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1956年に主演したラジオドラマ『パイロットファーム』が、[[文部省]][[芸術祭]]で団体奨励賞を受賞<ref name="watashinonaka5"> 『北海道新聞』2002年3月7日夕刊、「私のなかの歴史・声優・若山弦蔵さん - 声の職人半世紀⑥」</ref>。特に若山の演技は、審査員の[[円地文子]](作家)が絶賛するなど好評を博した<ref name="watashinonaka5"/>。このことが契機となり、1957年6月に東京に移る<ref name="watashinonaka5"/>。ラジオドラマへの出演の傍ら、海外テレビドラマや洋画の[[吹き替え]]の仕事も始める<ref name="watashinonaka6"> 『北海道新聞』2002年3月8日夕刊、「私のなかの歴史・声優・若山弦蔵さん - 声の職人半世紀⑦」</ref>。
1958年のTBSの海外ドラマ『[[ローン・レンジャー]]』で[[吹き替え]]作品初の主演をつとめる<ref name="watashinonaka7"> 『北海道新聞』2002年3月11日夕刊、「私のなかの歴史・声優・若山弦蔵さん - 声の職人半世紀⑧」</ref>。以後、『[[モーガン警部]]』、『[[バークにまかせろ]]』『[[スパイ大作戦]]』などの人気作で立て続けに主演をつとめ、独特の甘い低音は「レディー・キラー・ボイス」と呼ばれた<ref name="watashinonaka7"/>。
放送劇団出身であり、日本で声優が専業として確立する以前から活動している者の中では、舞台や俳優の仕事をしたことがほとんどなく、声優を専業として活動してきた数少ない人物である。また、
[[1968年]]の[[TBSラジオ&コミュニケーションズ|TBSラジオ]]『[[パック・イン・ミュージック]]』(2年間担当)を皮切りに、ラジオのパーソナリティの仕事も始め、[[1973年]]からはTBSラジオ『[[若山弦蔵の東京ダイヤル954]]』(当初は『おつかれさま5時です』)のパーソナリティーを、一度も休むことなく[[1995年]]まで22年間務めた<ref name="watashinonaka8"> 『北海道新聞』2002年3月12日夕刊、「私のなかの歴史・声優・若山弦蔵さん - 声の職人半世紀⑨」</ref>。同番組は放送回数5700回に達し、生ワイドラジオ番組の長寿記録を更新した。
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