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== スタンス・評価 ==
{{Main2|『NEWS23』でのジャーナリスト活動とその賛否|筑紫哲也 NEWS23#評価}}
*[[リベラル派]]文化人の代表的存在だが、報道姿勢について賛否が分かれることも多かった。その一方で[[野村秋介]]と親交があり、それを[[阿川佐和子]]に驚かれたことがあるように、保守的姿勢の人物に対しても許容している側面があり<ref>[http://book.asahi.com/special/TKY201010290402.html 女神(5)阿川佐和子さん ニコニコ顔に負けて、つい…] asahi.com</ref>、これ以外にも筑紫と親交の深かった保守系の政治家やジャーナリストも多く、筑紫の葬儀には保守派の大物議員や有名ジャーナリストの参列も見られた。元内閣総理大臣[[小泉純一郎]]はイラク戦争でアメリカを支持していたので対極の立場にあったが、[[上杉隆]]によれば、プライベートでは首相官邸に小泉を訪ね、[[オペラ]]談義に花を咲かせることもあったのだという<ref name ="diamond-uesugi-2008-1113">「[http://diamond.jp/articles/-/7182?page=3 筑紫哲也氏は本当に賞賛すべきジャーナリストだったのか]」『週刊上杉隆』ダイヤモンド社HP 2008年11月13日</ref>。また、後述のように過去の行き過ぎた言動や報道姿勢を反省する側面もみられていた<ref name ="morichan">森喜朗(聞き手[[大下英治]])「「失言問題」、朝日新聞を叱る」『[[WiLL (雑誌)|WiLL]]』2007年9月P51-52</ref>。
 
*[[鳥越俊太郎]]、[[堺屋太一]]、[[田原総一朗]]、[[立花隆]]らはオピニオンリーダー、ジャーナリストとしての筑紫を高く評価している。
*[[大田昌秀]](元沖縄県[[知事]])は朝日新聞記者の時代から[[沖縄県|沖縄]]問題を積極的に報道し続け、『NEWS23』の番組内でも何度も[[在日米軍#在日米軍の抱える課題|在日米軍基地問題]]を取り上げた筑紫の死に際して「沖縄にとってかけがえのない恩人を失い、大きなショックを受けている」とコメントを発表した。
*『NEWS23』でサブキャスターを務めた[[草野満代]]は「テレビの世界では、ドキュメンタリー番組をコンスタントに作り続けることが難しい状況が続いています。でも『NEWS23』ではよく、20分くらいのドキュメンタリーを入れこみました。ほかのニュースをカットしてでも、ドキュメンタリーを伝える場を守り続けたのが筑紫さんです」と評している<ref>[http://book.asahi.com/special/TKY201010290406.html 女神(2)草野満代さん オンエア3秒前まで雑談していた] asahi.com</ref>。
*[[井上陽水]]は「日曜夕刊!こちらデスク」で自身の楽曲「傘がない」の歌詞の「テレビではわが国の将来の問題を 誰かが深刻な顔をしてしゃべってる」を取り上げた回を視聴し「ジャーナリズムに身を置きながら、ジャーナリズムを突き放して見ることができる。ある意味で、ユーモアがわかる人なんだ」と感じたことを話している。それもあって同番組の最終回に出演し、「傘がない」を含んだ3曲を歌唱した。その後も井上は「NEWS23」に楽曲提供をしたり、筑紫と[[麻雀]]をするなど、親交を深めていった。なお、筑紫と井上には政治や家庭などの立ち入った話はしないという暗黙の了解があった。井上は「筑紫さんの功績のひとつは、ユーモアの大切さを意識されていたことだと思います。この真面目な国では、深刻そうに語ることが求められて、ちょっとした笑いや諧謔(がいぎゃく)も『不真面目だ』とか言って、許されないところがありますから。ユーモアを口にしたり受け止めたりするには、余裕がないとできません。