育王経」)に起源を持つ。この塔の一つが泰始元年(265)(265)(一説に太康二年(281))中国内で発見され、銭弘俶が建隆元年(960)まで10年の歳月をかけこの塔に倣って銭弘俶が銅で同じく8万4千基を作塔し諸国に配布したといい(「仏祖統紀」)、[[日本]]にも請来されて現在国内に10基ほどある。ただし、阿育王塔を模しての作塔はそれ以前にもあったようで、現に来朝した[[鑑真]]和上の荷の中に「阿育王塔様金銅塔一区」があったことが知られる(「唐大和上東征伝」)
 
石造宝篋印塔は銭弘俶塔を模して中国において初めて作られ、日本では鎌倉初期頃から制作されたと見られ、中期以後に造立が盛んになった。銭弘俶塔の要素を最も残すのが[[北村美術館]]([[京都市]])蔵の'''旧妙真寺宝篋印塔'''・一名'''「鶴ノ塔」'''である。ただしこの装飾性の強い塔は古塔の中では特異で孤立しており、いまなおその歴史的位置付けは明瞭でない。中国宋代石造宝篋印塔と我が国宝篋印塔の間に大きさや形態に乖離があるため、最近になって図像による伝来、具体的には鎌倉初期に中国から請来された[[五百羅漢図]]中に見える宝篋印塔様石造物が日本における宝篋印塔の成立に関与したのではないかという説提示された。
 
在銘最古の宝篋印塔は鎌倉市の某ヤグラから出土した[[宝治]]二年([[1248年]])銘の小型のものである([[京都国立博物館]]蔵。[[川勝政太郎]]旧蔵)。これは無紋の大きな隅飾りが垂直に立ち上がっており、京都市右京区の'''高山寺塔'''や'''為因寺塔'''([[文永]]二年銘)に共通する特徴を持ち、これら装飾性の少ないものを川勝政太郎は特に「籾塔形式」と呼んでいる<ref>「籾塔」とはもともと木製の小型宝篋印塔のことで、その塔内に宝篋印荼羅尼に包んだ籾を収めた。この籾について「舎利」と見る説があるほか、籾殻付であるところから宝篋印陀羅尼の功徳を恃んで豊穣を願ったものとの説がある。</ref>。これら素朴な籾塔型から次第に装飾性を強めて現在よく知られる石造宝篋印塔のスタイルが確立したものと考えられてきた。しかし、先に触れた宋代五百羅漢図中には籾塔型も装飾性の顕著なものも共に見られるから、発展過程についても再考の余地がある。なお五百羅漢図中に宋代の石造宝篋印塔に似た姿は見られない
 
名称は、銭弘俶塔に宝篋印陀羅尼(宝篋印心咒経/ほうきょういんしんじゅきょう)を納めたことによる。ただし、石造宝篋印塔で実際に塔内から陀羅尼が発見された例はない。本来的には、ただし基礎に宝篋印心咒経の文字を刻んだ遺例はある
 
== 構造 ==