「久邇宮朝彦親王」の版間の差分

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[[天保]]7年(1836年)、[[仁孝天皇]]の[[猶子]]となり、翌天保8年(1837年)に[[親王]]宣下、'''成憲'''(なりのり)の名を下賜される。天保9年(1838年)に[[得度]]して'''尊応'''(そんおう)の[[諱|法諱]]を賜り、奈良[[興福寺]]塔頭・[[一乗院]]の門主となる。[[嘉永]]5年(1852年)、[[青蓮院|青蓮院門跡]]の第四十七世門主に就き、法諱を'''尊融'''(そんゆう)と改める。青蓮院が宮門跡で、粟田口の地にあったことから、歴代門主同様'''青蓮院宮'''(しょうれんいんのみや)または'''粟田宮'''(あわたのみや)と呼ばれた。その後には第二百二十八世[[天台座主]]にも就いている。
 
尊融入道親王は[[日米修好通商条約]]の勅許に反対し、[[江戸幕府]]13代[[征夷大将軍|将軍]][[徳川家定]]の[[将軍継嗣問題]]では[[徳川慶喜|一橋慶喜]]を支持したことなどから[[大老]]・[[井伊直弼]]に目を付けられ、[[安政]]6年(1859年)には[[安政の大獄]]で「隠居永蟄居」を命じられる。このため青蓮院宮を名乗れなくなった尊融入道親王は、[[相国寺]]塔頭の桂芳軒に幽居して'''獅子王院宮'''(ししおういんのみや)と呼ばれた。
 
井伊大老が翌[[万延]]元年(1860年)に[[桜田門外の変]]で[[暗殺]]され、[[文久]]2年(1862年)に赦免されて復帰した尊融入道親王は、同年には[[国事御用掛]]として朝政に参画、翌文久3年(1863年)8月27日には[[還俗]]して'''中川宮'''の宮号を名乗る。一般にはこの中川宮の名が知られている。
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[[公武合体]]派の領袖であった中川宮は長州派公卿や尊攘討幕派の志士たちから嫌われ、[[真木保臣|真木和泉]]らの画策によって「西国鎮撫使」として都から遠ざけられそうになった。しかし中川宮はこれを固辞し、政敵であり長州派の有力者のひとりだった[[大宰帥]]・[[有栖川宮熾仁親王]]にその役目を譲った。
 
さらに中川宮は[[京都守護職]]を務める[[会津藩]]主[[松平容保]]やこの時期会津藩と友好関係にあった[[薩摩藩]]と手を結び、急進的な倒幕と攘夷決行を唱える長州派公卿と長州藩を京から排除しようとし、彼らを嫌い幕府を信頼していた孝明天皇から内意を引き出し、[[八月十八日の政変]]を行う。同年[[元服]]を済ませて'''朝彦'''(あさひこ)の諱を賜り、親王任官職の品[[弾正台|弾正尹]]に任じられる。以後は弾正尹の通称である'''尹宮'''(いんのみや)とも呼ばれた。
 
八月十八日の政変により長州派公卿と長州藩勢力が朝廷から駆逐されると、朝彦親王や[[関白]][[二条斉敬]]は孝明天皇の信任を受けるが、これは同時に、下野した長州藩士や長州系尊攘志士たちの恨みを買うことにもなる。
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=== 明治 ===
明治3年([[1870年]])閏10月、政府から京都に戻る許可を得る。明治5年1月、謹慎を解かれて、伏見宮家の一員に復帰する。同年7月、東京移住を命令されるものの、京都で暮らし続ける。維新前後の経緯から[[明治維新#中央政府|明治新政府]]の中枢には入らなかった。こうしたことが、後に[[久邇宮邦彦王|久邇宮邦彦親王]]や[[東久邇宮稔彦王|東久邇宮稔彦親王]]ら子息たちの感情や行動に複雑な影響を与えたとの指摘もある。
 
明治8年([[1875年]])4月、一代宮家となる。同年5月、新たに[[久邇宮]]家を創設する。明治16年7月11日、「二品勲一等朝彦親王、特旨ヲ以テ二代皇族ニ被列候事」<ref>『官報』第20号、「賞勲敍任」1883年7月24日。p.3</ref>とある。明治20年、世襲の皇族になったのにともない、次男邦憲王が病弱のため、三男邦彦王を継嗣と定める。
 
明治8年7月、[[伊勢神宮]]の[[祭主]]に就任する。かつて[[天台座主]]を務めたこともあることから、神道界と仏教界の両方における要職を務めた珍しい例といえる。