番組では、『なかなか面白い冗談を言うな』という感じではかならずしもなかったのですが、ユーモアがもつ可能性に注目していた、という意味で特別だったと思います」「政治家なんかにしてもね、筑紫さんならということで出演した方もいらっしゃるんじゃないでしょうか。鷹揚で優しいからなのか、どんなものでもまずは肯定しようとするスタンスがあったようにも思います」「筑紫さんは『観察者』だったと思います。へたに才能があると『演者』になろうとして、観察者にはなれない。自分が演じるのではなく、演じている誰かを見たり、世の中に紹介したりするという意味で、観察者のプロだったといえるのかもしれません」と評している<ref>[http://book.asahi.com/special/TKY201010290297.html 井上陽水さん(1) 筑紫さんの一言から生まれた「最後のニュース」]asahi.com</ref>。
 
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=== 否定的評価 ===
*[[保守派]]論壇からは筑紫が出演した番組の報道姿勢と合わせて[[特攻隊]]や<ref>{{Cite journal|和書
|url =
|title = 特攻隊を「自爆テロリスト」呼ばわりした「筑紫哲也」
|journal = [[週刊新潮]]
|issue = 2004年10月14日号
|publisher = [[新潮社]]
|pages = 145-146
|date =
|accessdate =
}}</ref>[[北朝鮮による日本人拉致問題]]に関する言動などで<ref>[[西村幸祐]]「拉致家族と『朝日新聞』&筑紫哲也氏の深すぎる溝」(『反日の構造』 ISBN 4569639968 所収)など。</ref>強い批判を受けることが多かった。
*[[吉本隆明]]は、[[テレビキャスター]]の筑紫や[[久米宏]]は、自分を棚上げにして、キレイごとやカッコいいことをいって、そのうえ他人にはキツイことばかり要求しているとし、「民衆の味方です」みたいな顔して発言をしているが、果たして筑紫や久米が普通の民衆なのかあるいは民主主義が身についているかといえば、そうではないと批判している<ref>吉本隆明{{Cite book|和書
|year = 1999
|month = 8
|title = 私の「戦争論」
|publisher = ぶんか社
|isbn = 978-4821106844
|ref = 吉本1999a
}}75頁</ref>。
*[[上杉隆]]等は筑紫の打ち立てた功績は揺るぎないものであるとしながらも、ジャーナリストの頂点まで上り詰めた晩年の筑紫に関しては、議論で追い詰められても反論しようとしなかったり、思想信条による議論よりも友情を優先するようになっていたことに対して批判的にとらえている<ref name ="diamond-uesugi-2008-1113" />。
*[[田中康夫]]とは『朝日ジャーナル』時代に「[[若者たちの神々]]」最終回で対談し、これがきっかけとなり「ファディッシュ考現学」の連載を依頼した。筑紫の「現場主義」に田中は影響を受けたものの、その後は距離が開くようになり特に田中が厳しい評価を下していた[[細川護熙]]内閣に対して、筑紫が無批判であったことに関して「筑紫哲也朽ちたり」と評した。その後筑紫からの取材に関しての直接の返答はなく<ref>田中康夫「ゲンチャリにまたがって」『[[神戸震災日記]]』所収、[[新潮社]]、文庫版181ページ ISBN 978-4101434087</ref>、「どう曲がって伝わったのか、私が当人の制止をふり切って撮影を強行したと非難するコラムを書いた作家がいた。おそらく放送は観ていなかったのだろうが、粘着気質なことで知られるこの作家は以来、未だにそのことにこだわっていろいろ書き続けているらしい(私は読んでいないが)。」と著書内で記すのみであった<ref>筑紫哲也『ニュースキャスター』、集英社新書版200-202ページ ISBN 978-4087201451</ref>。その後田中は何度か筑紫と対面する機会があったことが日記から分かるものの、筑紫が亡くなった前後の「ペログリ日記」にも筑紫死去に関しての言及はなかった<ref>[http://spa.fusosha.co.jp/spa0004/number00007451.php 筑紫死亡前後のペログリ日記]</ref>。一方で筑紫は『NEWS23』内などでその後も田中を応援し続けていたことや、2人に引き続き親交が存在したことを記す人物もいる<ref>[http://www.pot.co.jp/oikenparis/20091001_162903493914429.html 及川健二のパリ修行日記 2009年10月1日]</ref>。
