「プロヒューモ事件」の版間の差分

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m →‎プロヒューモへの売春: ブルックは1961年当時はまだ叙爵してなかったので呼称を修正。
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'''プロヒューモ事件'''(プロフューモじけん、'''Profumo Affair''')は、[[1962年]]、当時の[[イギリス]]の[[ハロルド・マクミラン]]政権の[[陸軍大臣|陸相]]であった[[ジョン・プロヒューモ]]が、[[ソビエト連邦|ソ連]]側の[[スパイ]]とも親交があった[[モデル]]兼[[売春婦]]に国家機密を漏らしたと疑われた事件である。同政権の崩壊につながり、「20世紀最大の英政界スキャンダル」とされる。
 
==事件の概要==
===ソ連武官への売春===
[[File:Christine Keeler on After Dark.JPG|thumb|right|220px|クリスティーン・キーラー([[1988年]]撮影)]]
[[File:Cliveden House, Berkshire-9856441416.jpg|thumb|right|220px|クリーヴデン・ハウス]]
売春婦で[[ヌードモデル]]の[[クリスティーン・キーラー]]は、当時同棲していた著名な[[オステオパシー|整骨療法]]師の{{仮リンク|ステファン・ウォード|en|Stephen Ward}}による斡旋で、駐英ソ連[[大使館]]付[[海軍]][[武官]]の[[エフゲニー・イワノフ]][[大佐]]と金銭を介した肉体関係を持っていた。
 
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その後、1962年12月に発生した、キーラーと性的関係のある2人の男性の銃撃事件を調査した[[報道機関|マスコミ]]が、「キーラーはプロヒューモ陸相と、イギリス駐在ソ連大使館付海軍武官のイワノフ大佐とも親密な関係がある」という情報を入手。しかし、「[[政治家]]の[[プライバシー]]を尊重する」というイギリスの伝統のため、当初事件は大きく扱われなかった。
 
しかし[[1963年]][[3月21日]]に、イギリス[[庶民院 (イギリス)|下院]]で[[労働党 (イギリス)|労働党]]議員ジョージ・ウィッグが「ある傷害事件の証人として出廷を命じられたキーラーと、マクミラン政権の閣僚の1人が関係があり、国家の安全のために事件を追究すべし」とし、噂の真相究明を要求した。疑いをもたれたプロヒューモは、「その女性は知っているが、不品行な関係はない」と下院で(下半)身の潔白を主張した。
 
その後、キーラーがイワノフ大佐とも肉体関係があったことがマスコミにより明らかになり、国家の軍事機密漏洩事件にまで発展。イギリスのマスコミもこぞってこの事件の詳細を報道、国内の大きな関心事となった上、[[アメリカ]]や[[フランス]]、[[西ドイツ]]などのイギリスの同盟国でも大きく報じられた。
 
===辞任===
[[File:JFKWHP-ST-A22-1-61 President John F. Kennedy with Prime Minister Harold Macmillan of Great Britain in Bermuda.jpg|thumb|right|220px|ハロルド・マクミラン(右)]]
このためプロヒューモは、[[ハロルド・マクミラン]][[イギリスの首相|首相]]宛の手紙の中で、「議会での発言に嘘が含まれていた」と主張し、キーラーとの「親密な関係」については認めたが、「軍事機密の情報漏洩についてはなかった」と告白、謝罪して6月5日に辞任した。プロヒューモは「保守党の輝かしい星」ともいわれた政治生命を、恥辱のうちに自ら葬り去ることを余儀なくされた。
 
プロヒューモは「保守党の輝かしい星」ともいわれた政治生命を、恥辱のうちに自ら葬り去ることを余儀なくされた。なお告白前、プロヒューモは[[俳優|女優]]であった妻のヴァレリー・ホブソンに事件の事実を話したが、妻はスキャンダルの渦中でも夫の言い分を支持していた。

なお当時は、プロヒューモがキーラーに対して職務上の機密を漏らしていたことや、キーラーがイワノフ大佐に対してプロヒューモから入手した機密情報を流していたという事実があったかは確認されていなかったこととされ、事件の早期の幕引きが図られた。
 
==その後==
この「世紀のスキャンダル」にイギリス議会は混乱し、マクミランの責任問題にまで発展。マクミランは、3月17日の下院における内閣不信任案は切り抜けたものの、11月には健康上の理由で辞意を表明、1964年の総選挙では同党は労働党に敗北した。
 
==その後==
その後銃撃事件における裁判においてキーラーは[[偽証罪]]で懲役9カ月の判決を受け、[[1963年]]12月に投獄され、その後も好奇の目にさらされて生きることを余儀なくされた。また、その後プロヒューモは慈善事業に専念し、[[1975年]]に叙勲されるなど名誉を回復し[[2006年]]に死去した。なお仲介者のウォードは1963年に刑事訴追され、[[保釈]]中の7月30日に[[オーバードース|服毒自殺]]を試み病院に搬送される。入院中に[[陪審制|陪審]]は売春斡旋罪についての有罪評決と他のいくつかの容疑の無罪評決を行うが、言い渡しがなされぬままウォードは死亡する
 
なお仲介者のウォードは1963年に刑事訴追され、[[保釈]]中の7月30日に[[オーバードース|服毒自殺]]を試み病院に搬送される。入院中に[[陪審制|陪審]]は売春斡旋罪についての有罪評決と他のいくつかの容疑の無罪評決を行うが、言い渡しがなされぬままウォードは死亡する。
 
==結果==