「バグダードの戦い」の版間の差分
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| casualties2= 兵士の死者50,000人<br/>市民の死者20万人–80万人<ref>Andre Wink, ''Al-Hind: The Making of the Indo-Islamic World'', Vol.2, (Brill, 2002), 13. {{Subscription required |via=[[Questia]]}}</ref>-200万人<ref>''The different aspects of Islamic culture: Science and technology in Islam'', Vol.4, Ed. A. Y. Al-Hassan, (Dergham sarl, 2001), 655.</ref><br>首都バグダードの壊滅
}}
'''バグダードの戦い'''(英:{{lang|en|Battle of Baghdad}} {{lang|ar|سقوط بغداد}})、あるいは「'''バグダッド包囲戦'''」(英:{{lang|en|Siege of Baghdad}})は、[[1258年]]に[[チンギス・カン|チンギス・ハーン]]の孫にあたる[[フレグ]]率いる[[モンゴル帝国]]と当時世界で最も栄華を誇っていたと言われるイスラム帝国[[アッバース朝]]との間に起こった[[包囲戦]]である
==背景==
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==破壊と殺戮==
{{SquoteH}}“
多くの歴史的記述がモンゴル軍の残虐行為を詳述している。バグダードの市民は逃げようとしたがモンゴル軍に捕らえられ、子供から老人に至るまでことごとく虐殺された。14世紀の歴史家[[ワッサーフ]]は「死者は数十万人であった」と記述している。[[ザ・ニューヨーカー|ニューヨーカー誌]]のイアン・フレイザー{{誰|date=2017年12月12日 (火) 16:57 (UTC)}}は「20万人から100万人に及ぶ死者を計上した」と記している<ref>イアン・フレイザー, [http://www.newyorker.com/archive/2005/04/25/050425fa_fact4 "Annals of history: Invaders: Destroying Baghdad"], [[ザ・ニューヨーカー]] 25 April 2005. p.4</ref>。20万から80万人<ref>Andre Wink, ''Al-Hind: The Making of the Indo-Islamic World'', Vol.2, (Brill, 2002), 13. {{Subscription required |via=[[Questia]]}}</ref>、また200万人<ref>''The different aspects of Islamic culture: Science and technology in Islam'', Vol.4, Ed. A. Y. Al-Hassan, (Dergham sarl, 2001), 655.</ref>とするものもある。
[[ファイル:HulaguInBagdad.JPG|thumb|left|15世紀のフランスで描かれた幽閉される[[ムスタアスィム]]の様子]]
{{要検証|=モンゴル軍は市街を蹂躙し、[[モスク]]、[[宮殿]]、[[図書館]]、[[病院]]を略奪、破壊し尽くし、何世代にもわたって保たれていた壮大な[[建築物]]は消失した。[[薬学]]から[[天文学]]にまで及ぶ歴史的に貴重な書物を所蔵していた[[知恵の館|バグダードの知恵の館]]は破壊された<ref>"[http://www.britannica.com/place/Bayt-al-Hikmah Bayt al-Hikmah | historical site, Baghdad, Iraq]" - [[ブリタニカ百科事典]] {{en icon}}<br/>"The House of Wisdom: How Arabic Science Saved Ancient Knowledge and Gave Us the Renaissance" : Decline and Renaissance (15), 2011年, [[:en:Jim Al-Khalili|ジム・アルカリーリ]] [[ペンギン・グループ|ペンギンブックス]] ISBN 9781101476239 {{en icon}}</ref>。「モンゴル軍によって虐殺された人の血でチグリス川は赤くなり、次に、捨てられた書物のインクでチグリス川の水が黒くなった」と生存者は証言した。|date=2017年12月}}
ムスタアスィムは郭侃に捕らえられ、モンゴル軍による市民の虐殺と財宝の略奪の様子を見せつけられた。{{要出典範囲|date=2011年3月|ほとんどの[[歴史書]]の記述によると、ムスタアスィムは敷物で巻かれ、モンゴル軍の軍馬に踏み殺された}}。これは貴人に死を賜るときのモンゴル流の礼儀であった。モンゴル軍はムスタアスィムの子供たちも殺害、『[[集史]]』によれば、唯一生き残った息子はモンゴルに送られた。
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**[[:en:Guy Lestrange|Le Strange, Guy]] (ed. & tr.), ''The Geographical Part of Nuzhat al-Qulūb'', 2 vols, Leyden (1915-1919).
*[[コンスタンティン・ムラジャ・ドーソン]](訳注:[[佐口透]])『モンゴル帝国史 4』([[平凡社]]、東洋文庫 235、[[1973年]]6月、ISBN 4582802354)
===研究文献等===
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