*元首相の[[森喜朗]]は、月刊誌『Will』にて自らの内閣がマスコミに叩かれた背景として、自身の所属していた福田派の敵対派閥と懇意にしている官邸記者達が多かったことを一因に挙げ、続けて筑紫がある結婚式で「今日は、森前総理も見えていますが、'''森政権時代、我々も『森を潰せ』という戦略で少しやりすぎだったと思っています。'''一国の総理と[[マスメディア|メディア]]の間には、ある程度の緊張感が必要で、ある程度の批判はする。しかし、森さんについてはやりすぎたという反省がある」と述べ、森は「何をいまさら」という気分だったと述べている<ref name ="morichan">森喜朗(聞き手[[大下英治]])「「失言問題」、朝日新聞を叱る」『[[WiLL (雑誌)|WiLL]]』2007年9月P51-52</ref>。
*筑紫の「沖縄=戦争と基地の悲劇の島」という沖縄観は[[ステレオタイプ]]という批判がある。[[日本経済新聞社]]元那覇支局長[[大久保潤]]と[[篠原章]]の共著『沖縄の不都合な真実』([[新潮新書]]、[[2015年]]、142-143p)「第6章本土がつくったオキナワイメージ」では、[[琉球史]]研究の第一人者で[[副知事]]だった[[高良倉吉]]が、「いつのまにか、沖縄人は[[大江健三郎]]と筑紫哲也が言う被害者沖縄のイメージ通りに振る舞うクセが付いてしまった」と発言して、筑紫の沖縄観が沖縄県内で定着した結果、[[戦争]]も[[基地]]も被害者の視点だけで語り、自立に向けた議論を阻み、「日本はなんとかしろ」という[[依存]]体質や[[陳情]]文化が一般人にも蔓延したことを解説したこと、「沖縄が自立できないのは筑紫哲也のせいだ」という言葉を、戦後60年の取材中に地元の複数人から聞いたことが触れられている。沖縄に[[家系]]を持つ[[与那原恵]]は、『迷惑な沖縄愛』という小論を[[別冊宝島Real]]『筑紫哲也「妄言」の研究』に寄稿し、News23でも何度も特集された95年の米兵による少女暴行事件の抗議集会は自発的に集まった人が多数を占めたが、沖縄人に強く訴えかけた大きな理由は、被害者が「[[少女]]」』だったこと、沖縄のこの種の集会は、[[中学生]]や[[高校生]]の少女が[[作文]]や[[詩]]を読み上げるが、この集会でも[[普天間高校]]の[[女子高生]]が作文を読み、彼女は数年間にわたってNews23に取材されることになったが、筑紫に仮託された「沖縄の少女」というイメージに縛られるのはいやだろうな、と述べている。また、筑紫が沖縄を愛するのは、自分は無知な少年だったから軍国少年に染め上げられてしまったのだという戦争を止められなかった大人への恨みを重ねることができるのは、沖縄を象徴する「少女」であり、[[無垢]]で清らかな自分と日本と米国の[[大国]]の論理で振り回されてしまう被害者としての沖縄という感覚を共有できると思っているからだが、[[沖縄戦]]の実相は複雑であり、また沖縄は複雑な感情や打算がうずまく島でもあり、人間の暮らしとはそういうものであり、沖縄ではかつての左翼的言説に人々がなびかなくなっており、左翼が沖縄に仮託して、自分たちの言いたいことを言っているに過ぎないことに気づいてしまったこと、そして、この先も沖縄に関心を持ち報道していくなら、沖縄の現実や複雑な思いや変化を正確に見て、筑紫が沖縄人に好かれていないという事実も直視すべき、と述べている。
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===自己のスタンス===